邂逅

「…………」

「あっ、あはっ、はは」

 タブーに触れてしまったのか、彼女は一言も返事をせず、呼吸もしていないのではないかというほどに微動だにしませんでした。

 一瞬にして沈黙に支配された空間に、悔悟の念で押しつぶされそうになります。

 森閑とした雰囲気が早いようで遅く、永久に感じられるそんな時間。隣を見れば、一糸乱れぬ佇まいのまま、帳の下りた仄暗い夜さりに彼女はこれまでかと存在感を出していました。まるで、彼女だけに幾重ものスポットライトが当たっているような、圧倒されるオーラを放つ彼女の姿に、私は、

「ご趣味とか、ありますか?」

 果敢に会話の応酬を仕掛けることにしました。

「…………」

「特技はありますか?」

「…………」

「好きな科目は?」

「…………」

「お水とお茶はどっちが好きですか?」

「…………」

「好きなぁ、曜日は!」

「…………」

「……あっ、お名前は?」

「……、……」

 あれ? 若干反応があった気配がしたのですが、気のせいでしょうか?

 樹齢の長い巨木のように泰然とした様子を崩さないその人。私は気圧されるそうになるのを踏ん張り、もうひと押しと矢継ぎ早に質問を続けます。

「好きな匂いは?」

「好きなぁ、形は?」

「海と山だとどっちが好みですか?」

「好きな季節は?」

「好きな虫の鳴き声は?」

「…………」

 無反応。

 それからもいくつかの差し障りのない質問を問いかけてみましたが、それも反応はなし。

 取り付く島のない状態に心苦しくなりますが、私はめげません。ですが、粗方それらしい質問は出し切ってしまったので、ネタが枯渇してしまいました。生まれてこのかた母以外との会話をほとんど交わしてこなかったこともあり、私の心臓は慣れない会話に早鐘を打っていました。

 非現実な状況と最大限のシナジーを生み出す彼女の容姿に触れたくなくとも考えてしまう、頭頂部に立派に萌え立つ蛙葉に似た植物。余りに奇抜な風貌と慣れない行動に混迷する状況。言葉に窮する事態でした。

「んん、あー、どうしよう……。じゃぁ、私の名前は……? なんちゃって、ははっ」

 難航の一途を辿る会話に、私は素っ頓狂なことを口走ってしまいました。

 自分の名前を語らない寡黙な彼女が、私の冗談に付き合う訳もなく……そう、思った時のことでした。


「…………め……ぐ……」


「……え?」

 やっと出てきた彼女の言葉は、私の予想だにしていなかったことを口にしました。

 その瞬間、私の脳内に何かの記憶が去来した。


 それは、今日と同じような、どしゃ降りの日。

 そこは森の中のようで、木々に囲まれた薄暗い場所でした。濃い霧が立ち込るじめじめとした雰囲気のそこに、葉と雨が織りなす咆哮が不安を誘う。そんな緑が鬱蒼と繁茂し、囚われているかのような少し開けた場所に、うずくまった形ではいました。

 身動きの取れない濡れた手足に、俯き加減な頭。雨は重く、さむく……さみしく……いまにも倒れ、死んでしまいそうでした。

 でも、ある時を境に、私を殺す重圧は、温かな庇と柔らかな声色とともに霧散していきます。歌のようでした。

 つたなく、健気で……そして、寂しいその歌は、私の心と体を救い出してくれます。

 癒される心身と不思議と湧いてくる力の源に――


「はっ……! ……いっ!」

 意識が覚醒すると同時に、私は強烈な頭痛に襲われました。

 今見たものはなんなのか、誰の、私の見たものなのか。定かではないその夢は、私の脳から癒着して離れませんでした。

 数分ほどが経ち、頭痛がようやく和らぎ始めたころ、どうやらベンチに横になっていた私は、うつ伏せ寝になっていた身体をねじり仰向けになりました。

「え……?」

 天井を仰ぎ、見えるはずの梅雨の夜空は、頭上に広がった幅広の緑と、二つの立派な丘に遮られ見えません。私はどうやら、彼女に膝枕されていたようなのです。

 それにあれっりゃ?! 私いま、頭撫でられてないですか……!

「ぬなぁぁぁぁぁああああああ!!!! ごっ、ごめんなさぁぁいぃぃぃ!!」

 慌てて身体を起こし、低姿勢で把握できない現状に謝りまくります。

「ごっ、ごっ…、すみ、ませんっ! ひっ、膝枕していたただいっ、てた、とは! あはははは、気絶してて……気づきませんでした。本当に、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃぃ」

 ベンチで土下座スタイルを取り、彼女に向けて頭を下げます。謝罪は止まることを知らず、口から津々と溢れ出てきました。

 私は本当に、なんという粗相を……! 死をもって償うべきことではないでしょうか? ええ、そのはずです。

「めぐ……?」

「はっ! はい!」

 再び開かれた彼女の唇から、今度ははっきりと、私の名前を口にしました。

 耳朶に直接触れられたような錯覚。脳まで溶かされてしまいそうな陶酔を起こす彼女の美声は、発作を起こしてしまいそうなほどの甘美でした。

 私は土下座していた頭を上げ、恐る恐る彼女の顔を伺います。

「っ……!」

 彼女と、初めて目が合いました。

 その美しさは、息を忘れてしまうほどの超越した美そのもの。間違いなく、この世で最も美しい人だと私は確信しました。特に目を奪われるのは、極彩色に彩られた瞳です。虹彩から瞳孔にかけて珠玉を思わせるその瞳は本物なのか、そう疑わずにはいられない造形でも、彼女だからこそ、最大限の美麗を自然と保てているのだと見て取れます。

 私は自ずと平伏する形をとって、そこから動けなくなってしまいました。

 神様の御使いではないのか。一度でもそう考えてしまうと、目を合わせることすら憚られ一緒にいることさえ烏滸がましく感じてしまうのです。

「はぁ、はぁ……」

 自責は徐々に罪悪感へと色を重ね、過呼吸を起こします。

 彼女は困っていないか、怒っていないか、悶々とする感情が胸をわしづかみにし、その苦心は希死念慮へと変貌していく。

 私は今日、死ぬんだ――

「……ふぐっ⁈」

 何事、でしょうか。なぜ私は、彼女に抱きしめられているのでしょうか? 私のような咎人の顔を、そのふくよかな胸に抱き寄せ、頭を撫でてくださるのでしょうか。

「大丈夫、だよ……めぐ、大丈夫だよ……めぐ……」

 そう耳元で囁かれ、背筋が立つほどの刺激が脊髄から全身にわたって走ります。これはダメです。いけないヤツですわ!

 少し身じろぎをして抵抗を試みますが、彼女の筋力はものすごく、ビクともしません。

「めぐ、めぐ、めぐ……」

「……そ、それ以上は、だっ、だめ……っ!」

 許容範囲を超えた酩酊感と多幸感。すべてがどうでもよく思えてしまうような、天にも昇るその沼に、私は抵抗虚しく再び意識を失った。


「……ん?」

 重い瞼を上げ、私は目を覚ます。

 寝起きの目につく眩しいライト、明らかに木製ベンチにはないクッション性を感じられるお尻。そして、香ってくる不快な排気ガスの匂い。私はどうやら、バスに乗車しているようです。

「えぇ……」

 意味が分かりません。私は確かにバス停で死の間際を彷徨い、不思議な体験をして、奇特で神秘的な彼女に救われ、そして抜け出せない温かな抱擁に身を任せ、眠った……

「くっ……!」

 私の頬に朱色が差し、身体のつま先から頭まで羞恥が這うようにして巡ります。

 そう、判然と、私の脳と身体は彼女との出会いを回顧できるほど。抱擁から覚醒した後も何かしら二言三言会話した記憶があるのですが、その記憶だけは曖昧模糊としていてうまく思い出せませんでした。

「けいちゃん」

 彼女は確かに、自分をそう名乗っていたと、不確かながら確証がありました。曖昧な記憶の中でも、鮮明に……。

 存在から行動まで、何から何まで底知れずない浮世離れした美しさと、海のさざ波のような聲。そして、頭頂部から生える蛙葉という珍事以外に知るところはなし。どれだけの熟考を経ても、推量し得ない彼女の全て。ただその美しさのみが、頭を幾度と反芻するのみでした。

 車窓を覗くと、一面黒に包まれた木々が目に入ります。対向車線から車両が通ることは一切なく、荒涼とした雰囲気がただただ続いていました。

 半島の極端に位置する土地へ通うには、こうして海沿いから半径盆地となっている山間の道路を経て、耕作地から市街地へと通うことになります。交通の便は全くいいものではなく、人里を離れるのは気乗りしなかったけれど、お母さんに強く催促されたので引くにも引けなかったです。これも、大御神さまのことを思えば苦ではありませんでした。

「あ……」

 大御神さまといえばです。私今日……


「誕生日だ」


 バスがトンネルに入りました。暗鬱とした外とは違い、鼠色のコンクリートと廃れて暖色になった照明灯は、微かに空気を弛緩してくれました。車窓から反射する私の顔は、しっかりと笑えている。


 愉快であり痛快な、喜悦でいて誉れ高い、尊い儀式が始まるのです――

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雨天の萌芽 楙箋 @musenn

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