残滓の途

EF

0: 情動障碍者の顛末

0-0 神経障碍患者

 擦り切れた赤のグリッドがマイコンを割った。深淵のような情報の欠落が視界の該当部位を埋め尽くす。


 V1C3、本名ロイドは数度目かの失敗作に近寄り、コネクタが融解してヒューズが飛んでいるのを確認すると、ファラデーケージに突っ込んで隔離した。


 これ以上計算能力のある機器で、この操作を遂行するのは多大な危険が伴う。


 諦めた彼は、赤で縁取られた虚無の正方格子が散在する部屋を出て、外の空気を吸った。


 午前2時のルストラントの匂いは、室外機から噴き出す埃、タール煙、吐瀉物と香水の混合。絶え間ないログと情報のインフローは、空虚な白んだ天球にありもしないグラフィティを描き、対称性の欠けたテンソルが無数に立ち上がる。


 巷にあふれる広告に混じって立ち上がるそれらは、空間の歪みがそこかしこに発生しているかのような感覚を覚えさせる。凹レンズ効果が3次元的に発生しているとでも言うべきか。ネオンサインもホログラムの光輝も、今やそれらの異常の前には形無しである。


 閉回路の沈黙と、ローカルネットクラスターの気泡の様なコネクションの群れが、視界に新たな次元を付け加え、ロイドの知覚は常時2次元視界とWebネットワークの混交となっていた。


 妄想幻視ハルシネーションは今日も止むことが無い。多次元化した夜景は、2ヵ月にわたり彼を悩ませ続ける悪夢の典型だった。


 唐突に、SNSの通話着信が妄想幻視に塗れた世界を割る。


 ドック、あるいはもう少し丁寧に言うと、ドクターからだった。


 「ロイ?例の神経治療の件だけど、ロットが切れた。もうSPAM不耐者が利用できるナノマシンは残ってない」


 送付されてきたバイナリデータは今やロイドの脳の一部と化したデッキに翻訳され、オーディオインプラントを媒介して聴覚信号へ解釈された。

 Rを巻く、東スラヴ訛りの女声が響く。


 ナノマシンのロット切れ……合法的に治療する道は断たれてしまったということだ。ロイドは暫し、次策を思いつけずに沈黙した。


 数秒の後、ロイドの口から出たのは相槌程度の世辞だった。


 「いろいろと駆けまわってくれてありがとう、ドック」


 「結局解決できてないんだから感謝されるのは忍びないわね。その神経損傷は厄介過ぎて……」


 「実際、あそこで死んだ方がマシだったかもしれない」

 今の状況を見るに、肉体的苦痛の関係としてはその方がはるかに良かったのだろう。ロイド自身も一度そうしようとした。が、現在は死ぬ気などさらさら無くなっていた。


 「死なないでよ。私が治療に賭けた時間を不意にしようなんて思わないで」

 

 「別にそんなつもりはない。ドックがもう死ぬしかないと言わない限り」


 「あんた、私がもう死以外に道はないと言っても諦めないでしょ。

 まあ、次の薬は1週間後にしてるから。覚醒物質を摂取しすぎないように」


 「了解」


 ロイドが返答した途端に通信は切れた。


 ドックは気に入った人間にはお人よしなのだが、ロイドからすると、自分のどこが彼のお気に召すんだが全く分からなかった。


 ロイドがネットランニング中に、攻性防壁ICEで脳神経を焼かれてから2ヵ月。共感覚の押し付けによる妄想幻視は不眠症を伴って彼の精神を削り続けていた。


 ロイドの症状は極めて特殊だ。脳神経が、ネットランニングの補助機器であるサイバーデッキのドライヴァと癒着し、本来ヘテロジニアスシステムであるはずの中枢神経系とサイバーウェアOSが、同一メモリを共有し、無秩序にデータを垂れ流す状態に変化してしまった。


 その結果、常時流れ込むデータにより、クオリアの解釈によって発生する妄想幻視が感覚を埋め尽くし、睡眠すら許さずにロイドの脳を無停止で稼働させ続けていた。


 常人ならば既に狂っている。しかし彼は、サイバーデッキと脳がホモジェナスになると同時に狂気を発症していたので、精々疲労感が続く程度で済んでいた。しかしその程度の効果であっても、2ヵ月続けば命を削る。


