雪降る森の約束

黒鋼

雪の降った後に

 その日は、一年ぶりに雪が降った日だった。


 暖炉では炎がゆらめき、ぱちぱちとまきが弾ける音が室内に響く。ときおり小さな火花が舞い上がっては、またたく間に消えていく。そのたびに、暖炉の前に座る少女の横顔が橙色に照らされる。

 

 シルと呼ばれるこの少女は、この森に住まうエルフだ。雪のように白い肌と、深い森と同じ緑の瞳の持ち主。その姿は何百年もの時を超えても変わらなかった。

 

「今日はやけに寒いね」


 シルは木製のカップに口をつけ、褐色かっしょくの液体を一口含んだ。甘く深みのある味と香りとともに、体の芯まで伝わってくる温かさに、思わず目を閉じた。

 

「ふぅ……これ結構あったまるな」


 彼女は身を任せるように、深く椅子にもたれかかる。そして、そのまままぶたを閉じかけ、はっとした。

 

「ああ、いけない。空気を入れ替えないと」


 彼女は首をふっておそいかかってくる眠気を振り払い、立ち上がって大きく伸びをする。そして、ベッドの方をふりかえると、そこには、自分の寝床をうばった従姉妹が毛布にくるまって深い眠りについていた。


「まったく、ふだんは連絡もよこさないくせに。来る時はいきなりなんだから」


 シルは突然おとずれて、自分の寝床を奪った彼女のだらしない姿にため息をつきつつも、窓へと歩み寄る。


「んっ……」


 古びた木製の窓枠に両手を添えて力を込めると、腕にずっしりと重みが伝わってくる。シルは小さな体を屈め、全身で押し開ける。


 窓はゆっくりときしみながら動き始め、隙間からは淡い光がこぼれる。流れ込む冷気は彼女の素足をくすぐり、ひんやりとして心地よい。


「うわあ……」


 窓を完全に開ききると、視界に広がるのは、一夜にして白銀の世界と化した景色だった。 


「寒いと思ったら、雪が降ってたんだね」


 空は蒼く、雪はもう止んでいた。

 降り積もった雪が淡い光を反射し、静寂に包まれた白さが果てしなく続いている。


 森に雪が降るのは珍しい。

 けれど、エルフである彼女にとって、この光景は見慣れたもので、長い年月の中で幾度となく目にしてきた見慣れた光景の一部だった。


 ほんの十年前までは、こんな変わらない日々が永遠に続くのだとシルは思っていた。でも、今は少し違っている。年月を重ねれば重ねるほど、自分の中の違和感が大きくなっていく。


 そんな自分がままならなくて、シルはため息をつく。

 そのまま遠くを見ると、寄り添うつがいの兎が目に入った。彼らは互いに体を寄せ合い、寒さをしのいでいるようだった。


 その光景に、シルの胸がかすかにうずいた。

 

 ──ほら、シル! あの兎たち見てみろよ!


 記憶の中で響く声。

 思い出すのは人間の少年。彼はなんでもよくシルに聞いてきた。そういう時、彼の明るい青い瞳が好奇心に満ちて、星のように輝いていたことを思い出す。 

 

 ──寒い日も寄り添って生きてるんだよな、あいつらは。


 そう言って嬉しそうにシルに伝える様子は、どこかうらやましそうだった。


 ──ああいうのは、なんか良いよな。助け合ってるみたいで。


「……あの時、なんと答えたんだっけ」


 記憶の糸が途切れ、シルの意識は現実に引き戻された。窓の外の景色は変わらず、雪に覆われた森が広がっている。

 

 過ぎ去った日々を思い出す時はいつもこうだ。まるで胸の中心に穴が空いたような感覚がして、その穴に吸い込まれて自分が落ちていくような、そんな不思議な感覚。

 

 この名前のつけようのない感情は、いつもはすぐに振り払う。

 だが、今日は違った。

 

「そういえば、あの子が来たのも雪の日だった」


 シルは目を閉じ、十年以上前の記憶を思い返した。

 

 ◆


 シルは数百年にも及ぶ長い間、この地を見守り続けてきた。


 かつてこの森は、彼女の一族が守り続けてきた土地だった。しかし、彼女の一族はかつての大きな戦乱に巻き込まれ、今やシルだけがその役目をになっている。


 シルは密かに人間たちの動向を監視し、時には介入してきた。彼女は人間たちの無知さにいらだちながらも、彼らが無自覚に災厄を呼び込まないよう、森の静けさを守り続けていた。


