第8話 分倍河原の戦い(丙) 乾坤一擲 同年9月7日

 北条綱成率いる軍は、朝日に向けて疾駆する。行く手を阻む太田隊を破らねば、扇谷上杉勢を横から突き崩すことも、本隊と連絡を回復し合流することもかなわない。


北条綱成「おい騎馬武者共、よく聞けぇ!

これから敵に斬り込む、徒士共に後れを取るなよ!

首級は打ち捨てろ、手柄は保証してやる…目の前の敵を潰しつつ全速力で敵本陣まで突っ込め!」


大藤栄永「綱成殿、援護致す。

構え──放てぇ!!」


 石火矢が火を噴く。火縄銃をまだ導入していない北条軍にもごく一部導入されていたものだ。突撃の支援としての牽制だ。


綱成「悪ぃな大藤の爺さん。足軽共は任せたぜ!」


太田資正「ほう。数と勢いで罷り通ろうとは…そうは参らぬ。御屋形様から死守せよと命ぜられた以上、戦が終わるまでは最後の一兵まで退かぬわ。

迫撃砲、装填せよ…放て!」


 天へ向けられた砲口から数発の砲弾が降り注ぐ。着弾してから幾許かして爆轟が辺りを包み、綱成隊の勢いが削がれた。


綱成「チィッ。隠れる場所もねえし、ぬかるみも厄介だな。


おい、野郎共!

死にたくなくば敵陣へ突っ込め、味方を巻き込んでまでは撃ってこないはずだ!」


資正「矢を放て!

敵が突撃してくる、集まって槍を構えよ。密集陣形を崩すな、ここを守りきれば勝てるぞ!」


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 北条軍の本陣は表面上の混乱からなんとか持ち直していたが、今踏みとどまっている前線の将兵はそうもいかない。伝えられる状況は厳しいものばかりであった。


「申し上げまする!

西の綱成殿の隊との連絡が途切れておりまする。太田隊によって分断され申した!」


「東も同じく、浅間山との命令伝達が出来ませぬ。その上、笠原隊、大道寺隊が混乱の隙を突かれ隊列を崩され押されておりまする。松田隊が前進してどうにか支えておりますが…。これでは両翼から各個撃破の後に殲滅されかねませぬ!」


氏康「……。ふーっ…。分かった…持ち場に戻れ。


これは…追い詰めてくれたな、畜生が…。」


 幻庵ら歴戦の北条一門から見ても、この様な状況に陥ることは初めてであった。何せ、北条主力軍が敗北を喫したことは先代氏綱の頃から一度たりともないのだ。予想外の大敵の来襲にはさしもの北条氏康も焦燥感を拭えない。

 悪態をついた後、冷静さを取り戻すためひと度目を閉じた。


幻庵「氏康殿、一旦落ち着きましょう」


氏康「…叔父上。この状況はまずい」


幻庵「…ええ。

右翼が潰される前に多米隊、遠山隊、鈴木隊で押し返すのはどうでしょうか」


氏康「そうしたいのは山々ですがそれでは事態が長期化して深刻になるだけ。確かに最も良い展望は猛攻を耐え凌ぎ、綱成が横から突き崩すこと。しかしそれは…望み過ぎでしょう。


迅速な進軍の為にどの陣も防備が万全にはなっていない。普段なら小さい堀と土塁の一つも築かせていたところ、これでは裸同然。誰がどう見ても守りには向かない───


─────そうか。或いは、もう一つ手はある。


……兎角、時間を稼ぐ他ない。これほどの混戦にも関わらず敵本隊が微塵も動いていないのなら、決定打として残しているということ。もう少し、午刻昼九つ迄耐えさえすれば……」


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 扇谷上杉軍の本陣でも、各所での趨勢が告げられていた。多くの戦線は混戦状態で拮抗しているが、左翼では勢いよく北条勢を押し込んでいる。


足利義勝「互いに陣形を整える間もなく激突したが、大まかには吾らの優位にことは進んでいる。太田美濃守資正が西を抑えている間に吾ら本隊で蹂躙すべきではないか?」


「確かに面白い意見だが、却下だ。

一挙に勝負を決めたいところだがまだ昨夜の雨の泥濘が残っている以上、基本的に攻撃側が体力を削られる。我ら本隊は決め手として残す」


義勝「だが時間をかけていては…」


「時間、か…。こうなると両軍互いに時間との戦いだな。


東方の浅間山はどうなっている?」


千葉胤利「未だ動いてはおりませぬ。吉良殿が使者を送り、時間を稼いでおります」


「ならば、傍観を続けさせる方向で進めよう。

吉良殿、萩野谷らの働きがうまく行けば、要地の浅間山を無視して優勢を確保し続けることができる。

あとはこのまま難波田隊、成田隊が敵を食い破れば自ずと勝ちは見えてくる。

さあ、このままいってくれるか…?」


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 戦が始まってからおよそ三刻6時間経ち、太陽は南に上がっている。正午になった。