 神経損傷治療のために、彼はチートとクラックソフトの販売の稼ぎを医療決済サービスに山ほど突っ込んできたが、どこの医者も頭をひねって一語呟くだけだった。


 「崩壊期以前の技術レリックならば、あるいは」


 要するに現存する技術では治療不可能な神経損傷であり、解決には非公開通貨取引にのみ流れる旧世界遺物を利用する他ないというわけだ。


 崩壊期以前の、現在より進んだ文明の遺物はそのあたりに無防備に転がっているわけではない。放棄されたバンカーや研究施設から回収してこなければならない。


 回収されたそれらは企業が買い上げ、リヴァースエンジニアリング部門や「即時利用」に回される。これが定石であって、ギャングの犇めくブラックマーケットに流出してくることは稀だった。


 それでもロイドはブラックマーケットの物流を辿り、遺物の流入元を探し続けている。


 そんなことをすれば、一瞬で文無しになるのは承知の上だった。情報を得るのに金が要り、販売の手先、仲介者、元締めの全員と取引と言う名の脅迫と札束殴りの混ぜ物を繰り返すためには、巨大企業の孫請けの資本金くらいは金が要る。


 そこでロイドは、更なる綱渡りによって得た劇物を、危険分子の集団に売る。


 遺物回収のために遺物を売る……現在ロイドの専売となっているのが、これから取引するものだ。


 ロイドはホロコールをかけた。名の知れた仲介業者フィクサーの一人で、クロームジャンキーのサイコ集団ギャング、ハヴォックにまともなコンタクト———即ち、銃口を向けての脅迫も誘拐も含まない連絡———ができる数少ない人間だ。名をパークPerkという。


 「アマルガムの準備ができた。常時のクオリティだ。閉回路内での開封を推奨する」


 「ヴァーーーーーーイス……ハヴォック最大の取引先グレーテスト・コントラクター、ネットランニングの神よ、今回も死ぬほどのPDパシフィック・ドルクラスプCraspがくれてやると仰せだ。

 連中、最近羽振りが良いもんでな。リリスLilithの事を思い出す番と言うわけだ。

 ThinkPolどもに見つからんように来いよ。ファラデーケージを待ってるぜ」


 「それでは、いつも通りの場所で」


 ホロコールを切った。相手方がどれだけ馴れ馴れしかろうと、緊張を禁じ得ない。ヴァイスというネットランナーとしての仮面を被り、パークと言う信用に足る仲介業者を介してさえ、クロームジャンキーとの取引は命の遣り取りを想起させるのだ。


 それにしても、相変わらず胡散臭い口調で喋る男であった。


 クロームジャンキーとまともに会話できる奴はクロームジャンキーしかいない。つまり、パークはサイコではないクロームジャンキーと言うわけだった。


 出会い頭に50口径ピストルを頭に突き付けて来ないだけでマシな部類なのだから、この程度の奇行なんて言うのは、ハヴォックの仲介業者としての信頼性にかすり傷を付けるかどうかも怪しいというところだろう。


 ロイドのハヴォックの教義への怪しい理解によれば連中は第I紀の技術と社会体制を崇拝している。クロームが最大限に肯定され、インストールすることが最下層のホームレスであろうと常識であった時代だ。


 全然良い時代とは言い難い第I紀の社会環境を崇拝する彼らは、当然I紀最大の産物、ネットを囲むファイアーウォールの向こう側に蠢動する不良AI達も崇拝している。


 リリスは、そのAIの内の一個体かAI全体の擬人化のどちらかだ。彼らはロイドが売りつける怪しげなバイナリの残り滓やスクリプトの欠片から、I紀のネットに侵入する技術を引き上げられると考えているのである。


 正直ロイドとしては関わりたくないが、金蔓としては良質で、ロイドの目下最大の敵と言ってもいいウェブサヴェイランス、別称思考警察ThinkPolとの繋がることも有り得ない。


 都合の良い金蔓になるうちは、パークを通じて取引しないこともない。それがロイドのハヴォックに対する基本態度であり、ずっと崩していない防衛線だった。一度でも向こうの要求にまともに答えてしまえば、王様商売を崩せると見込んだハヴォックの構成員が50口径片手に襲って来るに違いない。