 そんなある日、シルは窓辺に立ち、月明かりに照らされながら、押しかけてきた来訪者を呆れたように見つめていた。


「また人間の街にいってたの?」


 シルの問いかけに、従姉妹のアリスは無言でもっていたグラスを掲げた。アリスはよくシルの家を訪れる。アリスはエルフの中でも変わり者で、人間社会に通じている。


 彼女は人間との関わりについて多くの知識を持っており、ときおりシルのところに来ては、お酒を飲んでは帰っていくのが習慣になっていた。


「そうだよ。人間と交わりすぎると穢れるから、こうして息抜きしに来てるの」


「だったら、アリスも森に帰ってくれば良いのに」


 アリスは酔う度に冗談めかしてそうこぼしていて、そのたびに呆れたようにシルが返す。これが会うたびによく繰り返される光景だった。

 

「人間ってさ、結構良いものを作るんだよね。このお酒もなかなかいい感じ。それにね……」


「それに?」


「正直、今の私には皆の生活はちょっと退屈かな。耐えられそうにないかも」


 アリスの言葉に、シルは目をすっと細めた。


「はいはい。そう言ってるわりにはよく来てると思うけど?」


「たまにだから良いんだよ。お酒と同じでさ」


「しかし、物好きね。人とかかわってもすぐいなくなるだけじゃない」


 アリスは一族の中でも外部との取引、とりわけ人と交わる役目をしていた。


「そうね。ちょっと会いにいかなかったらすぐにいなくなる」


「そのたびに付き合わされるこっちの身にもなってほしいわ」


「ま、そう言わないでよ。ちゃんとシルの役に立つものを持ってきてるでしょ? こんな辺境の引きこもりのところまで来る報酬だとおもって欲しいかな」


「引きこもりとは失礼な。私は森を守る役目を果たしてるだけ」


 彼女の父親は人間の血を引いており、そのため彼女は両方の世界を行き来する特別な立場にあった。エルフ社会の中では、彼女のような存在は「渡し」と呼ばれ、尊重されると同時に警戒もされていた。


 だが、シルにとって人は、自分の領地に踏み入って禁域を荒らす狡猾な獣でしかなかった。そんなことを考えていると聞こえてくるのは微かな寝息。いつものように、いつの間にか酔い潰れてしまったようだ。


「……まあ、穢れというのは間違ってないのかもね。ほんと、だらしないんだから」


 その体をなんとかベッドに運び、シルは窓際で月を眺める。それは何度繰り返しても変わらない光景だった。


 ◆


 そんなある冬の日、一人の少年が彼女の守る領域を訪れた。


「おい、エルフ! いるんだろ!」


 その少年は禁域とされるこの森に踏み込んでいた。彼の声は高く、まだあどけなさを残していた。その様子に、シルは眉をひそめた。


「人間よ、我らの領域に無断で入るとは死にたいのか」


 シルは木の枝の上から弓の弦を引き絞り、ぴたりと狙いを定めた。


「違う! オレはお前たちに害なすつもりはないんだ」 


 だが、少年は怯えることなかった。ただ、彼の瞳には切実さだけが宿っていた。


「じゃあ何の用?」


「オレはただの村の薬師見習いだ。おまえの知ってる薬草を教えて欲しいだけだ」


 シルはその言葉に眉をひそめた。確かに少年は武器も持たないただの子供だ。通常、人間は彼女に近づこうとはせず、恐れと畏怖の念を抱いて遠ざかるのが常だった。しかし、彼の瞳にはそういった人特有の恐れの色は見えなかった。


「帰りなさい。ここはあなたの来るべき場所ではない」


 だが、少年は動じず拳を握りしめた。


「待ってくれ! オレは友達を助けたいんだよ!」


「どういうこと?」


「村で病気が流行っていて、薬草が必要なんだ。じーちゃんから聞いたことがあるんだ。あんたなら知ってるんだろう?」


 彼の瞳には強い意志が宿っており、手負いの獣にも似た切実さがあった。その揺るぎない決意に、シルは押しきられたかのようにため息をつく。


「あなたの友人……病気なの?」


「重い熱病だ。村の薬じゃ効かなくてな」


 シルは少年の話を聞きながら過去の記憶を思い出していた。何十年か前に、気まぐれで人間を助けたことがある。彼は森の瘴気に侵されていた。普通の薬では効かない、危険な状態だったのだ。


