フライデイ
@haiban
宙に浮く
今年ももう春になってしまった。出会いと別れの季節とよく称されるけれども、あまり友達関係に明るくない僕が気に病むことはない。気に病むことはない、はずなのだが、なぜか切なさが残る。たぶん、この春という雰囲気に僕があてられているからなのだろう。
僕にはお付き合いをさせていただいている女性がいる。絶世の美女であるとか、深窓の令嬢だとか、女性を例える言葉はいろいろあるけれども、どれにも当てはまらないような女性だ。というよりも、そんな言葉に当てはめたくはない。あえて例えてみるとすれば、向日葵と朝顔を足し合わせたような人だ。我ながら良い例えだと胸を張りたくなる。そんな彼女なのだが、ここ最近連絡をとれていない。別々の学校に通っているため、日常的に会うということはない。たまに彼女を見かけることがあるのだが、彼女は気づかないのだ。思わず追いかけるのだが、どうにも彼女に追いつくことができたためしがない。森羅万象を照らし出す太陽も隠れてしまうことがあるように、存外彼女も恥ずかしがり屋だからしょうがない。
ある日、ちょうど桜が咲いたころ、桜並木がまぶしい河川敷で彼女を見かけた。急いでいるのか、腰を浮かせ、多少前のめりになりながら自転車をこいでいる。つけていたイヤホンをはずし、思わず彼女の名前を呼びながら追いかけてしまった。運動をしてきていない僕が追い付けるわけはないのだが、この感情を放っておくには僕の心の貧乏症が許さなかったのだ。抵抗虚しく、彼女の姿は瞬く間に小さくなっていく。もたない呼吸と悲鳴を上げる筋肉に思わず足を止める。ちょっとしたやるせなさと、何かが満ちていくようなあたたかさを感じた僕は、しばらくそこで彼女のいた光景に恍惚としたのだった。
重たい足を引きずりながらアパートに帰った僕は、彼女と一緒に聞いたアルバムをかけながら、彼女と過ごした日々をお守りのように思い出した。いつもゆるりと流れている時間が、このときだけはふわりと宙へ浮かび、はじけ飛びそうになる。飛散してしまわないように、身体にその肌触りをまとわせながら、鴬張りの床を這う蜘蛛の如く沈んでいく。
彼女との出会いは、急な土砂降りに遭遇してしまった夕方だった。読み終わってしまった文庫本の代わりを探しに、少し離れた古本屋に歩を進めたのである。吟味に吟味を重ねていたせいか、時間の流れに鈍感だった。ふとスマホを覗いてみると、買ってもらってから変えたことのない画面に時間が表示される。勘定を済ませた僕は、イヤホンをして帰路についた。そのせいか、遠くで鳴っていた雷に気づかなかったのである。焦る時間も与えないほどの雨が降り出し、とりあえず弱まるまで待とうと近くの高架橋の下へと向かった。そのときの雨は最悪であったが、逆に最高でもあった。お天道様も一得一失という考え方はわきまえているようである。ぴたりと肌に吸い付いて体温を奪っていく衣服の気持ち悪さに顔を顰めながら顔を上げると、そこに彼女がいた。しっとりとした肌に浮かんでいる、人の親近感を湛える目、少し赤らんで幼さを覚える鼻、唱えた言葉がマリア像になっていくであろう唇。とても動くことなどできそうにもなかった。すると彼女は困ったように僕に笑いかけた。間違いなく、僕の走馬灯にはこの笑顔が映ることだろう。
いつの間にか眠ってしまっていたようで、赤と黄をまばらに混ぜたような夕日が窓から顔を出している。座っていたせいか、肩が沈んでいくように重い。思わず顔をくしゃくしゃにして、どうにか死にそうな夕日から顔を遠ざける。今日も夜は寝なくてもいいや。うるさくなってきた腹の音に栓をするべく、とりあえずコンビニに向かうことにした。