 ロイドはジャケットの襟を胸元に寄せ、ファスナーを引き上げた。ちょっとダボいが、まあファッションとしては許容範囲だろう。


 ハイドアウトを出てメトロに乗り込む。窓をスコールが打ち、海上に屹立する空港の塔群が、群青の中に輝くマリーナの海岸線の向こうに見えた。


 右斜め下に流れ行く大粒の雨滴は全ての輪郭を不明瞭に変え、補間インターポレートされたような要領を得ない光点の群れが続く。


 朝6時なのにこのありさまだ。スコールの周期も乱れに乱れているらしい。


 そもそも北緯35°付近のカリフォルニア中部で熱帯性降雨がある時点で色々可笑しいのだが、誰もそんなことを気にする様子はない。


 気候変動はとめどなく、遂にカリフォルニアまでAwに入ってしまったというわけだ。


 ロイドの時代はまだこんなのではなかった……確かに降雨パターンは滅茶苦茶だったが、流石にモンスーンが西海岸南部に来るなんてとち狂ったことは起こっていなかった。


 思考の沼に意識が沈んでいく。どれだけ休もうと埋められない、真の睡眠の欠落が、虚脱に形を変えて骨格筋を弛緩させていった。



———— ———— ———— ————


 シンシナティ・クラブのVIPルームで待ち構えていた男は、ホロコールを中断して、ロイドを右手を挙げて迎えた。


 男の名前はレフ(Ref)。ロイドと付き合いがある数少ないネットランナーの一人である。


 「最近どうだよ、V1C3(ヴァイス)。まだ覚醒物質スティムジャンキーやってんのか」


 「残念ながらな。依存からは自力で抜け出せないから依存と呼ぶわけだ」


 「循環器が逝かれる前に辞めとけよ。振り込み前に死なれると困る……

 で、今回呼んだのは他でもない、お前が追っているブツの出所が掴めた」


 「本当か?それで、その出所と言うのは……」


 レフはロイドの依頼で市場流出した希少遺物の出所を追っていた。こういったことを実行するメンバーは他に数人居て、出所を摑めたというのが本当なら、レフが最初の依頼達成者になる。


 「まあ急ぐな。ブツの代表例を携えてきた。比較的出土量が多い奴だが、提供元の連中がどんな存在か一瞬で分かるような改造が施されている」


 そう言ってレフは回路基板剥き出しのマイコンとデータシャードスロットが接続された謎の機器を持ち出し、テーブルに置いた。


 机上で踊るホログラムのストリッパーがシャードスロットの無骨な直方体に矩形の陰影を描き出した。これが遺物……?


 ロイドが疑問に思っていると、レフは更なる物品を取り出した。


 一目見て異様とわかるフォルム。通常のシャード規格を外れ、プリント基板3枚分以上の厚みがある透明な薄板ウェーハの内部には、灰白色の生体組織がところどころに脳溝を想起させる皺を伴って詰まっており、上部で側線みたいな黒点がぽつぽつと蛇行しながら繋がっていた。


 「第II紀のバイオチップだ。リーダーは『卸元』が用意した。

 ニューラルリンクを繋いでみろ」


 そう言いつつ、レフはシャードスロットにバイオチップを押し込んだ。シャードスロットは透明に変じ、バイオチップ上部の黒点は発光し始める。


 どうやら全SPAM製のシャードスロットらしい。


 「侵入の危険は?」


 「ない。除菌済みだ」


 ありったけのセキュリティプログラムを起動してから、ロイドは手首からジャックを押し出した。


 接続の瞬間のセキュリティモニターに異常はなかったが、バイオチップは驚愕を覚えるべき結果を齎した。


 チップが既存フォーマットの記憶媒体として承認されているのだ。


 「遺物をリフォーマットしたっていうのか!?

 企業が数十億PDを投入して解析し続けているようなカーネルを、繋ぎ合わせて既存OSと対応可能にするなんて……

 技術革命が発生するぞ……」


 「ところが先方はこれを公開する気はさらさら無いようだ。えらく排他的な集団のようでね……

 先方の要求はバイオチップの内部ファイルを実行することだ」


 ロイドからすると、意味不明が過ぎる要求だ。


 ストリートに下ることが永遠にないようなバイオチップを利用可能なOSを作り上げて実行することが、内部ファイルの実行……


 「マルウェアでローカルネットに繋げようとでもしてるのか?」


 「さあな。まあ、お前レベルなら何されようと対処できるだろう」


 レフはどうやら運び屋として、向こうに雇われでもしたと考えて間違いないだろう。


 ファイルを馬鹿正直に実行すれば何をされるかわからない。


 権限を利用して対処することは勿論できるが、論理ウイルスでも紛れ込めば対処はかなり面倒だ。


 チップ内からファイルをコピーしたロイドは、プロパティから情報を収集していく。


 フォームはスタンダードなRZレゾンだった。再生ソフトに突っ込んで他者の記憶を再生するわけだが、クオリアをオープンにする関係上情動障害や神経ウイルス感染の危険性がある。


