結末
朝の六時半に駅前の公園……。いや、この時間は早過ぎるだろう、とキツめに突っ込みをいれたが、葵葉は電話の向こうで大笑いをしてるだけだった。
夏休み最後の週末の朝、寝癖のついた髪を無造作にかき上げながら、冬亜は設定した時間にきちんと起こしてくれたスマホのアラームを乱暴に止めた。
いっそ目覚ましに気付かず、寝坊して約束の場所に行けなかったことにする方が自分らしいのではないかと思った。
健全な早起きをした気怠い体を奮い立たせると、そのままクローゼットに歩み寄り、中から白の半袖のシャツと、ネイビーのTシャツを取り出した。
下はハーパンでいっか……。
着る服を選んでいて、急に小っ恥ずかしくなった。
俺は何を浮かれてんだ……。
望んで今日を迎えたわけではないのに、心が弾んでいる自分がいる。
楽しみにしていたわけではないのに、こうやって着ていく服を選んでいる。
自分の行動を客観的に眺め、初めて実感する羞恥に蓋をするよう、クローゼットの扉を閉めた。
身支度を終え、リビングへ向かう階段の半ばで冬亜は足を止めた。
硝子窓の向こう側に見える
晩夏の朝は明るく、リビングに生まれたての日差しが徐々に注がれていた。
冷蔵庫から水を取り出すと、密封から解放されたキャップの音が静謐に鳴ると、無意識に里古の部屋を一瞥し、数秒ドアを見つめた。
起きてくる気配がないのを確認しながら、昨夜の里古の話しを思い出した。
養子として自分とシュエリンを戸籍に書き加える。おまけに祖父にまで冬亜の存在を話し、冬亜を迎え入れる準備はできているといったことを。
冬亜の家族はシュエリンと母親だけだった。
他に愛したい人もいなければ、愛してくれる人もいない。それはこれからも同じだと思っていた。友人も、恋人もいらないと。
息子を目の前で見捨てられた悲しみは消えてないのに、明るい未来を夢見て笑顔を振る舞う里古が冬亜の新しい家族になると言う。
思えば、醜い痣を目にしても里古は眉すら歪めなかったっけ。
葵葉もそうだった。どれだけ邪険にしても、無視しても、真っ直ぐこちらを見つめてくる。そしていつしか、彼の甘い態度に期待をしてしまう自分が生まれていた。
汗の伝う首筋に欲情したこと、葵葉の側に堂々といて、彼を守ろうとする人間に嫉妬を覚えたこと。煩わしくても葵葉の言葉だけは、なぜか立ち止まって聞いてしまう自分がいた。
醜い痣を見ても嫌な顔ひとつしなかったのは、里古以外に葵葉だけだった。
里古に対してまだ警戒心や猜疑心はあっても、接してくる態度はどこかこそばゆい。こんな初めての感情に気付いたのも、もしかして葵葉の影響なのかもしれない。
中身が半分になったペットボトルを冷蔵庫に戻し、玄関へ向かおうとした足を止めた。
電話の横に置いてあるメモ帳に、葵葉と出かけることを記すと、それをテーブルの上に置いた。伝言を残して出かけることも、約束のために朝早く出かけることも初めてだ。
様々な初めてを自覚して、また照れ臭くなる。
サンダルにつま先をねじ込んで静かにドアを閉めた。
誰もいない廊下を進み、エレベーターへ乗り込む。
一階に着いてエントランスを抜けるまで、スーツ姿で出勤する人や、ゴミを捨てに行く人と数人が会釈してくるから、つい、冬亜も頭を下げた。
他人と交わす朝の挨拶も、初めてのことだった。
スマホで時間を確認すると、待ち合わせまで三十分以上もある。
決して浮かれて早く家を出たわけじゃない、と言い訳をしながら、でも、先に待ち合わせ場所にいる自分に驚く葵葉に期待し、冬亜は自然とほくそ笑んでいた。
青い絵の具を水で溶いたような空を見上げ深呼吸し、清々しい空気を胸の中に取り込む。
夏休み最後の土曜日、公園までの道のりは、犬の散歩をする老人がひと組、イヤホンをしてマイペースにランニングする中年男性が一人と、人の姿は殆どない。
冬亜は通学前に利用するコンビニに立ち寄り、スポーツドリンクを二本買った。ビニール袋を軽快に振りながら、目的の公園の入り口にたどり着くと、ここも人の姿は見えない。
入り口から少し奥に進んだところに、噴水と時計台が見える。その近くにあるベンチが待ち合わせ場所だった。
葵葉の姿はやっぱりまだない。
木製のベンチに腰を下ろし、時計台を見上げた。
あと二十分か……。