いつものように雑多な夜を過ごして、気づけば性懲りもなくまた朝日が昇ろうとしている。僕は夜明けが嫌いだ。どんな酔いも、どんな苦痛も、どんな快楽も、夜明けはすべてを覚ましにやってくる。まるで自分が生まれ変わったかのような感覚を湧き立たせる。昨日のことなど無かったかのように、過去のことなど忘れろと語りかけてくるように、君には今とこれからしかないのだと高らかに宣言するように、あいつはやってくる。確かに人間は変わっていってしまうものだろう。しかし、それを拒む権利を僕たちは持っているはずだ。変化を畏れる者を惰弱というのならば、確実に僕は惰弱なのだろう。僕にとって変化を望む者は異常者だ。巧言令色鮮し仁を説く孔子は僕の敵である。僕は過去を賞揚することで彼女を彼女としてとどめておきたいのだ。虚空を彷徨っているときも、路地裏でくつろいでいるときも、ずっと一緒にいてほしいのだ。何度も何度も夢を見たい、何度も何度も彼女に夢を見てほしい。そうして、僕と君の距離が近づきすぎて、すれ違ってしまったとしても、この世界は循環する。この星は絶え間なく回っているのである。
僕は今、あの高架下にいることに気づいた。景色もゆらゆらとゆれる炎天下で、じわじわと迫りくる夏の気配から逃げていたことを思い出した。するとどうしたことか、いつもは会えない彼女がなんの気配もなく立っていることに気づいた。陽炎のような彼女の笑顔は僕を見ていた。この高揚感を他の誰が味合わせてくれるだろうか。血液が余分に体をめぐり、力がみなぎる。背筋が伸び、背丈がいくらか伸びた気がする。ほっそりとした輪郭は、健康的に、それでいて逞しい筋肉が付いたようだ。整理されていない僕の顔の構成は、いくらか整頓され、眉目秀麗とかろうじて言えるようにはなったのではないだろうか。僕たちは近づき合い、両手を重ねる。風が熱と清々しさを運んでくる。彼女は僕を見て口を動かす。早く、早く声を聴かせてほしい。それだけで多分僕は救われる。しかし、一向に彼女は口を動かしているだけで、まるで音の出ないテレビを見ているみたいだった。
彼女に一生懸命になっていると、いつの間にか夕方になっており、さらなる郷愁が僕を襲った。彼女が自分の服に目を移し、その服を力いっぱい破いたかと思うと、彼女の服は深い青色のワンピースに変わっていた。その胸元には星が刺繍されており、それは暗くなってきた夜に浮いて見えるようである。彼女は僕の手を引き、駆け出した。彼女の足は空を切って前へ進み、それから魔法のように僕らの身体を浮かべた。僕は宙を浮いている事実よりも、彼女がどんな顔で僕を空に連れて行ってくれているのか、その表情だけが気になった。花火が目下に広がる。それでも、憎いくらい丸い月は、変わらず僕らを上からニヤニヤと見つめている。花火の煙たさを避けるように彼女はまだまだ駆けていく。地平線もドロドロに溶けてすべてがひとつになっていた。月と星と僕と彼女は、その中にすっかりと身体を投げ出している。そこに時間なんてものは塵芥に等しいものだった。彼女はゆっくりと足を止めたかと思うと、すっと指をさす。彼女の指先を見ると、しびれるほどの流れ星が四方八方に流れている。そういえば今日はペルセウス座流星群を見ることができるらしい。コンクリート製のテレビの中で、アナウンサーが能面のような顔でいっていた。リュウグウノツカイに似た尾ひれを引きずりながら、絶え間なく星たちは飛び跳ねている。それは、この世のありとあらゆる現実から逃れたがっている自殺志願者のようだ。星たちから見た僕たちもそんなように見えているのだろうか。ありったけの非日常に日常を感じながら、彼女の顔が気になって視線を戻すと、彼女は僕を見てうっすらと笑みを浮かべていた。眼尻がきらきらとしている。思わず彼女の手をより強く握り直した。すると僕たちの身体は再び重力を取り戻し、何の抵抗もなく高度を落としていった。耳をかすめる大気は、僕の脳内を洗浄しながら、身体が重すぎると囁く。彼女のワンピースはどんどんとしぼんでいく。無理やり押し縮められるような圧迫感を感じる。そこには、何の恐怖もない。ただ、自分の足元に流れている星を名残惜しそうに見つめながら、ただ目を瞑り続けている彼女の手を、強く、強く、握っていた。
