銀ブラ日記

金森 怜香

銀ブラ日記

残暑の厳しい八月の終わりの夜、私は用事の帰りに銀座を訪れた。

銀座駅は、右へ左へと長く道が伸びているように感じた。数年前に一度きりしか来たことはないが、田舎者の自分はしっかりとそのことを覚えていた。

銀座駅、そこだけで一日がかりの散策となるかもしれないな……。それに、前回とは打って変わり、訪れた時間帯は真逆の夜だし、困ったことに方向音痴だ。

事前に行きたい場所を調べ、それに合わせて出口を調べておいたが、果たして私は無事に辿り着くことができるだろうか……。

一抹の不安を抱えつつ、メトロから地上へ出て、ギラギラと輝く銀座の街並みを見て、私はふと思い出す。


 私が数年前に銀座を訪れたのは昼の出来事であった。

広島で知り合い、お世話になっている男性バーテンダーがいる。

彼のお店で友人とお酒を飲んだ時に、店先まで見送ってくれる彼と話すことがあったのだが、その時に『銀座で開催されるカクテルのコンテストに出場するから、もし良かったら来てくれたら嬉しい』とチラシを渡してくれて、声をかけてくれたからだ。

私はその時、彼の応援をしたいが為に、コンテスト前夜に夜行バスへと乗り込み、初めて銀座を訪れたのである。

カクテルのコンテストの為だけなら、新幹線でも間に合う距離ではあったが、銀座の美容室に行くとなれば道に迷うこととセットに時間がかかることを想定して、夜行を選んだのだがこれは功を奏した。

髪をセットしたのは男性の美容師さんだったが、とても可愛いヘアスタイルにセットをしてくれた。普段からポニーテールなど簡素なものしかヘアアレンジしない自分が、編み込みのハーフアップである。きっと彼も大層驚くだろう、と私は内心にやりとした。

彼の前では、普段からブラウスにスカートかパンツなど、とにかくラフなコーディネートを重ねていた私だったが、思い切って少しドレッシーな紺色のワンピースに白いカーディガンを着用した。

白いカーディガンは、彼の言葉を踏襲したものである。

『白いジャケットはバーテンダーの正装ですから』という言葉に合わせてみたのである。

会場で彼に会った時、来たことと服に大層驚かれたと同時に喜ばれたことをよく覚えている。

「本当に来てくれてありがとうございます。いつもよりおしゃれしちゃって、全然印象違うね」

彼はいつもの低く安心する声で、照れ笑いで言ってくれるのだから、私も嬉しかった。

 カクテルのコンテストの結果は、彼のプライバシーに関わるので詳細を伏せておこう。最後の懇親会の時間、彼は言っていたのだ。

『受賞できたから嬉しいじゃなくて、あの賞じゃなかったのがすごく悔しい。次こそリベンジだ』と。

彼の向上心に、私もドキドキとした。

彼がコンテストで披露したカクテルは、コンテストの会場で実際に飲むことができたのだが、とてもさっぱりとしていて飲みやすく、色身も美しい水色であり、私はそのカクテルを見た瞬間、爽やかな湖畔を思い浮かべた。そこに食用花などを飾っているのだから、リゾートに来たような気分になったことを、鮮明に覚えている。


 懐かしい思い出を胸に、私は目当ての店へと歩みを進めた。

それにしても、ここまで昼の街、夜の街で顔を変える街を知らなかった。私の地元など、田舎の町だからそう思うのかもしれない。

 目当てのお店まで行くまでに、地図上は徒歩五分などと書いてあったのだが、実際に辿り着いたのは徒歩二十分であった……。

入り組んだ場所にひっそりと建っているお店だった為、見逃して周囲を何周もしていたのである。

私は重厚の扉を見て、感動を覚える。

「本当に来たんだ……!」

私は思わず店の看板を写真に収める。

モノクルをかけた男性が描かれ、赤地に白抜きで店名が書かれている。

そう、近代文学の時代に文豪が集ったとされるバーであった。

初めて扉を開く前、私の手はほんのりと震えていた。店に入るというだけなのに、緊張していたのである。

思い切って扉を開くと、階段のところに古い写真がかかっている。そして、その写真には見覚えがある。

そう、『走れメロス』などで有名なあの太宰治の写真である。

「いらっしゃいませ」

女性のバーテンダーが声をかけてくれた。

「こちらにどうぞ」

バーテンダーの方が案内をしてくれるので私は言われた席に座った。

「こちらメニューです」

「ありがとうございます」

私はメニューを受け取って、ざっとメニューを眺める。少し悩みつつも、広島のお気に入りの場所で飲んでいる時と同じように、最初の一杯をジントニックに決めた。

やはり、バーテンダーの手腕は凄いな、とカクテルを作っている姿を眺めなら思う。

「お通しです」

そう言って出されたのは、きゅうりの浅漬けだった。私は一言お礼を言って、浅漬けを口に運んだ。

あの時食べた浅漬けは、とても食べやすくて美味しかった。レシピなど聞いて良いのか、と思いつつも私は躊躇って声が出なかった。

元々大人しいというべきか、引っ込み思案と言うべきか、とにかくどちらかというと話すのが不得手な性分なのである。

バーテンダーの方も、無口な客だなと思ったことだろう。

思いきって、私はバーテンダーの方に質問した。

「あ、あの、ここって写真とかとってもいいでしょうか?」

バーテンダーの方は笑顔で答えてくれた。

「大丈夫ですよ、他のお客様が映っていなければ」

「ありがとうございます」

というのも、私はカクテルを見て詩を書いたり、物語を考えたりすることも好きだから、資料用に、と考えたのである。

それに、ここは昔文豪が集ったという場所でもあるのだから、記念に写真を残しておきたかったし、何となく物語が浮かぶような気がしたのである。

 ジントニックをゆっくり飲みつつ、詩や物語を作るならどうするか、と考えていたらグラスも空いてきた。

「二杯目、何にしようかな……」

ぼんやりと考えながらほとんど空のグラスを見る。

「もしよろしければ、好きなお色とか、苦手なものとかお申し付けくださいね」

「ありがとうございます」

私は青系で飲みやすくアルコールが控えめな物、フローズンスタイルとミント系が苦手という話をした。

それからしばらくして、二杯目に運ばれてきたのは、チャイナ・ブルーであった。

これは友人がいつも一緒に行くお店で頼むカクテルだから私もよく知っている。

チャイナ・ブルーは、私も色身が好きなのである。そして、何よりもライチリキュールの香りがとても心地よく感じた。

バーテンダーの方々は、やはり客を一人一人見ている、そう感じた。

「お客さん、初めてでしたっけ?」

「はい、そうなんです……」

「落ち着いていらっしゃるので、常連の方かと思いました」

「あ、い、いえ……、その、初めてでどうしたら良いのかと戸惑ってしまって」

私は苦笑いしながらそう言うと、バーテンダーの方は笑っていた。

「ゆっくりして行ってくださって構いませんよ」

そう言われて、私は少し安心した。

今はそのお店の責任者らしい、マスターが色々と話をしてくれた。

太宰治ら無頼派は、当時隣に『文藝春秋』という会社があるから良く通っていた、と。また、その関連で様々な人が取材に来たことまであったと。

実際、私もその文豪たちが通ったからという逸話に惹かれてそのお店を選んだのである。

何か、良いことがある気がしたから。

「チャイナ・ブルーはいかがでしたか?」

「ええ、とってもさっぱりとしていて、色もとてもきれいで美味しかったです。ライチの香りも引き立っていて、素敵でした」

私は率直な感想を伝えた。特に、香りに関する物に関しては嘘偽りなく言うのが私の主義である。というのも、香りに関しては、アロマセラピーの専門家として資格を得ているので、なおさらである。

「それは良かったです」

「すみません、もう一度メニューを拝見してもよろしいですか?」

「ええ、もちろん。すぐお持ちします」

私はメニューを受け取って、その日最後のお酒を選ぶ。

その日は自分の中でも決意を新たにしたから、ちょっと酔っぱらって感情を開放したい、そんな気分だった。

「では、オールドパーをロックでお願いします」

「はい、オールドパーのロックですね」

私は照れ笑いで頷いた。

ウイスキーは、スコッチとアイリッシュ、ジャパニーズ品であれば好んで口にする。なぜだかバーボンは苦手である。これも、香りによるものである。それに、スコッチ系はたまに父のお零れで飲むことがあって慣れていた。

