北緯十七度の幽霊

海猫

北緯十七度の幽霊

 時速500ノットで落下しながら、母親の死を思い出していた。


 地対空ミサイルが直撃した瞬間、3歳で孤児院に預けられた記憶が蘇った。炎上する戦闘機ファントムの操縦席で、緊急脱出ハンドルに手をかけながら、雨に打たれて野垂れ死んだ母の姿を思い浮かべていた。痩せ細った腕で我が子を差し出すや否や、崩れ落ちるようにあの世へ逝った母。このまま重力に身を委ねれば、母と同じ世界を見ることができるのだろうか。


 数秒間の逡巡を経て、脱出ハンドルを引いた。


 射出座席のロケットモーターが作動し、氷点下の天空へ放り出される。パラシュートが開き、切り離された座席が落下していく。雲の狭間でファントムが爆発し、無数の金属片が舞い散った。


 見上げた先に、藍色の空が広がっていた。


 曲がりくねった飛行機雲が幾重にも絡み、上空での殺し合いを物語っていた。生き残った数機のファントムが、三角翼の敵機を追い回している。ミグだ。ソ連製のミグ戦闘機。ファントムが放ったミサイルが命中すると、銀翼を輝かせながらミグが爆散した。


 またベトナム人が死んだ。


 代わりに自分が拷問を受けるのだろう。アメリカ人捕虜がまともな待遇を受けられるとは思えない。牢獄の鎖に繋がれ、蹴られ、殴られ、見せしめとして処刑されるかもしれない。それでもいい、と思ってしまった自分に今更驚きはしなかった。こんなナイーブな希死念慮を抱いているというのに、よく戦闘機ファントムのパイロットが務まるものだ。


 パラシュートに揺られて雲を抜けると、鬱蒼とした密林が広がっていた。


 霧に覆われた密林だった。何日生存できるか、無意識のうちに計算し始めていた。携行食が切れたらサバイバルナイフで獣を狩り、伏兵を殺しながら脱出することになるだろう。あれだけ死の臭いに惹かれながら、叩き込まれた戦闘スキルと生存本能に抗うことはできなかった。


「今日は……21日……」


 まだ意識があるうちに日付を確認しておきたかった。あるいは、何か喋らなければ意識を失うと、本能的に口を開いただけかもしれない。


「今日は……7月21日……1969年……7月……21日」


 着地寸前にパラシュートが広葉樹に引っかかり、そのショックで気絶するなど予想もしていなかった。







 海の底から引き揚げられるような感覚。

 朧げな輪郭が形を成していくような感覚。

 深淵に沈んだ意識が呼び覚まされて、まだ自分の心臓は動いているのだと気づく。


「起きましたか」


 男の声に呼びかけられた。年齢を感じる声だった。


「……今日は何日だ」

「23日でございます」


 墜落から丸二日が経過したということか。

 起き上がった体に痛むところはなかった。目立った外傷もない。多少フラつきはしたが、立ち上がることができた。

 質素な吹き抜けの広間だった。静かに降り続ける雨音と、土の匂いがした。

 木の床が軋む音がした。振り返った先に、橙色の袈裟を着た男が立っていた。


「僧侶か?」

「ええ、この寺院の管理をしております」

 フセ、と男は名乗った。


 広間の外に目を向けると、赤い瓦屋根が連なっていた。オリエンタルな雰囲気から、仏陀への信仰心が感じられる。


「ここは……北ベトナムか?」

「えぇ、そうですとも」

「ではなぜ、俺を拘束しない?」


 束の間、沈黙があった。


「私は軍人でも、ゲリラでもありませんから」


 これをお返しします、とフセからサバイバルナイフと携行食が渡される。たしかに、敵意は感じられなかった。それにも関わらず、静かな緊張感を纏っている。鋭い目つき、穏やかな口調だが低い声。一介の民間人らしからぬ雰囲気が漂っていた。


「しばらく養生された方が良いでしょう。私は食料を調達してきます」

「どこへ行くつもりだ」

「あなたもよく知っている街ですよ」


 フセにそう返されて、胸に手を当ててみる。


「……ハノイか」


 ハノイ。北ベトナムの都。ファントムを操縦し、幾度も爆弾を落とした街。

 撃墜される友軍機を横目に、顔も知らぬ人間たちを機銃掃射で殺した街。

 ハリネズミのような街だ、と思う。ハノイ上空で撃墜されたパイロットを数えるだけで、無数の墓石が立つだろう。


「それと……あなたにはこれを渡しておきます」


 フセから冷たい重量物が渡される。

 拳銃だった。

 見慣れない拳銃だ。

 視線を上げた時、フセの姿は消えていた。






 雑踏を歩き、風景に溶け込む。

 人々の声、市場の匂い、車両の往来。

 ハノイの風景の一コマ一コマが目に焼き付いた。アオザイ姿の少女たち、土埃を上げて過ぎていくリヤカー、竹籠で売られる鶏の群れ。警官や民兵に身分を問われたら、中立国の報道記者とでも答えるつもりだった。


