シークレットシンフォニア

翡翠

第1章 再び動く歯車


静かな秋の午後、北村晴夫はいつものように薄暗い事務所でコーヒーを飲んでいた。


手元には、机の端に積み上げられた未解決の案件ファイルと、最近読み終えた古い推理小説。


外の窓からは、少し色づき始めた街路樹が見え、季節の移り変わりを感じさせていた。



「またか…」



彼はため息をつき、ふと自分の過去を思い出した。


数カ月前、毒親に追い詰められた少女の自殺事件を解決した時のこと。


事件そのものは解決したものの、心は少し苦悶していた。


少女を救えなかった後悔と、探偵としての使命感が交錯する日々。


そんな中で名を上げたが、晴夫にとってそれは何の慰めにもならなかった。




その時、事務所のドアがギーッと重く鈍い音を立てて開いた。


中年の女性が戸惑いながらも一歩ずつ踏み出し、彼の前に立った。



「北村先生ですか?」



「はい。何かご用件で?」



彼は冷静に応じ、来訪者の様子を注意深く観察する。


女性は深いシワの刻まれた手で小さなバッグをぎゅっと握りしめていた。


その手がわずかに震えているのが、晴夫には見て取れた。


彼女の顔には疲れが滲み出ており、その目は何かを訴えていたが、同時に不安が混ざり合っていた。



「私は小田桐麻美と申します。娘が…数カ月前に事故で亡くなりました。警察はただの事故死と断定したのですが、どうしても納得できなくて…」



その言葉を聞いて、晴夫は背筋を伸ばし、


目の前の女性に視線を向けた。



「事故ですか。警察はすでに捜査を終えたと?」



「はい…でも、私は信じられないんです。あの子が、あんな場所にいるはずがないんです」



麻美は、話しながらハンカチを取り出し、強く目元を何度も押さえた。


北村はしばらく彼女の表情を読み取り、慎重に言葉を選ぶ。



「どんな点が不審だと?」



「事故が起きた場所も、時間も、全てが不自然なんです。娘はあの時、別の場所にいる予定だったはず…それに、最後に話した時も何か言いたげだったんです。」



晴夫はゆっくりと頷きながら、依頼者が抱える感情と彼女の言葉の意味を整理していった。


彼女の言う「何か」がこの事件の核心かもしれない。


しかし、依頼者の感情だけで動くわけにはいかない。


彼には、まず事実を確認し慎重に行動する必要があった。



「もう少し詳しくお話を聞かせてもらえますか?」



麻美は深呼吸をしてから、娘の名前が小田桐紗枝であり、20歳の大学生だった事、そして事故が起きた日の詳細を語り始めた。


紗枝は明るく社交的な性格で、事故の数日前まで何事もなかったという。


しかし、事故が起きた日はどこか不自然だった。


彼女は通常通りの予定を知らせていたが、実際には別の場所にいた。


事故が起きたのは、人通りの少ない街の外れの道路で、車に轢かれたのだという。



「紗枝は、そんな場所に一人で行く理由がありません。それに、事故現場から娘の持っていたはずのバッグが見つからなかったんです。警察に何度も伝えましたが、相手にされませんでした」



北村は依頼人の話を静かに聞きながら、心の中で次々と疑問を組み立てていった。


なぜその場所にいたのか?なぜ持ち物が消えたのか?


そして、その「何か言いたげだった」という母親の直感。全てがこの事件の始まりを示しているように感じられた。



「分かりました。お引き受けします」



と北村は短く答え、手帳を取り出して詳細をメモし始めた。



「ただし、私が調査を進めるには少々時間が掛かるかもしれません。それでもよろしいですか?」



麻美は目を伏せて、小さく頷いた。



「お願いします。どうしても娘のことを、真実を知りたいんです」



その一言が、北村の胸に深く響いた。


自分もまた、かつては真実を求めて警察を辞め、探偵としてこの道を歩んでいた。


彼女の姿に自分を重ねる瞬間があった。


目の前の女性を救えるかどうかはまだわからないが、再び自分の足を動かし始める時が来たと感じた。




北村は早速、調査の第一歩として事故現場を訪れることにした。


彼はいつもと変わらない冷静な表情を保ちつつも、心の中には、次第に深まる手がかりが少しずつ見え隠れしているのを感じ取っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シークレットシンフォニア 翡翠 @hisui_may5

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画