カフェで読みたい珈琲と紅茶にまつわる短編その①

代々木夜々一

かつての彼女が紅茶のレモンを見つめたわけ。

「うそだろ」


 レモンの匂いをかいで、思わず声がでた。


 さきほど、となりの家からもらったレモンだ。スーパーの袋に二十個ほど入っている。


 持ちあげただけの袋の口から、もうレモンの香りだ。それほどに匂いが強い。


 おれは玄関からリビングへもどり、レモンの入った袋はテーブルの上に置いた。なかからひとつを取りだしてみる。


 黄色と緑が、まだらにまざった皮をしているレモンだ。鼻に近づけてみる。


 ちょっと匂いをかぐつもりが、思わず深呼吸してしまった。それほどに、さわやかでいい香りだ。


 すっぱい匂いというより、なんだろうか。草原みたいな匂いがする。ひどく青々しい。


 このレモンは、なにか特別な品種なんだろうか。


 レモンを持ったまま、リビングから縁側えんがわへとでた。


 この家は、おそらく昭和のころに立てられた家だ。古い民家で、めずらしいことに縁側がある。


 縁側のカーテンをそっとあけた。気まずいことに、となりの家に帰っていくおばさんと、ちょうど目があった。


 おばさんが笑顔で会釈えしゃくをしたので、おれも顔を引っこめるわけにもいかない。窓の鍵をあけて、外の風に顔をさらした。


「あ、ありがとうございます。こんなにたくさん」

「ええんよ。今年はバカみたいにいっぱいなって」


 となりの家のおばさんは、そう言って指をさした。


 指をさしたほうを見ると、畑の奥にレモンの木らしきものがある。


 となりの家は敷地が広く、庭のほとんどを家庭菜園の場にしていた。


「あの、これ、匂いがすごい強いんですが、特殊なレモンですか?」


 おれはマジメに聞いたのに、おばさんは笑った。


「オカムラさん、きっとあんた都会の人っちゃろ。れたての野菜は、どれでも香りが強いんよ」


 ああ、そういうことか。言われてみればそのとおりだが、採れたてのレモンなど東京では食べる機会がなかった。


「東京の人?」

「ええまあ、そうです」

「こんないなかに、転勤?」


 ずけずけ聞いてくるなと思ったが、いなかはこういうものかもしれない。


 一ヶ月ほどまえに引っ越してきた。となりへはあいさつをしたが、そのとき話したのはご主人で、奥さんと話すのは初めてだ。


 隠すほどの理由はない。それに本当のことを言っておいたほうが、あとで妙なうわさとならずに済むかもしれない。


「ものすごく性格の悪い部長がいまして。ネットに悪口を書きまくっていたら、それがバレまして」


 聞いているおばさんが、おどろいたのか目を見ひらいた。


「んまぁ、若い人って大変ねぇ」


 もう三十五になるので若くはない。それになにが大変なのかわからないが、話を続けることにした。


「会社をやめて実家に近い家を探してたら、この家を賃貸ちんたいで見つけて」


 一軒家なのに、おどろくほど安い家賃やちんだった。不動産屋に聞いたところ、いなかでもひとり暮らし用のマンションは都会と変わらない家賃らしい。だが、こういう一軒家は借り手がいないので安いとのことだった。