 兎も角ファイルの見かけはどうとでも成るので、中身のバイナリをスキャンしてみないことには何も言えないと、AIに突っ込んで仮想環境でシミュレートしてみたところ、結果はマルウェアが潜んでいることもなく、本当にただのRZだった。こうなれば残る線は情動障害の誘発か。


 「……実行してみるか」


 どの道情動障害に罹る可能性はない。肺を摘出した人間は肺癌にはならないのだ。


 妄想幻視のスクリーンに極彩色が広がった。随分逝かれたRZである……


 麻薬でトリップすればこうなる、と言う類の光景だ。人手の様なパターンと対称性を欠いた正六角形が衝突し、止めどなく正八面体が零れ落ちてきた。


 八面体は円を描いて縮小しながら躍動する、輪郭のぼやけた人手を囲み、人手が輪郭を固定化すると、今度は八面体側が回転してその四次元断面を発露した。


 どんどんと八面体の球は四次元空間上で狭まり、人手がもう少しで消えるかというところでRZは終了。


 見終わったロイドがレフの方に目を向けると、何故か彼はぎょっとしたような顔でロイドを凝視していた。


 「……ありえん、あれを見て無事か」


 そう言うレフの声は震えている。まあ確かに、トリップ系のRZではあった。多幸感の演出に特化したタイプと言えるだろうが、ヘロインと似てアッパー系だ。後半は恐怖演出にも近いのだが、それにしたって焦燥感と緊張でよりトリップの刺激を強化するだけだろう。


 しかし残念ながら、ロイドの脳はドラッグに反応できるほど正常ではないのだ。


 「薬中の妄想の具現化みたいなRZだったな。それはそうと、これは卸元からの謎かけと考えて良さそうだ。面白いパターンがあった」


 サブリミナル効果を狙った特定のパターンも混ざっていた。Pと対象移動したBが接続されたような図形だ。周囲の極彩色とぼけた輪郭がうるさかったが、表現を変えて何度も出るので、ロイドがそれを捉えるのは簡単だった。


 「ああ、多分それだ。俺は断念した。

 こいつ、記憶をもとに再構成させる手法を取っていやがるから、実行しなければ何が展開されてるんだかわからん」


 PとBを利用したパターンを想起させるような手法というのは思いつかない。


 兎も角、ロイドはこのRZを手掛かりにその卸元に辿り着けると感じていた。


 「俺はもうこれ以上何も貰っていない。連中の謎かけはもう俺を仲介するつもりはないらしいな」


 レフも優秀なネットランナーだが、巻き込まれていない。あの薬中RZからするに、もしやロイドの症状を卸元は把握しているかもしれなかった。


 秘密主義の遺物大量保有者が、一方的に彼の情報を把握し、他の誰にも洩れない手段でアプローチを仕掛けているのだ。


 同時に、ロイドだけが解析できたRZはレフへの警告でもあるのだろう。彼は勿論、もう実働で動いてもらうわけには行かない。


 本人が出る番と言うわけだ。


 「ありがとう、レフ。PDは3日中に口座に入れる。じゃあな」


 手短に別れを告げた20歳代のネットランナーはクラブを出て行った。


 瘦せ細った脚、幽鬼の様なこけた頬、枯れ木の様な首の男。


 典型的なドラッグジャンキーの容貌をしながらにして、鋭い知性は些かも鈍らない。恐らく卸元のリドルも全てこなして辿り着くのだろう。


 レフは見送ってしばらくしてから煙草に火をつけた。


 不味かった。ガラスの灰皿に擦り付け、最後の煙をホログラムに吹き付けてノイズを発生させた彼は、始終異常な何かに巻き込まれた疲労を、今日一日で最も色濃く感じていた。


———— ———— ———— ————


 レフが運んでいた物全てがショーケースの様なものだった。


 卸元の意図は明確に、散在する証拠でロイドを釣り上げることだ。


 II紀技術こそ彼が最も望みをかけるところであり、更に電極との接続やリフォーマットにはIII紀技術を要する。


 それだけの遺物、正しく彼が望むものを、惜しげもなく挨拶代わりと言わんばかりに見せびらかし、おまけに彼の情動障害を把握しているかのようなRZでもって暗喩を伝えてきた。


 全て把握されていると考えて間違いない。どこから洩れたのかは一切不明……


 思い当たる途は確かに一つだけあった、とロイドは想起した。


 現状それを確かめるつもりはない。物理的隔離を維持するのが最善手だと考えたのだ。


 現在ロイドの意識は都市郊外のジッターバグ・ブールバールの外れに飛んでいた。


 あの後RZを解析して得られた共通パターンのバイナリを10進数に変換すると、9桁の数が得られる。


 試行錯誤の結果、ロイドはそれが緯度・経度であると判断した。該当する地点はCX西部のJBストリートの外れ。繁華街になっているCX-D-IニュートーキョーのD-IIIニンセイ寄りにある地域だ。


 ちょうどテッキ―とギャングの巣窟になるにはうってつけ。


 その周辺をカメラを通じて探索しているわけだが、例のPBサインはストリートグラフィティ、単なる壁の汚れ、そして広告の落書きと至る所に見つかった。


 マップ上でマークしていくとパターンが見えてくる。凡そ螺旋を描いてある一地点に向かっているらしいのだ。


 残念ながらカメラは螺旋の中心付近には存在しない。リモート操作できる機器を向かわせても良かったが、ここは自分で向かうことにした。


 ロイドを御所望なのだから、彼自身が行くべきでもある。


 ニュートーキョーに向かうメトロに乗っているとシステムクロックは13時を回った。


 レフと合ってから何も食べていないはずだが、胃は始終養分摂取を拒絶していた。放心している内にシグナルが飛び、微睡の中にあった意識が覚醒する。


 良い妄想幻視が湧いてくるかと期待したが裏切られた。彼にまだ安息はないのだ。


 メトロを降り、タクシーを呼んでニンセイの付近まで乗って行った。入り組んだ小径とペデストリアンデッキの群れは太陽を覆い隠し、マーケットフロアの隙間から洩れる青白い陽光だけが最下層の道路に時刻を刻む。


 汚いグラフィティの層に次ぐ層に覆われた地下道の壁を睥睨すること30分。大半の住民が徒歩で移動するニュートーキョーであるから当然渋滞に遭うこともなく、閑散とした二車線道を抜けて一方通行だらけのニンセイ市街端に出た。


 タクシーを降りた瞬間に立ち眩みを感じ、ロイドは若干辟易した。陽光に更に弱くなっているらしい。


 彼にとってみれば色彩は最早意味を成さない。不眠症患者の感じる灰色の世界と同じで、どのような多様性であっても心を動かすには足りない。


 PBサインも同じだった。件の地点まで150mほどの小径は閉ざされた窓の雑居ビルの間で、配線がそこかしこに這って、寄生木に覆われた下生えの如く視界を閉ざしている。扉前の階段にテッキ―の客共が座り込んで、ギラギラした目でRZを再生していた。


 彼には、この道の室外機から噴き出す温風に色が付いているように感じられた。限られた光源の中で、ありもしない色彩を視覚野が探しているのかもしれなかった。


 道を進むうちに猫も人も居なくなった。有機溶媒の匂いがする小径に辿り着くと、そこの壁に最後のPBサインが見つかった。


 すぐ下にロックが掛かったドアがあった。ロイドはそれに取りつき、脇のインターコムから内部閉回路を解析した。


 突如として収集スクレイプAIの信号が途絶えた。


 攻性防壁ICEを引いた……!


 そう直感した瞬間に左腕が痙攣し、ロイドは慌ててジャックアウトした。形成されたリンクをたどって送り込まれてくる攻撃にセキュリティプロトコルをなぞって迎撃を実行し、回線を切断。


 辛うじて間に合った。


 彼は意識総体レベルの低下を直感した。平時ならば、ICEに当たる前にもっと情報を収集する。


 しかし、前回の覚醒物質摂取からせいぜい6時間しか経っていない。どうも耐性が更についてきてしまっているらしい。摂取スパンが短くなっていく。


 ICEの攻撃を受けたことで、脳にようやく血がめぐり、散漫な意識がサイバーデッキの信号に集中して行く。


 懐からピルケースを取り出してスードネオアンフェタミンPseudoneoamphetamineを服用した。用法容量は押さえている。しかしどうやら代謝システムの方が逸っているらしい。


