ピスタチオ

香久山 ゆみ

ピスタチオ

 出会い頭の衝突。急ブレーキも間に合わず、ガシャンと自転車同士ぶつかった。幸いともに倒れはしなかったが、互いのハンドルとブレーキが絡まるほどの衝撃で、私の眼鏡は吹っ飛んだ。直進の私が「すみません、大丈夫ですか」と声を掛けると、右折してきた女性は「あらーあらー」と言いながら走り去ってしまった。眼鏡は無残に歪み、眼科で異常なしと診断された私の目は、以来へんなものが見えるようになった。

 はじめは気付かなかった。幽霊とか妖精が見えるようになったのならすぐに気付いたと思うが、時々ころころ足元に小さな豆が転がっている。気にも留めなかった。緑の豆、茶色の殻を被っていたりいなかったり。それが他人には見えていないと気付いたのは事故から一ヶ月経ってからだし、それが枝豆でもマカダミアナッツでもない、ピスタチオだと理解したのはさらに二週間後だった。

 なんだこれは。理解に苦しむ。常人に見えぬピスタチオが見えたからと、一体どうだっていうのだ。そしてなぜにピスタチオなのだ。ピスタチオ味のチョコを貰って食べたことはあるものの、それだけだ。どんな味だったかさえ思い出せない。豊富な栄養素から「ナッツの女王」とか「緑の宝石」など称されるようだが、それがどうした。非常時に食して人類で私だけが生き残れるとでも? それともナッツ戦隊のピスタチオグリーンとして悪の組織と戦えばいいのか? あほらし。

 ふと、かつて占い師に掛けられた言葉を思い出す。大学の卒業旅行先で水晶占いをした。

「……によって、貴女の運命は変わります」

 方言が上手く聞き取れず、私は「羊たちによって」と何か概念的なことを言われたと思ったが、友人は「ピスタチオによって」だと言って憚らなかった。ピスタチオによって運命が変わるとか、意味が分からんと一笑した。が、なるほど、現に訳の分からぬ事態に陥っている。他に何か手掛かりはないかと、友人に連絡してみたが、まるで覚えていなかった。

「運命が変わる」というたいそうな予言と、「幻のピスタチオが見える」という謎の現象を抱えて日々を送る。そうなのだ、ピスタチオがあろうがなかろうが、生活にはまるで影響ない。気付かないふりをしてやり過ごせばいいだけだ。もう一度あの占い師のところへ行こうかとちらと考えもしたが、億劫さが勝り重い腰は上がらない。所詮は豆なのだ。

 そんなある日、視界の隅のピスタチオを無視して信号待ちをしていると、

「……ピスタチオ……!」

 と、背後で声がした。振り返ると褐色の肌をした男性が大きな瞳でこちらを見つめている。私以外にも見える人がいるのだ! 

「分かりますか! 私も、ピスタチオ! 見える!」

 必死に道端を指差す私をじっと見つめたまま、彼は流暢な日本語で答えた。

「きみは俺のピスタチオや!」

 何のことはない、彼にはピスタチオは見えていなかった。いや、彼には私がピスタチオに見えているらしい。大好物のピスタチオと同じくらいきみが好きだ。一目惚れなのだと、熱っぽく語った。イラン人とのハーフだという彫刻のような美しい顔立ちにすっかりのぼせた私は、いちもにもなく彼とお付き合いすることになった。ピスタチオなどもうどうでもいい。いや、ありがとうピスタチオ!

 彼は私の知らない世界を教えてくれた。デートコースはパチンコ屋、競馬場、競艇、競輪。彼は、アルバイトで得た収入を全てギャンブルにつぎ込む。あの日、ピスタチオ色のゼッケンをつけた馬が勝ち、私にも出会って、「めっちゃ運が良い日やった」らしい。そして、それで運を使い果たしたらしい彼は、手持ちがなくなると私に借りるようになった。まだ返ってきたことはない。じきに知り合いから心配されるような有様になってくるも、離れられずにいた。別れれば当然貸したお金は返ってこないだろうし、何より彼は顔が良い。とはいえ、このままではよくないと、本当は分かっていた。ただ、別れるきっかけがなく、ずるずる関係を続けていた。

「今日こそは勝つ!」と意気込む彼は、入場するや私を置いてさっさと馬券を買いに行ってしまった。隠していたへそくりを見つけ出し、預金にまで手を出して、今日負ければ本当に一文無しだ。白目剥きそう。もっと早く引返すべきだったと後悔してももう遅い。足元に転がるピスタチオの殻を蹴る。ころころと馬券売場まで転がっていく。やけくそでなけなしの二千円で三連単を一点買いする。先程パドックにてピスタチオをぱくついていた三頭だ。当たるはずのない大穴だと知ったのは馬券を購入したあと。とぼとぼ豆みたいな顔でスタンドに出る。

 ファンファーレが鳴り響く。「ピスタチオ」ではなく「キッカショウ」が私の運命を変えるのだと気付くのは、三分〇五秒後である。

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ピスタチオ 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

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