02
「――てくだ」
「――てください」
「――聞いて下さい」
山小屋の主の声で目を覚ます。雨風はまだ止んでいない。なんとなく、隣を確認する。大丈夫。彼は目を覚ましている。昨日と何ら変わらず、呼吸をしている。
「たいへん残念ですが、今後も荒天が見込まれるため、登山経験者以外は今すぐに下山願います。山頂を目指すのは控えてください。繰り返します――」
そんな。わかっていたことだけれど、荒天の山はぐっと難易度があがる。私のような初心者は、天気が悪い場合は挑戦しないのが鉄則だ。
でも、登山経験の豊富な彼は行くだろうか。もっと上の、山頂にまで。辛くなって、思わず目を閉じた。今、離れ離れになったら、もうこれっきりになってしまいそうな気がした。
雨風の中に、あの泣き声はもう聞こえてこない。たぶん、昨日のあれは空耳だったのだろう。でも、ごめん、と聞こえたのは間違いじゃない。彼は私に、確かに謝ったんだ。
目を開けるのが、ひどく怖くて、私はずっと閉じたままだった。そうしていると、わずかに額に暖かさを感じた後、彼の匂いが消えた。
山小屋の主に声をかけられて、再び目を覚ました。
もうそろそろ、ほんとうに下山するしかないと伝えられた。これからどんどん天気が悪くなるかもしれないし、シーズン中といえども、山に人が少ないから、一人で登ったときに、何かあったら危険だという。
私はさっさと身支度をした。頂上を目指すか下山をするのか、そのいくつもの選択が、さっきまではこの場にたくさんあったのだ。今、誰もいなくなった山小屋の空気は冷たかった。
トレッキングシューズで来ておいてよかったとつくづく思う。一晩中、雨に濡れた地面はぬかるみ、いとも簡単に下山中の人々の足元をいじめてくる。私は、私よりも先に下山していた人に、容易に追いつくことができた。
運動靴を履いて来た人はとても辛そうな表情を浮かべている。あれでは、靴が濡れたままのせいで大変足取りが重いだろう。しかも、靴下もびしょ濡れで、足は冷えきってしまって、最悪の気分かもしれない。
私の二十歩先には見覚えのある若い男女がいる。昨日見かけた男女だ。
二人とも俯いたまま、あるいは自分たちの足元を気にしながら、ジグザクに道を横断しながら下山している。
相当、脚に負担がきているのだろうか。男性のほうが何度も立ち止まり、休憩、と小声で言っているのが聞こえる。こういうとき、女性の方が痛みに強いのだろうとついつい感じてしまう。
「いい加減にしてよ!」
唐突に、大きな声が響いた。
若い女性のほうが、ほんとうに父親になれるの、と言葉を続けた。若い男性の方はしばらく間を開けた後に、ごめん、もっと強くなるからと呟いた。
父親になれるのか、という資格を問うているということは、女性のお腹に新しい命が宿っている可能性が高い。
では、あの若い男性はいつから父親になるのか。その心の境界はいつ発生するのだろう。
雨が強くなった。
視界が厚い雲で埋め尽くされ、何も見えない。若い男女の声が遠くなる。こういうとき、誰かと一緒なら、先が見えなくても、前へ進むことができるのだろうなどと、無為なことを考える。
もう、ここは昼も夜もない。私はひとりぼっち。強く風が吹き付け、頭の地肌まで冷たくなる。とても頑張れそうにない。
昨日から、身体だけでなく、精神も疲れてしまった。私は、なぜここまで来てしまったのだろう。私の選択は正しかったのか。
両手で膝を抱えて、うずくまった。全身が粟立ち、震えるが、これが寒さのせいなのかどうかわかりそうもない。
しばらくそうしていると、肩に柔らかい感触があった。身体の感覚なんか、もう全然無いのに、右肩だけがとても暖かい。
「誰かと思ったら」
「……ああ」
彼だ。
昨日とは違って、レインウェアを着ていたから、一瞬誰だかわからず、目を凝らした。
「こんなところで座り込んで、大丈夫か」
「大丈夫です。放っておいてください」
「こんな場所で、そんなわけにもいかないだろう」
「いいんです。今、話しかけないで」
彼からは、何も返事はなく、自分の冷たい物言いにはっとした。
「ごめんなさい。私、気がたっていて」
私が顔をあげると、彼も私と同じようにうずくまっていた。
「どうしたんですかっ。脚っ……」
彼は片脚を痛めているようで、両手で膝のあたりをおさえていた。しかし、それは義足の方ではなかった。
「頂上に迫ったとき、不意に強風が吹いて、脚をくじいたんだ。まだ少し痛むけど、大丈夫だよ」
そういえば、彼は一度も義足という言葉を用いていない。
「まさか、僕があれくらいのところで怪我するなんてなぁ。油断していたわけじゃないのにな」
「大したことないのなら、……よかったです。でも、私のことは、気にしないで結構ですから」
長らく降っていた雨滴は、霧雨に変わり、しっとりと頬を撫でていく。鼻で空気ごと吸い込んだら、急に顔じゅうが湿った気がして、ついにむせた。
「ごめんなさい、むせちゃって」
低く曇った咳をしてしまったのを、見られたことを恥じた。いや、というよりも、彼の前だからだろうか。この人の前では、素の自分を晒すことが、何よりも怖い。
「水、飲むかい」
「ごめんなさい。ありがとうございます」
彼がザックから見たことのないラベルの貼ってあるペットボトルを取り出した。中身は少しだけ減っているようにも見えたが、彼はまだ開けていないよ、と言った。
一口だけ貰うつもりだったが、のど越しがさらさらと気持ちよく、二回、三回と、私は水を飲み込んでいった。
「……なんか、今の見たことあるな」
「今のって?」
「この、やりとり。既視感っていうやつ? 君が水を飲む姿も、なんか、知っている気がして」
「……うーん。気のせい、とかじゃないですかね……」
「実は、僕にも、娘がいたんだ。娘ともよく山に登った。怪我するのは、あの時以来かな」
彼の口から、今、一体何が発せられたのだろう?
