雨天の萌芽
楙箋
エピローグ
ザッザッザッザッザッ。ビュービュービュービュー。
それは、16時を超えた梅雨の日のことでした。
夕刻を目前とした今現在、私の歩く畦道では近年稀に見る悪天候に見舞われていました。
空一面に広がる墨色の曇天。降る雨は視認できるほどの大粒で、無秩序に舞う強風とともに暴風雨を生み出しています。そうそう見られない荒天の様子に、普段は情趣を感じられる恵みある田畑の様子も、この日限りは萎れ、侘しい様子を見せています。
そんな荒天の日に、私、
手荷物は学校支給の交通バッグのみ。自然の暴力をもろに受けながら、四方八方緑に囲まれた田舎道をのそのそと歩き、目的地の停留所へと向かっています。
海に面した半島に位置するこの土地は、俗にいうド田舎という地域で、都会と違い建物はほとんどなく、田園風景が広漠と続いています。ので、雨風凌ぐ軒や庇などの一切が期待できず、傘なしである私は、暴風雨に全身を晒す自業自得に苛まれていました。後悔してもしきれません。
静謐な雰囲気を出してくれる小雨とは違って、大雨は陰鬱とした感情しか運んでくれないので苦手です。
学校を出た当初は嬉しいことに小雨だったので、悠々とした思いのままに停留所へと辿り着く予定でした。ですが、大御神さまは不機嫌になさっているのでしょうか……私は道中、雨でできた泥濘に足を取られてしまい、畦道でスルッ、と転倒してしまったのです。それも4回も。
どじを踏んだ私は泥だらけ、ずぶ濡れ、半泣き――ほとんど本泣き――の息で、泣く泣く、今度はこけないよう慎重に、文鎮のように鈍重となった制服と手足に鬱屈となりながら交通バックで頭を隠し停留所を目指しています。
とはいえ、ほぼ毎日使わせていただいているバスのことです。顔知れた運転手さんの温情で、多少遅れても止まってくれることを期待しますが、ふと、機械の駆動音のようなものが微かに耳に届きました。
私は慌てて懐中から携帯を取り出し、時刻を確認します。
16時42分
バスの運行予定時刻は16時35分。風雨に足元を取られ、いつもより遅れてしまったようです。いや、まだ間に合うかも、
「あ……」
顔を上げると、数十メートル先にバスらしき躯体が目に入りました。
大雨のレースで幽かになっている様は、さながら黄泉へと続く路線バスのようです。
晴れの日ならば、私の姿を捉えて止まってくれるかもしれませんが、生憎と、濃霧のようにして立ち込める甚雨が視界を曖昧にしていました。左から右へと走っていく朧気なバスの躯体は、停車する様子もなく、真っ直ぐに進んで消えていきます。
果たしてこの7分は温情だったのか、それとも運行状の都合だったのでしょうか……。私の心に残るシコリは、滴と共に押し流されていきました。
「どうしよう」
私は思わずそう吐露してしまいます。
来た道を引き返し、地元の人に助けを求めることを考えてみましたが、私のような余所者は、どうやら学校の皆だけでなく、この土地に住まう人たち全員に嫌われているそうなので助けを求めるのは現実的ではありません。
私はしくしくと、次の最終便を待つことに決め、停留所に向けて歩き出しました。
曇天晴れぬ空模様に落ち着く様子はなく、荒々しい天候が続いています。衣服は制服を貫通して下着まで雨が浸潤し、舗装のされていない地面の水溜りから、靴下までもがぐじゅぐじゅです。目的に進むたび不幸を被るとは、なんとパラドックスなことでしょう。頭の中に暗鬱とした感情が渦巻きはじめます。
畦道の所々に点在する天候のせいで狐火を思わせる街灯を頼りに進んでいくと、徐々に曇天が黒雲へと色を変え、辺りを暗い帳が下り始めます。より進行が危うくなると懸念を感じた頃、ようやく私は辻に辿り着き、左手に停留所が見えて――
「……はれ?」
停留所は、確かにそこにありました。
この天候だと色彩を判然とは知り分けられませんが、群青色で所どころメッキの剥げた二人掛けの木製ベンチ。錆びで停留所の名前のほとんどが隠れて見えない白色の細長い標識。ベンチの背後から会釈するように突き出ている、曲線を描いた照明灯。そして、こないだまではあったはずの、木壁で囲われた天井がアクリル版になっている有り物で作られたようなバスシェルターが、影も形も存在していませんでした。
「どうするの、これ……」
そう口こぼすほか、私の心情を表すものはないでしょう。
恐らく風で飛んでいってしまったのか……。これまた、年季の入ったボロっちぃバスシェルターだったので、あんな暴風雨に見舞われてしまっては、吹き飛ばされてしまうのも自然なことでしょう。えぇ、ほんとうに……ほんとうに……。
「……」
私は停留所を前にして、立ち尽くすことしかできません。
次の最終便がここにやってくる予定時刻は20時ぴったりの時刻。田舎ならではの少ない本数で、現在時刻の17時3分から凡そ三時間、この遮る物が何もない場所で、惨禍に見舞われながら待機することになります。
私は目の前が真っ暗になり、刹那的に死への予感が湧いてきました。
先ほどから強い雨風に晒され、手足の感覚もごくわずかです。今までは鼻水が出ていた鼻先も、霜ができてしまうのではないかというほどに凍え、頭も疼痛を帯び始めていました。