 密林の寺院を脱け出してから、数日が過ぎていた。


 右手をポケットに入れ、冷たい感触を確かめる。フセから渡された拳銃はM1911でもトカレフでもなかった。そもそも、フセは本当に僧侶なのか。凛とした口調と佇まいに、どことなく気圧された自覚があった。とはいえ、謎解きをしている余裕はない。今は南ベトナムへの脱出経路と移動手段を確保すべきであり、物思いに耽るのはその後でいい。


 大通りに出た時、甲高い叫び声が響き渡った。

 立ち上る黒煙。

 悲鳴と怒号。

 反射的に体が動いていた。

 半ば野次馬精神で群衆をかき分け、辿り着いた先で息を呑んだ。


『傀儡政府に死を!』


 首からプラカードをかけた男が、道端に座り込んでいた。

 全身が、燃えさかる炎に包まれていた。


「離れろ!」


 誰かに腕を引っ張られ、思わずよろめきそうになる。炎上する男の傍らに転がっている一斗缶から、液体が漏れ出ていた。鼻をつく強烈な臭い──ガソリンの臭いだ。


「抗議の焼身自殺ですよ」


 聞き覚えのある声だった。

 背後を振り返れば、予感は当たっていた。


「やはり勝手に脱け出していましたか」

「……最初から尾行していたのか」

「あなたがこの街に来ることも織り込み済でした。私が話すよりも、あなたの目で、直接見ていただきたかった」


 騒然としていた人々は、いつの間にか燃え続ける自殺者を取り囲み、落ち着き払った表情を浮かべていた。そのうちの一人が拳を突き上げると、周囲の面々もそれに続いた。


「傀儡政府に死を!」


 怒気を含んだ声だった。


「帝国主義者に死を!」


 離れましょう、とフセに手を引かれる。いずれ奴らが来ます、とフセが言葉を継ぐ。


「奴ら?」

「治安部隊のことです……噂をすればお出ましだ」


 大通りの向こうから、兵士と装甲車が姿を現した。兵士たちが自動小銃を構え、装甲車の砲塔が旋回するのが見えた。炎を取り囲む市民たちは、それでも怯むことなく抗議の声を上げ続けていた。


 誰かが、兵士の隊列に向かって石を投げた。

 ほぼ同時に、銃口の列が一斉に火を噴いた。

 無防備な市民たちの体が次々に倒れた。アスファルト一面が血に染まり、無数の悲鳴が響き渡った。


「あれは……あのマークは」


 装甲車の車体に、白地で赤い円が描かれている。

 日の丸だった。


「伏せろ!」


 フセの怒号と同時に、装甲車が発砲し始めた。

 群衆の混乱の中で血飛沫が舞い、肉片が飛び散る。

 中腰で後退するフセに続いて、建物の陰に隠れた。


「あの日の丸は一体」

「説明は後だ」


 フセの口調が変わっていた。

 軍人の口調だった。

 いつの間にか、フセの右手に拳銃が握られていた。お前もだ、と、目で促されてポケットに手を伸ばす。

 拳銃のスライドを引き、初弾を装填し、引き金に指をかけた。


「走る準備はいいか」

「ああ」

「遅れるなよ」


 弾かれたようにフセが飛び出した。

 その背中を追って全力で走り出す。一区画先の通りから、新たな兵士の一団が現れた。発砲音が聞こえ、弾丸が耳元を掠める。反射的に片手で応射しながら、フセと共に裏路地へ滑り込んだ。


「前方、会敵!」


 路地の先に敵兵。フセの応射で一人目が倒れ、奥の二人目を照星フロントサイトに捉える。

 日本人だった。

 引き金を引き、頭蓋を撃ち抜く。脳漿が飛び散り、屍と化した。






 1941年にハワイが攻撃されて以来、日本軍の進撃は止まることがなかった。


 中国大陸の大部分を占領し、アジア諸国を支配下におさめた大日本帝国は、最後の矛先をアメリカ合衆国に向けた。ミッドウェー海戦で日本海軍の猛攻に遭ったアメリカ海軍は、空母を含む主力艦多数を撃沈されて大敗を喫した。ニューギニア島の戦いの後、日本軍はオーストラリアとニュージーランドに上陸し、太平洋の一角が完全に切り取られた。


