第3話 左腕が死んだ日
ダイニングからリビングまで一体で、その先のバルコニーから続く庭。
我が家の自慢の間取りがそこにある。
とはいえ、開け放たれたリビングとバルコニーは虫が入ってくるので、ほとんど開けたことがなかった。
でもここ一ヶ月は、夜以外開け放たれている。
僕は虫が入って来るので、蚊取り線香を三つ、リビングとバルコニーの境めのバルコニー側に置く。
「煙いよ」とリビング側の先端に置かれた、巨大クッションにすっぽり収まって寝転んでいる環が文句を言った。
クッションは小さなビーズのような物が入っていて、形が自由に変えられる。何年か前、環が演奏会の間で帰国して一緒に行ったショッピングモールで環が一目惚れして、衝動買いした物だった。
「虫に刺されるより良いだろう」
「どうでも良いよ」絵に描いたような無気力感だ。
退院して半年、リハビリが終わって一ヶ月が経っていた。
小川環(おがわたまき)は、十ヶ月前、自らの運転のミスにより自損事故を起こした。
相手は人ではなく電柱だったので、普通で考えればかなりラッキーな事故だ。
人身になっていたら、きっと相手の命は無くなっていたかもしれない。
また人身になっていれば、たとえそれが怪我程度であったとしても、大きく報道されただろう。
そうなれば、ピアニストとしての看板に傷も付く。
物損なので、世間はそれほど騒がず、保険で全て直すことが出来た。
一つを除いて。
環の左腕が死んだ。
死んだといっても、潰れた車のボディーに挟まれて、腕が潰された怪我なので、リハビリをすれば生活に支障が無い程度までは回復する。
ただ、ピアニストとしては死んだ。
環はピアニストとして復活するために、必死のリハビリをした。
理学療法師も目を見張る回復を見せた環だったが、そこまでだった。
これ以上の回復は見込めないと言うことで、リハビリが終わった。
ピアノが弾けないわけではない。
ただ今までのクオリテイーで、ピアノを弾くことが出来ないだけだ。
でも、ピアノの世界で最前線を走って来た環には、死んだも同然だった。
環は怒っているのかもしれない。
環の事故の知らせを聞いて、僕は迂闊にも、環本人より環のピアノの心配をしてしまった。
病院に駆けつけた時、環の命には別状がない事は分っていた。
だから、担当の医師に言ってしまった。
「環の腕は、手は、ピアノは弾けるんですか」無論意識のない環がそんな僕の言葉を聞いてているはずはないのに、何かを感じ取ったのかもしれない。
(私の夫は、私の心配より私のピアノの心配をしている)と。
でもそれは、僕の本心であり、事実だった。
ピアノと環は一体で、ピアノが弾けない環など環ではない。
決してそんな事を思ってはいけないことは、重々僕には分っている。でもその思いは、僕の中に厳然と存在して、消すことが出来なかった。
左腕が死んだことで、環は突き放されたような寂しさを感じとっていたのかもしれない。
それが分っていながら,僕は何も出来なかった。
「今日の夕飯は何にする」
「何でも良いわ」と環は興味なさそうに言う。
この一ヶ月は、ずっとこんな調子だ。
僕が環ではなく、環のピアノを心配していることが伝わっているからかもしれない。
ならば、少しでもピアノが弾けないことを慰めるようなことが言えれば良いのに、僕はそれすら言えていない。
僕が環を初めて知ったのは、僕が音大に入った時だ。
三十年、いや三十五年前になるか
環は初めから抜きに出ていて、将来を嘱望されていた。
実際在学中から、国内のコンテストに出ては良い成績を収めていた。
僕も自分では良い線行っていたと思っていたが、環のピアノを聞く度に、その実力の差を思い知らされた。
それでも僕は必死になって、環に追いつこうとした。
そんな僕に環は優しかった。
だから僕らはピアニストカップルとして、二人で腕を磨いて行く事が出来た。
でも腕は嘘をつかない。
大学を卒業すると、環はヨーロッパに留学、僕はしがないピアノ教師になった。
リビングとバルコニーの扉は開け放たれている。
「寒くないか?」
「寒くない!」嘘を付け!なんて言っても仕方が無いので、僕は環に厚手のショールを掛けてやる。
「ありがとう」環は庭を見つめている。
「本当に夕飯はどうするんだ」
「だから何でも良いって言っているじゃない」環は声を荒げた。
環は大学を卒業して留学すると、そのまま拠点を海外に移し、日本には帰ってこなくなった。
そこで僕らの関係は終わるはずだった。
ところが環は卒業から十五年後、拠点を日本に移し、僕と結婚してくれた。
今だになぜ、環が僕と結婚してくれたのか分らない。
音楽の世界で生き抜くのは、並大抵のことではない。
だから一介のピアノ教師である僕に、癒やしでも求めたのか。
だからその時から、僕は環の一番のファンになり信奉者となった。
一介の音楽教師は、全てを投げ打って、ピアニスト小川環を支えることに決めた。
でもそうすればするほど、愛しているのは、妻である環ではなく、ピアニスト小川環になっていった。
でも環は、僕のピアノは愛していない。
ではなぜ環は、僕の妻になってくれたのか。
僕らはピアノを志してから、ピアノを通して人を見ていた。
だから環が僕のピアノを愛していないのに、僕と一緒にいることが理解出来なかったのだ。
僕は、リビングにあるアップライトのピアノのふたをあける。
レッスン室にはちゃんとしたグランドピアノがある。
ピアノなんてかさばる物なんて、何台もあっても仕方がない。
でもこのピアノは、環が子供の頃から使っていたピアノだった。
このピアノで、環のピアニストの人生が始まった。
本格的なピアニストとしての人生が始まると、アップライトは弾かなくなる。
このピアノも、環の実家で埃をかぶっていた。
もう使わないだろうという事になって、処分されるところを僕がゆずリ受けた。それは妻の環ではなく、ピアニスト小川環を愛していたからに他ならなかった。
僕はピアノを弾いてみる。
自分ではごまかせると思った指使い、でも環の耳はごまかせない。
「えっ何、今のわざとじゃないよね」環がクッションから起き上がる。
「腱鞘炎だよ。派生でばね指を発症した。だから中指が上手く動かない」
「いつから?」
「三、四年前から」
「全然知らなかった。なんで言ってくれなかったの」
「ピアノが弾けない僕は、環から愛される資格がない。だから環に僕がピアノが弾けないとは言い出せなかった。僕の左腕は既に死んでいたんだ」
「ピアノが弾けないとダメなの。だからあなたは、ピアノが弾けない私になにも言葉を掛けてくれなかったのね。いや、薄々感じてはいた。あなたはあたしを愛しているんじゃない。ピアニスト小川環を愛していたってね。
ピアノが弾けない小川環なんて、愛する価値がないと思っていたんだね」
「いや、僕の指だって、もう死んでいたんだ。気にする事はない」
「そんな優しい言い方も出来たのね。でももっと早くに聞きたかった」
「もっと早くって?」
「事故を起こして、初めて病院で目を覚ましたとき、あなたなんて言ったか覚えている」
「いや」
「大丈夫、リハビリをすれば元のようにピアノが弾けるよ」
「それの何処が問題だったの?」
「あなたは、小川環の心配なんてしていなかった。あなたが心配したのは小川環のピアノなんだって分った。でもそれから目を背けていた。でもはっきりしちゃったね」
「そんな事はない僕は環を愛している」
「嘘つき」
「嘘なもんか」
「いえ、あなたは私なんか愛していない。あなたが愛しているのは、ピアニスト小川環」
そんな環の言葉に即座に否定できない自分がいた。
カレーを作りながら、環が僕を見ているのが分かる。
何を思いだしている。
僕らは学生のころ、良く二人でカレーを作って食べた。
「あたしジャガイモ切るね」
「いいよ、いいよ、手を大事にしないと」
「これくらい」
「ダメだ。環の手は大事な手なんだから」
「うん」あの頃から僕は環にプレッシャーを掛けてしまったのか。
ダイニングで環とカレーを食べた。
「私達、別れましょう」環が唐突に言う。
「なぜ」と僕は聞いたけれど、理由は分っていた。
「あなたは私のピアノを愛したのよ」
「そんなことない」
「いやある。あなたは、私のピアノを愛してた。だからあなたは、何より私の手を大事にしてくれた」
「それは環のことを愛していたから」
「嘘!」
「嘘なもんか」
「なら左腕が死んだ私を、あなたは愛せるの?」即座に僕は愛せるというべきだったのに、言えなかった。
「そらご覧なさい」
「でも僕の左腕だってもう死んでいた。でも環は僕と一緒にいてくれたじゃないか」
「私は、あなたの腕もピアノも愛していない。あなた自身を愛していたから。でもあなたは私のことなんか愛していない。左腕の死んだ私なんか、あなたと一緒にいられないと言うことでしょう」
嘘を付くことは簡単だった。
でも環に嘘は付きたくない。
僕は環と離れたくないと強く思った。
僕は何も言えず固まっている。
いよいよ分らなくなった。
僕は妻の環を愛しているのか。
ピアニスト小川環を愛しているのか。
もしどっちもと言うなら、妻の環をどれくらい愛しているのか。
その時照明が消えた。
停電だった。
原因は分らない。
暗くなり、リビングの先に庭へと続くバルコニーが見える。
それは、目が慣れるに従い、少しづつ暗闇に浮き上がる。
そして辺りは段々とブルーの光が満ちて行く。
今日は満月だったようだ。
さらに目が慣れるに従い、バルコニーを照らす、ブルーに光の範囲が広がって行く。それは夜であるはずなのに、月の光に照らされて、まるで昼間のように明るく感じられた。環のアップライトが、スポットライトを浴びたように、浮き上がって行く。
僕は吸い寄せられるように環のピアノに向かう。
僕の指が、鍵盤を這う。
自然と出てくるのは、「月の光」だった。
海の底のようなブルーの世界でドビュッシーが響く。
左手の指が動かなくて、弾けないところがある。
でも曲は、途切れることなく奏でられる。
環だった。
環の指が鍵盤を舞う。
環は僕の弾けないところを弾く。そして環の弾けないところは僕が弾く。
環の目が、下手くそと言っている。
だから僕も、環のピアノを目で下手くそと言ってやる。
僕らは下手くそと目で罵り合いながら、「月の光」を弾く。
いつしか二人して笑顔がこぼれる。
海の底のようなブルーの世界で、「月の光」はいつまでも奏で続けられた。
環の下手くそな演奏が、ひどく愛おしい。
その時僕は気づいたのだ。
何だ、僕はピアニスト小川環のピアノを愛してたんじゃない。
妻の環自身を愛していたんだ。
いまさらそんな事に気づくなんて。
停電が解消され、海の底のようなブルーの世界が崩壊するまで、そこには下手くそなピアノの音が流れ続けていた。
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