「……わかった。少しだけ教えてあげる」


 シルは一瞬躊躇した後、小さくため息をついた。そして木から飛び降りて彼の前に立つ。


「でも、ひとまずうちに来なさい。そんな様子だとあなたが風邪をひくよ」


 彼はおそらくここに来るまでに雪で滑って転んだりしたのだろう。その体はすっかり冷たく濡れていた。


 ◆


 シルは家に少年を連れて帰り、暖炉の前で身体を暖める少年に頭から毛布を被せた。人間が彼女の家に足を踏み入れるのは、実に何十年ぶりのことだった。


「ありがとう、エルフ」


 少年は毛布に身を包みながら、小さな声で呟く。外にいる時は興奮して気づいていなかったのだろうが、今は寒さに震えている。


「まったく無茶するんだね。あなたは」


 シルはため息をついて一言付け加える。


「あと、エルフじゃない。シルだよ」


 少年は一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに目を細めて微笑みを浮かべた。


「シル、か。ふーん、いい響きだな」


 思わぬ言葉に、シルの尖った耳がかすかに動いた。


「そういえば、あなたは?」


「え?」


「あなたの名前。呼びにくいから」


 シルが言うと、少年は「ああ」と納得したようだ。

 

「オレはリオンだ」


「リオンね。ふーん、強そうな名前ね」


 シルは純粋な感想として言ったのだが、リオンの表情が複雑に歪むのを見逃さなかった。だから彼女はリオンの顔をじっと見てみた。


「なんだよ。シルも似合わないって思ってるんだろ」


「どういう意味?」


 リオンの声には、かすかな苛立ちが混じっており、シルは不思議そうに尋ねた。その様子にリオンは気付いたのか、慌てて手を振って「ごめん」と付け加える。


「リオンってのは獅子が由来なんだ」


「ふむふむ。それで?」


「幼馴染のやつがさ、いつもいうんだよ。『君は獅子とは程遠い』って」


「確かに、あなたは獅子って感じではないね」


 納得したようなシルの言葉に、リオンは思わず頬を膨らませた。反論したい気持ちはあるのだろうが、黙り込んでしまう。彼の顔には悔しさがにじんでいた。


「アイツはオレより強いからな。だからオレにも勝てることがあるって証明するんだ」


「なんだ。なら、もう十分じゃない?」


 リオンの話を聞いて、シルは笑った。


「友人のために、雪の中、禁域を犯してここに来たんでしょ。十分、勇敢じゃない?」


 リオンはシルの言葉にきょとんとしたような表情を浮かべた。シルは胸を張って、リオンを諭すように言った。


「群れの仲間を守るというのは獅子の習性の一つだからね」


 リオンは少し照れたように笑って頬をかく。もっともシルにとっては、そんなリオンの仕草は小動物のようだと感じていた。けど、そんな感想を言うとおそらく彼は怒るだろうから、彼女は口には出さなかったのだが。