言葉を、頭の中でなぞっていく。もう一度、なぞる。私は、彼の瞳を見るのをつい忘れていたことに気づいた。
「あのときも大した怪我じゃなかったんだけどね。娘にはとてもつらい思いをさせてしまった」
「……」
「僕は結構、ドジなのかもしれないな」
嘘つき。あなたは大嘘つきだ。なぜ、そんなどうしようもない嘘をつく。
その脚は、ずいぶん昔に、私が登山中にあなたから奪ったんだ。あのとき、あなたは滑落しそうにになった私に飛び込んで、まだ小さかった私を抱きかかえて岩場に激突した。そのせいで、膝下は真っ黒に染め上がって、いくつもの悲鳴を聞いた。
確か、私は激突の衝撃で気を失ったのではなく、明らかに弱ってしまったあなたを見て、気を失ったのだと思う。
それから一年間のことは、ほんとうに何も覚えていない。学校へも行けず、友達もいなくなった。食事もとれず、身体の線は細くなった。
私が私という人間であり、この記憶や、この身体が、私のものであることに気づいたのは、もっと後のこと。
「もし娘に会えたら、なんて言おうかなぁ。なんて謝ろうかなぁ。難しいなぁ。いつも、こんなことばかり考えるんだよね」
もういいよ。もういいから。私ももう、怒っていない。事故の後、あなたは急に私の目の前からいなくなったけれど、もう怒ってなんかない。
あのときのことは、もう何も言わなくていい。ただ、あの休みの日の、日曜日の、微かな記憶にある、泣きそうになるくらいの日々を、今だけ取り戻したいんだ。
「背中に乗って」
頭も身体も疲弊して、考える余地も体力もない。それでも、気持ちだけはまだ動き出す、私を突き動かす。
「え?」
「いいから、乗ってください。その脚じゃ、ここからの激しい道のりを歩けませんから」
「いいよ、大丈夫。ここまで下ってきたんだ。まだいけるよ」
私は、彼が脚にアイシングをしているのを見逃さなかった。大して出血はしていないのだろうが、彼は今激痛の最中にいるに違いない。
数秒に一回、彼の表情が崩れ、また立て直そうと必死にしているのがその証拠だ。おそらく、立っているのがやっとなんじゃないだろうか。
「でも、やっぱり無理だよ。僕、七十キロはあるよ?」
「大丈夫です。普通の子より鍛えてますから」
「水泳で?」
彼が笑顔をつくった。やはり、無理をしているのがわかる。こんな状況で、私は笑うことができない。
「はい。陸では役に立たないですけど」
それでも、昨日と同じ会話をする。私もこのやり取り、既視感があるよ。覚えている。ちゃんと覚えている。
「……いやぁ、まさか、……女の子の背中に乗るなんてなぁ」
大人の男性を背負うなんて、はじめての経験だ。
とても重くて、大きすぎるし、ごつごつとしているし、汗臭いし、髭が私の首元に突き刺さるし、なぜか心臓の鼓動も煩くて、ほんとうに気持ちがいい。
「ごめんなさい、ふらついて」
「いいや、悪い気はしないよ。重くない?」
「重いですけど、大丈夫です」
とんでもなく重いけれど、どこまでもいけそうな気がする。根拠なんてない。はじめての感覚だからだ。ただ、そう感じるだけ。
もうじき夜が明ける。私の目を差す光が、視界いっぱいに色彩をつくる。
雨は止んだ。空は澄んだ。土は土の色をしている。景色のすべてが、元に戻り始める。これは、私にとって、はじめての朝だ。
洗いたての地表を踏みしめる。もうすぐ、登山口に辿り着く。全身が軽い。足が宙に浮いているような感覚だ。どうか、私たちの身体が、どこかに飛んで行ってしまいませんように。
一歩進む。また、一歩進む。馬鹿みたいに何もない景色が滲みそう。これじゃ、ほんものの会話をするしかないじゃないか。
何を話そう。何から話そう。
あの日曜日みたいな匂いを思い出したいだけ 西村たとえ @nishimura_tatoe
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