万事休す。私はもはや諦念の域に至り、バス停のベンチにズシリと座りました。お尻が水浸しになる感覚がしますがお構いなしです。
虚無に思考を支配された私は、教科書が飛び散ることもお構いなしに、交通バックを頭から、がばっ、と勢いよく被りました。視界を覆い尽くすは、外よりも暗い世界。目が慣れても、それは変わりません。気休めにもなりえない悪あがきでしたが、少し、心は安静になりました。
「このまま死ぬのかな、私……」
空虚な声は反響することなく、バックの生地に吸われ、消え失せてしまいます。
ザァザァ、と止まぬ暴風雨は、私の顔、背中、お尻以外の全部位に直撃し、私から体温という命を消火しようとしてきます。
死が怖いわけではありません。大御神さまにお目通りできる幸いのこと、そうお母さんは言っていたし、めでたいことなのだと――。でも、こうして誰もいないところで亡くなるというのも、なんだか違う気がして、気乗りしない心持ちです。とはいえ、私の体力はどうやら臨終に片足踏み込んでいるようで、今にも倒れてしまいそうでした。
明日から水捌けが大変だろうな、そう場違いにも農夫の方に同情していると、私は…………
ビュフー、ブッフォー、バタバタバタバタ————
「はっ――――……!」
突如として起きた豪風は、落ちそうになっていた私の意識を呼び戻しました。そして同時に、被っていたバックを攫ってしまうほどの、強い波風のようでした。
呆然としているのも束の間、身体の芯から凍るような強風は吹き止まず、私は思わず腕で頭を抱えるようにして覆い、脚を折り曲げて体温を逃すまいと縮こまりました。
早く止め、早く止め……!
願えど豪風は止まりません。やはり私は、自分のあずかり知らぬところで大御神さまの不興を買ってしまったのでしょうか。不安は葛藤を呼び、私の頭の中はグルグルとマイナス感情が坩堝となり、惑乱をはじめます。
今度こそ、本当に死ぬ――そう、思った時のことです。
時が止まった、ような感覚を私は知覚しました。それもそのはず、先程までの強風が跡形もなく止んでいたのです。さらに、雨の当たる感覚が皆無になりました。死んだの? 一瞬そう思いましたが、そうでもないようで、雨は落ち着きを見せていても止んではおらず……でも、私の座るベンチの周辺だけが、時が止まったかのように、雨が降っていなかったのです。
「どういうこと……?」
状況が頭に追いつかない景色に憮然とし、くるまっていた手足を解いた瞬間のこと、
「いぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
私は思わず、身体が硬直するほどの驚愕から、大海の遠洋まで届くのではないかというほどの叫び声を上げてしまいました。
ボツボツと、蕭々とした雨音が耳朶を打つほどの快音で聞こえてきます。しばらく呆然としていると、冷静を取り戻しつつある頭から、顎を伝って一滴の汗が落ちました。
外界を憚らずに叫んだことを自省はしても、この状況で叫ばすにいれる人はいないだろうと、私は確信しています。だって……
さっきまで誰もいなかったベンチに、人が座っていたのですから。それも、とびきり美人な方が。
「……えぇ」
私は整理の追いつかない状況に、身をベンチの側面に寄せながら、突然出現したその人物を観察しました。
「……」
依然と黙り続けるその人は、とにかくお美しい方でした。ほつれのない銀糸のように滑らかな頭髪に、離れた位置からも伝わる凛と立った鼻筋。白魚のように透き通り、柔い印象を与える瑞々しい肌。吸い込まれてしまいそうな、千尋とした秀麗な顔立ち。服装は簡易的で、透き通るような空色をしたワンピース型の服を着用していました。そのシンプルさが、また彼女の神秘的な雰囲気の一端となっています。
そして、私が生まれてこの方見たことないほど、鎖骨の下から強調される荘厳な胸! Fはありそう、もしやそれ以上あるのではないでしょうか!? ですが、なぜでしょう……男女問わず邪な考えを彷彿させるような彼女の豊満な胸からは、不思議とそういった悪感情の一切が湧いてこず、包容力や豊穣? といった、母性しか感じられないです。関心がないわけでもないのですが、私がおかしいのでしょうか? ちょっと不思議です。
ふと、思いたって真下を見れば、主張の少ない少量の強調が制服を微かに支えていました。ハハッ。
そして最後に、私は目をそらし続けているある事象に、触れなければなりません。
先ほどから和らぎを見せた雨風。でも、私の座るベンチを中心としてのみで、その一切が止んでいる様相。奇怪に映るこの正体に、私は彼女を見つけた瞬間から気づいていました。
横に座る、彼女の頭頂部には……
立派な蛙葉が、生えていたのです。
文字通り、茎から葉にかけて、芽ぐんでいたのです。
ユーモラスなのか、何かしらの罰ゲームなのか、余りの外見との迷走感に全幅した姿に当惑してしまい、私は変な言葉を口走っていました。
「……りっ、立派なものを、お持ちですねぇ〜」
中学二年生13歳。柏森恵は今日始めて、
――頭に植物を生やした人に、出会いました。
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