あの日曜日みたいな匂いを思い出したいだけ
西村たとえ
01
彼の片脚が外側に反ったまま、靄がゆるく立ちまどう。ここから山頂までは一本道だから、迷う必要もないのに、彼と私は慎重に、次に踏む石を選んでいた。
しかし、緑はもう無い。五合目まではいくらか旗印のように揺れていた草木も、もう見当たらない。同じような灰色の景色が、上下左右に揺れている。いや、私が疲れているんだ。数分前から、なんだか頭がぐらぐらする。
「大丈夫か。体力自慢じゃないのか。僕はまだまだいけるよ」
彼はそう言うと、自分の右足をこつんと叩いた。ふと、彼の真似をして自分の右足をたたくイメージが沸き起こるが、あれほど高鳴る気がせず、握ったままの拳を、腰のあたりで遊ばせる。
「水泳、もう経験長いんですけどね。……陸じゃ役に立たないのかも」
私が精一杯の笑顔をつくると、彼もおなじように微笑んだ。まだできたばかりであろう皺が目じりに食い込み、その線を数えた。思わずなぞりたくなる。
私もいずれ、皺ができるだろうが、どうせできるなら彼のような形がいいと思った。彼の皺は、それが刻まれている方が、愛嬌のある表情になる。
きっと、私も彼のような皺ができる。彼の顔かたちは私に似ている。出会ってから、だんだんそう思うようになった。
「水泳が役に立たないって、陸上と水中じゃ、使う体力が違うってこと?」
「……いえ、知りません。ただ、言ってみただけです」
「確かに、消耗する筋肉は違うかもしれないねぇ。でも、心肺機能は同じなんじゃあないかなぁ」
数時間前、彼と出会って早々に、スポーツを何かやっているかと訊かれ、安易に水泳をやっていると答えたのは失敗だった。
確かに私は、身体の線は細いものの、背が高く、体格はいい方だと思う。その見た目から、彼は運動ができるタイプの人だろうと期待を込めて尋ねたのだろう。
登山口の入り口で地図を確認していた私に声をかけたのは彼の方だった。あれ、一人? と陽気な声色で尋ねられ、私は控えめに頷いた。
私は、彼の顔を、じっと見ていた。
たぶん、たいていの人間は、他人の顔のパーツの一つ一つをわざわざ観察なんてしない。下手したら、その視線の動きを気味悪がられる。私だってそう感じるだろう。
人は無意識に、全体的な印象で、温かい人なのか冷たい人なのかを判断する。細部が粗くたって、印象が良ければ、粗さえ好意を持つことができる。
でも、このときばかりは違った。私は彼の顔の、上から下まで視線を滑らせ、慎重に判断をした。
しばらく観察した後に、私はようやく見つけた、と気持ちを弾ませた。しかし、今はもう、全身の力が抜けきっている。
彼は私の普段のペースを上回る速さでぐんぐん先へ行くものだから、私はかなり前から息を切らしている。
だけど、これは彼にとっては初対面であるが故の、遠慮からくるものなのだろうか。なぜ私は彼に、さっさと先に行ってもらわないのだろう。もしかして、心細いのだろうか。
まさか、彼にとっては、はじめての登山でもないのに。ましてや、ここは難易度の高いルートでもない。私、ちょっとからかわれていないか?
登り始めてから、標高が高くなるにつれて、気温はどんどん下がってきているが、私の体温は上がったままだ。
額から汗が落ち、岩の表面に、点々とした黒いシミをつくった。私がその一点を眺めていると、彼は「休もう」と言い、丁度大人が二人座ることのできそうな岩場に腰かけた。私が戸惑っていると、彼は無言で手招きをした。
別に、応じることが嫌なわけじゃない。でも、客観的にみれば、男と女だ。歳はずいぶん離れているけど、私はここで滑らかに座ることのできる類いの女ではない。要するに、全然素直じゃないのだと思う。
彼が、おいで、と言った。
こういうときに、きちんとこの男は気持ちが悪いな、などと思える人が正しい。私はそんなことを思い浮かべながらも、彼の横に居直った。
「ずっと気になっていたんだろう」
私の目の前に差し出された彼の義足は、ほとんど登山ウェアに覆われていたのだが、会った時から義足だと気づいていた。私は彼の義足を見て、確信したんだ。
「僕の趣味からすると、登山で失ったんだろうとよく言われるが、実は違うんだ。これは、生まれつき」
私はじっとそれを眺めた後、「そうなんですか。てっきり、山での不運かと……」と言葉を繋いだ。私の声が、少し震え始めた。
「物珍しいか」
珍しくなんかない。私はこの脚を、ずっと幼いころに何度も見ている。
「……いえ、父もそうだったので」
私は、私の声が消え入りそうになっていることに気づいた。
「へぇ、お父さんは、どんな人なの」
「……うーん、どうでしょう?」
「どうでしょうって。まぁ、その年ごろだと、あんまり話したりはしないのかな……」
「まぁ、いろいろあって」