 1945年、二度目の攻撃を受けたハワイが日本の手に落ち、巨大な飛行場が建設された。日本軍による長距離爆撃の始まりだった。


 連日、数百機もの大型爆撃機がハワイを飛び立ち、アメリカ西海岸を空襲し始めた。大西洋の向こうではドイツ軍がヨーロッパを蹂躙し、ソ連を降伏に追いやった。東西から迫り来る脅威に晒されたアメリカ社会は完全に疲弊し、国民の戦意はとうに打ち砕かれていた。


 アメリカ合衆国は、降伏した。






「そうして、日米の冷戦が始まった」


 苛烈な人種主義を掲げたドイツは早々に崩壊し、日米二大国の対立構造が出来上がった、とフセが説明する。


「日の丸と星条旗。侍とアンクル・サム。日本が築いた大東亜共栄圏はアジア諸国を飲み込み、アメリカは幾度もそれを切り崩そうと試みた。中国で、マラヤで、インドネシアで、アメリカの武器を手にした反乱者たちが日本に抗い、叩き潰された」

「待ってくれ」


 フセの言葉を、音の連なりとしか認識できない自分がいた。アメリカの敗北、日本の勝利、アジアを巡る冷戦──幼稚な妄想か、質の悪い冗談か? でなければ、一体なんだ?


「俺だって歴史ぐらいは分かる。アメリカは原爆を落とし、日本は降伏した。朝鮮半島で戦争が起きて、次はベトナムだ。北ベトナムの共産主義者アカどもを一掃するためにアメリカは──」

「受け入れろ」


 フセの低い声が響く。


「現実を受け入れろ。この世界における現実を」


 満月を背にして、フセの声が響き渡る。

 底の見えない奈落へ突き落とされた感覚。

 足先から力が抜け、がくりと折った膝を強く打ち付けた。


「お前のいた世界は、いわば『対岸』だ。アメリカとソ連が覇者となった、もう一つの世界だ。私が知る限り、『対岸』から転生してきた人間は、お前で二人目になる」

「二人目……一人目がいるのか」

「ああ……だが、今は伝えられない」


 木々が風に揺れていた。

 木の葉の音がさざ波となり、大波となって飲み込まれるような感覚に襲われた。

 黄昏時の寺院で、突き付けられた現実を咀嚼しようと試みた。

 ハノイの光景を、思い出した。焼身自殺、市民たちの怒り、日本兵の隊列──銃声。


「インドシナ半島はかつてフランスの植民地だった。太平洋戦争直前に日本軍が占領し、戦後、三つの国が独立した。ラオス、カンボジア、そして──」

「ベトナムか」

「ベトナム政府は日本の傀儡となった。ほとんどの抗日ゲリラは捕らえられ、殺された。だが反乱の火種は消え去ったわけではない。我々は南部で武装蜂起し、北緯17度に軍事境界線を引いて北の傀儡政府と対峙している」


 暗がりの向こうから、数人の男たちが現れた。リーフ柄の野戦服を着用し、自動小銃を携行している。アメリカ製のM16だった。


「私が選んだ精鋭たちだ。お前を南ベトナムへ連れていく」

「あんたは……一体、何者なんだ」


 男たちが踵をそろえ、敬礼した。彼らを一瞥したフセが、答礼を返した。


「あんたは……あんたも、日本人なのか?」

「ようやく気づいたか」


 フセの双眸がこちらに向いた。

 突き刺すような視線だった。


「私の名は布施……布施少佐だ」






 世界が変わっても、太陽は昇り、戦争は続いていた。

 この世界でも南ベトナムの都はサイゴンであり、その近郊に空軍基地が置かれていた。


「F-4ファントムだ。つい最近、この基地にも配備された」


 ジープから降りて見上げた戦闘機ファントムは、紛れもなく見慣れた姿の愛機だった。

 仕事は山のようにあった。防空任務、爆撃機の護衛、地上部隊への航空支援。ミサイルと爆弾を積んで離陸し、敵機を撃墜し、山野を焼き払う。仕事は常に二人がかりだった。ファントムは二人乗りなのだ。


「レー・ヴァー・ザップ、です」


 ファントムの後席に乗り込んだベトナム人青年が、そう名乗った。


「ザップと呼んでください」


 出撃初日から、ザップは優秀な仕事ぶりを見せた。空対空レーダーを操作して空域の状況を把握し、敵機が現れれば機数や距離を的確に伝えてくれる。教育飛行隊を首席で卒業し、最新鋭戦闘機の搭乗員に選ばれただけのことはあった。


