合わせ鏡

@koro04101

合わせ鏡


 人生なにが面白くて生きているのかと聞かれても、特に面白いことなどなにもない。

 久しく恋人もいない。友人も疎遠になった。婚約破棄もしたが、あれからもう随分経った。当時は寿退社を考えていたから出世の話が出たら断ろうと思っていた。そもそも、今もそんな話はないが。

 気づいたら独身のまま四十歳を過ぎてた。「一人で生きていける時代だ」と誰かは言ったが、それでも周りの視線は痛い。年老いた両親はもう私にはなにも期待してないが弟夫婦が子供を連れて実家に帰ってきたときは特に肩身が狭い。今となって面倒だけだった帰省が一番ゆっくりできなくなった。

 ある日、職場で私の名前を呼ぶ声が聞こえた。上司だ。その上司は昔から一通りのハラスメントをこなすため、失言しては女性社員に散々陰口を言われてた。昇格するたび周りへの説教も多くなり、その上年々丸くなった。加えて口が臭くなったことも相まって、今では男女問わず周りの同僚から煙たがれている。残念なことに本人は何も気づいてない。

 そんな上司に呼び出されて席に向かうと、心当たりのないミスを指摘された。それは私の担当ではない、という訳にもいかないので本来担当である後輩の女子社員に確認しますと回答した。それが癇に障ったのか人のせいにするなと的外れなことを言ってきた。そこからネチネチと話が長くなった。この時間が勿体無いが、言い返すとさらに長くなるので、いつものように聞き流した。終わったらその足で彼女の席に向かい指摘した。私の態度が気に食わなかったのか説明が終わり背を向けると小声が聞こえた。

「私に八つ当たりしないでほしいよ」

 女性社員に喋ってるようだ。元はと言えば、と言いたいのをグッと堪えて席に戻ったが、元々なかったやる気が萎えてしまった。早めに帰ろうとしたのだがそういう時に限ってすぐには帰れず、結局会社を出たのが二十時を過ぎてしまった。

 金曜日だったのが唯一の救いだ。やはり酒を飲まずにはいられない。昔は若いだけで許されてきたものも今となっては許されない。ミスをしたわけではないのに、言われたことをやるだけでは許されなくなった。私が特別美人なら話は別だろう。しかし、私は昔からその辺にいる普通の女でしかなく、今は年相応の女でしかない。

 本当なら今頃結婚して仕事を辞めるはずだった。まさか浮気され婚約破棄になるとも思ってなかったので仕方なく働いてるのに、毎日責め立てられる気分だ。これ以上私にどうしろと言うのだ。

 そんな鬱憤を抱えながらコンビニでつまみと一緒に買った缶酎ハイを飲んでダラダラ帰り道を歩いていた。つい度数強めの酒を空きっ腹で飲んでしまったから、酔いが早めに回ってきた。メイク落としも今夜は難しいだろう。家に着いてもそのまま飲んで寝てやろう。

 ふと目をやると、路肩に小汚い婆さんが地面に座り込んでいた。恐らくホームレスだろう。通り過ぎようとすると、「おい」と声をかけられた。気のせいだろうと思いその場を去ろうとすると怒鳴られた。

「あんただよ!」

 驚いて振り返り婆さんの顔を見た。

「自分だけが辛いみたいなツラしてるな。」

 魔女のような喋り方をしていて、気味悪い。

「これやるよ。こんなの、あたしが持ってもしょうがないのよ」

 そう言いながら指輪のケースを放り投げてきた。足元に落ちたその小汚いケースを拾い上げて蓋を開けると、指輪が入っていた。

「それを身につけていれば、面白いのが見られるよ」

 婆さんは顔を上げてニッと笑った。


 気づいたら翌日の朝だった。もう昼過ぎになろうとしてた。いつの間にか寝ていた。昨夜あの婆さんと出会ってから記憶がほとんどない。昨夜はどうやって家に着いたのかさえわからない。気づくと寝巻きに着替えてた。ベットから起き上がると脱いだ服も洗濯カゴに入っている。部屋も荒れてない。テレビ前のローテーブルにはあの指輪のケースが置いてあった。

 開けてみるとシンプルな指輪が入っていた。そのシルバーリングはピンキーリングなのか私には小指しかはまらない。つけてみると満更でもないが、その場は外してケースにしまい、二度寝した。


 週末は悲しくもすぐに過ぎ去り、月曜になった。出社して席に着くとあの女が隣席の同僚とはしゃいでいた。私に気づくと何やらコソコソ喋っていた。私はそれに気づかないふりをしていたら、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。イケメン後輩だ。長年この会社に勤めてる私ならある程度の雑務のルールを知ってる。そのため私にルールを聞く同僚も多く、彼もその一人だ。彼の質問に答えた後、立ち去る後ろ姿を眺めてたらさっきの女が疎ましい目つきをしていた。私は鼻で笑った。女はいい男に声掛けられると心が弾むもの、かく言う私もそうだ。だが、彼とどうなろうとなんて思ってない。会話をするだけでもう十分、私は身をわきまえてる。