「いろいろ、ねぇ? 気になるね」
彼の口は機械的によく動く。すべての質問はごく自然に出てきた様子だったが、私にとっては回答が容易ではなかった。どこまで、率直に話そうか。全身を思考が駆け巡る感覚に襲われる。
なんでもいい、言葉が出てきてほしい。でも、私の全細胞の多数決は、なかなか結論に至らない。
「あんまり、父のことは知りません」
「そうか」
あるいは、何か当たり障りない話題を、と必死に探すが、何も思いつかない。
仕方がないので、水筒の水を、時間をかけて飲む。口から離す。また、沈黙が流れる。間を埋めるために、また時間をかけて飲んだ。
岩場の向こうから、若い男女の声がした。もう疲れ切っている男性のほうを、活気のある女性が励ましている。普通、逆だろうと心の中で呟いた頃、彼らがこちらの様子に気づいた。途端に無言になり、ついに目が合うと、軽く会釈をする形になった。
今、彼らにはこの関係性がどのように映っているのだろう。歳の差のあるカップル? 親子? 私たちは、そのどちらでもない。ただの、出会ったばかりの男女だ。
若い男女が私たちの横を通り過ぎ、女性の方が「パパになるんでしょ」と男性の背中を叩いた。どん、と肉体が鳴る音がした。
「で、そのお父さんはまだ生きてるの?」
隣の彼がいくつかのプロセスを飛ばして、唐突にそんなことを言った。
私は未だ件の男女の背中を目で追いかけていたが、それよりも強く、抗いがたく、彼の視線を感じた。
「はい、たぶん」
「たぶん?」
「ええ、たぶん、です」
不思議な物言いだなと思われただろう。それでも、彼のペースは変わらない。
「どういうこと?」
「……私、戸籍を取り寄せたことがあったんです。このあいだ、パスポートを申請する必要があって」
「うん」
「それまで全然知らなかったんですけど、戸籍って親の生年日と死亡日が書いてあるものなんですね」
「ああ、確かそうだね」
「そしたら、父の名前が書いてあって、まだ生きてるんだってわかって」
「そんなこともあるんだな」
「ええ、私もびっくりで。まさかそんなふうに知るなんて。旅行前に、なんかどっと疲れたっていうか、旅行中もずっと、そのことばっかり考えていました」
「もう旅行どころじゃなかった?」
「ほんとうに」
私は小さく笑って見せた。
「……そうなんだ。そういうときって、会いたいって思うものなのかな」
「え……? 誰にですか?」
「いや、お父さんに、だよ」
「さぁ、どうでしょう、少なくとも、私は……」
「ない?」
「……」
「まだ、君は大学生くらいの年齢だろう。寂しくないのか」
「……そう、ですね」
「そうか」
彼は自分の義足に視線を落とした。
さて、もう一息、と言って、彼は立ち上がった。
遠くの山々では、雲がどんどん詰まっていくのが見え、小さいころにお祭りの屋台で買ってもらった箱入りの綿菓子を思い出した。綿菓子の底に何があるのだろうと、その白い砂糖の塊を食べ進めてみるも、溶けた砂糖が固まりかけていただけ。
そういえば、あれはお父さんに買ってもらったんだっけ。幼いころの記憶は、ずっと曖昧なままだ。なんでこんなことを、今思い出すのだろう。
向こうに見える、綿菓子みたいな雲の下には、私たちが上ってきた山や県道がぎっしり詰まっている。それを見るために、あの雲も、この雲も、私の手で全部押しのけたい。
両手の使う必要のある難所の岩場を超えると、私が泊まる予定の山小屋が見えた。
ザックから地図を取り出し、山小屋の名前を確認する。「緑」と名の付く山小屋は、この殺風景には似つかわしくない。むしろ、緑はオアシスになりうる、ということだろうか。いずれにせよ、この名前は事前に調べておいた山小屋だ。ここで間違いない。
偶然にも同じ山小屋で宿泊することになった彼と私は、早々に受け付けを済ませ、適当なところで横になった。
ずっと岩場を歩いていたから、久しぶりに平らな表面の感覚を得た気がした。ただ前へ歩くということが、容易にできるということは、ほんとうに生きた心地がする。
わずかにシーズンを外したため、さほど客はおらず、この居間でさえ人の姿はまばら。新たにやってくる登山客も少なく、どうやら今日は、山小屋の収容数の半数にも満たないようだった。
隣の彼は、今にも寝入りそうだった。もちろん、私もそうだが、とても疲れている様子だ。
大人の男性が遠慮なく横になっている様子は、なんだか新鮮でずっと見ていられそう。
彼の顔は、私と似ているのに、大変不思議だ。
ずっと気になっていた目元の皺から下ると、尖った鼻先に辿り着く。そこから、直角に進むと、薄い唇がある。ぴん、と張った脂肪のない顎へ滑ると、いくつか髭が生えているのに気づく。
不自然に数本伸びているので、たぶんこの人、今朝、髭を剃っていない。
