001 暗夜
二つの影が、重なった。
雨音が、静かに窓ガラスを打ちつけているそんな夜のことだった。
仄暗い手術室のその中で一際、派手な音が鳴り響く。
何か張りのあってやわらかいものを、勢いよく弾いたような音だった。それが、人間が人間に行った平手打ちであることは明らかなことである。
「なんのつもり? ふざけないで」
「いやぁ、ほんの出来心だよ。だって、可愛かったからさ」
仄暗く、けして衛生的とはいえない血の匂いの充満した裏路地にある病院の一室。僅かに蛍光灯の光に映し出されてゆらいでいる。
茶色がかった癖のある長い髪のその人物は、血濡れた手袋を勢いよく床に捨てると、目の前の男が口を付けてきた右頬を勢いよく擦った。何度も、何度も。
「真澄ちゃんがあまりにも可愛くて、おじさん、我慢できなくなっちゃったぁ……」
中年太りの男は、冷や汗を流しながらへらりへらりと笑みを浮かべている。皺の寄ったタレ目は、ある意味でチャーミングともいえるが、少なくとも医者にとっては、最悪以外の何者でもなかった。
「治療してあげた対価がこれ? 恩を仇で返すのにも程があるだろ」
そうして医者——
「これをみているだけで今にも吐きそうだよ。まったく最悪な気分だ」
メディカルキャップに仕舞い込むために束ねていた髪を解くと、長くふわふわとしている動物の毛のような真澄の髪は、重力に付き従って真下に降りる。
「恋人の真似事ならやめてくれないか」
「釣れないなぁ。俺と真澄ちゃんの仲だろうに」
「単なる雇用関係、あるいは医者と患者だ。それ以上でもそれ以下でもない」
そもそも、あんたは“それ以上”になった者の末路を知っているじゃないか。
真澄は、すっかり憔悴しきった顔のまま、力なく男に言葉を返していた。疲れているとはいえ、拒絶を示す毅然とした態度であったためか、男はこれ以上は踏み込みようがないと断念して、静かに肩をすくめている。
男は非常に素直で、彼の欲は誰がみたって明らかだった。
この危うい女の全てを暴いてしまいたい。だが、それはこれまで築き上げてきた女との信頼関係を壊すことに違いない。軽薄な男の中にも葛藤という感情は存在しており、一ミリほどの水面下での駆け引きを真澄とずっと行っている。
男は、処置された腹部を押さえながら、寝転がっていたベッドから起き上がり、足を手術台の外へ出す。
「助かったよ。俺としたことが、普段はやらないミスをしてしまってね。すんでのところで、急所は外したんだけど、あまりにも出血が酷かったものだから、部下が君を呼んだんだろう。まさか、みんなでここまで運んでくれるなんて。いい仲間を持ったね」
「そう。費用には出張費も加算するよ」
真澄は、傍にかけてあった白衣を手に取り、まるで翼を広げるようにばさりと音を立てて、そして羽織る。
「最近はさぁ……真澄ちゃんが仕事を引き受けてくれないから大変なんだよ」
「そっちは副業。本業はこっち」
ぱちぱちと蛍光灯が明滅する。
男からは真澄の表情はさっぱり見えなかった。自分などいてもいなくても構わないとでも言いたげに黙々とただひたすらに片付けていく。手術の道具は、乱雑に流しへと入れられ、ブラシで擦られ、希釈した洗浄液に器具を浸している。
「いつから逆になっちゃったのかね。すっかり毒気が抜かれちゃって」
「可愛げのある女になったってことでしょう」
「黒薔薇みたいに棘のある君のほうが好きだったな」
男は、うっとりと華奢な女の背中を眺める。この世の中を生きる全ての人類が女のように反抗的な愛玩動物であったなら、どれだけ楽しい人生が送れるのだろうか、と心が踊る。自分を撃ったあの肉塊なんて、この世から消えてしまえばいいのに。
「……ヤブ医者なのにそういうところは丁寧なのねぇ」
「誰が好き好んであんたの痕跡を残したいと思うんだよ。お断りだ。一滴の血液だって」
すすぎを行うには、まだ時間が必要だった。
真澄は、ぽたりと水滴の落ちる先を見てみる。今日は、疲労も相まっていつもよりも酷い顔だと思った。ゆらゆらと揺れる自分の顔から目を逸らし、すっかり綺麗な手で、角砂糖の入った小瓶を手に取った。
二つの留め具を外し、蓋をとる。中から一つ正六面体のそれを取り出して、口の中に乗せた。じんわりと唾液を使ってそれを溶かし、自らのエネルギーへと変える。
「いつもいる用心棒の彼はどうしたんだい」
「ああ、彼? 昔は面白いオモチャだったんだけどね」
真澄は男の方に視線を向け、すっと目を細める。
