女子高生の「地獄変」

夢生明

女子高生の「地獄変」




 平野玲奈は、悲しみに沈んだ。「お前は、まるで『地獄変』の良秀のようだ」。そう投げつけられた呪いのような言葉が、いつまで経っても耳から離れないからだ。


 この言葉をぶつけられたのは、二年前。高校二年生になった今でも離れないのだから、この言葉とは一生付き合っていく覚悟がなければならないだろうと思う。


 玲奈は、そっとため息をつく。しかし、その憂鬱さはすぐに吹き飛んだ。次の授業担当の国語教師である朝倉が教室に入ってきたからだ。


「本日は、『地獄変』を習っていきます。えーと……21ページを開いて」


 彼が少し言い淀むと、「せんせー、しっかりしてよ」と一人のクラスメイトが声をあげた。先生はその言葉に、苦笑している。


 彼は、その穏やかな性格から、生徒から慕われており、授業の緊張感はすぐに吹き飛んでいった。玲奈も部活の顧問でもある彼に懐いている一人だった。


(襟足がきれいだなあ)


 玲奈は授業中、授業内容を禄に聞かずに、そんなことを考え、悦に浸っていた。


 授業が終わると同時に、玲奈はいそいそと立ち上がり、朝倉の元へと駆け寄った。


「平野さん。どうしたのですか」

「今日の放課後、時間は大丈夫ですか?」

「文芸部の活動ですね。いいですよ」


 玲奈は心の中で「やった」とガッツポーズをする。しかし、せっかく話しかけたのに、これだけで会話が終わるのも味気ない。もう少しだけ、と話題を振ろうとする。 


 しかし、それはすぐに遮られた。


「せんせ。平野さん、ちょっと借りていい?」


 その声に振り向くと、そこにはクラスメイトの一人がいた。スカートが短く、指定のリボンもしていない。ギャルである。

 先ほどの授業で、朝倉を茶化していた生徒の一人だ。


「もう話も終わったので、大丈夫ですよ」


 朝倉はそのまま教室を出て行ってしまう。玲奈はもの悲しくその後ろ姿を見送った。


「邪魔しちゃって、ごめんねえ」

「別に」


 あまりにも軽薄な謝罪にイラッとして、思っていた以上に無愛想な声が出た。

 しかし、ギャルである彼女は、そんなこと気にするそぶりも見せずに、自分の話を進めた。


「今日クラス会があるんだけど、平野さんも参加しない?」


 その言葉に、玲奈は眉を顰めた。


「今日? 急じゃない?」

「あー……実は、少し前に決まってたんだけど」


 彼女はチラリと後ろを振り返る。そこにはこちらの様子を伺っている男女グループがあった。


(なるほどね)


 なるべくなら参加して欲しくない。しかし、誘わずにハブった感じになるのは、バツが悪い。

 そういった意図を言外に感じ取った玲奈は、首を横に振った。


「悪いけど、部活があるから」

「そっか」


 馴れ合いはいらない。何故なら、お互いに傷つくだけだからだ。玲奈は誰にも挨拶をせず、教室を後にした。



 今から二年前、玲奈の両親が離婚した。理由は、父の浮気。毎日飛び交う怒号、罵声。


 玲奈は、両親の出来事を小説にしてコンクールに提出した。当時、中学生だった玲奈にとって、小説に昇華させることは、自分の存在を保つ唯一の方法だった。


 その生々しいリアルさが絶賛され、全国単位のそのコンテストで最優秀賞を受賞した。評価を受けた玲奈は、自分の周りで起きた出来事を題材に小説を書き、次々に評価されるようになった。


 しかし、それが母親の逆鱗に触れ、罵られるようになる。そして、その果てで、最後に投げかけられた言葉が「お前は、まるで『地獄変』の良秀のようだ」だった。


 『地獄変』。芥川龍之介の傑作。

 主人公は天才絵師である良秀。絵を描くためなら、周りを顧みずに、どんなこともする奇人。

 地獄の絵を描いて欲しいと頼まれた良秀は、「火で苦しむ人を見ながら描きたい」と懇願。そのために用意されたのは、最愛の娘だった。その娘を見殺しにしながらも、火で苦しむ人の様子を描き上げ、最後には自殺をする物語だ。


 私の母は、家族のことを書いた玲奈と良秀の残虐性が同じだと言っているのだ。創作の為ならお前は人殺しも出来るんじゃないか、と。


 国語教師だった母は、色々な本を読んでいた。そんな彼女が絞り出した最たる侮辱の言葉が、「それ」だったのだろう。


 今でもその言葉が、頭にこびりついて離れない。


 結果的に父に引き取られた玲奈は、その言葉をかけられて以来、母と会っていない。



 放課後の廊下は、静寂に包まれているが、遠くから部活のかけ声は確かに聞こえてくる。その遠近感にどこか浮遊感を覚えた。暖かな春の日差しの匂いを感じながら、玲奈は文芸部の部室へと向かった。