 チャイムが鳴り、昼食を買うため財布を出すと、トイレに向かった。

 女性トイレには個室の手間に手を洗う水面台と化粧直しのスペースが向かい合っている。それぞれ鏡が備え付けられてるため、合わせ鏡になる。個室から出た私は水面台で手を洗う。ポケットからハンカチを取り出すと床になにかが落ちた音がした。あの指輪だ。ケースの中にしまったはずなのに、そもそもケースは家のテーブルに置いたはずだ。どうやって潜り込んだのか不思議だったが、それだけあの夜は酔っていたのだろう。手を拭いたら小指に嵌めて手を鏡の前に差し出した。手まで綺麗になったみたいだ。

「指輪を嵌めて鏡を触ると、面白いことが起こるよ」

 

 あの夜の婆さんの話をふと思い出した。確か鏡に触って、戻すには鏡に触らないといけないとかも言ってた。そのときは正直胡散臭く感じた。でもなにか面白いことないかなと思い過ごしてた日々が、この時私の背中を押した。かざした手をそのまま伸ばし鏡に触れた。


 鏡から手を離した。周りを見渡しても特に変わりはない。やはりインチキだった。期待外れだったことに肩を落とし、もう一度鏡に触ろうとすると誰かが入ってきた。あのイケメンだ。なぜか女性トイレに入ってきた。しかもなんか様子がいつもと違う。顔が赤く目もトロッとしてる。まだ昼なのにもう酔っているのかもしれない。

「もう我慢できない」

 ふらふらしつつも近寄ってきた後、突然私を抱き寄せいきなりキスをした。驚いた私は彼を引き剥がし横を通り過ぎ出ようとしたが、その後すぐ腕を捕まれ私は鏡を背に迫られた。

「好きです……ずっと前から好きだったんです」

 やはり酔ってるようだ。ただ私の胸が高鳴ってるのも事実だ。彼の気持ちに応えようとすると彼は口を塞がれるように熱いキスをした。私は彼の首の後ろに腕を回した。職場で隠れて親密になる状況が興奮させた。仕事を放棄しこのままお楽しみも悪くない。お互いの服を緩め私のスカートに彼の手が入り込んできたところで、気づいたら私の手が鏡に触れた。

 

 目を開けるとトイレで一人、鏡に寄りかかっていた。気づいたら彼は姿を消していた。何をしていたのだろう。鏡の前で身だしなみを整えながら、夢を見ていたのだと自分に言い聞かせた。その時、誰かが入ってきた。あの女だ。隣の席の女も連れてだ。なんと二人とも裸だ。驚いていると彼女たちも不思議そうにこっちを見ている。

「どうしちゃったんですか?服なんか着ちゃって」

 こちらがおかしいと言わんばかりに嫌な声で笑ってる。そのあと次々と他の同僚も入ってきた。上司も入ってきた。みんな裸だった。イケメンも入ってきた。彼も裸だ。さっきは拝めなかったが、いいものをお持ちだ。

「あれ?クールビズの周知したでしょう?ほら、脱いで」

 上司が当然のように私に服を脱がそうとすると、周りの人たちも手伝おうとした。

「いいから脱いじゃいましょうよ、ほら早く」

 脱がされそうなり慌てて抵抗した。払った手が鏡に触った。

 

 次の瞬間周りの人は皆服を着ていた。不思議そうにこちらを見ているが、とりあえず元に戻った。が、今度は自分が服を着てないことに気づいた。慌ててキャ!と叫んで裸を隠すようにその場にしゃがみこんだ。

「いいじゃないですか。そっちがその気なら僕達、相手になってあげますよ、?」

 イケメンに手首を捕まれ男性の同僚たちに迫られていた。その中に上司もいた。さっきはその気だったが、今は男たちの目が怖い。

 怖くて叫んだが誰も助けてくれない。すぐそばの鏡に気づき、指輪をはめた手をなんとか伸ばした。


 そしたら誰もいなくなった。服も着ている。乱れてもない。よかった、元に戻ったんだ。

 気味悪くなって指輪を取ろうとした瞬間、壁やら鏡の隙間などから虫が出てきた。蜘蛛やゲジゲジやら足の多い虫がいろんなところから這いつくばってきた。蛾も飛んできた。天井の換気扇からも湧いてきた。あっという間に虫で埋め尽くされた。不気味でしかない。

「助けて!誰か助けて!」

 何度も叫んだが誰も助けてくれない。足元から大量の虫が這いつくばってきて、いくら払ってもまとわりついてくる。気持ち悪い。やはりこれしかないのか。虫をはらって姿を現した鏡に触った。


 気づいたら鏡の前に立っていた。虫もいないし、もちろん誰もいない。エアコンが動く機械の音だけがする。電球もついてない薄暗いトイレにただ一人。いよいよ怖くなって指輪を外そうとしたが、何故かなかなか外れない。

 そういえば財布はどこにいった。そもそもここはどこなのか。

 トイレのドアを開けても廊下の電気がついてないし、誰もいない。トイレに出ることも怖くなった。鏡の前に戻った。確か同じ鏡を触れば戻れる、と思う。確かこの指輪をつけて最初に洗面台の鏡に触ったはず。でもその後は気づいたら鏡に触れていたので、もうどちらを触ったかわからない。

 次の瞬間、ガタンと大きな音がした。バランスを崩し倒れそうになったので思わず手を伸ばした。私はまた鏡に触っていた。

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