氏康「叔父上、綱成と大道寺隊、笠原隊はどうなっていますか?」


幻庵「綱成殿は未だに太田勢と鎬を削っているようです。崩そうにも敵の士気も高く、多米隊などに側背を突かせても突破は困難かもしれません。


笠原隊と大道寺隊は一旦態勢を立て直しましたが、猛攻とそれによる損耗が続き退いています。笠原信為殿は負傷したとか。この勢いなら半刻もすれば松田隊も支えきれなくなるでしょう。何か手を打たねば」


氏康「…そうですか。多摩川は未だ水位が下がらず、退くことも出来ない。


は、はははっ…やるか」


 氏康は控え目な笑いを口に浮かべ溜息をつくと、太刀を手に床几から立ち上がった。


氏康「──叔父上、時は満ちました。最早綱成を待ってはいられません」


幻庵「しかし…これでは進むも退くも出来ないでしょう」


氏康「心配には及びませぬ。この窮地に於て、幾度となく天を見上げそうになりましたが…活路は常に前にあります。


…馬を引け」


 相模の虎は鞍に跨り、徐ろに手綱を引く。心は決まった。


氏康「これより、叔父上に本陣の守りと指揮をお任せ致す。本隊から精鋭を率い、敵本陣に乗り入り扇谷上杉朝定を討つ」


幻庵「氏康殿、総大将が前に出ては…討ち取られる恐れが──」


氏康「──あれは嘗て、初陣の折。矢野口の渡しの側の小沢原で、扇谷上杉朝興上杉朝定の父に突撃して散々に蹴散らしたことがあります…。

父上には仕留めきれなかったことを咎められてしまったが、実に爽快だったのを覚えています。あの頃はまこと楽しかった…。


あの時は馬廻の200足らずでおよそ3000ほどもいる敵を壊滅させた、此度はより多くの仲間がいる。何も恐れることはないのですよ、叔父上。


本隊から精鋭を千名ほど引き抜き、それの側方を多米隊に固めて貰う。これで敵本陣に急襲を仕掛け、大将朝定共の首を取る。

敵があと一歩の勝ちを目の前にしたこの瞬間。この油断を神速で突く、これしか打つ手はありませぬ。


これが成れば勝ち、成らねば負ける。勝てば後世まで残る威光とこの関東の地を手にし、負ければ領地と名声を尽く失う……。

それが何だ、漢ならば負け戦でも戦わねばならぬこともある。勝機があるのならば無論のこと」


山角康定「──その通りにて!

如何な戦とて我ら馬廻衆、殿が戦場にある限りお供仕る!」


 武骨な鎧武者達が上げられた陣幕から次々と現れ、面を上げる。有名でこそないが、彼らもまた縁の下で北条を支える家臣達だ。その顔には一片の恐怖も躊躇もない。


氏康「お主ら…」


石巻家貞「倅は既に元服しており、最早今生に悔いなし。

家を守る責務を果たして殿と共に討ち入る名誉、他の何にも代え難きことなり」


山中頼次「例えどんな大軍相手でも恐るるに足らず。

氏綱公の頃よりお仕えしていた我ら馬廻衆に負けはござらぬ」


垪和氏堯「某も嫡男がおり、死ぬる覚悟はとうにできておりまする。

戦にあって氏康殿の恩義に報いることに何の躊躇いもありませぬ!

我ら北条の底力、ここに示すべし!」


小笠原元続「ほほほ…ここに馬の扱いで後れを取る者はおりますまい。氏康殿、この老いぼれで良ければ弓の腕前を披露してご覧にいれましょうぞ」


伊勢貞運「北条を支えるのは北条一門と御由緒家のみならず、我ら御家中衆もいざや参らん!」


 鎧武者達の気は大いに高まっている。彼らは精鋭であり、不敗の軍団の一員なのだ。


氏康「──斯様な勇士が幾人もいること…誇らしい。この様な死地に赴いてなお、士気が低下せぬとは…」


幻庵「…確かに、ここまでの士気があれば、或いは…」


 北条の強みは決して当主一族の有能さに留まらない。忠義に篤い家臣が数多くいるのだ。それはこれまで三代に渡って仁義を重んじ、領民を重んじ、秩序を重んじ、民心を重んじてきた帰結である。


 ここにいる北条家臣達は天に広がる雨上がりの空同様、心身共に晴れやかである。それは氏康にもよく伝わった。


氏康「ならば応えよう。

──ここに決戦の時来たれり、この一戦で扇谷上杉朝定を討ち、足利義勝に引導を渡す!

北条の、我らの魂を以て勇戦すべし!

行くぞ、行くぞ、かかれ!!」


「「応!!!」」

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落ち目の小大名、河越城から復活出来るか? 木沢左京亮 @kizawa

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