 部室の扉を開けると、そこには既に朝倉の姿があった。


「平野さん。早かったですね」


 朝倉は、玲奈が入室すると、手に持っていた資料を置いて、目線をあげた。


「他の部員は来てないんですね」

「皆、新しいクラスで親交を深めるのに忙しいらしくて」


 朝倉は、苦笑した。困ったように眉を下げる彼の笑顔が玲奈にとっては特別だった。


「平野さんも、クラスの方と遊びに行ってもいいですからね」


 その言葉は、突き放されているように感じて、玲奈は少し気分が落ち込み、胸が痛むのを感じた。


「それよりも、次の小説を書き上げたいので」


 そんな自分の気持ちを悟られたくなくて、玲奈は冷たい声を出した。

 瞬時にそれを後悔するが、既に出した声を、小説のように添削することは出来ない。

 自分の声に不愉快になってはいないかと、玲奈は恐る恐る朝倉を見た。


「それなら、コンクールに向けてテーマを決めましょうか」


 朝倉は、いつもと変わらない笑みを浮かべていた。

 それに安心して、玲奈は大きく頷く。


 前回応募した作品が落選している為、今回はその反省を活かして、テーマを決める。彼女にとって、この部室は怖さも痛みもない安全地帯だった。




◇◇◇




「ペアになって、質問をしあって下さい」


 英語の教師の声と共に、教室は一斉に騒がしくなった。

 先ほどまで皆の中に流れていた眠気は吹き飛び、思い思いにペアを組み、英語で話し合っていた。玲奈も誰かに声をかけようとすると、玲奈の目の前が人影で暗くなった。


「平野サン。一緒にやろうよ」


 見上げると、そこにいたのは昨日話しかけてきたギャルだった。


 ヒエラルキーの位置が違う彼女に話しかけられて、玲奈は怪訝な顔を見せた。そんな玲奈の表情にも臆せず、彼女はニカッと笑って、玲奈の目の前の席に座った。


「Which do you like?」


 玲奈の許可も取らず、勝手に始められたことに若干の苛立ちを覚えながらも、拒否することでもないため、玲奈は彼女に合わせた。教科書の定型文に従って、英語を発していく。


「昨日はごめんね」


 出し抜けに彼女はそう言った。何について謝っているか分からず、曖昧に首を振る。


「朝倉せんせーと話してたのに邪魔しちゃったし」


 自分が腹を立てていたことに図星を突かれて、言葉が出なくなる。勝手に空気が読めないと彼女を線引きしていた玲奈にとって、それは衝撃だった。


「私、ずっと平野さんのこと気になっていたんだ。だから、まずは遊ぶしかないかーって思って、昨日は誘ったんだ」

「断って、ごめん」


 玲奈は気まずさから目を逸らすも、彼女は、「いーよお」と軽く受け流した。


「私、神崎伊織。いおりって呼んで」


 そういえば、彼女の名前も認識していなかった。そのことに気がついた玲奈は、思わず赤面した。




◇◇◇




「玲奈っち。バイバーイ」

「うん。また」


 玲奈はぎこちなく伊織に手を振った。伊織は、他の友人の元に駆け寄って、教室を出て行く。

 あの英語の授業から、玲奈は伊織に度々話しかけられるようになっていた。

 しかし、派手な彼女との接し方は未だ分からず、戸惑いの気持ちが勝っていた。うまく出来ない自分に、思わずため息がでる。

 自分は、やはり「良秀」のように異常なのだろうな、と。


(でも、今日は文芸部がある)


 玲奈は口元が緩んでしまいそうになるのを感じながら、教室を出る。

 五月の廊下は、春の余韻を残すつもりはないらしい。まだ夏本番という訳ではないのに、かなり暑くなっていた。


「今日はすぐに終わりますよ」


 部室では、朝倉が電話をしていた。邪魔にならないように電話が終わるのを待ってから、室内に入る。


「すみません。待たせてしまいました」

「今、来たばかりですよ」


 まるで待ち合わせの定型文のような会話に、玲奈は顔に血が上るのを感じた。朝倉は、そんな玲奈を見て目を細めた。


「なんですか?」

「平野さんがこの部室に初めて来た日が懐かしいな、と思いまして」

「そうですね」


 玲奈もその頃のことを懐かしく思った。

 あの頃は、今よりも言葉もきつく、他人を突き放すことしか出来なかった。特に、母と同じ国語教師である朝倉には、ひどい態度をしていたと思う。


 そんな玲奈を先生だけは受け入れて、肯定してくれた。それがどれだけ救いになったか分からない。


 先生が肯定してくれたから、玲奈は今まで生きてこれたのだ。


「本当に、懐かしいです」


 この一年、ずっとこの場所が特別だった。ここで執筆した作品は、入賞こそ逃したものの、どれも愛しいと感じる。だから今度こそ、結果を出したい。そして、朝倉に少しでも報いたい。