「あら。もともとはこっちの人なの。だれさんちの子ね?」

「いえ、実家は車で二十ほどのところですので、ご存じないかと」


 家賃は安いが、この家には問題があった。となりの家とのへいだ。


 縁側のむこうにあるブロックべいはヒザの高さほどしかなく、となりから丸見えというかっこう。


 おかげで縁側のカーテンをあけることができない。ブロックを高くすればいいのだが、このさかいにあるブロックは、どちらの家のものかがわからない。それにここ賃貸だし。


 縁側から外に顔をだした状態で、低いブロック塀を見つめた。雨風に汚れて灰色というより黒っぽくなった場所もある。コケがはえている部分もあった。


「あのブロックって」

「ブロック?」


 となりの家のおばさんは天気かなにかの話をしていたが、それをさえぎって口にしてみた。


「家とのさかいにあるブロックです」


 おれは指をさした。


「汚れてるんで、こっちの家のものなら掃除しようと思うのですが」


 掃除はウソで、こっちの家のものなら勝手にもう少し高くしてしまうのも手だ。


「ああ、どうだったかねぇ」


 麦わら帽子をかぶったおばちゃんは、むかしを思いだせないのか首をかしげた。


「タケさんに電話して聞いてみようか。ああ、その家にまえに住んでた人ね。いまは大阪にいる娘さんのところにいってしまってね」


 大家おおやさんのことか。こっちの家のものだとわかれば朗報だぞ。そう思ったが、おれの『掃除をする』という作戦は、すぐにやぶられた。


「まあ、掃除は、こっちでやっとくからいいわね」


 おばさんはブロック塀をまたいで、こちらの敷地に入ってきた。


「んまぁ、しばらく見なかったけど、こっちは汚れてるのねぇ」


 勝手に人の家の敷地に入ってくるのか。やはりブロック塀をどうにか高くしたい。


「こっちの家のブロックなら、おれが掃除しますんで」

「ええんよ、若い人はいそがしいっちゃろう」

「いえいえ。不動産屋に聞いてみます」

「あら、しばらく借り手がなかったから、雑草も多いわぁ」


 縁側とブロック塀のあいだにある地面を、おばちゃんは見まわし始めた。


「あとで除草剤まいとこうかね」


 おいおい、どこまで入りこんでくる気だ。


「ほんとに悪いんで、結構……」


 結構ですと言うまえに、おばちゃんが気になることを言った。


「あたしが掃除しないと。タケさんと、このブロック塀には恩があるしねぇ」

「恩?」


 大家さんの「タケさん」に恩があるならわかるが、ブロック塀に恩。


 おれが眉をひそめたのがわかったのか、おばさんは続きを口にしたが、それはおどろきの話だった。


「低くしてくれたからね」

「低くしたんですか。このブロック塀を!」

「ああ、だから、やっぱりタケさんの持ちものね」


 ブロックはこちらの家。それは判明したが、低くした理由がわからない。


「なぜまえの人は、ブロックを低くしたんです?」

「あたしが家庭菜園を始めたからね」


 家庭菜園。となりの家の畑を見まわした。家がもう一軒建ちそうな広さだ。そこにネギ、あとは棒が立っているツル草はキュウリだろうか。いろいろと植えているが、家庭菜園なんてしたこともないおれには、なにがどの作物なのかはわからない。


 しかし言われてみると気づいた。となりの家をかこむ塀はどれも低い。


 ここは山の中腹にある団地だった。西にむいているほうは、高台からのながめがよく、西日にしびがさんさんとふりそそいでいた。


「日光、ですか?」


 家のまわりに壁を作るとその近くは影になる。そう思ったが、答えは意外なものだった。


「それがね、風なのよ」

「風!」

「最初のころ、なかなかうまく育たなくてね。近所のおじいちゃんに聞いたら、空気の流れが悪いって」


 そんなことが影響するだろうかと思ったが、畑を見ればモンシロチョウが二匹飛んでいた。壁で四方をかこんだ畑に、モンシロチョウはくるだろうか。


「その話をタケさんにしたら、すぐにブロックを低く作りなおしてくれてね」


 なるほど。納得と同時に、がっかりした感もある。この話を聞いてしまったあとでは、ブロックを高くすることができない。これでブロックを高くしたら「おまえの家の畑など知ったことか!」という人でなしになってしまう。


「いろいろ思いだしたわぁ。なつかしいわねぇ」


 おばさんは、なぜかしみじみと、こちらを家をながめまわし始めた。


「タケさん、見晴らしがよくなったと気に入ってねぇ。縁側まで増築しちゃって」


 それでこんな変な間取りなのか!


