7
佳帆はすべての荷物を置いて、手ぶらでカフェレストランを出た。空に浮かぶ雲は微かに薄くなり、あちこちの切れ間から青空が覗いている。
カフェレストランの扉口で見送る夏海に、佳帆は頭を下げた。
「ありがとうございました」
佳帆が言うと、夏海は小さく首を横に振って佳帆の身体を抱きしめた。
「いってらっしゃい、佳帆ちゃん」
夏海のあたたかい抱擁に、佳帆の肩が震える。
「いってきます」
小さな声が夏海の胸に落ちる。
しばらく抱きあった後、そっと身体を離した佳帆はうつむいたまま走り出した。一度も振り返らずに水族館の中へと飛び込んだ。
すっかり見慣れたエリアを駆け抜けていく。その水槽のどれも、嘘みたいに記憶の端から抜け落ちていく。今、自分がどこを走ってきたのかもわからない。時間をかけて作ったはずの地図は、その存在すら忘れてしまっていた。カフェレストランの場所も、夏海の顔も思い出せない。それでも佳帆は走り続けた。
滝のエリアを抜けて、四つめの大水槽で佳帆は少女と再会した。大水槽は前よりもずっと明るくなり、まぶしさを感じるくらいに展示室を照らしていた。光の海の中で、ジンベエザメの大きなシルエットが舞う。ガラスを通して写る水面の波紋が、少女の足元でゆらゆらと揺れている。
「璃央」
佳帆は肩で息をしながら妹の名前を呼ぶ。そんな佳帆の様子を見た璃央は幸せそうに笑った。璃央は展示室の壁際へと歩いていき、いつの間にかそこにあった扉を開ける。差し伸べられた手を佳帆が握り、二人は扉の向こうにある階段を登った。
階段の上にあるもう一枚の扉を璃央が開けた瞬間、佳帆はあまりの眩しさに目を細めた。
目が慣れて最初に見えたのは、底抜けに青い空だった。雲一つない、紺色から乳白色への鮮やかなグラデーションを描く空を、佳帆はとても久しぶりに見た気がした。足元には無機質なタイル張りの地面が広がり、目の前には腰くらいの高さのフェンスがり、その向こうに海が見える。吹き付けてくる海風に髪がはためく。
二人は手をつないだまま、ゆっくりとフェンスの前まで歩いた。
「帰らないといけない、よね」
佳帆が璃央を見る。璃央は佳帆を励ますように微笑んだ。
「お姉ちゃんの未来が待ってるでしょ」
「でも」
でも、璃央がいない未来なんて。
そう言おうとした佳帆の体を、璃央はそっと優しく抱きしめた。
「大丈夫」
璃央の言葉に、佳帆は深く、長く息を吐いた。
もしも璃央が中学生になっていたら、璃央の方がお姉ちゃんに見えるかも。身長は私のほうが少し高いけど。でも、もし璃央が高校生になったら、抜かされたりするのかな。
佳帆は、そんなありえない未来を思った。
そのありえない未来は、なぜか佳帆に悲しみではなく、愛おしさに似た感情を呼び起こした。
「また会えるよね、きっと」
佳帆が言うと、璃央は耳元で優しく呟いた。
「私はずっと待ってるから。また会えるよ、絶対」
璃央がそう言うと、耐えられなくなった佳帆はまた声を上げて泣き始めた。どれだけ強く抱きしめても、佳帆の心に空いた穴は決して埋まらない。ここにある璃央の体も、体温も、すべて幻で、もう二度と会えないかもしれない。拭いきれない不安が佳帆の胸を刺す。
それでも、璃央の言葉が佳帆の背中を押した。
「いかなくちゃ、ね?」
強く頷いた佳帆は、赤くなった鼻をすすって、大きく深呼吸をする。
そっと体を離して、佳帆の指先から璃央が離れる。
佳帆は璃央に背中を向けて、フェンスに両手をかけた。
無限に広がる紺碧の海と青空が、佳帆を待っている。
「また会おうね」
佳帆がそう叫んだ。その言葉には、もう誰も返事をしない。
それでも佳帆は振り返らなかった。
勢いをつけてフェンスに足をかけ、そのまま飛び立つように海へと身を投げる。
ふわりと浮いた体は、すぐに重力に引っ張られ、海へ向けて落下し始める。
風を切る音が耳に刺さり、バサバサと制服がはためく。
鳥が羽ばたき、旗が振られるように。
海面が目前に迫った瞬間、佳帆は祈りとともに目を瞑った。
四つめの大水槽 ななゆき @7snowrin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます