3.赦


 ガソリンスタンドは、交通量の多い国道沿いだというのに閉まっていた。今のあたしにとってはその方が好都合だが、二十四時間開けなくていいのかと、おかしな心配が生まれる。

 鶏がいる場所はすぐにわかった。ガソリンスタンドの敷地内ではあるが、特に使われていなさそうな隅の方だ。緑色の網で覆われた金網作りの小屋に三羽の鶏が寝ている。幸い大きな街路灯がすぐそばにあり、視界は悪くない。そこで私ははっと気付いた。殺すのならそれなりの武器が必要だというのに、何も持っていないことに。ペットボトルの烏龍茶など何の役にも立たないだろう。あの猫と同じ黒なのに、あたしは俊敏さも、夜を見通す目も、爪も持っていない。

 自分の愚かさを感じ、すごすごと引き下がる。鶏たちは何も知らずに寄り添って丸まっている。きっと日中にはスタッフや客の目を楽しませているのだろう。あたしは誰の目も楽しませることはできない。こうして、黒い格好で闇に紛れないと外出したいとも思わない。

 烏龍茶を一口飲み、歩き出す。どうして鶏を殺そうと思ったのかを頭の中で順を追って考えてみて、あたし自身が腐敗した人間だからだろうという結論を出すが、ではこの先どうすればいいのかと問うても、答えは出ない。『この先』だなんて曖昧な夢はとうに見飽きた。


 国道から細い道に曲がろうとした瞬間、キキーッという鋭い摩擦音が響き、直後、ガシャンと金属か何かが壊れる大きな音が聞こえてきた。驚いてそちらを見ると、ガソリンスタンドの前あたりに大型バイクが一台転がっているのが見える。乗っていたのは男性のようで、大きな体を投げ出して歩道すれすれの場所にぐったりと横たわっていた。

 慌てて駆けつけ、「大丈夫ですか」と声をかける。声を出したのは久し振りだったが、少しかすれたくらいで、自分の声はなくなっていなかった。

「……だ、いじょ、ぶ、です」

「本当ですか? 怪我は?」

「たぶん……、ない」

「痛いところないんですか? 救急車呼べますよ」

 スマートフォンが入っているコートのポケットに手を入れる。すると男性は「やめろ」と低い声で言った。

「ほっといてくれ」

 大儀そうにこちらに顔を向けてはっきりとそう告げる口からは、酒の臭いがした。酒酔い運転をしていたため、警察にばれるのを恐れているのか。

 男は動かなくなった足をかばっているようだ。骨折でもしたのかもしれない。しかし、痛そうな素振りを見せながらも、横向きに寝た姿勢から上半身を起こし道路に足を投げ出して座った姿勢になった。脱いだヘルメットには数本の長い傷が付いている。きっと男の頭を守ったのだろう。


 車の流れが途切れることもある午前二時の国道十六号線。


 あたしは腹と左足に力を込め、ヘルメットで守られていない男の頭を思い切り右足で蹴り飛ばした。「ぐあっ」という低い声が漏れるが、他に言葉は出てこない。数秒が経ち、半開きの口から血がつうっと流れると同時に、男は頭をがくっと下へ向けた。力が入っていないようだ。

「嘘でしょ、こんなんで死ぬの? 馬鹿みたい」

 なるべくはっきりと言うと、だらりと垂れた左手の中指がぴくりと動いた。まだ生きているようだ。

「なんだ、やっぱり嘘だった」

 半笑いで言ってやる。

「……わ、るかっ……、ゆる、し……て……」

 胸がすく思いというのはこういうことなのか。あたしは今、赦しを乞われている。いくらいい子にしていても、あたしは赦されなかった。血の繋がった実の両親にさえ。それなのにこの男は、見ず知らずのあたしに赦してほしくて情けない声を出しているのだ。胸が高鳴り、激しい高揚感を覚える。

「……ぶっ……、あは、あはは、あはははははは!!!」

 堪えきれない笑いを思い切り吐き出す。男に動きは見られない。頭のおかしい女に捕まってしまったと絶望しているかもしれない。それでいい。絶望しろ。今はあたしがこの男の選択肢を握っているのだから。

「あははは、あっはっ、あははははは、やだ、おもしろい!」

「なに、が……」

「おまえはしゃべんな」

 一気に低い声に切り替え、再び力強く蹴りを入れる。今度は背中。「うぐぅっ」という彼の小さなうめき声に、あたしは満足する。なんだ、武器なんてなくても絶望は手に入ったじゃない。

 ペットボトルの蓋を開け二口飲むと、あたしは男の頭に残りの烏龍茶を垂らした。とぷとぷというかわいらしい音とともに、男の髪の表面を液体が滑り落ちていく。

「や、め」

「しゃべんなって言ったでしょ。聞こえなかったの?」

 横から靴底で頭を蹴り飛ばす。使えない耳のようだから、潰してやってもいい。すると男は、渾身の力を込めました、というように左手であたしの足を掴もうとした。あたしは余裕で避けられるというのに、おかしなものだ。そんなに生きていたいのか。

「うあっ!」

 思い切り男の手を踏みつけてやる。スニーカーじゃなくてハイヒールの方がよかったな、なんて思いながら。

「これくらいで勘弁しといてあげる。じゃあね」

 投げ付けた空のペットボトルは男の肩で跳ね返り、こん、という軽い音をアスファルトに残した。

 絶望は、美味しかった。


 あたしはそんなことがあった日から、外出するようになった。アルバイトだけれど、仕事も決めて真面目に働いている。外に出ないと絶望の味はわからなかったのだ。家の中にいてばかりではもったいない。

 あのガソリンスタンドには、あの夜以来行っていない。バイク飲酒運転で事故を起こした男は一つだけいいことをした。何しろ鶏たちはあたしに赦されたのだから。


「ちょっと、ここ汚い」

 階段の上でお母さんが柱の上を指差す方を見ると、小さな蜘蛛の巣ができていた。

「あんた掃除しといてよ」

 階段の上でお母さんがあたしに指図する。

「どうせアルバイトしかしてないんだから、少しはやってちょうだい」

 すぐ後ろにいるあたしを振り向きもしないお母さんは、階段の上にいる。


 家の中でも絶望を味わえるかもしれないと思うと、あたしの唇は弧を描いた。

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Route16 祐里 @yukie_miumiu

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