ふと僕はいつもの交差点で三日月を見つめていることに気づいた。はて、どうして僕はここにいるのか。いまだに謎の多い彼女の感触がなぜか名残惜しい。思わず腕をさすると、てのひらと腕の温度差に驚いた。まだ暑さの薄っぺらい夜のためか、少し肌寒い。
三日月から真っ直ぐに目線を落としていくと、彼女の家が見えた。そうだ、連絡もないし、最近は見かけもしないから家まで様子を見に来たのだった。二階の丸い窓のあるその家は、なぜか他の家々よりも一層夜の青を反射しているように見える。彼女はもう明日に行ってしまったのだろうか。もしそうなら、彼女はどんな旅をして明日へとたどり着くのだろうか。きび砂糖でできたスフィンクスの謎をといているのだろうか。それとも、恐竜の背中に乗ってエベレストを滑り台にでもしているのだろうか。もしかすると太陽系の惑星たちを鉛筆にさして惑星団子を味わっているのかもしれない。彼女のことを考えると満足をすることもなく、また飽きるということもない。とても無意味で有意義な時間を過ごしてしまった。なんて幸福なんだろう。
心地の良い青が明日の白によって薄められてきたことで、僕の気持ちは一気に落ち込む。夢中になりすぎてしまったようだ。早く家に帰らねばならないと彼女の家に背を向ける。すると、そこに彼女がいた。彼女は目を見開いたまま少しの間何もできないでいた。それは僕も同じだった。
「久しぶり。」
彼女は初めて言葉を話すようなたどたどしさでそう言った。僕も同じように言葉を返す。彼女にどんなことを話せばよいのだろうか。脳みそという迷宮のなかで出口が見つからずもたもたすることしかできなかった。
「何でここにいるのかわからないけど、私、引っ越したんだ。」
何を言っているのかわからなかった。
「もう会うことないと思ってたけど、不思議なこともあるんだね。」
そんなことはない。
「元気でね。」
そう言い残して僕とすれ違っていく彼女は、浮かんでいきそうなくらい軽やかだった。僕は地球儀に頭をぶつけたような難解な混乱を味わう。視界が砂嵐のように不鮮明になっていく。先ほどまで熱を持っていたてのひらも冷え切り、唇はひびが入り始めていた。体中の血液という血液が足元から抜けていってしまったように感じる。僕の顔色は夜の青より青かっただろう。突然後頭部に烈しい痛みを感じる。どうやら地面が九十度傾いてしまったようだ。目の前にはすっかり白けた空が太陽を待ち遠しそうにしている。僕は気づいたら駆け出していた。
すっかり夏に支配された桜並木が流れていく。全人類の青春をあざ笑い、そして歓迎しながら夏はその支配を広げていく。無慈悲な優しさが、不条理な笑顔が、僕たちの背中を撫でまわしてくる。吹き溜まりのような愛しさを吐き出させるように、小気味よく僕たちの背中をたたいてくる。無機質な明朗さは僕たちに、日常という非日常を押し付けてくる。嫌だ、嫌だ、嫌だ。目覚めるくらいなら眠らせておいてくれ。必然をもって僕の酔いを醒まさないでくれ。身体が叫んでいるのがわかる。それと共に精神も叫び始めているのがわかる。この体はもう僕のものではなく、僕自身のものだ。そうだ、もう一度空に行こう。そうして自分の足元に太陽を置いて、そして踏みつけてやるんだ。一切の苦悩と喜びを込めて、僕は地面に向かって足を振り上げよう。そして、君と僕を救うんだ。
そして、僕は太陽へ向かって、高架橋の鉄筋コンクリートの上から、空へと舞いあがった。
フライデイ @haiban
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