この男は人間をふた通りでしか捉えていない。自分の玩具になってくれるか、否かだ。玩具であれば死ぬまで可愛がられ、玩具でなければ死なせて可愛がる。唯一の例外は、彼に危害を加えたもの。そうなればもはや人間ではなく、彼に取ってはただの肉の塊になる。真澄は男の歪んだ愛情表現をまともな精神だとは思いたくなかった。
窓の外では、雷が落ちている。雨音はひどくなる一方だ。
「もうねぇ、人形じゃあなくなっちゃった。言いなりに動いてくれるのは、とっても可愛かったのに。それに、最近変な男があの子のところでうろついている」
「変な男ねぇ」
あなたがそれを言うのか、と心の中で思ったが、真澄はそれを口に出すほど愚かではなかった。
男はハハ、と乾いた笑いをし、そして愛猫を愛でるような目でうっとりと真澄を眺める。真澄は、非常に華奢で、貧相な胸ですらポジティブにさせてしまうほどの高身長である。正しくモデル体型とでも言うべきその容姿を持っていながら自分は表社会では生きていけないのだといい、細々とこんなところでヤブ医者をしている。影を帯び、隈が取り囲む目と、ふんわりとしていて簡単に風になびかれる茶髪に、安い男は心を奪われる。
真澄は、本気を出すと人一人容易く殺されてしまうほど可愛く美しくなるのだ。普段でこそぶっきらぼうで男勝りな一面があるが、真澄が男を堕とす時には、真っ赤な薔薇となる。男はそれを知っている。逆に、ぶっきらぼうな一面を見せている相手には心を開いていることも。
——ああ、君の全てを暴きたいナァ……。
そんなよこしまなことを考えていることなどつゆ知らず、真澄は興味ありげに男の話を聞いていた。
「人形じゃなくなったとは?」
「うん。前まではお兄ちゃんへの憎しみだけが生きる原動力みたいな、そんな男の子だったんだけどさぁ。なんかその子もすっかり丸くなっちゃって。憎しむ先だったお兄ちゃんと仲良くなっちゃったんだよねぇ。たぶん、その変な男のせいだと思うんだけど。最近、めっきり仕事も受けてくれなくなっちゃったし。寂しいんだわ、おじさん」
「あんたには孤独がお似合いだよ」
真澄はまたもや角砂糖を一つ摘む。術後は頭がぼうっとして、思考を止めようとしてしまう。一心に手術に注力してしまった分、極端に疲れ果てて、全く脳が回転しなくなるのだ。だから、それを阻止するために義務としてそれを口にする。
「それで? 逃してやるの?」
この男がそんなことするものか。
わかっていてもなお、聞かざるを得なかった。
「あれば俺のだ。手放してなんかやらないよ」
真澄は人形に同情した。中途半端にこんなやつと関わってしまったばかりに、まさか一生を縛られることになるなんて、可哀想にもほどがある。
「俺の大切な子。どのみち俺のシノギにはその子が必要不可欠だから」
男は舌なめずりをする。
「キッショ。あんたに好かれる人間全員可哀想だよ」
「じゃあ、真澄ちゃん。君一人が犠牲になって俺の愛を全部ぜーんぶ受け止めてくれよ」
真澄は侮蔑の目でで男の股間へと目をやりそして、大きくため息をついた。
「断る」
女性らしく、美しい声で放たれた言葉は薄暗い手術室でわずかに反響し、そして消失の一途を辿った。ぽたっと水滴が落ちて、弾く音が聞こえる。男は、腹を押さえながらも大声で笑い始めた。
「何の心境の変化だぁ? 真澄ちゃんよぉ」
「だるい」
「らしくないな。ほかの患者になら、いくらだ? くらい聞いてくるのに」
男は力無くへにゃりと笑って、そして情に訴えかける甘い声を出し始めた。男は、すがるように手を伸ばす。
「なあ、真澄ちゃん、頼むよ。いつも、君を愛した男にやっているみたいなことをしてくれればいいんだ!」
「同じことを言わせないでくれるかな。面倒なんだよ殺しは。それといいかげん私をその名で呼ぶな、気色悪い」
真澄は、数歩だけ男に近づいたかと思えば、差し出された手を勢いよく振り払った。そうして改めてすらりとした青白い手を彼に差し出す。すると真澄の意図に反して、男は手を取りその手のひらに一つの口付けを施した。
「……どうやら、あんたには、医療ミスが必要らしいね」
「そんなに眉間に皺を寄せるんじゃないよぉ。君と俺との仲じゃないか。その綺麗な顔が俺のせいで歪んでいるのもイイなぁ……唆られる」
バシン、と勢いのよい音が響き、男は再び右頬を赤く染めた。
「私が求めるのは愛情でも依頼でもなく、金だよ馬鹿野郎。早くよこして帰りな」
そうまでしても懲りることのない男は、真澄のことをよくわかっていた。
「わかった、わかった。ならば報酬の内容を変えようか?」
「そっちの報酬じゃない。私が欲しいのは、あんたの傷を治したことによる報酬、治療費だ。どんなものを積まれたとしてもあんたの性欲を満たしてはあげられないね。話が聞けないんなら帰れ」
