うたひめ

それは、霧雨が降る秋の夜の事だった。


雅史はその日、職場で片付かなかった書類仕事をやっつける為、自宅のPCと長い時間睨めっこしていた。

つい仕事に力が入り過ぎてしまったのが拙かったか。手元のマグカップに満たされたカプチーノは冷めてしまっている。


ふと、雅史のタイピングの手が止まる。

雅史は肩に手を回し、軽く首を振りながら呟いた。

「…運動不足かな。それともストレートネックって奴か?長い事PCと向き合ってると、肩が凝ってしかたない」


今更カプチーノのマグカップに口をつけようかと言う気持ちになったその刹那、不意に雅史の携帯電話が鳴った。

慌てて応対する。

「もしもし、鳥羽根ですが」

「もしもし、雅史兄さん?お久し振り、ヴァネッサです」

「おお!ヴァネッサか!久し振りだな!今何処から?」

「東京のスタジオから。今日は『PRECIOUS DEAL』のみんなもいっしょなんだよ」


電話の向こうの声は、雅史が妹のように可愛がっている女性、ヴァネッサだった。

日英のハーフと言う出自のエキゾチックな雰囲気の女性で、職業は歌手である。

嘗て『PRECIOUS DEAL』と言うロックバンドのヴォーカルを務め、若年世代のハートをとりこにしていた事があった。

然し、『PRECIOUS DEAL』は突然、活動を休止した。数年前だっただろうか。メンバー間の不仲が原因でない事だけは明らかにされていた。


『PRECIOUS DEAL』の活動休止後、各メンバーはそれぞれがソロ活動を行ったり、後進のアーティストの為に曲を提供したり…と忙しく各々の活動していた。

そして、ヴァネッサはと言うと…彼女はなんと、音楽の勉強の為に渡米。

暫くの間その動向は判らぬままだったが、最近になって日本に戻って来た事を、雅史はTVのニュースで知った。


「然し…アメリカに行くと聞いた時はビックリしたぞ」

「うん、みんな同じ事言うよ」

「良くは知らないが、治安だってあまり良くないみたいだしな」

「まぁ、人間死ぬ時は何処に居たって死ぬものだし」


こんな会話の内容すら、渡米前のあの時と寸分も変わっていない。

そして、自分がこう!と思いこんだらどんな困難があってもやり遂げる、真っ直ぐなその生きざまも。


ヴァネッサがアメリカに旅立つ前、雅史はヴァネッサと一対一で宴席を囲む機会があった。その際、雅史はヴァネッサにこう打ち明けた事があった。


「お前の真っ直ぐで、何が何でもやり遂げると誓うその生きざまが、俺には時折眩しく感じる」


それを聞いたヴァネッサは、くすりと笑って答えたものだ。

「雅史兄さんだって、動物園の飼育係になるまでに艱難辛苦があったんでしょう?アタシは雅史兄さんの生きざまも、同じ位眩しく輝いてると思うけどな」


そんな過去の記憶を呼び覚ましながら、雅史とヴァネッサの四方山話は続く。


外の霧雨は、まだ止む気配はない。

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Jack the painter外伝〜鳥羽根雅史の日常〜 テクパン・クリエイト @TechpanCreate

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