秋に鳴らす鍵盤

吉岡梅

ピアニカ・メロディオン

 柁谷かじたにの指先が優しく鍵盤を撫でる。季節は秋。指先から生み出される音は、木枯らしが木々を揺らし色づいた葉先が一葉一葉こぼれ落ちるかのように、部屋中へと1音、また1音とはらはら降り立っていく。リズムに合わせ揺れる身体は音楽と一体化しているかのようだ。が、その演奏はやがて力なく終わった。


 柁谷は伸び悩んでいた。だらりと椅子の脇に腕を垂らし、天井を仰いで溜め息を吐く。我ながら、上達してきているとは思う。演奏を聞いた人はみな、驚き、褒めたたえるのだ。「上手い」と。


 しかし、そこ止まりだった。なぜだろう。もちろんプロの演奏と比べればシンプルに技量の差はある。だが、それだけではない。何かが根本的に足りないのだ。それが何なのかははっきりとは捉えられていなかった。楽譜を睨み、指先の動きに集中してみても、そこには何も見つからなかった。


 分らないものとは、戦えない。いや、戦いようがない。そしてそれは同時に、逃げようも無い。もやもやした何かが常に柁谷の胸のどこかに潜んでいる。


「良くない傾向かなあ」


 柁谷はポツリとひとりごち、音楽室を出る。誰かがその肩をポン、と叩いた。振り返った先にあったのは、久万くまの顔だった。


「よっ、柁谷。……どうした? 何か悩んでるんか?」

「いや、大丈夫。ありがとう。何か用か?」

「いやー、柁谷、お前めっちゃピアノ上手いやん? だからな、ちょっと教えて欲しい事があるんやけど」


 ピアノ絡みで教えて欲しい事。いったいなんだろうか。普段は音楽のことなど毛ほども興味も示さない男が。だが、久万の人懐っこそうな笑顔を見ているうちに、柁谷は知らずに頷いていた。


###


 柁谷が久万に連れてこられたのは、プールだった。


「なぜプール。ピアノ教えろって話じゃなかったのか」

「いやいや、その話やって。ほんまに悩んどんねん、これ」


 久万が指さしたのは鍵盤ハーモニカだった。プールサイドに、ポツンと鍵盤ハーモニカが置いてある。白黒の鍵盤の中ほどには「ド」「レ」と、手書きの音階が記されている。おそらくは久万が自分で書いたのだろう。


 そしてその鍵盤ハーモニカからさらに、紐のような物が伸びている。紐の先を目で追うと、プールの中へと続いていた。


「なんだこれ」

「何ってお前、ピアニカや。あ、こっちだとメロディオンか?」

「いや、ピアニカで大丈夫。そういう事じゃなく、なんでプールにピアニカが置いてあるんだ?」

「あー、そこからかー。まあ、そらそうかー。あー」


 久万はボリボリと頭を掻いてうーだとかあーだとか言っていたが、意を決したように大げさな身振りを付けて話し始めた。


「シャチっておるやん。イルカのデカい版というか。カッコええ奴」

「お……おう」

「あいつらな、水の中で音波的な物をつかって会話的なアレをするんやって」

「あー、クジラとかイルカと一緒の」

「そそそ。それ。ほんでな、それに俺も参加したいんよ」

「は?」


 こいつは何を言っているのか。何かの冗談だろうか。柁谷はまじまじと久万を見つめたが、久万はまったく頓着することなく話を続ける。


「言うて普通に話すわけにもいかんやろ? あいつら日本語喋らんし。だからな、ピアニカの音でなんとかならんかな、って思いついてな」

「ピアニカで」

「そそ。あいつらの白と黒の模様見てて思いついたんよ。白黒だと鍵盤いけるんちゃうんか? ってな。ピアニカも波的な物出るやろ? まあ別にギターとかキーボードとか楽器はなんでもええねんけどな。それにな、やっぱ会話ってさ、呼吸っていうか間が大切やん?」

「タイミングってことか?」

「そそそ。ほら、同じ爆笑間違いなしのコントの台本とか落語の古典とかでもな、やっぱ間が悪いと全然おもんないやん? 相手を見てどこでどう行くかっちゅうかな、そのへんの呼吸が大事やんな」

「まあ、そう言われるとそうなのかな」

「だからな、ピアニカやったら差し込んでくタイミングの時に話してるのと同じノリで息吹けばええやんな? 行きやすいって思って始めたらこれがまあ難しくて。息吹くのと指動かすの同時にやらんとアカンやんな?」

「まあ、そうだな」

「それムチャクチャ難しない? ほんで柁谷にコツ聞こうかと思ってな。どう?」


 どうってお前。そんなざっくりとした、というか、そもそも本気でピアニカでシャチと話そうとしてるのか。いろいろと言いたがったが呆気にとられすぎてうまく言葉にまとまらず、柁谷はしばらく久万をまじまじと見つめていた。


「なんや。そんな見つめて俺の顔になんか付いてんのか」

「いや、何と言ったらいいか。凄いなお前」

「お? なんや。褒めても何も出んぞ。それより演奏のコツをな」

「お、おう」


 柁谷は、とりあえず基本的な操作やコツを教えた。とはいえ、久万は鍵盤に音階を書くほどのの素人だ。そんなには急に上達するわけでもないが、それでも久万は満足げだった。


「なるほどな! 黒い所の形覚えとけば『ド』がどこかわかるっちゅうわけか。それは便利やな! よっしゃ。あとは実践やな」

「実践てお前、海にでも行くのか?」

「ちゃうちゃう。さすがにこの辺の海行ってもシャチおらんて。水族館にな、知り合いがおるんよ。そこ行って吹いてくるわ」

「そうなのか」

「まあ、自分でも演奏下手な事は承知しとるけどな。でもな、ほら、野球とかサッカーとかで外国人の選手がさ、とりあえずカタコトやけど日本語で受け答えしてくれるとメチャクチャ湧くやん? アレ狙ってくわ」

「外国人選手……」

「そや。シャチにとっては俺はフォーリナーやからな。なんかけったいな奴がグイグイ来るみたいな感じで行こうかと思っとるんよ。ピアニカで演奏する言うてもな、結局はこう、何かを使えたいというコミュニケーション的な気持ちを伝えるのが目的やからな。上手い下手やなくて、間と勢いでオモロイ変な奴が来たくらいのポジションからいったろって思っとるんよ」


 久万は、行く行くはシャチの言語体系を解明するための第一歩や! と一人息巻いていた。柁谷はその姿を見て半分は呆れていたのだが、もう半分は興奮していた。


 演奏はコミュニケーション。音波は、音楽は気持ちを伝えるためにある。


 楽譜通りに上手に演奏する事のみに注力してきた自分の目が、何か開かれるような思いだった。伝える。正確さやテクニックという、自分がどうこうというだけではなく、相手がいて初めて成り立つ何か。自分の音に満足するのとは違うそれ。音で、話しかける。音で、伝える。


――自分に欠けていたものはこれかもしれない。


「久万」

「お?」

「今度さ、俺の演奏聞きに来てくれよ。音楽室でやってるからさ」

「おう。ええけど。何や急に」


 いぶかしがる久万に柁谷は微笑む。久しぶりに、次の練習が待ち遠しいと思った。

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秋に鳴らす鍵盤 吉岡梅 @uomasa

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