誰かを待つ時間に鼓動を昂らせ、逸る音が耳にまで届きそうなことにまた、照れる。
気を逸らそうと公園を一望すると、どのタイミングで吹き上げるのか、水飛沫を上空へ飛ばし、真っ直ぐ空に向かう水演出に目を奪われた。
一旦上空を舞った水滴は、朝日を浴びてキラキラと水面に舞い落ちる。
爽やかな光景を素直に美しいと思え、初めてこんな感情が自分にもあったんだと気付く。
最高温度を叩き出しそうな空気の匂いを肌で感じると、今日も暑くなりそうだと両腕を空に掲げ、思いっきり伸びをしていた。
心も体も軽くてリフレッシュを味わうほど、冬亜は浮かれている。
体を一気に脱力させ、肺に溜まった澱みを吐き出すと、背中で人の気配を感じた。そこにはきっと、満面の笑顔で近づこうとしている葵葉がいるはず。
悪戯を好みそうな彼のことだ、きっと足を忍ばせ、こちらが気付いてないと思い、一気に驚かせる算段なのだろう。
葵葉の行動を推測した冬亜は気付いてないフリをし、噴水に目を向けたまま上半身を膝に預け、前のめりな体制をとっていた。
来るなら、こいっ。大袈裟に驚いてやるからと……。
背中を向けたまま、神経を耳に集中させていると、慎重に砂利を踏む音が聞こえてくる。その音が徐々に濃くなるにつれ、冬亜の心臓は待ち侘びた映画を見る前のように、ワクワクしていた。こんな気持ちも生まれて初めてだ。
鼓動が血管を伝い、耳まで直に緊張が聞こえた瞬間、冬亜は背中に鈍い感覚を受け、真ん中の辺りにズシっとした重みを感じた。
次にひやっとした冷たさを感じ、でもすぐにその感覚は鈍痛を伴う違和感に変わった。
徐々に広がる重みの箇所を確かめようと、手を後ろに回し探ってみる。
伸ばした指先に液体のようなものがピチャリと触れ、硬くて冷たいものに触れた。
異物が自分の背中に刺さっているのが分かると、今度は熱を帯びた激しい痛みが湧き上がる。
自分に何が起こったのか確かめようと、冬亜は肩越しに振り返った。
目に入ったのは、野球帽を目深に被った見知らぬ中年の男だった。
「あ……んた、だ……れだ……」
じわじわと浸透する痛みに堪えながら声を振り絞ると、男の手に握られているものが背中からずるりと抜き取られた。その反動で上半身がぐらつくと、今度はこめかみに衝撃を受けた。一瞬視界が暗くなるような感覚に、殴られたんだと気付く。
攻撃は間髪入れず注がれ、何度も何度も冬亜の頭や体を木刀のようなものが襲ってきた。
両腕で頭を庇いながら踏ん張ったけれど背中の痛みで力が入らず、前のめりだった上半身を無意識に深く折り畳んだ。無防備になった背中に再び、さっき刺さっていたものが差し込まれた。その正体が鋭利な何かなんだと、頭の片隅で形状が浮かぶ。
「お前……お前のせいで息子は……
頭部を守る腕の隙間から男の顔を見ようとしたが、ぬるりとした生温かい液体が目に入ってよく見えない。それが血だと分かったのは、地面に落下した雫が赤く足元を染めていたのを見たからだ。
滲んだ視界のまま何とか顔を上げると、男が振り上げていた棒を持ち変えながら、生臭い息を短く繰り返している。つばで翳を帯びた顔が隙間から見えると、その顔は汗にまみれ、脂ぎって薄汚れた輪郭が厭らしく歪んでいた。
血走った目は、冬亜をじっとりと睨みつけている。
「……うぅ……。だ……れ、むす……こ……」
冬亜の口にした言葉を封じ込めるよう、何度も背中を足蹴にされ、骨が砕ける音が聞こえた。じわじわと体の広範囲に痛みが広がり、助けを呼ぶ声を出すことも出来ない。
「死ねっ、死ねっ、死ねっ! 智景の命とは比べ物にならない、クソみたいなお前の命は今日で終わりだっ」
頭を守るよう蹲り、朦朧とした中で男の声を聞いていた。
目の端で見えたのは、地面に転がったバットだった。赤く染まっているのは、自分の血なのか。
ああ、これで殴られたのか……。
男の罵倒が聞こえた。
とどめだという、安物のドラマのような声だった。
背中から刺さっていたものがまた取り除かれ、重みは痺れに変わってジンジンと熱くなる。熱は一箇所だけではなく、浅く、時には深く、鈍い音と共に何度も抜き差しして増えていく。
ベンチに上半身を埋め、必死で防御する冬亜の息の根を止めるよう、刺さった先端をグニュりとかき回されると口から、ヒッと、声が溢れ、息が止まりそうになった。