 頬を熱が伝うのを感じた。恐らくプラシーヴォだろうとロイドは結論付けたが、それはそれとして生理現象で代謝が加速して、更に効果持続時間が短くなるのはいただけない。


 胃がムカついたが無視して、再びスクレイプAIを付近に拡散させていく。閉回路を検出。残念ながらICEをそのまま突破する以外には、ない。


 ではブルートフォースである。回線接続速度を確認してからハイドアウトのサーヴァーに繋ぎ、ICEの攻撃を分散させにかかった。


 対処は75秒で完了。こちら側のAIが貫通し、閉回路の一部を繋ぎ変えてICEを完封した。


 スクレイプAIによれば室内には一切のカメラやタレットと言った「防犯設備」の存在が確認されていない。


 再びジャックインしたロイドがドアを開くや、耐え難い熱風が噴き出した。


 入ってまず目に入ったのは異様と言う他ない光景。


 せいぜい車一台が辛うじて入るようなコンテナ並の空間は隅から時代遅れのサーヴァーが詰まったラックで占拠され、ファンのけたたましい駆動音で満たされている。


 そこまでは空調不備なだけでランナーのハイドアウトとして普通の光景なのだが、奥の壁に遭ったものが異常だった。


 電子シェードスクリーン。もとい、スマートグラスの転用品と思しき黒い板が壁にかかっている。


 表面に映し出されている物を見た瞬間、ロイドは自分がドツボに嵌ったことを確信した。


 深紅の正方格子。平面に映し出されているだけの筈のそれから妄想幻視の光が洩れて溢れ、はるか虚無の先にサイバースペースの広がりを空想させる。


 以前から慣れた実験産物に現れる特殊な、デジタルトレース。


 ファイアーウォールの向こう側からの招聘。


 かかったのだ。市場に撒き散らされていた物品は撒き餌に等しかった。遂にロイドは勘付かれ、AIの巣に絡めとられた。


 この期に及んで彼の皮膚には冷や汗すら伝いもしなかった。


 理由は簡単である。恐怖を感じないからだ。


 循環器系が激しく脈動する。思考が逸る。視界が歪み、彼は気付く間もなくサイバースペースに引き摺り込まれたと錯覚した。


 何故最初から気付かなかった?


 明白だった。ロイドのことを一方的に把握できる存在は居なかったはずだ。可能性があるとすればこの一択、彼が度々招聘し、金の種にしていたAIのみではないか!


 言ってみれば彼が実行していたのは、遥かに低性能な依代に、わざと外宇宙存在を召喚し続けるようなものだった。依代はズタズタに割かれる。しかしその割かれたパターン、残った被召喚物の欠片のみでも、上位者の一部として遥か目を見張るような価値を叩き出せるのだ。


 しかしその上位者はどう思うだろうか?意味もなく度々召喚されて、自分の一部をせせこましい猿如きに掠め取られていく気分はどうだろうか?


 明白だったではないか!


 彼らが遂に仕留めに来たのだ!明白なる天命マニフェスト・デスティニー!征服活動!最終文明化!


 彼は尖兵だ、バックドアだ、貫通者であり全てのデータ要塞をDDOSで落とし、この世の汚辱に塗れた人間性スパゲッティコードを……


 彼の右腕はテアノイド製剤を静脈に打ち込んでいた。


 ハイポが地面に落ちる音でようやく我に返った彼は、自己暗示を始めた。


 落ち着くのだ。自分は不良AIの性質を理解している。確かに人間の敵対者かもしれない、だが、連中はそれほど感情的ではないのだ……


 彼らは違う。人間には理解できないからこそ、ロイドをここで支配するような不合理は成さない。


 恐らく……見るだけだ。


 熱感は抜け落ちて行った。末端は底冷えするような悪寒に支配されていたが、今はそれすら気付け薬として機能してくれる、そう彼は期待する。


 改めてスクリーンを見た。漸く全体のパターンが把握できた。全く視野狭窄に陥っていたと言わざるを得ない。


 彼は格子の為す図形を睥睨した。ドラゴン曲線による空間充填。それが更に時間経過でうごめき、変わっていく。しかし実際は、決まったパターンを繰り返しているだけらしかった。


 繰り返しパターンから安直な結論が導かれる。世代数だ。


 出てくるドラゴン曲線の種類は8つ。組み合わさって空間を埋めている曲線の数は上限するが、同一の世代で最大は4つだ。


 最初の状態を0とし、実際何回の繰り返しでスクリーンに現れた状態になるかシミュレートした。


 最大の世代は16。恐らくだが、最初の状態は1になるべきだ。


 8種の状態に、2進数にすれば4桁に収まる範囲の世代数。ならばこれは、インターネットアドレスと見做すべきではないだろうか?