 なぜ縁側があるのか疑問だった。ふつうなら自分の家の庭に面したところに縁側を作る。


「タケさん、よく夕方にそこで畑をながめながらビール飲んでたわ。あたしの畑のネギで作る『ネギ焼き』が好物でねぇ」

「ネギ焼き?」

「ネギでするお好み焼きよ。おばちゃん、ちょっと持ってこようか?」

「あ、いえ、ネギは苦手で」


 苦手というのはウソで、好きでも嫌いでもない。しかし反射的にことわってしまった。


「そうそう、オカムラさん」

「あっ、はい」


 ネギ焼きってどんな味だろうかと妄想していたので、呼ばれてわれに返った。


「たぬきが入ってきてたら、コラー!って、どなってやってね」

「たぬき、でるんですか!」

「そうなのよ。むこうの山からね。あとヌートリアは下水管から入ってくるし」


 ヌートリア。動物園で見た外来種だ。あれがいるのか。野良猫ならわかる。野良ヌートリアって、マジか。


「除草剤あったかしらね」


 このまえ主人が使って切らしたとかなんとか。そんなことを言いながら、おばちゃんは帰っていった。


 広い家庭菜園をよこぎり、平屋の家に入っていく。


 縁側に取り残されたおれは、手にしたレモンを見つめた。やっぱり匂いに意識を集中させると、草原のような香りがする。


 そうだ、ティーパックがなかったか。


 コーヒーばかり飲むおれだが、妻がたまに紅茶を飲むので買ってあったはず。


 縁側からリビング兼キッチンの部屋へもどり、キッチンの戸棚をさぐった。


 それほどさがすでもなく、ティーバッグは見つかった。市販の安いやつだ。しかし紅茶は見つけたが、紅茶用のカップがどこにあるのかわからない。


 しょうがない。コーヒーカップをだして紅茶のティーバッグを入れた。


 ポットの「再沸騰ボタン」を押して、しばらく待つ。


 待つあいだにレモンを切ることにした。さきほど手にしていたレモンは、シンクの上に置いてある。まな板と包丁をだして、まず半分に切った。


「おお……」


 思わず声がでた。切ると、あのすっぱい香りがただよってくる。ということは、あの草原のような香りはレモンの皮からなのか。


 うすく一枚をスライス。そうしていると、ポットがピピピと鳴った。


 再沸騰したお湯を、ティーバッグの入ったカーヒーカップへそそぐ。それは台の上に置き、受け皿でフタをした。


 だいたい三分ほどでいいだろう。コーヒー好きのおれだが、この飲み物を淹れる時間というのが好きだった。カップラーメンの三分だと、おなじ三分でも色気がない。


 リビングの壁にある時計の秒針を見つめ、針のような秒針が三周したのを見て、受け皿を取る。


 市販のティーバッグなので、紅茶の香りは弱い。だが今日の主役はレモンだ。黄色い皮のついたレモンのスライスを、琥珀色こはくいろの液体に浮かべた。


 これだけ香りが強いレモンだ。酸味もきついにちがいない。すぐに取りだしたほうがいい。


「あつっ!」


 指で取ろうとしたら、思いのほか熱かった。コーヒーを淹れるのにはなれているが、紅茶なんて思えば淹れたことがない。


 キッチンのシンクに立ったまま、コーヒーカップを持って鼻に近づけた。


 いやはや、やはりこのレモン、香りがバツグンにいい。すっぱい香りと、草原のようなさわやかな香り。そこへわずかに紅茶の香りも追っかけてくる。


 ふうふう息をふきかけて、ひとくち飲む。


「うっま!」


 ティーバッグの紅茶は好きではなかった。それはコーヒーで言えばインスタントみたいなもので、全体的に死んでいる味だと思っている。そうがどうだ。このレモンをひたしただけで、まるで生き返ったように元気な味と香りだ。


 いやまて。


 もうひとくち、すすってみる。


 やはりだ。思いのほか酸味がない。レモンをひたす時間が短いのか。


 こうなると、コーヒーツウとしてはものたりない。料理には、さほどこだわりがないおれだが、飲み物ぐらいはこだわりたい。


 紅茶は捨て、もうひとつティーバッグを取りだしお湯をそそいだ。


 さきほどとおなじく、受け皿でフタもする。そのあいだに、もう一枚。まな板の上にある半分のレモンをスライスした。


 縁側でビール。さきほどの話を思いだした。紅茶も縁側で飲んでみるか。うまいかもしれない。


 戸棚から木のお盆をだし、受け皿でフタをしている紅茶を乗せた。


 そしてレモン。そのためにあらたな皿をだすのもおっくうで、フタの上に乗せた。まるで出前の天丼みたいだ。あれはフタの上にタクアンが乗っている。


 ミニ天丼のような紅茶を、こぼさないようにお盆で縁側へとはこぶ。お盆は床板に置いて、おれはカーテンを全開にした。


 おれは、こちらが丸見えになるのもイヤだが、カーテンを全開にすると人の家を見ているようで気が引けてもいた。その心配はしなくていいらしい。なんせ、たぬきとヌートリアの見はりをしてくれとたのまれているのだ。