そして、目の前にあったメスを手に取り、男の方に向けた。しかし、ターゲットとなっているその男は真澄の今の反応すら予想通り、とでもいいたそうに口角を持ち上げる。
「真澄ちゃんの、父親探し……してあげよっか?」
途端、真澄の肩がびくり、と震える。
「それを、俺たちが代わりに請け負う。望むなら再会の場も提供しよう。これならどうだろう?」
持ち上げていた血濡れのメスを床に落とす。カチャン、と軽い音が鳴って、その場は静まり返った。ただそんな中でも、ただ真澄の心音は、大地を揺らすほどに波打っている。目の前が一瞬暗くなるのを感じた。意識が途切れてしまいそうだった。
「お、いい反応だな。やっぱり会いたいんだろ? それぐらい、長い付き合いなんだからわかるさ」
男は、胸ポケットからつぶれた煙草の箱を取り出して、カチリと音を立て、ジッポライターで火をともす。じゅわりと先端を焼き、有毒ガスを部屋にまき散らして、ふうっと一息吐いた。女医はゆっくりと振り返り、男を品定めするように、目を見開く。
「……いらない」
――そんな願いはとっくの昔に捨てたんだから。
女医のすっかり潤いの無くした唇を小刻みに震わせながら、それでも自分の思惑を悟られないように、長いまつげを見せびらかすようにして伏せる。
「かぁいいなあ……本当にかぁいい……だからダメなんだ……真澄ちゃん……」
男は、また己が命を縮めるべくした小さな巻物を、すうッと吸い込んで肺を満たし、そしてゆっくりと吐き出した。紫煙が部屋中をただよい、ただならぬ雰囲気が部屋を包み込む。
「我慢できない馬鹿なそいつをさっさと治めないか。見ていて不愉快だよ」
「真澄ちゃんが握ってくれたらそれで済む話さ」
「まるで獣だな」
「フフ、うれしいねェ。真澄ちゃん」
真澄はこの狂った男には何を言っても無駄であることを思い出す。そもそも力関係が違いすぎる。真澄がこの街に流れ着いたその瞬間から彼は慈悲をかけるという名目で彼女を縛り付けた。密輸船から降りて、流れ着いた異人だらけの路地裏でどうすることもできずにゴミの上に座る彼女を拾い、養い、育てたのはこの狂人だ。
だからこうして
「今回は三でいい。次は十だからね」
「おお、お買い得」
「あんたには恩義がある。多少は報いてあげるよ」
寄り添う姿勢を見せ、青白く生気のないか弱い手を指の細部に至るまで神経を張り巡らせて男に差し出した。
「うーん」
「今度はなんだ」
「ごめんなんだけど……」
男は、そういうと冷や汗をかきながら降伏を示すように両手を上げて見せる。
「こんなんになっちゃったからさ今手持ちがなくって」
真澄の眉がぴくりと反応する。
真澄は、金のために仕事をしている。人助けとか生きがいとか憧れとかそういう薄っぺらい偽善はあいにく持ち合わせてはいない。湧き上がる怒りは、彼女を強引な行動へと引き摺り込んだ。
「何様だよ、てめぇ」
「はは、苦しいな……離してくれないか」
たといか弱い力であろうと、体の構造を知り尽くした彼女ならば人間の急所がどこにあるかなど丸切りお見通しなのだろう。ぐっと喉元に押し込む親指のその部分は両者とも赤く、赤く、染まっていく。
その気になれば男はそれを振り払えるはずだが、しかし、あえてそれはしなかった。
「代わりと言ってはなんだけどねぇ……これを担保にでもサァ……」
男がそうして手元を手繰り寄せて差し出したのは、黒いベロアの生地で覆われた指輪の入りそうな箱だった。今日にも片手でその箱を開け、女医の目の前に差し出す。
それは、美しい深海を模したような青色をした球体であり、宝石だった。
美しい輝きは、不浄なこの場において最も輝くあたかも星の瞬きのよう。あるいは地球上の海がそこに凝縮でもされたかのようである。些細な動きが波のように揺蕩う。
普段の彼女なら金でないものに価値はない、ましてや鑑定書がないならなおさらだと追い返しそうなものでもあるが、今回ばかりはそうはいかなかったらしい。
彼女の目は、その輝きに勝らずとも劣らないほどに煌めいた。まさしく喉から手が出るような勢いで彼女はそれに手を伸ばす。
「これの価値は真澄ちゃんが決めていいんだよ」
もう、彼女は男の言葉なんぞ聞いていなかった。目の前にあるセルリアンブルーのそれは、静かに彼女の手の中へと収まり、呪いにでもかかったかのように手放すことを許さない。度し難い高揚だけが沸き起こり、彼女と宝石だけの世界が完成してゆく。
彼女は、その宝石が手の中に収まっている限り自由なのだと錯覚している。
名状しがたい道標 夜明朝子 @yoake-1201
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