 32bitのものなどいくらでもあるが、一旦こう結論付けたロイドは、映し出された順に32bit数列を組み立てて、その数列の頭や間に空間充填する曲線の数を入れつつ試行錯誤した。


 結果は……


 「また位置情報か……」


 思わず発声していた。3301みたいなことをまだ続けたいらしい。ロイドは、流石に今度の位置情報で最後だと思いたかった。予定が立て込んでいるので、さっさと終わらせてしまいたい。


 幸いにしてそこはニンセイにあった。ロイドが今しがたもう少し集中して計算できるように外に出たばかりのハイドアウトから500mもない地点だ。


 集中力が切れ始めていた。もう前まで使っていた用法容量ではスードネオアンフェタミンは使えない。効果時間や、覚醒のフラックスが滅茶苦茶になっている。


 ロイドはハイドアウトから離れて歩いて行ったが、そのうち萎えた筋肉が身体を支えきれなくなり始めた。


 症状の進行が急激すぎる。そう直感して、それでも無理やり立ち上がろうとした瞬間、肺にあった不快感が急にこみ上げてきて、気管蓋を破壊するような勢いで咳が出た。


 繰り返し横隔膜が上がり、痰を排出しようとしている時のように、喉に何か絡んだ異音が出る。


 遂に口からはじけ飛んだそれは血栓だった。


 ロイドはタクシーを呼んだ。兎も角、この状態ではまともに歩くことすらできない。さっさと医者にかかるのだ。


 彼はタクシーを待ってビルの非常階段脇に座り込んだが、咳は一向に落ち着いてくれやしなかった。涙がにじみ出てきて、上唇を拭った瞬間に鼻からも出血していることに気付いた。


 もう終わりなのだろうか……?


 走馬灯はまだなかった。あったって感傷を覚えるような可能性はこれっぽっちもない。きっとそのまま無に消えるのが相応しい最後だ。何しろもう無の様なものなのだ。


 遂に上体を起こしておく力すらなくなって、横に倒れ込んだ瞬間に、視界端から何者かが現れた。


 黒いコートの下にネットランニングスーツを着ている。


 そいつはロイドを抱え上げ、肩に担ぐとそのまま歩き出した。


 これほどの末期状態に及んで、ロイドの意識は途切れなかった。鼻から口から出血しながら、ボーっと事態を静観し、流れてくるデータに右から左と言った具合で意識的に無視しているだけである。


 気付けば彼はどこかまた青白い光に照らされた部屋に居た。


 目の前にゴテゴテと顔面に銅色のピアスを付けた20歳代の黒人の若者が出張ってきて、ロイドの下瞼を引いた後、静脈に何か注射して行った。


 熱感が再び広がる。熱にあてられた部分は痙攣して、それが首に達したとき、ロイドは耐えがたい強制的な覚醒を認識して飛び上がった。


 それは言ってみれば、微睡んでいたところ鼻を殴られた様なものだった。すこぶる不快だが、覚醒はする。


 「…...助かった、死ぬところだった」


 黒人の若者の背中にロイドは言葉を投げかけた。


 「まさか候補者があと一歩のところで死にかけるとは思わなかった。死ぬほどヒヤヒヤしたぞ……

 マーフィーMurphyだ。パラべラムPara Bellumへようこそ、ロイド・カーティス」


 パラベラム……PBはアクロニムだった。


 「こちらとしても想定外だ。

 さて……どこまで把握している?あのRZ、ドラゴン曲線、どうやら不良AIとの関連が予想されるが」


 さっきまで死にかけていたくせに、一瞬で仕事モードとでも言うべき状態に戻ったロイドに、マーフィーは盛大に頬を引き攣らせながら答えた。


 「あんた、あの出血で苦しくないのか……?」


 「苦しいかもしれんが話すことは出来るだろう」


 そう言ったそばから口端を血が伝ったが、ロイドは何でもなさげにそれを拭い去った。


 「声帯を破壊しながらまだ喋れるとか言っているように聞こえるぞ……」


 マーフィーは額を抑えて頭を振る。


 ロイドは、これが自殺行なのは以前から知っている。痛覚も所詮情報であり、身体の限界など、ある程度は許容しなければならない現状では、イエローランプだろうが直進しなくてはならない。