 縁側の大きな窓をあけると、昼さがりの風が入ってきた。


 カーテンも全開、窓も全開。そのまえで、外をむいて縁側にすわる。床に置いたお盆を引きよせ、紅茶のフタを取った。


 フタというが、逆さにしたコーヒーカップの受け皿だ。上に乗っけているスライスレモンを手に取った。それから受け皿を引っくり返してお盆に置く。


 片手はレモンをつまんだままだ。あいた手でティーバッグを受け皿へと取りだした。


 さて、二杯目。ゆっくりとレモンを浮かべる。レモンは琥珀色の液体の上で、静かにゆっくりと回転し始めた。


 まわるレモンを見つめていると、風がほほをなでた。それは正しく「風」だった。


 東京で風を感じることなどない。あっちの窓から流れてくる空気には、むかいのマンションからのエアコンの排気。はたまた近くのラーメン屋からの香りがするだけだった。


 となりの畑から流れてくる空気は、たしかに「風」と呼ぶにふさわしかった。


 さきほど浮かべたレモンは、まだゆっくりとまわっていた。なかなか回転は止まらないらしい。


 そういえば。


 かつて十年ほどまえだろうか。好きだった女の子と、よく喫茶店でお茶をした。あのとき彼女は、いつもレモンティーをたのんでいた。そしていまのおれのように、しばらくまわるレモンを見つめていた。


「そういうことか」


 ひとりごとをつぶやいた。彼女がレモンを見つめていた理由がわかった。彼女は、この時間を楽しんでいたにちがいない。


 考えてみればおなじだ。おれはコーヒーを淹れるとき、蒸らす時間をじっと待つ。彼女はそれとおなじように、喫茶店でのレモンティーを楽しんでいたというわけだ。


「わたし、酸っぱいのが好きだから」


 なぜそんなに見つめるのかと聞いたとき、彼女は答えた。あれはウソだ。いま縁側の窓を全開にし、となりの畑からふく風を感じながらレモンを見つめていると、彼女の言葉はウソだったのだと確信できる。いいものだ。レモンティーのまわるレモン。


「ただいまぁ」


 玄関のあく音と同時に声がした。ひとりの時間にじゃまが入ったようだ。


「リサが帰らないってダダこねるから、おばあちゃんにあずけて、ひとまず帰ってきたわ」


 そう言いながら、妻がリビングに入ってきた。


「めずらしいわね。あなたがレモンティー飲むなんて」


 妻が縁側にきて、上からおれをのぞきこんできた。


「となりの畑、丸見えじゃない。ながめてると怒られない?」

「たぬきとヌートリアを見はれとさ」

「はい?」

「ちょっと座れよ」

「なによ急に」


 妻は肩にかけたショルダーバッグをはずし、おれのうしろに座った。それを確認したあと、おれは外に目をむけた。あけた大きな窓から見えるのは、広いとなりの畑だ。


「おまえさ」

「なに」

「酸っぱいほうが好きだからって、あれウソだろ?」

「はい?」

「喫茶店でデートするとき、おまえいつもレモンティーのレモン、ずっと見つめてただろ」


 思いだしたのか、妻は返事をしなかった。


「おれと暮らしだしてから、あんまり紅茶を飲まなくなったよな」

「わたしどっちも好きだもの。コーヒーでも紅茶でも。コーヒーにこるあなたが毎日淹れるから、自然とコーヒー派になるだけで」


 そりゃそうか。おれは毎日コーヒーを淹れる。それも四人前だ。これは長年にわたり試行錯誤した結果、コーヒーは一杯淹れるより多くを同時に淹れたほうがコク深い味わいとなる。


 飲み物にこだわるのは、おれのほうだ。


「飲めよ。そのレモン、となりの畑のだ」

「えっ、盗んだの?」

「おれは小学生かよ!」


 すこし天然なところがある妻だった。


「飲めよ。おれは自分のを淹れなおす」


 立ちあがり、キッチンへとむかった。


「紅茶のカップ、いちばん上!」


 縁側から妻の声が聞こえた。


「食器の位置がわからないのは、洗い物しないからよ!」


 余計な言葉も聞こえた。反論の意味をこめて、おれは大きいマグカップを戸棚から取りだす。


 これなら二杯分の紅茶が入る。あいつより、ゆったりと楽しめるわけだ。


「うっま、なにこれ!」


 縁側から声が聞こえた。うるさいやつだ。あのころ喫茶店では、かわいい乙女だったのに。


 それにくらべ、おれはコーヒーツウだ。ツウは飲み物をゆったりとたしなむ。


「ねえ、レモンの木を見つめながら、そのレモンティー飲むなんて、めっちゃぜいたく!」


 あんにゃろ、おれよりツウな飲みかたを発見しやがった!


「おい、おれがいくまで飲みほすなよ!」


 妻にむかって大声で言い、おれはあわててふたつのティーバッグをマグカップへと放りこんだ。



 終



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

カフェで読みたい珈琲と紅茶にまつわる短編その① 代々木夜々一 @yoyoichi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