第4話  夕方五時のリズム

「先生、さようなら」若菜ちゃんが、かわいらしく手を振りレッスン室を出て行く。

わたしは小さくため息をつくと、さっきまで若菜ちゃんが座っていたピアノの椅子に座る。

まさか自分がピアノの教師になるなんて思わなかった。

音大受験とか言うならまだしも、楽器店の時間貸しレッスン室で、小学生にピアノを教える。

言うところの音大崩れだ。

音大は出たけれど、その技術は社会ではなんの役にも立たない。

指ならしのつもりで、ピアノを弾く、つまらない曲、なのに落ち込んだときなぜか弾いてしまう。

「先生お疲れ様です」とドアを開けながら、この楽器店の社員の祐理ちゃんがレッスン室に入ってきた。

この子も音大崩れだ。

「今日はこれで終わりです」

「はい、了解」

「あれ先生、何弾いているんですか。聞いた事がない。先生の作曲ですか?」

「まさか。夕方五時のリズム」

「なんですか。本当にそういう曲なんですか?」

「本当の題名はよく分からない、ただみんなそう呼んでいた」

「有名な曲だけど、あたしが勉強不足で知らないだけですか?」

「違う違う、うちの高校で夕方五時になると放送されるのよ。だから夕方五時のリズム」

「作者は」

「うちの高校の音楽の先生」

「へー、先生が作曲した曲を流していたんだ」と祐理ちゃんは感心したように言う。

「馬鹿にしていたんだ」

「えっ」

「今考えても私はやな奴でね。高校の音楽教師なんてって、馬鹿にしていた」

「そうなんですか」

「子供だったのよ、高校だろうがなんだろうが、音楽教師なら、音楽で食べているんだから、いまの私なんかよりよほどの成功者なのに」

「イヤ先生だって、お月謝取って教えているじゃないですか」

「その頃わたしは音大の推薦を取るための弾きこみの最終段階だったの。

音楽の先生も音大崩れで、自分で作曲した曲を夕方五時の放送で流していた」

「その先生に習っていたんですか?」

「まさか、高いお金を出して、ちゃんとした先生に師事していたよ」

「そうですよね」

「でも一度声をかけられてことがあったの。うちの高校は音楽系でも何でもなかったから。レッスンだって学校とはなんの関係もないところでやっていたの。だから音大を受験することを知っていたのは担任くらいだったのに、どこかで聞きつけたんだろうね。

「受験するのかって」言われて、その頃のわたしは自信満々の世間知らずの小娘だったから、先生には関係ありませんって言っちゃたんだ。そしたら自分も音楽の先生だから、関係ないと言われてショックだったんだろうね。もの凄く寂しそうな顔をしていた。やな子供だよね」

「それで、夕方五時のリズムを弾いているんですか?」

「最近よく思い出すんだ。先生に悪いことをしたなって」

「じゃあ、罪滅ぼしで弾いているんですか?」

「いや、そういうわけでもないんだけれど」

「でも先生のピアノ素敵ですよ」

「そうお」

「はい、音大ピアノ科出身のわたしが言うんですから」

「あの時、先生にそんなことが言えていたら、ひとりの音楽教師の心を傷つけなくて良かったのに」

「やっぱり後悔しているんじゃないですか」

「だって馬鹿にしていた人より、今のわたしの方が下だもん」

「いや上とか下なんてあるんですか」

「高校の先生は公立高校の先生だから。わたしはその日暮らしのバイトのピアノ教師」

「そんな物ですか」そう言って祐理ちゃんはレッスン室を出て行った。

夕方五時のリズムを弾いて祐理ちゃんと話していたら、なんとなく先生は元気なのかなと言う気になった。

別に謝りたいと言う事ではないけれど。


久しぶりに訪れる母校は何も変わっていなかった。

そして夕方五時のリズムが今だに流れているではないか。

わたしは三年間、担任だった先生を捕まえて夕方五時のリズムのことを尋ねた。

「まあ変える必要も意味もないし」

「そうなんですね」

「今何しているんだ」

「ピアノの教師をしています」

「へーそうなんだ。教え子がピアニストなんて鼻がたかいよ」ピアニストと言われたことに変な罪悪感があった。

そんな良い物ではない。

「あの音楽の山本先生は?」

「辞められたよ。体調を崩されて」

「そうなんですね」

「会いに行って来たらどうだ。随分気にされていたし」

「わたしの事を?」

「音楽を心ざした物同士のシンパシーじゃないか」

「でも卒業してもう十二年くらい経つし」

「関係ないだろう」

結局その足で先生に会いに行くことになった。


先生は見る影もなく痩せていた。

それでもピアノの前に座ってわたしを迎え入れてくれた。

「会いに来てくれて嬉しいよ」

「いえそんな。わたしこそ大変失礼なことを」一応謝る。

「そんなことあったっけ。全然覚えていないな」

「先生、夕方五時のリズム弾いてください」

「夕方五時のリズム?」

「ほらこれですよ」と言ってわたしは先生の横から片手で弾いてみる。

「ああ、これは、夕日という題なんだけど」

「そうだったんですか」驚いたように言う私を懐かしそうに、嬉しそうに先生は見つめるとピアノを弾き始めた。

それはとても弱々しい物だった。

わたしは横から先生をサポートするように一緒に弾いた。

先生は嬉しそうに鍵盤に力をこめた。

(先生、あの時はごめんなさい。わたしが間違っていました。先生は最高です)

そんなわたしの思いが伝わったかどうか分からないけれど。そのあとも楽しいセッションは続いていった。


先生が亡くなったという知らせを聞いたのはそれから二ヶ月ほど後の事だった。

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