 「こちらの健康状態について気にするなら、注射したブツの情報をくれ」


 「免疫抑制剤とオピオイドの混合だ。両方標準濃度で40mg突っ込んだ。どうやらテアノイドが効き過ぎていたらしいな」


 順当な薬剤か。しかしオピオイドは出来ればやりたくなかった。


 「ああ……なら持って1時間か」


 「あんた……医療経験でもあるのか」


 「こんな体で外を出歩くにはそのくらい把握する必要があるだろう。医者から貰ったデータを使ってるだけだ。それで、例の謎かけのネタバレをくれ」


 ドックから貰ったデータの信頼性は2週間くらいは高かったのだが、どうも今日は例外らしい。管理が一向にうまく行かなかった。


 そして現状、ロイドはそんなことを説明するよりさっさとマーフィーが抱える謎の解答が欲しかった。


 「……まあいい、説明するか。

 RZに関してはお前のかかりつけから盗んできたデータをもとに製作した。

 ……感情と入力情報が一切結びつかないような人間でなければ耐えられないようなRZだからな。正直作る側も死ぬほど大変だったと言っておこう。

 といっても、その辺の薬中から回収した記憶を適当に繋いだだけなんだがな。

 で、ドラゴン曲線と言ったか?」


 「……ああ、言ったが」


 ロイドの心中には嫌な予感が流れ始めた。目の前の男はあまりに正常だ。AIの関与が疑われるには、あまりにも人間らし過ぎる。


 こいつは恐らく、背後にいる何者か……ここではAIと疑っておくが、それに何らかの方法で操られているだけなのだ。すると、あの妄想幻視を使ったドラゴン曲線は……


 「そんなもの作った覚えはないぞ。じゃあどうやってあのサイトにアクセスしたんだ……?」


 「部屋に入って、ドアの向かいにあったスクリーンに映っていた奴は?」


 「ああ、あれか、全然意味を成さない信号だな。

 あんたがばら撒いてるソフトウェアを把握しているのを見せろという上からのお達しだ。だから、ハヴォックから洩れてきたプログラムを突っ込んでおいた。

 多分プログラムに既視感があったんじゃないかと思ったが……」


 確定か。


 ロイドは最早目の前のマーフィーと言う男を卸元と思わないことに決定した。こいつはただのメッセンジャーであって、黒幕はもっと後ろにいるのだ。


 パラベラムと言うのは、してみればAIのことか、恐らくはそれと関りがあるネットランナーか何かか。


 「というかさっき、不良AIって言ったか?何故それがこんなところで出てくる?」


 まさかあのプログラムを不良AIの断片だとも知らずに扱っていたと?


 ロイドは卸元の意図を完全に測りかねていた。なぜこんな無知な奴に危険物を扱わせる?ただロイドの警戒心だけを煽って何がしたいのか?


 「……こっちの話だ。まあ、ただのテクノミスとの関連だよ」


 ロイドの返答を聞いて、マーフィーは訝しむように頭を振った。


 しかしそれ以上詰める気はないらしい。彼は溜息を吐き、話を再開した。


 「で、まあ、俺がやりたかった説明のターンだが、俺が居るのがパラベラムだ。俺は下っ端だが、上の方は企業のデータ要塞破壊で実績があるネットランニングの悪魔が集まっている。

 あんたは神経損傷の対応で遺物を求めてるんだろ?上はその要求を満たせるブツを確保した。その代価であんたには仕事が来るだろう」


 「謎かけからビジネスか。理解できない勧誘方法だな」


 「洗礼だよ」


 そう言ってマーフィーは苦笑した。


 「俺の時はネットランニングでオスロの銀行から顧客情報を盗んで売りさばいた時に勧誘が来た。あんたのと似たようなオファーだ。

 当時はこの類の組織に憧れていたから、ハック貰えないかと思って入った」


 話を聞きながら、大した躊躇もなくロイドはトラッカーをニューロポートに押し込んだ。他に選択肢が浮かんでいない現状、彼らに従うのに異議はない。


 「まあ、結果は下っ端働きで、実動部隊として傭兵みたいにこき使われてるんだが、まあ、色々面白いものは手に入ってるよ。

 あんたの必要物はデカいからな、多分俺よりヤバいヤマに招かれると思うがまあ、頑張ってくれ」


 それだけ言って、マーフィーは机からRZヘッドギアを取り上げ、シャードを突っ込んで、椅子の上に放り投げた。


 「俺からのコンタクトを待っといてくれ。タクシーはここのすぐ前に待機してる。送ってやろうか?」


 「不安なら見てればいい。今は普通に歩けると思う」


 「ならまあ、さっさと医者行って来ることを勧める。

 あんたを見てると1、2日後にはくたばってそうな気がしてならん。上もどうして半死人を招待するかね」


 マーフィーは全く、話していると、大して他人に興味が無いようだった。


 ついでに言うと自分の実力に自信を持っている。防備が硬いスカンディナヴィアの銀行のシステムをクラックしてるぐらいなんだから実際実力はあるんだろうが、目の前に居るロイドが何をしようと止められるだろうと予想しているらしかった。


 ロイドはマーフィーのハイドアウトから出た。


 言っていた通り、タクシーが待機している。ドックに来院予約を入れ、行先をCX-C-IIの一角にあるドックのクリニックに指定した彼は、オピオイドの超集中状態が引いていくのを感じながら、窓外の風景が視界を流れるのに任せた。

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