第5話 聴こえないメロディー
駅前だけれど、ちょっとさびれた商業施設がある。
昔はオシャレな作りで、駅前の中心施設だったけれど、駅前再開発で新しいショッピングセンターが出来ると、少し昔の賑わいがなくなった。
それでも一番上の階にシネコンが入っているが、最近は映画だけ見て帰ってしまう人も多い。
この二階の広場にいつのころからか、アップライトピアノが置かれていた。
少し寂れた商業施設の二階広場である。
このピアノを弾いている人をここ最近わたしは見たことがない。
わたしはそのピアノが見えるベンチに座って、ピアノを眺めた。
ピアノを見つめていると遠い記憶が蘇る。
まだ小さかった娘と、十年前に他界した妻と三人で、良くここでピアノを弾いた。
妻がキラキラ星を弾くと、娘は飛び跳ねて喜んだ。
「ママ、ピアノ弾けたの」
「ちょっとね」私もその時初めて、妻が音大を出ていたことを知った。
まだ駅周辺は再開発の前で、このショッピングセンターが一番の施設だった。
休みの日は良く三人で映画を見て、買い物をして、食事をして、そして必ずここで三人でピアノを弾いた。
妻の教え方が上手だったのか娘が一番上達が早かった。
私も教えてもらったが、結局最後までうまく弾くことは出来なかった。
でもそれはあの頃はなんとも思っていなかったが、今となっては楽しい思い出だった。
あの後、妻が大病をしてあっけなくこの世を去ると、娘との関係も微妙なものとなった。
いや決して、問題があったわけではない。
会話だって必要最低限ではあるがするし、大学に入って家には寄りつかなくなったが、たまには帰って来てくれた。
でも何かが違う。
所詮私と娘は妻を中心に繋がっていたということがわかった。
一週間後に娘は結婚する。
結婚の挨拶だって来てくれたし、旦那になる奴と食事もして、酒も飲んだ。
なんの問題もない。
でも何かが違う。
あの三人でここでピアノを弾いたときとは。
そう何かが違う。
あの三人でここにきたこと、あの楽しかったころのように娘と繋がりたい。
いやそんな贅沢をいうのはやめよう。
この結婚式で娘との距離を少しでも縮めたい。
それだけでいい。
わたしは誰もいないピアノに向かった。
そして椅子に座る。
こんな感じでキラキラ星を教わった。
そうだ、娘の結婚式で、キラキラ星を弾こうと、私はその時急に思った。
きっとキラキラ星を弾けば娘は思い出すはずだ、あの楽しかった日々を。
わたしは三十年前の記憶を思い起こしキラキラ星を弾いてみる。
体はなんとなく覚えているが。
全然弾けてない。
その場でわたしは、娘から紹介された、結婚式のプランナーに電話をした。
娘に内緒のサプライズで、ピアノが弾きたいと言い、三人でキラキラ星を弾いた思い出の話をすると、プランナーは急に乗り気になって、
「それは良いですね。是非やりましょう」と言ってくれた。
次の日からわたしの特訓が始まった。
いくら寂れたショッピングセンターのストリートピアノとはいえ、あまり長い時間占拠したら何か言われるだろうと思ったが、意外と何も言われない。
でも二日たっても、三日たってもわたしのピアノは一向にうまくならない。
広場のすぐ横にあるショップのスタッフが、暇なのか、ずっとわたしの練習を見ていた。こんなんでは恥を掻くだけだから何度止めようと思ったことか。でもあの三人でここでピアノを弾いていた頃が懐かしくて、愛おしくて、私は四苦八苦しながらも止められずにいた。
六日目の朝、いつものように辿々しく弾いている私は声をかけられた。
「おじさん、キラキラ星弾きたいの?」
「えっ、ああ」
「じゃあ、あたしが教えて差し上げましょうか」と高校生くらいの女の子が言った。
なんとなく見覚えがある顔をしている。
そう言えば、差し上げましょうかと言うのは妻の口癖だった。
一瞬妻の親戚かと思ったが、こんな娘は知らない。
女の子はお手本で一回弾いた。
素晴らしいキラキラ星だった。
一瞬妻のピアノに似ているのかとも思ったが、私は自分が弾けるようになるのが精一杯で、妻のお手本を聴いていなかったことに気づいた。
それからしばらく、女の子のレッスンは激烈を極めた。
本来ならこんな小娘にそこまで言われたら、腹を立てるところだが、不思議とピアノに集中出来た。
何時間が経っていたのだろう、キラキラ星をほぼ間違えずに弾けた。
すると急に拍手が聞こえた。
あの横のショップのスタッフだった。
「ありがとう、弾けたよ」とわたしは女の子が立っている方に首を向けた。
でもそこには誰もいなかった。
いつの間にか帰ってしまったのか。
「すにません、わたしにピアノを教えてくれていた女の子、いつ帰りました?」私はショップ店員に声をかけた。
「えっ、ずっとお一人で、練習していたじゃないですか」
「いや、そんなはずは。じゃあ一番最初に弾いたキラキラ星は、すばらしかったですよね」
「いえ、完璧なキラキラ星は、今のが初めてでしたよ」
その時わたしは気づいた。女の子は写真でみた若い頃の妻だ。
妻が全然弾けないわたしに業を煮やして、昔の姿で現れて教えてくれたのかもしれない。
妻のお手本のキラキラ星は、わたし以外には聴こえないメロディーだったらしい。
娘の結婚式はもう明日に迫っていた。
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