 ◆


 リオンを家に招き入れ、少し落ち着いた後、彼はシルの家をゆっくりと見渡した。その目には好奇心と驚きが混ざっていた。


「エルフも家に住んでいるし、意外に人に近い生活をしてるんだな」


「失礼なこと言うね。私たちをなんだと思ってるの?」


 リオンは恥ずかしそうに頭をかき、言い訳するように答えた。


「森の木の上で眠るんだと思ってたよ」


 シルはやれやれと肩をすくめた。その仕草には、長年の誤解への諦めが垣間見えた。


「人間には家は教えない。危険だからね。気づかれないように結界を貼ってるんだよ」


 シルの声は冷静さを保っていたが、その奥に警戒心が潜んでいるのがわかった。


「確かに一人で暮らしてたら危ないよな」


「でしょう?」


 シルの口元に冷ややかな笑みが浮かんだ。その表情の奥には長年の経験からくる感情を覗かせていた。


「人間は欲深くて野蛮だもの。自分のためにしか狩りをしない狼の方がよっぽど秩序がある」


 リオンは眉をひそめ、シルに視線を向けた。


「でも、オレはいいのか?」


 シルはリオンをじっと見つめ返した。その目に、わずかな柔らかさが宿った。


「あなたはただの子供でしょう。子供の狼を恐れる狩人はいない」


 リオンは何か言いかけたが、シルが布を手に取るのを見て言葉を飲み込んだ。


「寒いんだから、ちゃんと乾かさないとダメでしょう?」


「おい!」


「うるさい、大人しくしなさい」


 暴れようとするリオンを、シルは静かに嗜めて、布をかぶせて彼をぎゅっと引き寄せた。するとリオンは静かになった。


「全く困った子だよね」


 シルは呟いてわしわしと頭を撫でる。リオンは抵抗する気は無くしたのか、大人しく撫でられていた。


 ◆ 


 それから三年の間、リオンは頻繁に森を訪れるようになった。リオンの訪問が数を重ねるにつれて、シルの住処にはリオンのためのものが増えていった。

 

 シルは薬草を並べて、リオンに知識を伝授していた。彼女の細い指が、様々な植物の特徴を指し示す。リオンは真剣なまなざしで、一つ一つの説明に頷きながら、ときおりメモを取っていた。


「この葉を潰して薄めて塗れば、血が止まり、傷の治りが早くなる」

 

 シルの声は、最初にリオンと出会った頃よりも柔らかくなっていた。リオンの純粋な好奇心に満ちた青い瞳を向けられ教えを請われることは、一族では一番年下だったシルにとっては悪い感覚ではなかった。

 

 一方、夕暮れ時になると、二人は暖炉の前に座り、リオンが村の様子を語った。彼の身振り手振りを交えた話に、シルは静かに耳を傾けた。


「これは南の方で手に入った飲み物だよ。お湯に溶かすといいらしい」


 リオンが紹介してくれる外の世界の話に、シルの瞳に小さな輝きが宿る。人間社会に対する彼女のイメージが、少しずつ崩れていくのを感じていた。


「なあ、シル。お前はずっとここで一人で暮らしてきたのか?」


 ある日の夕方、二人が森の中を歩いていると、リオンが突然立ち止まった。彼の青い瞳には、何か深い思いが宿っているようだった。

 シルは少し考えて、遠くを見つめながら答えた。


「そうだね。私たちエルフは基本的に群れずに生きる存在だから。森や精霊の加護が私たちを生かしてくれる」


「寂しくないのか?」


 その問いに、シルは一瞬答えられなかった。彼女の緑の瞳に、戸惑いの色が浮かぶ。


「寂しい? いや、私にとってそれが当たり前だし。会おうと思えばいつでもあえるでしょう?」


「ここにきてから他のエルフにあったことはないけど」


「この森に住んでいるのは私一人だからね」


 シルの言葉に、リオンの表情が変わる。しかし、シルにはリオンがなぜそんな質問をしてきたのかわからなかった。けど、その質問はどこか彼女の心の奥底に何かを呼び覚ますような気がした。だから代わりに、彼女は話題を変えるように別の質問をした。


「そういえば、リオンはなぜ薬師になろうと思ったの?」


 その問いに、リオンの表情が一瞬曇った。彼は遠くを見つめ、少し沈んだ声で答えた。


「自分が何もできないのは辛いからな」


 リオンの横顔に、シルは何か言いたくなったが、それ以上言葉が見つからなかった。彼の言葉の奥にある思いを、彼女はまだ完全には理解できていなかった。


 ◆


 出会ってから二度目の秋が過ぎて、二人の関係は当たり前のようになった。二度目の冬が近づいてきたある日、リオンとシルは森の中で狩りをしていた。

 

 冷たい風が枝を揺らし、落ち葉が舞い散る森の中、二人は獲物を追って歩いていたが、残念ながら収穫はなし。

 

「ちょっと休もうぜ、シル」


 リオンはすっかり手慣れた様子で焚き火を用意する。やがて炎が立ち上がり、二人はその周りに腰を下ろした。火の明かりが二人の顔を照らし、しばらくの間、二人は黙って火を見つめていたが、その静寂を破ったのは、リオンの声だった。 