そのまま喉まで視線を滑らそうとしたとき、光の差していない瞳が、こちらを見ているのに気づいた。
普通に話している時は、重たそうな瞼が覆いかぶさっていて、その目は一重に見えたはずなのに。
でも、この角度から見てみると、彼の目は、ほんとうは二重だった。彼の太いまつ毛は、暗い庇をつくっていて、いまそのごつごつとした一本一本が、私に突き刺さるかのように向かっている。
私も横になろうとしたが、山小屋の主が夕食にすると言い、簡易机を広げ始めた。夕食のメニューは使い捨ての皿に盛られたカレーだった。
私はそれをインスタントカレーの味だと思ったが、彼は実家のカレーの味だと言って笑った。彼の実家のカレーはインスタントカレーなのでは、と疑ったが、彼はそれを承知の上でとぼけた可能性もあるので、口には出さなかった。
日が暮れると、すぐに消灯となり、私たちは簡易ベッドに横になった。ハイシーズンだと他人と肌が密着しそうになるほどぎゅうぎゅう詰めになるのが山小屋の常だが、今日はその心配もない。
上半身も下半身も、針金でがちがちに固められたように疲れた今日は、すぐにでも寝入ることができそうだった。しかし、経験したことのない規模の雨風に襲われたため、なかなか寝付けずにいた。加えて、寒さも手足の末端をひどく痛めつけた。防寒対策が今一つ甘かったことを悔いた。
一度、風が大きく吹くと、二度三度と大きな風が重なってくる。そのたび、山小屋ごと吹き飛ばされるのではないかと、私の心臓は高鳴った。しかし、その高鳴りを打ち消すくらいの轟音が続く。
「外、すごいですね」
暗闇の中、呼吸の気配のするほうを向いて、私はそっと呟いた。しかし、返事はない。もう彼は眠ってしまったのだろうか。ほんとうは、まだ話していたかったのに。
そうだ。
それなら、彼の皺に触れたい。
生まれたばかりの、綺麗なままの欲望が、私を激しく突き動かした。この気持ちが変わらないうちに、やってしまいたい。鼓動がさらに速くなり、身体が熱くなる、血液が脳みそに満ちていく。
でも、もし彼の目が覚めたら? もし、彼と目が合ったら? そして、彼に気味悪いと思われたら?
ううん、偶然当たったことにすればいい。
山小屋が空いているとはいえ、手の届く距離で彼は眠っているのだ。暗闇にも目が慣れてきた。
彼の瞳を探して、わずかに触れたとき、私は反射的に手を引っ込めた。予想していなかった感触を得て、驚いた。
彼の目元は濡れていて、すぐに彼は眠りながら泣いているのだとわかった。
もう一度、手を伸ばす。今度は顎から、ゆっくりと頬を伝い、目までなぞる。どんどん、私の指先が熱くなる。彼の表面から私の指先が転げ落ちそうになり、私の心は枯れそうになる。
唐突に、彼の方から「ごめん」、という言葉が聞こえた。ただの寝言にも聞こえたが、私は彼から謝られたのを確信した。
なぜ?
彼の手が、強く、私の指先を握った。私は即座に握り返そうとしたが、タイミングの一瞬、また次の一瞬を失った頃、彼の手が離れた。
しばらく、ぼうっとしていると、雨風の中に、赤ちゃんの泣き声を見つけた。それは、喧騒の中で高く、しかし小さく光っていた。
そんなことあるわけがない、と思いながらも、暗い暗い視界の中で、確かに幼い泣き声が聞こえる。どんどん泣き声は大きくなる。耳を塞ごうとするが、そんなことは意味がないと気づいた。
外側から聞こえていると思っていたが、それは私の中から聞こえているものだった。これは、私の泣き声なのだろうか。だとしたら、いつのもの? まさか今の私? 幼いころ? それとも、まだ彼が私のそばにいたころ?
強く吹く風の音をいくつか数えていると、私の意識は、どんどんと、それに溶けていった。
ある時、私は母に、父の所在を問い詰めたことがあった。そのときはまだ私は小さかったので、母は適当にはぐらかしていたが、大きくなってから、私は本気で怒っているのを何度も示すと、一冊の本をおずおずと見せてくれた。山岳関係の本で、当時の私にとってはとても埃っぽく感じる代物だった。
いくつかのページを開いた後、こちらに笑顔を向けている、逞しい体躯をした一人の男性の姿を見つけた。傍らには、「新進のクライマー」と書いてあった。
私は、その人を直感的に父だ、と感じた。思った、考えた、などではなく、当たり前のように感じた。どうして父がここに載っているのだろうという、とても素朴な感覚があった。
本から切り取ったそのページは、大切に勉強机の鍵付きの引き出しにしまっておいた。学校の宿題をしているときなど、たまに引き出しをあけて、その顔を眺めた。私にとても似ている、と気づくまでに長い時間はかからなかった。
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