「6時方向、上方に敵機」

「了解」


 操縦桿を傾け、急旋回。強烈なGが襲いかかり、内臓が押しつぶされるような感覚。雲間に隠れて旋回し続けた先に、敵機が出現。日本軍のジェット攻撃機だった。


「フォックス・ツー」


 短距離ミサイルを発射。赤外線シーカーが排気炎を捉え、遁走する敵機に追いすがる。だが敵機もフレアをばら撒き、ミサイルを回避。格闘戦に突入する。


「あいつ、振り切りやがった」

「機関砲に切り替えましょう」


 ザップに言われるまでもなく兵装を切り替え、機関砲を選択。アフターバーナーで増速し、敵機に肉薄。

 引き金を引いた。

 20ミリ砲弾が敵機に叩き込まれる。直後、爆発と共に主翼が吹き飛んだ。


「スプラッシュ・ワン」

「やりましたね」


 だが空戦でかなりの燃料を消費してしまった。ザップが残りの燃料を確認し、サイゴンへの最短航路を計算してくれる。亜音速で巡航しながら、酸素マスクを外して一息ついた。


 恐ろしいものだと感じた。

 別世界の現実を受け入れ、黙々と任務をこなす己の適応力に、鳥肌が立った。


 恐ろしいと言えば、布施もそうだった。迷うことなく南ベトナムへ連れていき、ファントムの操縦を命じた。こちらの素性を知らなければ出来ない判断だ。その上、彼は少佐だと名乗った。日本人で、軍人で、けれど南ベトナムの抗日勢力に協力している。


 布施は何者なのだ?

 ザップの快活な声が、唯一の救いだった。


「ザップ……基地に戻ったら、一緒にサイゴンへ行かないか?」

「いいですよ」


 二つ返事だった。


「私も、あなたに聞きたいことが色々ありますからね」

「それは構わないが……一体、何を聞こうっていうんだい」


 思わず、乾いた笑いが出てしまった。


「どうせ、布施からあれこれ伝えられているんだろう」

「布施少佐の説明だけじゃ物足りないですよ」


 ザップの声に偽りは感じられなかった。張りつめていた意識が、わずかに緩んだ。


「つい一週間前まで、私は別のアメリカ人と共にファントムに搭乗していました。ある日の任務で日本軍に撃墜され、私だけが生き残りました。ほどなくして布施少佐が現れ、あなたとペアを組むように命じられたんです」

「ふむ……」

「布施少佐はおっしゃいました。記録上、前任者はまだ生きている、と」

「なるほど……替え玉というわけか」


『対岸』からパイロットが転生したなどと馬鹿正直に公開するわけにはいかない。ならば、丁度同じタイミングで死んだ他人とすり替えてしまえばいい──布施の考えそうなことだ。


 死人の名を借りた幽霊ファントムとして戦闘機ファントムに乗せる。

『対岸』で死んだ人間を、もう一度死なせる。

 随分と悪趣味な輪廻転生だ。






 ザップと共に出撃し始めてから、一月が過ぎた。


 日本軍との戦闘も、徐々にルーティンワークになりつつあった。飛来する敵機を撃ち落とし、敵兵をナパームで焼き払う。敵のイデオロギーが変わったところで、戦争のやり方は『対岸』と変わらない。日の丸を描いたジェット機を見かけても、動じることなくミサイルを放つようになっていた。


 それでも、帰投する度にどこかで安心感を覚えてしまう自分がいた。

 着陸した先で大型輸送機を見かけたのは、その日が初めてだった。


「あれは……遺体袋か」


 輸送機の傍らに、蛹のような黒い袋がいくつも置かれていた。


「ここ最近は増えてますよ。北の連中の攻撃も激しくなってきてますからね」


 輸送機を横目に誘導路へ入る。駐機場へ向かいながら、見慣れた人影に気が付いた。

「なぁ、ザップ、あいつは」

「ああ……時々、この基地にも来るみたいですよ」


 輸送機の貨物扉から、布施が降りてくるのが見えた。






「そろそろ、私の正体にも気づいたかね」


 薄暗い密室で、布施はそう問うてきた。


「おおかた、日本からアメリカに寝返った工作員か何かなんだろ」

「ほぼ正解だな……寝返ったと言われるのは少々心外だが」


 乾いた笑い声が響いた。


「とはいえ、他人から見ればそう解釈されても仕方がないのだろう」

「何が言いたいんだ」

「私は……私自身は、日本に裏切られた、と思っているんだがね」


 本題に入ろう、と布施が手を叩いた。


「まずは仕事の話だ。いずれ皆にも知らせることになるが、当分の間、お前には西へ飛んでもらう」

「西?」

「──カンボジアだ」


 卓上に地図が広げられた。インドシナ半島全域の地図だ。南シナ海沿いにベトナムの国土が伸び、その北西にラオス、南西にカンボジアが隣接している。


「ラオスは北ベトナム同様に親日政権が樹立されており、カンボジアでもすでに親日派が実権を握りつつある。だがカンボジアは都市部と農村部の経済格差が広がっており、日本経済の恩恵に与る富裕層に対する農民の反発が強まっている。つまるところ、内戦の危機というわけだ」