「ほら、シル! あの兎たち見てみろよ」


 リオンの声が耳元で響く。シルは振り返り、リオンが指す北条に視線を向ける。そこには、二羽の兎が寄り添うように座っていた。


「寒い日も寄り添って生きてるんだよな、あいつらは」


 リオンの声には、何処か羨ましそうな響きがあった。


「ああいうのは、なんか良いよな。助け合ってるみたいで」


 シルは首を傾げ、兎たちをじっと見つめた。彼女の緑の瞳に、困惑の色が浮かぶ。


「私にはいい獲物になりそうなくらいしかわからないわ」


「おい、シル。もう少し情緒があってもいいだろ?」


 呆れたような表情を浮かべたリオンにシルはしれっとした顔で反論する。


「情緒、ね。私には理解できないな。ほら、今日の夕食が逃げるよ」


「おい! まったくもう。……あーあ、もう逃げちゃったよ」


 リオンはため息をつき、苦笑いを浮かべて火の側に再び腰を下ろした。そんな彼の顔を見て、シルは少し思いついたような表情を浮かべる。そして、シルはゆっくりとリオンの隣に腰を下ろした。


「何を!」


 リオンは突然のシルの行動に驚いたように声を上げた。


「いや、こうしたらあったかいのかなって……何か文句ある?」


 シルはリオンの驚きに戸惑う顔を浮かべながらも、冷たい声で反論を封じた。二人は初めて肩を寄せ合って座ったが、シルにとって人の体の暖かさはどこか新鮮で、その温もりに思わず微笑んだ。


「あなたの言うとおり、確かにあったかいわね」


 シルはぽつりと呟いた。彼女の声は、いつもより少し柔らかかった。銀色の髪が風に揺れて、その先端が少年の肌に触れる。


「いきなりなんだよ」


 リオンは少し照れくさそうに言ったが、彼からもたれかかるシルを拒むことはなかった。


「別に、これがいいって言ったのあなたでしょう?」


 シルが不思議な顔をすると、リオンはちょっと怒ったように顔を赤らめて目をそらした。

 

 二人の間に静寂が広がる。ただ、焚き火の中で木が爆ぜる音と、通り過ぎる風の音だけが聞こえる。


 それは言葉にはできなかったが、何かの繋がりであるかのようにシルは感じていた。


 ◆


 月日は流れ、季節は巡る中、リオンは村の薬師となり、成長していった。リオンに請われるままにシルはエルフの術を教え、彼は乾いた布が水を吸うように上達していった。

 

 気づけば、彼に手にかかれば癒えない病気や傷はないと言われるほどになっていった。彼の評判は近隣の村にも広まり、多くの人がリオンを頼りにするようになった。

 

 一方、シルは何も変わらぬ姿で森に留まった。リオンが訪れ彼の成長を静かに見守り、彼の話をきくたびに少し誇らしく感じていた。


 三度目の冬が終わりを告げようとしたある日のこと。シルとリオンは、シルの住処でいつものように食事をとっていた。

 