 そう強く思い、玲奈は執筆に精を出した。




◇◇◇





 数ヶ月後。


 結果、落選。


 玲奈は、無機質に無情なことが書かれている紙を握りしめて、下を向いた。


 コンクールの結果が、今朝、家に届いた。玲奈はそれをすぐにその場で開けたが、それをすぐに後悔した。


 ただ、「辛い」という感情のみが玲奈の胸の内を黒く塗りつぶしていく。


 電気のついていない部屋にも、自分を急き立てる洗濯機の機械音にも、カーテンの隙間から見える青い空にも。目に付くもの耳に入るもの全てに当たり散らしたくなった。


(先生に話を聞いてもらおう)


 玲奈は自分に言い聞かせ、少しだけ落ち着いた。朝倉は、自分を否定することは決してない。とにかく学校へ急ごうと、重い体を動かして準備をする。


 そして、静寂に包まれ、暗く沈んでいる家を出た。


 玲奈は学校に着くと、教室には向かわずに、朝倉のいる国語科準備室に足を運んだ。早く話を聞いて欲しい。そしたら、救われる気がするから。


「朝倉先生、おめでとうございます」

「ありがとうございます」


 準備室までたどり着くと、朝倉と他の教師の声が聞こえてきた。仕方がないので、少しだけ待っていようか。そう思った時だった。


「生徒には結婚の報告はしたの」


 結婚、という単語が出てきたのは。思わぬ言葉に体が硬直する。


「まだこれからです」


 朝倉の声は、しっかりとしていて、嘘をついている様子はない。

 それが受け入れがたくて、信じたくなくて、玲奈はそっと扉から、朝倉の様子を窺った。


「そうかい。これからは家庭を持っている自覚を持って頑張るんだよ」

「はい」


 そう答えた朝倉の幸せそうな笑顔を見た時、玲奈はその場から走り出していた。


 痛みがズキズキと体中を駆け巡る。沸騰しそうで熱い体とは対照的に指先が冷えていくのを感じた。


 既にチャイムは鳴っていた。廊下には誰もいない。立ち止まり外を見上げると、ムカつくくらい綺麗な青空だった。ここは、四階だ。


(死んでしまおうか)


 たかが失恋で。と玲奈の中の自分が嘲笑した。しかし、「良秀」は最愛の娘を失って、死んでいった。


 家族にはとっくに見捨てられている。


 コンクールにも、入賞していない。


 一番大切だと思う人は、私が一番大切ではない。


 理由は、十分なのではないか。



 窓の外に身を乗り出す。そして手を離そうとしたところで、後ろから体を引っ張られた。


「待ってぇ」


 それは、伊織の声だった。この異常事態にも関わらず、伊織は変わらず緩い話し方をしていた。しかし、その声にどこか安心する。


「玲奈っち、なにしてるの」

「死のうと思った」

「やめてよ」


 ……やめたい。やめてしまいたい。


 友人とうまく接することの出来ない自分が嫌いで。家族に見てもらえない自分が嫌で。こんな弱い自分に嫌気がさしていて。


 何もかもを犠牲にしているのに、結局結果は出なくて……。


「天才じゃなければ、私はどうしたらいいの」


 思わず零れた玲奈の本音。


 玲奈は今まで、「良秀」のような異常性を嫌悪しながらも、それに救われてきたのだと気がついた。「天才」であるならば、自分の異常性は許されるのではないか、と。


 伊織はそんな玲奈の言葉を静かに聞いていた。そして「よく分からないけど」と前置きをして、口を開いた。


「生きてれば、いいことあるよ」

「そんなのないよ」


 しかし、彼女はまっすぐと玲奈を見て「私は最近あったよ」と言い切った。それは何かと聞く。


「玲奈っちと友達になれたこと」


 玲奈は目を見張った。よくも、そんな恥ずかしいことを表情も変えずに言えるな、と。


 しかし……


「私達って友達だったの?」

「もちろん」


 こちらの意思も確認せずに、自信満々に言い切る彼女。その様子に、玲奈は思わず笑いが零れた。


 伊織は玲奈を立ち上がらせて、伸びをした。


「とりま、カラオケ行こーよ」

「でも、授業」

「そんなの、サボるでしょ。失恋には定番だよ」


 玲奈は目を見開き、硬直した。その表情を見て、伊織はヒヒと笑う。


「やっぱり、図星だ」


 彼女の指摘に玲奈は赤面した。

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