思い出せないだけ

上町 晴加

思い出せないだけ

 悲しむ暇がない、とはよく言ったものだ。

 夏菜子かなこは母の葬儀から一ヶ月後、ようやく遺品の整理を始めた。


「お父さん、お母さんの鞄ってこれだけ?」

 残暑の厳しい九月末。更年期も重なりいつも以上に火照った顔の汗を拭きながら夏菜子は父に聞いた。

「うん? ・・あぁ」

 こちらに背を向けたまま父はぼんやり返す。

 ――ここ最近特にボーっとしてるの。それに忘れっぽいし。

 そう言っていた母を思い出す。段ボールから菓子缶を取り出す父の手は少しだけ震えていた。

 無理はないけどね、と今年八十六歳になった父の背中にポツリと呟く。


 夏菜子は母の鞄を開ける。手帳にガラケー、ウォークマン、財布。どれも見慣れたものだ。

 黒の携帯電話、本体に付いている沢山の指紋がよく目立つ。もちろん母が付けたものだ。火葬場から上がる煙を見ても母の死という事実がどこか他人事であったのに、こういう些細なことのほうがリアリティを持ってしまう。夏菜子は頭を振り、指紋を拭うことはせずに鞄に直して、次に財布を取り出した。

 会員証、ポイントカード、こういうのって本人が亡くなった後どうすればいいんだっけと考えながら、現金を数えようとしたとき、「ん?」クリップに留められた紙幣を見つける。「うわ、二万円」と声に出した。ただもう一枚、同じクリップで留められていた紙に気が付く。広げたその紙には母の字があった。手紙・・?


 夏菜子へ。この手紙を読んでいるということは私はもういないということですね。寂しいです。

 それと同時に夏菜子には今とても迷惑をかけていると思います。ごめんね。葬儀だったり、その他諸々の手続き、本当にごめんね。ありがとう。

 これ以上何かをしてもらうのは、気の毒なんだけど、最後に一つだけお願いを聞いてほしいの。

 この手紙と一緒に留めていたお金でお父さんと中華料理屋さんに行ってきてほしいの。ちょっと前に病室のテレビで青椒肉絲チンジャオロースが映っててね、お父さん好きだから、また食べたいねって。元気になったら行こうねってお父さんと約束したの。

 でもこれを読んでるってことは叶わなかったってことだからお父さんと行ってきてくれると嬉しいな。お父さん楽しみにしてたから。

 それとね、実はこの二万円ね、夏菜子がアルバイトで貰った初めてのお給料からくれたお金なの。お父さんと「あのお金で食べに行こう」って約束してたの。お願いね。

 それと二人とも、今まで通り仲良くしてね。じゃあね。元気でね。お母さんより。



 夏菜子は手紙を折り直す。眉間に集まる熱を振り払うようにまた、頭を振る。そしてそれを足元に置いて、また鞄のなかに手を入れる。心のどこかで、もう何も出てこないでほしいと願っていたのに、指先に当たったそれを取り出してまた、夏菜子は唇を噛んだ。

 ハンカチだった。夏菜子が小学生のとき、気に入って肌身離さず持っていたそれを母はまだ使っていた。母はこれを見て、幼い頃の夏菜子を思い出し、微笑んだりしたのだろうか。


