生まれ変われたら

 声が聞こえる。

 泣き声に似た苦しそうな声だ。

 心を揺さぶるこの声を知っている、と思った。

 

 真っ暗な闇の中を、視覚障がい者のように両手を前に出して彷徨い歩いた。

 何も見えない。ただ、振り絞ったような声だけが聞こえる。

 

 フッと、体が浮いた気がした。

 闇の中にぼんやり浮かんで見えたのは、慣れ親しんだ自分の体だった。

 他にも人が見える。

 白衣姿の男や、数人の看護師。あともう一人は、横たわる体に縋るように突っ伏している背中。

 

 そうか、俺は死んだんだな……。


 状況を理解した途端、悲しいような、でもホッとしたような感覚が生まれる。ないまぜで面倒くさい気持ちになった理由は二つある。

 一つはシュエリンのことを任せられる人ができたことだ。里古あの人ならきっと、シュエリンを大切にしてくれる。

 不思議とそんな確信を持てた。

 もう一つは……ちょっとした未練だ。

 『葵葉』と、一度でもいいから呼べばよかった。名前を呼んだときの、あいつの顔を見て見たかった。ただそれだけだ。

 けど、もう、おそ──


「冬亜っ! 冬亜っ! 死ぬな、頼むから戻って来てくれっ!」


 黒い世界から聞こえた声に思考が遮られた。

 光と闇の狭間に浮かぶ、朧げな輪郭の中に見えた葵葉が冬亜の体に縋って泣いている。自分のことを思って涙を流してくれる人がいる。それだけでこんなに心が軽くなるのか。こんなにも、嬉しく思えるのか。

 もう十分だ、と冬亜は思った。

 それなのに、葵葉の涙を拭ってやりたい気持ちが湧き上がる。ふわふわの髪を撫で、柔らかそうな頬に触れ、自分の名前を口にする唇にキスしたいと思った。


 未練だと、烏滸おこがましいと、罪人が恥知らずだと自分を罵ったとき、ぼやけていた輪郭の中の景色が墨で塗りつぶされたように真っ黒になった。

 ああ、もう時間がないのだと無意識に悟った、そのとき──


「冬亜っ、行かないでくれっ! 俺にはお前が必要なんだっ! 冬亜の笑顔を見てないのに、海だって行ってないのに、勝手に一人で行こうとするなっ!」


 海……。そうか、海へ行こうって、二人で待ち合わせしたっけ……。

 葵葉と一緒に、海へ……二人で海に……。


 目を開けなければ。

 でも、真っ暗な闇に包まれていて葵葉の姿が見えない。

 どこだ、光はどこにある。

 葵葉、葵葉、葵葉……どこにいる──


 手探りで彷徨っていると、小さな光が点のように遠くに見えた。

 

 光……。あそこまで行けば葵葉がいる……?


 闇の中を冬亜は必死で歩いた。

 ひたすら足を動かしているのに、エスカレーターを逆に進んでいるように前へ進めない。

 

 早く、早く行かないと光が見えなくなる。

 葵葉に会いたい。もう一度、会いたい……。

 

 冬亜は必死で足を動かし、両手を水掻きするように激しく動かした。

 針で開けたような小さな光が次第に大きくなってくる。冬亜は無我夢中で、近づいてくるまばゆい光線を放つ方へと走った。

 重かった体がまた軽くなると、黄色く光っていた光が瞬く間に大きく広がり、金色のような、純白のような神々しい光が冬亜の体を包み込んでくる。


「冬亜っ! 冬亜! 先生、冬亜が、冬亜が目を、先生っ! 早く診てくださいっ!」


 重い瞼を動かし、薄目を開けて視界を捉えた。

 一番最初に見えたのは、涙でぐちゃぐちゃになっている葵葉の顔だった。横に見える白衣の男が顔に触れ、次に首筋と何かを確かめるようにたどっている。胸に冷たいのもを当てられ、それが何度も肌の上を移動している。

 覚えのある感触に、聴診器が触れているのだとわかった。

 葵葉の名前を呼ぼうとしたのに、口に何かが覆っていて声が出せない。


「先生っ、冬亜は、冬亜は──」

「手術は無事終えてますからもう大丈夫です。意識レベルは正常で峠は超えました。あとは時間をかけてゆっくり回復を待つだけです」

「よか……った、よかった冬亜。助かった、助かったんですねっ!」

 葵葉の声に白衣の男が頷いたように見えた。

 看護師なのか、体のあちこちに触れてくる。最後に口を覆っていたマスクを外され、普段の呼吸ができるようになったが、体の内側に痛みが走る。


「硬膜外麻酔のカテーテルを挿入し、神経を麻痺させて痛みを感じにくくしてますから痛みはマシだと思います。それでも疼痛が酷いようでしたらナースコールを押してください」


 凛とした看護師の声に葵葉がわかりました、と返している。

 部屋のドアが閉まる音が聞こえたと同時に、胸の上に重みを感じた。

 目だけを動かして見下ろすと、葵葉が布団に顔を埋めている。

 華奢な肩が震えているのがわかると、鼻水を啜る音が聞こえてきた。


「よかった、よかった、よかった……冬亜、助かった。よか……」

 苦しそうな葵葉の声が泣き声に変わると、途中で言葉が途切れてしまった。

 冬亜は点滴の繋がった腕を持ち上げると、自分の側で泣いている葵葉の頭に手を乗せた。ふわふわの髪に触れると、覚束ない動きでそこを何度も撫でた。

 髪に触れる感触が現実だと教えてくれた。


 葵葉が顔を上げたから、至近距離で互いの視線が絡まる。

 冬亜は反対の手を天井に向けて持ち上げると、手のひらを握っては開くを繰り返した。

「……生きて、たん……だな」

 冬亜の呟きに、葵葉がうんうん、と何度も頷いている。

 真っ暗な闇に取り込まれれたまま、もう、光は見えないと思った。もう、葵葉の顔を見れないのだと思っていた。

 それでもいいと、途中までは思っていた気がする。でも、目の前で自分の名前を呼び、泣いて縋ってくれる葵葉を見て未練がましく『生きたい』と思ってしまった。葵葉を探して、探して、ようやく現実ここへ戻って来れたのだ。


「冬亜のお母さんも、もうすぐ来ると思うから安心して。それまで俺が側にいるから」

 葵葉が手を握ってくれる。冬亜はこの手を離したくないと思った。

 ずっと、側にいて欲しいと、命を失いかけて初めてわかった。

 

 この気持ちは、運よく生きながらえた安堵からくるものじゃない。

 この気持ちは、ずっと俺が欲しかったものかもしれない……。


 「……あ……おば」


 戸惑いも羞恥も感じず、自然と名前を口にしていた。

 丸い目がいつもの倍ほど見開かれている。見つめてくる瞳に自分の顔が映っていた。このとき、胸の奥の奥の方から温かいものが湧き上がってくるのを感じた。目の前で瞬きもせず、冬亜を見つめてくる人を愛しいと思った。


「冬亜、もっかい呼んで。お願い……」

「……あお……ば。葵、葉……」


 素直に呼んだ。

 意地を張ったような、尖っていた心が知らない間に小さく削れ、先端が丸くなった鉛筆のような柔らかい感覚だった。


「冬亜、冬亜……。好きだ、大好きだよ。俺のこと……好きになって欲しい。もう、どこにも行かないでっ」

 切ない声は、冬亜の欲しかった言葉でもあった。


「……もう、とっくに……好き……だ」

 死の淵からこの体を引き戻してくれた人をいつから好きだったのか。そんなこと今はどうでもいい。

 記憶の中で葵葉の声に触れ、熱を感じ、愛しさに執着した。

 闇の中でもがいていたときに聞いた、安寧を与えてくれる声。

 もう一度、会いたいと強く願った。

 

 葵葉の瞳から目を逸らせないでいると、「冬亜、キス……したい」と言われて耳を疑った。

 闇を彷徨っている間、同じことを冬亜も考えていた。

 言葉だけでは伝えきれない想いを、触れたいことを葵葉に伝えたいと、それだけを思って生にしがみついた。

 冬亜は返事の代わりに瞼を閉じた。

 葵葉が近づく気配がする。

 葵葉の前髪が瞼を撫でると、柔らかな感触が唇に触れた。

 一度離れた温もりが再び重なる。今度はさっきより深く、長く。


 葵葉の顔が離れると、冬亜はそっと目を開けた。目の前には、はにかむような顔の葵葉がいた。

 握られていた手の力が増し、反対の手で前髪をかき分けられると、額に唇を落としてくれた。

 ささやかな触れ合いが心地よく、これまで知らなかった切ない気持ちに泣きそうにな──


「冬亜、泣くなよ。でも、もし、また泣きたくなったら、そのときは俺の側で泣いてほしい。そうすれば抱き締めてあげられるから」


 冬亜の心の声を遮ったのは葵葉の指だった。

 自分でも気付かない涙を、葵葉が指先ですくってくれたのだ。何度も、何度も、涙が流れるたびに、優しい指が冬亜に触れる。


 それ、俺がしたいと思っていたのにな……。


 この、くすぐったくて甘い感触を葵葉にもしたいと思った。

 葵葉を守りたい、と強く思える気持ちが芽生えて、蜜にとぷんと浸ったような気分になる。

 これまでの二人の軌跡は、互いを繋ぐ絆だと信じたい。

 二人でいるこの時も、これから先の日々もずっと葵葉と一緒にいれば、もっと自分は変われる気がする。

 今よりもはるかに幸せな結末を迎えられる気がする。

 今よりもっと、他人ひとに優しくなれる気がする。

 葵葉と一緒にいれば……生まれて初めて、素直になれる気がした。


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ふさわしい結末 久遠ユウ @kuon_yuh

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