 ここを見ろ、と布施が地図を指し示した。カンボジアの一部が赤く塗られていた。


「数年前から、農村部を拠点にした共産主義者たちが武装蜂起を開始した。クメール・ルージュと呼ばれている連中だ。今はゲリラ的な活動に過ぎないが、我々は彼らにポテンシャルを見出している。彼らの力を最大限に活用してやれば、カンボジアのみならず、インドシナ地域における戦局を左右することができる」

「要するに、隣国の内戦に介入して抗日勢力を増やし、北ベトナムや日本側の連中を叩く足がかりを増やす、ってことか?」


 遠回しな布施の物言いをバッサリと要約すると、布施は無言で薄笑いを浮かべた。


「まあ、そういうことだ。逆にカンボジアが日本の手に落ちてしまえば、我々の戦線は増え、戦局もますます厳しいものとなる。その前に叩く──叩き潰してやる」


 その一瞬、布施の瞳に仄暗い炎が宿った。

 彼の感情を、初めて垣間見た気がした。


「クメール・ルージュに対する資金援助と武器供与はすでに始まっている。CIAの準軍事部隊パラミリタリーも現地入りしている。表向きにはアメリカも南ベトナムも不干渉の立場を取っているから正規の地上軍を送り込むことはできない。だが──」

「空爆ならできる、ってわけか」


 アメリカに仇を成す者は敵であり、それに抗う者は味方である。

 たとえ敵であっても、時と場所が変われば味方になり得る。


「俺たちが共産主義者アカどもを支援するとはな」

「まぁ、お前にとっては変な気分になる話だろう。『対岸』では、アメリカがクメール・ルージュを敵視していたんだろう?」

「『対岸』では、な……それで、他にも話があるのか?」


 布施が胸元から何かを取り出そうとしているのが気になっていた。


「なんだ? 紙の命令書でも渡すつもりか?」

「いいや……これは、ごく個人的な渡し物だ」


 布施から渡されたのは、二枚の写真だった。

 今のうちに返しておきたくてね、と布施が付け足す。


「お前を救助したあの日、お前の飛行服に入っていたものだ。すぐに返すつもりだったのだが、機会を逸してしまってね」

「……見たのか?」


 自分でも驚くほどに、低い声が出た。


「お前の素性は初めからある程度、把握していた。だから──」

「見たのか?」


 一際、大きな声が出た。薄暗い密室の中で、威圧的に響いた。


「……ああ、見たとも」

「口外しないと約束できるか?」


 そう言い放った直後の布施の表情は、後々まで脳裏に刻まれることとなる。

 哀れみ、同情、諦念──無数の感情をかき混ぜたような、なんとも形容しがたい表情を浮かべていた。






 一週間後、未明の時間帯からカンボジア空爆が開始された。


 サイゴン近郊から離陸した戦略爆撃機が大量の500ポンド爆弾を投下し、それに随行して護衛せよとの命令が与えられた。数日後、今度はファントムで直接、敵の兵站を破壊しろと命じられる。越境直後から低空飛行で進入し、カンボジア軍の補給トラックと集積基地に大量のロケット弾を叩き込んだ。


 士気高揚かプロパガンダか、テレビ局が派手な空爆映像を流して「日本の帝国主義に抵抗する者たち」などと報道し始めた。泥沼化したベトナム戦線よりも、よっぽど視聴率が取れるのだろう。


「皮肉なもんですねぇ」


 空爆を終えて帰投する最中、燃え広がる街並みを見下ろしながらザップが呟いた。


「ベトナム人なんて、あいつらからしたら侵略者以外の何物でもないですよ」

「どうした急に」

「本当の話ですよ。カンボジアは歴史的にベトナムの影響下にあったし、19世紀にはベトナムが植民地化して伝統や信仰を奪おうとした。文化的ジェノサイドってやつですよ」

「そうだったのか……やけに詳しいんだな」

「多少の教養はありますよ。こう見えて、俺も大学出ですからね」


 ザップがやや得意気に話している中、編隊を組んでいた僚機から「被弾で燃料漏れを起こしたので、最寄りの別基地に降りる」と無線が入る。了解の意を伝えると、僚機が翼を傾けて旋回し、雲の下へ降下していった。


「俺たちは予定通り帰投しますか」

「そうだな……帰投する前に、司令部に一言伝えておこう」


 ザップが周波数を変え、僚機の離脱を手短に報告してくれる。やはり仕事ができる奴だ。


 ザップの報告の合間に、膝に括り付けたニーボードで地図を開き、帰投航路を確認する。燃料計に目をやると、外付けの燃料タンクが空になっていた。予定通りの燃料消費だ。投棄スイッチを操作すると、翼下につるしたタンクが切り離され、落下していった。


 そういえば、とザップが思い出したかのように口を開いた。


「布施少佐と何かありましたか?」

「……布施から何か言われたのか」

「いえ、そういうわけではありませんが、最近話題に上らないなと思いまして」


 仕事ができるだけでなく、物事の察しもいいときた。ザップにはかなわないかもしれない。しかし、不思議と嫌な感情は湧かなかった。


「……布施に、過去を知られた」

「なるほど。それは、俺も気になりますね」


 ザップにそう言われて、答えてもいいかもしれない、と初めて思う。伝えてもいいかもしれない。ザップになら、秘めた過去を打ち明けてもいいかもしれない。


「自分は……アメリカ人だ」

「そんなの、とっくに知ってますよ」

「いや、そうじゃない……日系の、アメリカ人なんだ」






 物心ついた頃から、アメリカ人として育ってきた。

 ティーンエイジャーになった頃、老いた両親と血のつながりがないことを初めて告げられた。


「お前の実の母親は、日本人だ」


 幼い頃から一度も叱らず、いつも柔らかい表情を湛えていた両親が、血の気の引いたような顔を浮かべていた。


「お前が生まれる数ヶ月前、日本は戦争に敗れ、降伏した。GHQが東京に置かれて、進駐軍の軍政が敷かれた。それで、進駐軍の士官や兵士たちを接待する場所が必要になった……性の接待をな」


 話しながら、両親はずっと嗚咽を漏らしていた。かけるべき言葉が見つからないまま、耳を傾けるしかなかった。


「お前の母親は一日に何人もの……何人もの兵士と交わった……空襲で焼け出された彼女には、それが唯一の、生きのびる道だった……金のために体を売り、何度も赤子を堕ろした……」


 そうして何度も交わるうちに、母は精神を壊し、逃げ出した。人気のないバラックに駆け込み、たった一人で、目が碧い赤子を産み落とした。闇市で食料を買うこともできず、ひたすらミルクを盗み、赤子に与え続けた。


「お前が三歳で孤児院に預けられた時……彼女は、骨と皮だけだったそうだ」


 孤児院の職員に我が子を託した直後、母の体は崩れ落ち、雨に打たれながら骸となった。


 そうして、幼子はアメリカの老夫婦に引き取られた。


 学校に行けば、差別と暴力が待ち受けていた。ジャップの子供だと罵られ、殴られ、蹴られた。教師からは刃物で切り付けられた。教師の親族が真珠湾攻撃の犠牲者だと知ったのは、ずいぶんと後になってからのことだった。


 血と痣にまみれて帰宅する度に、両親が泣き、何時間も抱きしめられた。ほどなくして学校を退学し、家庭教師のもとで寡黙に学ぶようになった。


 転機が訪れたのは、公民権運動の頃だった。

 黒人の友人がプラカードを掲げて行進しているのを見て、子供心に触発された何かがあったのだろう。虐げられる者としての共感もあったのかもしれない。気づけば彼らの列に加わり、連日、共に抗議の声を上げた。


 警官隊が現れた日、全てが変わった。


 鎮圧用の放水車が出動し、抗議する人々を薙ぎ倒した。友人と共に逃れた先で、警棒を構えた警官が待っていた。強烈な痛みが全身を襲い、世界が反転した。

 目が覚めた時、友人が血を流して倒れていた。






「──そして、自分だけが生き残った」


 高度を下げて雲を抜けると、サイゴンの街並みが広がった。

 基地の管制塔にコンタクトを取り、着陸に向けて針路を微修正する。


「友人の隣に、別の体が横たわっていた。大人の体だった。それも、二人分の体がな」

「……ご両親ですか」


 遠目に滑走路が見え始めた。エンジンの出力を落として、減速を始めた。


「一人息子を庇って死んだんだ……人生最大の親不孝だよ」


 ファントムで出撃する度、ニーボードには地図と共に二枚の写真を挟んでいた。義理の両親と共に取った家族写真は一枚しかなかったし、実の母親の写真も、戦前に撮られたであろう色褪せた一枚しか残っていなかった。