 リオンはスプーンを置き、深呼吸をした。その仕草に、シルは何かを感じたように顔を上げる。


「シル、オレ、兵役に就くことにしたんだ」


 リオンの声には緊張があった。シルは驚いて木製のスプーンを取り落とし、彼を見つめた。


「兵役? でも、あなたは薬師でしょう?」


 シルの声には、珍しく動揺がにじんでいた。リオンは苦笑いを浮かべながらゆっくりと答えた。


「ああ。だからこそだ。戦場で働くことになる」


「どうして? あなたは人を癒すのが仕事じゃないの?」


 リオンは深いため息をつき、窓に広がる森を見つめた。


「シル、覚えてるか? オレが初めてここに来た時のこと」


 シルはゆっくりとうなずいた。彼女の記憶の中で、幼いリオンの姿が鮮明によみがえる。


「あの時、オレは幼馴染のために薬を探しに来ただろ。そいつは実は領主の子息でさ」


 リオンの目に、懐かしさと痛みが混ざった感情が浮かんだ。彼の声はどこか柔らかく、遠い日の思い出を語るかのようだった。


「あいつの家族がオレを拾ってくれたせいで、オレはなんとかやってこれたんだ」


 シルは黙って聞いていた。リオンの言葉の一つ一つが、彼女の心に刻まれていく。


「今度は、オレがあいつらを助ける番なんだ。戦場なんかで死なせるわけにはいかない」


 リオンの声が途切れ、表情をくもらせる。そんな姿にシルは胸が締め付けられるような痛みを感じた。


「だから、オレが行くんだ。守るために」


 リオンの瞳に揺るぎらない決意の光がみえた。それは最初に出会った頃と同じように青い瞳には決意に満ちていた。


「そう、寂しくなるわね」 


 シルは何かをいおうとしてその度にやめて、結局はその言葉しかでなかった。うつむき尖った耳も下がったシルに、リオンは笑って言った。


「シルもようやく寂しいの意味がわかったのかな」


「ちょっとね。あなたが持ってきてくれた香辛料がないと、料理が味気ないもの。そんな感じ」


 リオンの言葉に、シルは肩をすくめて言った。その言葉に今度はリオンが肩を落とす。


「オレはスパイスか何かかよ」


「ふふ、あなたといると退屈しないのは確かだね」


「そりゃよかった」


 リオンは軽く笑い返した。


「約束するよ。必ず戻ってくる」


「いいけど、あんまり帰ってこないと忘れるかもしれないわよ」


「酷いな。シルにとっては瞬く間だろう」


 リオンは一瞬考え込み、少し寂しげに言った。


「そうね。だからそれくらい待ってあげる」


 その日以来、リオンは森に姿を見せなくなった。彼は「春の頃には戻るだろう」と言っていたけれど、春が何度もめぐっても彼は戻らなかった。シルにとってはほんの一瞬だったが、人間の寿命を考えれば、それは決して短い時間ではなかった。


 シルは森の中で一人、季節がいくら巡っても待ち続けた。草花が芽吹き、枯れ、また芽吹く。その繰り返しの中で、彼女はただひたすらに待ち続けた。


 風の噂では、既に戦争が終わっていると聞いている。だが、それでもリオンは戻らなかった。シルは窓の外を見つめ、呟くように言った。

 

 ある秋の日、紅葉した葉が舞い落ちる中、シルは窓の外を見つめ、呟くように言った。

 

「馬鹿、待っててあげるって言ったのに」


 その声は小さく、涼しい風に消されていった。シルの瞳には、確かに感情が宿っていた。長い間人を待つことの意味を、彼女は少しづつ思い知らされていたのかもしれない。


 ◆


「シル、また昔のことを考えてるの?」


 彼女を遠い過去から、現在に引き戻したのは、ベッドの上から聞こえる低い声だった。半身を起こし、からかうような目で彼女を見つめているのは、従姉妹に当たるアリスだ。


「別に」 


 シルはそっけなく答えると、アリスは重い毛布を払いながらゆっくりと身を起こした。彼女はしばらくシルの様子を見ていたが、やがて呆れたような顔をした。


「嘘つき。また人間のことを考えてたんでしょ」


 その声にシルは振り返り、アリスを睨みつけた。彼女の表情には苛立ちが浮かんでいた。


「……何だよ。関係ないでしょう」


 アリスはベッドから降りてシルに歩み寄り、肩をすくめながら言った。


「決めつけとかじゃなくて、シルの態度を見れば分かるよ。まるで、ここでずっとあの人間を待っているようにしか見えないもの」


 その言葉にシルの中で何かが弾けた。


「違う。単に約束を果たせない人間に怒ってるだけだよ」


 アリスはその答えに少し驚いたように眉を上げた。その言い訳は、まるで自分自身をも説得しようとしているかのように響いた。アリスはその様子を見て、小さくため息をついた。


「じゃあ、あの子が使ってたカップは? まだ棚においてるけど」


「別にいいでしょう。ほっといてよ」


 シルの心にさらに苛立ちが募った。彼女は拳を握りしめ、声を荒げた。彼女自身もその感情がどこから来るのか分からなかった。

 

 自分が何を言っているのか、本当のところを理解しているのかも怪しかった。


「あの子が座ってた椅子、誰も座らせないでしょ。シルが今飲んでいる飲み物も、あの子が教えてくれた人間のもの。ねえ、シル。わかってるんでしょう?」


「違う! そんなんじゃ…」


「じゃあ何? どうして、人間の村をずっと気にしてるの?」


 アリスの指摘にシルは沈黙した。アリスは静かにシルを見つめていた。その目には悲しみと理解、そして少しの憐れみがあった。


「シル、あなたも穢れてしまったんだね」


「……うるさい!」


 その言葉に戸惑いながらも、シルは心の奥底ではわかっていた。長い年月をかけて築き上げた壁が、少しずつ崩れていくのを。

 

 今から思えば何でもなかったことが、シルにとってはとても安心することだった。


 ──たとえば、春の陽光が差し込む森で。


 隣で居眠りする、彼の重さを肩に感じていた。


 ──夏の熱気に包まれた午後に。


 暑さに負けた私をからかいながら、そっと仰いでくれた。


 ──秋の紅葉が舞う小道で。


 少年と歩くだけで、なぜか心が弾んでいた。


 ──そして、冬の日。


 肩を寄せ暖かさを分かち合うことが、心地よかった。

 

 少年が、笑ってるだけでなぜか満たされた。

 そばにいて歩いてるだけで、嬉しかった。

 

「なんでここにいないんだよ」


 長い沈黙の後、シルはゆっくりとアリスに近づいた。ためらいがちに、しかし確かな動きで、シルはアリスの胸に顔をうずめた。

 

 堰き止めていた感情が、ついに溢れ出し、涙が頬を伝う。シルの中で長い間塞いでいた感情の壁が決壊したかのようだった。

 

「まったく、困った子だね」 


 アリスは黙ったまま、ただシルを抱きしめていた。月明かりだけが、二人の姿を静かに照らしている。​​​​​​​​​​​​​​​​


 ◆


 アリスが帰った後、シルはしばらくまた一人で取り残されることになった。彼女はいつものように窓辺に座って森を見眺める。森はいつも静寂に包まれていて、かつての賑やかさはもうなかった。


「そういえば、何年経ったのかな」


 シルは小さな呟きは風に消えていって。エルフである彼女にとって、数年の時の流れはほんの一瞬に過ぎない。しかし、今はその一瞬のはずの時間が、今はとてつもなく長く感じられた。


「もう待ってなんかいないけど」


 口ではそう言いながら、シルの指は無意識のうちにリオンが使っていたカップを弄んでいた。

 

 その時、突然、風の音が変わった。森を吹き抜ける風に微かに異質な音が混ざる。

 

 遠くから、足音が聞こえて来る。そのリズムは間違いなく自分の聞き覚えのあるものだった。しかし、その足音は、昔よりも重く、大人になった証のようだった。


「まさか?」


 シルは深呼吸をし、扉に向かって駆け寄った。手が震えている。心の準備はできていないが、体は自然と動いていた。だが、扉に手をかけたとき、シルは一瞬ためらった。

 

(もし、違ったらどうしよう。もし、勘違いだったら)


 しかし、扉の向こうから聞こえてくる呼吸の音は、紛れもなく生きた人間のものだった。その音に、シルの心臓が高なる。


 ゆっくりと、シルは扉を開いた。


 冷たい風が吹き込んでくる。

 雪の匂いと、どこか懐かしい匂いが混ざっている。

 

 目の前には髭を蓄えた男性が立っていた。その男性の目がシルを捉える。その青い瞳は昔と変わらない輝きを放っていた。しかし、その顔には新しい傷跡が刻まれている。時の流れを感じさせるその姿に、シルの胸が痛んだ。


「ただいま、シル」


 その声に、シルの体が硬直する。懐かしさと戸惑いが入り混じった感情が、彼女の中で渦巻いていく。


「リオン……?」


 シルの声はかすれ、細い指が自然と胸元に伸びる。リオンは一歩前に出る。二人の間の距離が縮まるにつれ、シルの心臓の鼓動がだんだんとはやくなっていく。


「ずいぶん待たせてしまったな」


 リオンは申し訳なさそうに微笑む。その笑顔にシルは昔の少年の面影を見た。


「すまない」


 リオンの言葉に、シルの中で相反する感情が生まれる、彼女は一瞬、柔らかな表情を見せそうになるが、すぐに顔をそむける。長年抑え込んできた感情が、一気に溢れ出しそうになる。