 ――ちょっと休憩しよう。と夏菜子は鞄を置き、振り返った。

 正座した父が母のパジャマを広げている。ジッと見つめてからゆっくりと畳む。服とズボン、同じようにそうすると、父は膝の上に手を置いたまま止まってしまった。 

 窓の向こうに見える青空が父の小さな背中を象っているようで、夏菜子はまた胸に膨らみかけた気持ちを制するように「お父さん、ちょっと休憩しない?」と明るく声をかけた。


「なぁ、夏菜子」父が背を向けたまま言う。

「どうしたの?」

「母さんは来月が誕生日だったね」

「ん、そうだよ」

「いつも赤いマグカップを使ってた」

「うん、お父さんが青色だったでしょ」

「豚汁が得意だった」

「そう」

 父が聞くことは全てが当たり前のことだった。どうしてそんなことを聞くのだろうか。

「・・」

 父の背中はまだ何かを言いたそうだったが夏菜子が先に口を開いた。

「そんなことよりさ、ちょっと休憩して、早く片付けちゃおう」

「水森かおりが好きだった」

 父は続けた。

「天ぷらが好きで」「珈琲はブラックで」「椎茸が苦手で」「紅白が好きで」

 もう、やめてほしかった。どれだけ頭を振っても母の顔が、声が、微笑みが胸に溢れてくる。それが夏菜子にとって今は・・。


 夏菜子は気づいていた。この現実を受け入れることが出来ないから、すぐに片付けて少しでも早く母の死を過去のことにしてしまいたかった。そうすれば、いつもの日常の中に溶け込んだ母の面影を思い返すだけで済むと考えていた。

 ――夏菜子にとって母はまだ"ここ"にいる。

 夏菜子は口の端についた涙を拭った。沈黙に響く冷房の音。父が首をさすって言った。


「思い出せんことも、多いんよ」

 ・・・・。夏菜子は言葉の続きを待った。

「天ぷらが好きでも、なんの天ぷらが好きだったのか、好きな曲の名前はなんだったのか、どんなエプロンを着てたのか。よく歌ってたメロディも、よく食べてたお菓子の名前も、履いてた靴下も、最後に病室で見た顔も・・そこまでは思い出せんのよ」

 矢継ぎ早に言う父の勢い、夏菜子は呆気にとられた。

「・・お父さん」


「・・・・悔しいんよ。お母さんのこと、スッと出てこんのが」

 少し上ずった、初めて聞く声だった。その声にハッとして、気づいた。

 夏菜子が思っている以上に、父の中にある母の記憶はもう曖昧なのではないか。そしてそれが悔しくてたまらないのではないか。

 さっき父が聞いてきたことも、本当は、もし自分の記憶と違っていたらどうしようと恐る恐る確かめていたのではないか。

 そうか。父は母の記憶を、母を、懸命にその胸に留めようとしていた。ただ懸命に。

 夏菜子は立ち尽くしていた。そして涙越しに見る父の背中に謝った。

 --ごめん、お父さん。私、最低な娘だ。

 父の言葉に返す言葉もなく、少し長い沈黙のあと、涙は音もなく畳に落ちた。

 そしてそれを合図のように父がまた、口を開いた。夏菜子は涙を止められない。


「なぁ夏菜子」

 ――どうしたの?

「母さんは、阪神が好きで」

 ――そうだね。

「怖い話が嫌いじゃった」

 ――そうだったね。

「いつも、夏菜子のこと心配しとった」

 ――うん。

「お父さんのことも」

 ――当たり前だよ。

 

 そして夏菜子は父の隣に座った。父の背中をさすりながら言う。

「お父さんごめんね。・・一個一個ゆっくり見ていこうね」

 父はうんうんと頷いた。

「ありがとう、手伝ってくれ」

 そうだ。父の心の中にある母の記憶。その整理を手伝ってあげなければ。


「お父さん見て。この家計簿、私が十歳の頃のだよ」

 父がパラパラとめくる。貼り付けたレシート、母の字、これを書く母の横顔。父にもその記憶があってほしいと願った。

「懐かしいな」

 父は何度も頷く。

「このころはまだ八百屋さんも元気だったもんね」

 レシートに懐かしい店名がある。

「うん。毎週金曜日、ここはピーマンが安かった。だから毎週金曜日は、お母さんが青椒肉絲チンジャオロース、作ってたなぁ」

 それは覚えているんだと夏菜子は驚いた。

 ――あ、でも、病室で約束したことは、覚えてないのだろうか。

「そうだよ、よく覚えているね」


「・・青椒肉絲チンジャオロース

 父がもう一度言う。ゆっくりと。

「おいしかったよね」

「・・夏菜子」

「お父さん、どうしたの」

 父が急に肩を大きく震わせた。鼻水を啜り、何度も小さな声で青椒肉絲チンジャオロースと呟く。そして家計簿の母の字にいくつもの涙を落としながら言った。

「寂しくなる」

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思い出せないだけ 上町 晴加 @uemachi_haruka

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