 布施に見られるまで、他の誰にも見せたことのない写真だった。


 どこまでお見通しなのだろう、と、思う。いくら工作員だとは言え、布施の調査力は異様だった。『対岸』から転生した自分の素性を把握していたのだ。その気になれば、さらに突っ込んで調べ上げてしまうのだろうか。


 前方に、滑走路が近づいていた。


 着陸用の車輪ギアを降ろし、主翼のフラップを垂らす。滑走路端の標識に目をやりながら、仰角を取って機体を進入させていく。横風に抗って方向舵を当てながら、滑走路の中心にファントムを着陸させた。


「ナイスランディング」


 ザップの一言が沁みた。


 布施が失踪したのは、その日の晩のことだった。






 カンボジアへの攻勢作戦が大詰めを迎えている、と、テレビ画面の大統領は雄弁に語った。


 クメール・ルージュの快進撃により、カンボジア全土の制圧も間近に迫っている。この機を逃さず合衆国も地上軍を動員し、カンボジア経由でラオス、北ベトナムへ侵攻する──本格的に正規軍を投入するための「宣戦布告」だった。


「こんな大事な時期に、あの人はどこで油を売っているんですかねぇ」


 大攻勢が始まってもなお、布施は行方不明のままだった。

 任務に集中しろ、とザップに声をかけたが、自分に対する戒めでもあった。過去がどうあれ、自分は戦闘機乗りであり、冷徹に仕事をこなさなければならない。


 密林を貫く道路に沿って飛んでいると、敵の車両が何台にも連なって逃げていくのが見えた。爆弾を投下して吹き飛ばすまで、十秒とかからない。ザップが後方を振り返り、戦果確認をしてくれる。加速しながら上昇し、垂れこめる雲を突き抜けようとする。


 突然、けたたましい警報音が鳴り響いた。


「発射煙を確認!」


 ザップが敵の地対空ミサイルを発見した。


「回避を!」

「くそぉっ」


 機体を反転させて急降下。全身がふわりと浮く感覚。ハーネスが肩に食い込む。狭まりゆく視界の隅で、地上から発射された白煙が見えた。音速の何倍もの速度で、猛然と襲いかかってくる。


 超低空へ降りたファントムが音速を突破。木々を薙ぎ倒す勢いで飛び続けていると、警報が止んだ。


「まだです!二発目だ!」


 別の方角から、再び白煙が伸びるのが見えた。レーダー誘導ではない、赤外線追尾だ。高度を下げたのが災いした。けれどミスを悔やむ暇もない。出力を全開にして離脱を試みる。


 だが、一歩遅かった。


 着弾と同時に、ザップが緊急脱出。その数秒後に、自席の脱出ハンドルを引く。射出座席に縛り付けられて勢いよく打ち上げられ、密林の上空でパラシュートが開いた。


 






 心臓はまだ、動いていた。

 痛む体を起こして、土を払った。


 首元を飛び回る蠅を追い払い、生い茂った草と蔦をかきわけていくと、開けた場所に出た。樹冠から差し込む木漏れ日に目を細めていると、視界の端で燃え続けるファントムの残骸に気が付いた。


 拳銃とナイフを構えた。


 グリップを握る掌から流れ出た血が、腕を伝って滴り落ちた。足音を立てず、息を押し殺しながら、森と調和しようと試みた。そうしなければ、茂みの伏兵に首を狩られることとなる。ザップも生きのびていれば、同じ行動をとるに違いない。生きのびていれば……。


 木々の向こうに、人影が見えた。


 その手に握られた銃を見て、一段と鼓動が早まった。間隔をあけて、別方向からも人影が近づいてくる。歩みを止めて耳をそばだてていると、草木を踏むいくつもの足音がじわじわと近づきつつあった。


 包囲された。


 四方から接近してくる彼らの姿は、驚くほどに軽装だった。年代物の銃を構え、伏せることもなく近づいてくる彼らは民兵のような姿だった。クメール・ルージュがこの一帯にいるのは不自然だし、かといってカンボジア兵とも似つかない。ならば彼らは──いや、まさか、そんなわけはない。そんな可能性は──


「その通りだ」


 響き渡る声と共に、彼らが足取りを止めた。

 うんざりするほど聞きなれた声だった。


「武器を下ろせ。お前を殺すつもりはない」

「ならば、あんたも出てくるんだな」


 茂みの向こうから、野戦服姿の布施が現れた。

 ぞっとするほど朗らかな顔つきだった。


「あんた、本当に何者なんだ」

「急かすな。話すにも順序があるだろう」

「なら順番に聞くが、『対岸』から転生した一人目は誰だ?」


 薄々察していることだった。布施はあまりに知りすぎているのだ。そうでなければ説明がつかないほど、あまりに『対岸』を知りすぎていた。


「まぁ、潮時か……お前の想像は当たっているよ。私も全てを見聞きしたよ。特攻も、原爆も、玉音放送も」

「……一介の兵士というわけじゃなかったんだろう、『対岸』にいた頃のあんたは」

「そうだ、私は志願して陸軍に入隊した。職業軍人として全てを賭け、全てを失った。終戦の日、私はハノイにいた。数カ月が経ち、復員船に乗り込もうとしたその日まで、陛下と祖国に対する想いがまだ残っていた」


