感情商店

滋賀列島

感情商店

 夕闇が街を覆い始めた頃、山田の影が細い路地に滑り込んだ。彼の目は血走り、指先が小刻みに震えている。借金取りの声が頭の中で反響する中、山田は「感情商店」と呼ばれる噂の店を必死に探していた。


 そこは「感情」を売買しているらしく、高額で買い取りしてくれるらしい。借金に追われている山田にとっては、半信半疑ではありつつも、藁にも縋る思いだ。


 情報を頼りにS県のとある町にきた山田。目の前に田んぼが広がる田舎風景の一角にそこはあった。看板の文字は剥げかけ、窓ガラスには年月の埃が積もっている。しかし、そこにはっきりと書かれていた言葉が、山田の目に飛び込んできた。


「あなたの感情、売ってください。」


 震える手でドアを開けると、錆びついた鈴の音が静寂を引き裂いた。薄暗い店内で、山田の目に飛び込んできたのは、まるで時が止まったかのような古めかしい調度品の数々。そして、カウンターの向こうには、一人のよぼよぼしたおばあさんが座っていた。その目は、何か底知れぬものを秘めているようだった。


「あ、あの...」山田は乾いた喉から声を絞り出した。「俺の...感情を売りたいんですが。」自分で言っておきながら、何を言っているんだと少し恥ずかしく感じる。


 おばあさんは山田をじっと見つめた。その視線に、山田は背筋が凍るのを感じた。

「どの感情を売るんだい?」おばあさんの声は、朽ちた木のようにかすれていた。


 山田は噂が真実であったことの驚きと喜びで一瞬躊躇ったが、言葉を続けた。「俺はギャンブルが好きなんです。でも、いつも『期待』しすぎて...もっと賭けてしまって...」彼は言葉を詰まらせた。「その『期待』する感情を売りたいんです。」


 おばあさんは黙って頷いた。「わかったよ。その感情と若さなら、500万で買い取るよ。」


「ご、500万!?」山田は目を見開いた。借金が返せる。いや、それ以上だ。「お願いします!すぐに買い取ってください!」


 おばあさんは静かに立ち上がり、山田に近づいた。その手にはボールペンがあった。


「よく聞きなさい。買い取った感情は、買い戻さない限り二度と戻らないよ。」


 しかし、山田の耳にはその言葉は届かなかった。彼の頭の中は500万円で一杯だった。


 おばあさんはボールペンを山田の額に押し当てた。そして、ゆっくりと引き抜いた。


 山田は奇妙な感覚に襲われた。頭の中から何かが抜け落ちていく。目の前で、おばあさんは白い霧のような塊を壺に入れていた。


「はい、これで終わりだよ。」おばあさんは言って、札束を山田に手渡した。


 山田は夢遊病者のように店を出た。外の空気が肌を刺す。彼は財布の中の借金の証書を見つめ、そして決意した。まずは借金を返そう。そして...そうだ、ギャンブルだ。大金を手に入れた今、思う存分楽しめるはずだ。


 彼は近くの競馬場に足を向けた。レースが始まる。馬が走る。しかし、山田の胸には何の高鳴りもなかった。勝っても負けても、ただ淡々としている。これが感情を失った世界なのか。不思議な感覚に包まれながら、山田は賭け続けた。


 借金返済後、日々が過ぎていく中で、山田は『期待』という感情を失ったにも関わらず、ギャンブルへの欲求は消えなかった。むしろ、感情に左右されない冷静な判断ができるようになったと錯覚し、より大胆な賭けに出るようになっていった。


 最初は小さな勝利の積み重ねだった。しかし、『期待』がないからこそ、勝っても特に喜びはない。ただ、もっと賭けたいという欲求だけが残っていた。


 一週間が経つ頃には、500万円はあっという間に消えていた。さらに山田は再び借金の淵に立たされていた。今度の借金は、以前の倍以上の額になっていた。


 絶望的な状況の中、山田は再び感情商店を訪れていた。しかし店内は様変わりしていて、おばあさんは荷物をまとめていた。


「もしかして...店、閉めるんですか?」山田は焦りを感じた。ここで大金を得なければ人生が終わってしまう。


 おばあさんは疲れた表情で頷いた。「もう長いことやったし、歳だからね。」


 山田は必死に懇願した。最後に、もう一度だけ感情を買い取ってもらえないかと。


 おばあさんは深いため息をついた。「わかったよ。これで最後だ。」


 今度は『悔しさ』と『疲れ』を売ることにした山田。負けても悔しさを感じなければ、ストレスを抑えられるかもしれない。そして、疲れを感じなければ、もっと長時間ギャンブルに没頭できる。そう考えたのだ。


 おばあさんは再びボールペンを取り出し、山田の頭から白い塊を抜き取った。


「2つで2500万だね。」おばあさんは大きな紙袋を山田に渡した。


 予想よりはるかに大きな買い取り額に、山田は我を忘れて店を飛び出した。そして、気づかぬうちに道路に飛び出してしまう。


 軽トラックのクラクションが鳴り響く。山田の肩を荷台が掠めた。痛みはあったが、恐怖は感じない。ただ、紙袋の中身を確認するだけだった。


 帰宅するため、電車に乗り込んだ山田。大金の入った袋を大事に抱きしめ、緊張と喜びの入り混じった表情で座っていると突然、悲鳴が響き渡る。


 何事かと悲鳴が聞こえた方向を見ると、血まみれの男性が倒れ、もう一人の男が震える手に包丁を握りしめている。その男の目は、決意に満ちていた。


 乗客たちが逃げ惑う中、山田はただ立ち尽くしていた。紙袋を抱きしめ、金の安全だけを考えている。


 錯乱した包丁男が一人逃げ遅れている山田に気づき向かって走ってくる。しかし、山田には不思議と恐怖がなく、ただ金を守ることだけを考えていた。


 ◇◇◇◇◇


 感情商店の奥で、おじいさんが壺を開けていた。


「おい、ばあさん。感情は売りきったって言わなかったか?」


 おばあさんは肩をすくめた。「ああ、『決心』と『勇気』をさっき男に売って全部なくなったんだけど、その後走ってきた別の男から2つ感情を買い取っちゃってね。」


「2つ?3つ入ってるぞ。」


 おばあさんは不敵な笑みを浮かべた。「ああ、あまりにもしつこくて腹が立ったからね。こっそり『恐怖』も抜いといたんだわ。これでなにか痛い目を見れば気味がいいと思ってね。」


 その時、店内のテレビから緊急ニュースが流れ始めた。


「速報です。S県内を走る電車内で男性2名が刃物で刺され死亡しました。容疑者の男は現在...」


 おばあさんとおじいさんは顔を見合わせた。テレビの映像に映る血まみれの紙袋を見て、二人は静かに笑い始めた。その笑い声は、夜の闇に吸い込まれていった。

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