白いシャツは鮮血で紅く染まり、真っ白だったものが次第に赤くなっていく。
「……くっ……うぅ……、あん……た……」
恨言のこもった男が放った名前で、一人の顔が浮かんだ。
木船……か。こい……つは木船の──。
「息子は……智景は俺に助けを求めてきた、恐い、恐いって。車から降りたい! 助けて、父さんっとな! あいつは俺に連絡して来たんだ、助けてくれと何度も、何度もなっ! だが、遅かった……遅かったんだっ!」
叫ぶ男の声と比例して、背中に押し付けられる重圧が一段と増す。
背中越しに伝わる憎しみが滲む血流に混ざり、冬亜の全身を執拗に責め立ててくる。
男の手は緩むことがないというのに、なぜか冬亜は苦しみの中で口角を上げていた。
許しを乞うこともせず、開き直ったかのような冬亜の表情が男の怒りに油を注ぎ、自分の体重をかけるよう冬亜の背中に覆いかぶさってくる。肌にめり込む異物が体の奥深くに沈み、体中が痺れて感覚が麻痺してきた。
「一人で死ねっ」
自分の体を支える力のなくなった冬亜に、多恨が込められた男の声が唾棄された。それは次第に笑い声に変わり、ドクドクと脈打つ痛みが増え続ける体をまた足で蹴られた。
力を失った体をベンチの手摺で支えて動けずにいる冬亜に満足したのか、唾を吐き捨てたあと、砂利を踏む足音で男が遠ざかって行くのがわかった。
公園には静寂が広がり、鳥の羽ばたきと囀りが日常の朝を彩る。
手摺りを掴んでいた手に力を込めて、なんとか体を起こした冬亜は真っ赤に染まったシャツに目をやった。
「これ、気に入ってたの……に、くそ……」
弱々しく呟いた声は、噴水が飛沫をあげた音に溶け込んで儚く消えた。
背中のあちこちが熱く疼き、短い呼吸も冷や汗も止まらない。ダラダラと流れる赤色を見つめながら、徐々に襲ってくる寒気にただただ震えが止まらない。
体の中から血液がう徐々に失われていく感覚に、冬亜は死を予感した。
晩夏の陽射しは少しづつ本領を発揮し、公園全体を容赦なく照り付けようとしてくる。なのに冬亜は寒くて堪らない。
──人を呪わば穴二つ……。
「……いや、自業自得……だったっけ……」
葵葉の声がふわりと耳の奥で聞こえた気がした。
日本語はニュアンスが難しい……な。
唇を動かして言葉を発したつもりだったけど、荒げた息だけでもう音にはならなかった。
街で出会った他人から同級生と、あらゆる人間に屈折した言葉を投げかけ、彼らの幸せだったかも知れない未来を歪ませた。
身についた悪癖は、不幸な自分の生い立ちが発端で起こしたこと。
たったそれだけの理由で、人の気持ちを惑わせた。冬亜の言葉で堕ちるところまで堕ちればいいと思っていた。
自分の言葉くらいで揺るがされるような未来などいらないだろう、と。
他人を陥れることに心は痛まなかった……はず、だったのに。
朦朧とした意識に、葵葉の笑顔が浮かんだ。
冬亜はまだ見たことのない、美しい水色が凪いでいる景色を思い描いてみる。
澄んだ空の下で海……見たかった……。
葵葉と二人だけなら、この醜く青い体を曝け出し、塩っからい水と戯れることも平気だったかもしれない。
葵葉となら、腹が捩れるほど大声で笑いあえたかもしれない。
葵葉ともっと早く出会えていたら、こんな罪を犯すことはなかったかもしれない。
葵葉と一緒なら……葵葉と……。
シュ……エリン……、姉さ……ん。ごめん、俺は、あなたに何も……返せて……ない。ごめん、ごめん、ごめ……な……さい。
息を潜めていた噴水が再び飛沫を上げ、空高く跳ね上がると、小さな虹を生み出した。
絹糸の髪がサラサラと風で揺れ、漆黒の虹彩はゆっくりと瞼で覆われていく。
血で染まった指先は力なくベンチに投げ出され、ピクリとも動かない。それでもまだ機能する血管からは、血液がしとどに地面を赤く染めていた。
遠くから、『冬亜』と繰り返し呼ぶ声が聞こえた気がする。
何度も、何度も、冬亜の心を浮かれさせる声が……。
「……あ……おば……」
微かに唇が動くと瞼はぴったりと閉じられ、目の端から一筋の雫が陽の光に輝いて落下した。
赤みを失った唇は結ばれたまま、繊月のように弧を描いていた。
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