その日の宿は神保町である。地下鉄を乗り継いで帰ることになるから、強すぎるものだと眠って帰れなくなることを危惧してロックにしたのである。

「お客さん、初めてってことは遠方から来たのですかね?」

「そうですね……、東海の方から」

「それはえらく遠い場所から着てくださったものですね。もしかして、無頼派のファンとかですか?」

「一番好きな作家さんは新思潮の菊池寛ですが、もちろん無頼派の作品も大好きですよ」

私は偽りなく答えた。

「文学が好きな方なんですね。嬉しいです。もしよろしければ、今度日暮里にも行って御覧なさい。あそこもなかなか歴史が深いですよ」

マスターはわざわざ観光雑誌まで持ち出して色々熱心に教えてくれた。

「ありがとうございます」

「今日はどこか、まわられましたか?」

「ええ、多磨霊園へ。菊池先生の墓所があると聞いて、伝えたいことをお伝えしてきました。それから、舞台を見てきました。ちょうど文豪に関する物をやっていましたし」

「なるほど……、それでお客さんが来店された時、少し寂しそうな顔をされていたのですかね」

私はどきりとした。


この日の昼の事である。私は菊池寛先生の墓所へと赴いた。

こうして執筆をするきっかけを作ったのが、菊池寛先生の著書『恩讐の彼方に』、『無名作家の日記』と言った物を読んだことが、原点だったからである。

お参りをし、彼の墓前にお礼を言い、決意を言葉にしたものの……、全て言い終わらぬうちに号泣し、ただただ手を合わせるのが精一杯というお墓参りになってしまった。

墓所にいても、夏だから暑いのは当然だが、墓所にいる間は暑いというより、ずっと温かな気持ちでいることができていたし、不思議と気持ちいいほどの適温に感じていた。

 その後、夕方には舞台を観劇しに行った。新思潮がメインとなる舞台は、ゲームを原作としたものであるが、一番好きな作家である菊池寛もいる。どうしても、舞台上の菊池寛が言うセリフの中には、号泣してしまう場面があった。

泣きっぱなしの一日だったから、寂しそうに思われたのか……。

私はそう思うと、少し合点がいった。


 オールドパーを口にし、マスターも手が空いている時は熱心に話をいろいろしてくれた。

新宿には夏目漱石ゆかりの場所がある、とか、文京区なら森鴎外の記念館がある、など親身になってたくさん教えてくれたものである。


 私はオールドパーのロックを、時間をかけてゆっくり飲み干し、バーを後にする。

「またゆっくりお越しくださいね」

女性のバーテンダーさんが声をかけてくれた。

「ありがとうございます。ご馳走様でした。素敵な時間を過ごせました」

私は笑顔でそう答え、地下鉄を乗り継ぎ宿へ向かう。

宿で部屋に戻り、シャワーを浴びた後で一日を振り返る。

そうすると、やはり涙が止まらなくなった。舞台のセリフを思い出したせいか、大好きな作家の先生の墓所へ誓った思いを思い出してか、あるいは両方か……。答えは見つからないままだが、いつの間にかぐっすりと眠っていた。


 翌朝、私は急いで身支度をした。うっかりと寝坊してしまい、着替えに手間取っていたからだ。

追加で舞台を見ることにしたので、時間が限られていた。

だが、どうしても舞台の前に行ってみたいお店があった。

それは、銀座にあるカフェ、『パウリスタ』である。芥川龍之介の作品にも出てくるカフェへ、私は急いで向かった。

「いらっしゃいませ」

パウリスタの中は、素敵な空間という言葉以外浮かばなかった。

「モーニングもお召し上がりになりますか?」

「はい。スコーンのセットをお願いします」

「かしこまりました。コーヒーはどちらになさいます?」

「じゃあ、オールドパウリスタでお願いします」

私は笑顔で答えた。

パウリスタは、数年前に二階ができたという。一階に通されたのは、とても嬉しかった。というのも、この一階という部分である。

昔、菊池寛が時事新報社に勤めていた時に好んで使っていたという逸話が残っている。

はるか昔だが、私も同じ場にいることを許されているという、感慨深いものを覚える。

 運ばれてきたモーニングセットは、地元の物に比べて豪華であった。スコーンセットには、サラダとクロテッドクリームにジャム、さらにオレンジジュースが付いていた。

地元はモーニング発祥の県などと言われている場所なのだが、そう思うと地元のモーニングは質素だな、と思った。

「いただきます!」

私は写真を治めつつ、ゆっくりと豪華なモーニングを口にした。

優雅な気持ちに浸りつつ、私は小説のことを考えつつ、美味しいコーヒーを口にする。

きっと、過去にはこうして文豪たちも友人たちとカフェで語らったのだろうな、そう思うと、時空を超えてその文豪たちと話せているような、一緒にいられるような、幸福な気分を味わうことができた。

「ご馳走さまでした」

カフェのスタッフにも、笑顔で一言お礼を言い、舞台へと急ぐ。

舞台を見て、私は思うのだ。

「もっとより良い小説を書けるよう成長しなければ」


一泊二日の旅は、こうして幕を閉じたのである。

何故だか、菊池寛先生の墓所へ行ってからというものの、小説のネタを良く得る気がする。きっと、先人たちから「書いてみろ」そう背を押されている気がするのは、きっと気のせいではないのだろう。

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