2‐3 栄養

「ああ、どうも」

 鈴が発した言葉はまずそれだけだった。そして鈴は、窓口へと向き直った。

「そうですか」

 それまでの会話内容を千里は聞いていないから、その言葉だけでは全貌が分からない。だが、分かる必要も無く話は済んでしまったようだ。

 鈴が千里の方を向く。その眼光に倒れそうになるが、千里は自身を持って鈴と相対する。

 鈴は、高い声の女の子だった。しかし、それにしたって、一般的な小市民の声とは異質な印象を千里に与えた。その鈴の、言葉は。

「あなた……会った事あるんだよね。うんうんそれは覚えてる。名前がー、確かそうだ、結子さん?」

 驚いた。まさかここで結子の名前が出てくるとは。一見して今この場所に全く関係ない知人の名前だ。しかし、目の前の鈴は、自分のことを結子と呼んできた。

 間違っている。自分の名前は千里である。しかしこれは、どう訂正すべきか。そりゃあもちろん、普通にそのまま言えばいいだけなのだが、現実に既視感を覚える事項が連鎖して、千里はどうにもたじろいでしまった。

「違う?返事をしないって事は、きっと僕の記憶が間違っているね」

 僕。鈴はそのような一人称を使った。その単一の事実に驚いたのではない。何よりこれも、一人称が「前と変わっていること」を驚いたのである。

「まあ、飯でも行こうよ」

 鈴は、やや言葉の選び方も粗暴になっていたようだった。

 役所から出て、近隣にあった蕎麦屋に入った。千里はうどんを、鈴は蕎麦を食べた。

 結局のところ、蕎麦を食いながら、千里は自分の名前を鈴に伝える事になった。

「ああ、そうか。千里さんだったね。それは失礼しました」

 それだけ言って、鈴は食事に戻ってしまう。何だか素っ気ない様相。

 そして遂に、鈴は千里に訊ねてきた。自分の印象は前と変わっただろう?と。

「何故だか聞きたいかい?」

 何故だろう。答えを聞く前に考え込んでしまう自分がいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

戦線のアーティファクト 氷室霧華 @rinnsyann

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