「別に待ってなんかいなかった」


 シルは少し強がりな口調で言う。しかし、その声には僅かな震えがあった。リオンの目を真っ直ぐ見ることができず、シルは後ろを向く。


「寒くないの?」


 シルは背中を向けたまま言った。その声には、わずかびリオンを気遣うような色が混じっていた。


「ああ、少し寒い。入れてくれないか?」


 リオンの言葉に、シルの目から涙が溢れ出す。

 そうしてうつむいてると、シルの手がリオンの頬に触れる。その感触に、彼女の目が大きく見開かれる。温かい。彼は生きている。本当にここにいるのだとそう実感した。


「本当に……リオンなの?」


「ああ、もうシルと比べたらかなり大きくなっちゃったけど」


 リオンはシルの手を握る。ずいぶん大きくなった手の感触に、シルは十年以上前の記憶を思い出す。寒い冬の日、二人で肩を寄せ合っていた時の温もりを。


「ああ、しかしシルは変わらないな」


「あなたはすっかりおじさんになっちゃったね」


「おじさんは酷いぞ、シル。オレはまだ二十代だなんだけど」


「だったらその髭を剃りなさい。さすがに、見苦しいから」


 リオンは苦笑いしながら自分の髭に触れた。


「やっぱり似合ってないかな。戻ってきたら剃ろうと思っていたんだ。でも、まずはここに来なきゃって」


 そう言って笑うと、リオンの表情が急に真剣になる。


「悪い、シル。約束守れなくて」


 リオンが静かに呟いた。その声には、長い年月の重みが感じられた。


「どうして、こんなに長い間戻ってこなかったの?」


 シルの声は震えながらも、彼の方を咎めるような瞳で睨みつける。でも、それは本当に怒ってるわけではなく、後ろで組んで手が忙しなく動いていた。

 

「長い話になるけどな」


 リオンは深いため息をつき、自分の体験を話し始めた。


「最初の数年は捕虜だったんだよ」


「捕虜……?」


 シルは息を呑んだ。リオンは続けてこれまであったことを話していく。戦いの最後で、奇襲を受けて仲間を逃すため捕虜になったこと。捕虜になった後、開拓村に送られて、そこでも薬師として活躍したこと。森の側の集落で、シルに教えてもらった狩の腕を生かしてなんとか生活してきたこと。


「お前に教わった技術のおかげで、他の捕虜よりは待遇が良かったけどな。それに友人は守ることはできた」


「でもその後は? 戦争はおわったはずよ」


「終わったさ。結局は痛み分けだった。でも簡単に帰れなかったんだ。戦後も緊張状態が続いて、国境を越えることはできなかった」


 シルは黙ってうなずき、リオンの手の傷跡に、そっと指を這わせる。

  

「結局、十年近くかかったよ。やっと帰ってこられたんだ。聞いたけど、エルフの偉い人が仲介してくれていたらしい。シルは心当たりがないか?」


「……まさか」


「シルのおかげで、オレは生き延びることができた。そして、多くの人を助けることもできた。ありがとう」


 二人の間に沈黙が流れる。しかし、それは居心地の悪いものではなく、長年の別れを埋めるかのような、穏やかな静けさだった。


「シル」


 リオンが静かに呼びかける。


「オレ、もう村には戻らない。ここにいてもいいか?」


 シルは驚いて目を見開いた。

 

「でも、あなたは人間で……」


「そんなことは関係ない」


「友人とは……?」


「あいつはもう伴侶もいるし、もう別れは済ませたよ」


 リオンは真剣な表情で言った。彼の声は柔らかかったが、しかし確かな思いが込められていた。


「そもそも戻ったら伝えるつもりだったんだ」


 その笑顔は、かつての少年の面影を残しつつ、大人の風格を帯びていた。


「オレたちは、もう家族だからな」


 リオンは優しく笑い、シルの涙をそっと拭った。


「もう一人にしたりしないさ」


 リオンの言葉に、シルは何も答えなかった。ただ、彼の胸に顔をうずめ、その温もりを感じていた。


 シルは目を閉じ、深くゆっくりと呼吸をした。リオンの匂い、その体温、そして彼の存在そのものが、彼女の全身に染みわたっていく。


 何百年もの孤独な時間が、この瞬間に溶けていくような感覚。


 シルの唇が、かすかに動いた。その言葉は、ささやきにも満たない小さなもの。それでも、きっとリオンには届いたのだろう。


「おかえり」

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雪降る森の約束 黒鋼 @kurogane255

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