 周囲の民兵たちが銃を下ろしていた。この場を支配しているものが誰かわきまえている、そんな様子だった。


「妻が死んだと知った日、私の未練は断ち切れた」


 布施が一枚の写真を掲げて見せた。

 母の写真だった。

 おぼろげに想像していた繋がりが、現実のものとなった。


「復員した知人から全てを知らされた。妻が身を売ったことも、獣のような米兵に貪られたことも、日本政府がそれを斡旋したことも──お前を妊娠したことも」


 布施の口調が上ずり始めていた。拳銃を下ろした右手に、力がこもった。


「私はベトナムに残留し、戦後の独立闘争に加わった。やがてアメリカ人共がやってきて、復讐の機会が巡ってきたのだと涙した。奴らの戦車に手榴弾を投げ、何機ものヘリを撃ち落とした。テト攻勢にも参加して、サイゴンのアメリカ大使館に突撃した。守備隊が私を撃ち殺す前に、何人もの敵を道連れにしてやった」


 震える唇と焦点の合わない目つきで語る布施を、民兵たちは黙って取り囲んでいた。狂気的な復讐心の権化が、何者にも立ち入らせない領域を生み出していた。


「死の瞬間は、恍惚だった……だからこそ、この世界に転生した時、絶望した。だがこの世界の歴史を知り、まだ神に見放されていないのだと気づいた。アメリカの次は──日本人共を殺してやることにした。妻を見殺しにした祖国など、もはや祖国ではなかった」


 布施という名のその男は、もはや人間の顔をしていなかった。

 右手に視線を落として拳銃のスライドを引き、残弾の装填を再確認する。いざとなれば指を引く覚悟はできていた。

 笑い声が響いた。泣き声にも似た笑いだった。布施の引き攣った笑みが、そこにあった。


「だが、あいつらを殺すのも飽き飽きした。敵兵を一人ずつ撃ち殺したところで、私の心は晴れなかった。だから決めたのだ──人間ではなく、国家を殺す、と」

「そのために、これだけのお仲間を集めたのか」

「彼らだけではない、インドシナ半島全域に、私に共鳴した同志たちが潜んでいる。日米双方の軍事と諜報に通じた私だからこそ出来た芸当だ。私の一声で、彼らは一斉に立ち上がり、侵略者共を皆殺しにする」


 日本もアメリカも、殺す。

 私が植え付ける復讐心はアジアへ、やがては世界へ広がる。

 そのための第一歩だ──狂気の語り口は止まらなかった。


「あんたは……あんたは父親なんかじゃない……」

「いいや、お前も気づいているはずだ。お前の本当の気持ちを問うてみろ」


 我が息子よ。



 布施に呼びかけられた刹那、銃声が響いた。



 民兵たちが一斉に銃を構えた。

 待てっ、と反射的に声が出てしまう。不思議なことに、彼らはその指示に従った。


「基地に戻りましょう」


 視線の先で、布施を撃ち殺したザップが、銃を構え続けていた。


「サイゴンに帰りましょう」


 沈黙が下りた。

 ザップへの返答の代わりに、己の右手が持ち上がっていた。


「ハハ……冗談はよしてくださいよ」

「冗談では、ない」


 ザップに向けられた銃口に、揺らぎはなかった。


「お前を殺したくはない」

「私もですよ」


 ザップを殺したくないという思いは、本当だった。だが、祖国は? 

 布施の言葉が幾度も反響した。

 二つの祖国があった。

 東の島国は母を殺し、西の大国は両親を殺した。


「本気なのですか」


 低い声で、そう尋ねられた。

 まだ引き返すこともできた。だが回り始めた歯車を、止めることはできなかった。


「ああ」


 こちらが銃を下ろすと、やや遅れて、ザップも銃を下ろす。


「……一時間後に、この森も空爆されます」


 それだけ言い残して、ザップが踵を返した。

 布施の死体は、まだ生きているようにも見えた。最期の顔を一瞥してから、彼の瞼を指で閉じた。

 そうして俺は、幽霊ファントムとなるのだ。

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北緯十七度の幽霊 海猫 @umineko_283

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