第3話 解放の時③
うじしろというのは誰のことだろう?
さっきコワレが私に名乗った性はマクスフォードだったはず。それとも和名の名字のほうは割愛していただけだったのだろうか。
私が頭の中で浮かんだ疑問符の整理に追われているうちに、里子さんは遠慮もなくずかずかと私の部屋に踏み入ってきた。制止の声を差し挟む余裕すら与えてくれないほどに、人間離れした敏捷な動きで。
「心配したのよ‥。あなた一体この三日間どこにいたっていうの…!」
コワレの肉の薄そうな肩をがしりと両手で掴んで、里子さんは声を震わせてそう言った。
両方の眉をきりりときつく寄せて、激高をする彼女を見るのは初めてのことだったから、私は目を見張って、コワレが彼女に詰められるままでいるのをじっと見ていることしかできなかった。柔和な微笑みを浮かべる以外に、あまり感情を表に出すことはない普段の里子さんのことを思えば、彼女の怒りの度合いが知れるというものだった。
「すいません‥」
細々と風に吹かれればかき消えてしまいそうな声で、コワレは返事をする。
里子さんの詰問から逃れようとする彼女の視線は、四畳半の畳の上をうろうろとするばかり。私と対していた時とは打って変わって、彼女の顔には微かな怯えの色が滲んでいて、心なしか緊張のためだろうか、引き攣っているようにも思えた。
「お、落ち着いてくださいよ、里子さん…。彼女、怯えていますよ」
コワレの意気消沈としていくその様が、さっきの新川の橋の上で起きた事故と、その時のコワレの、手を差し伸べずにはいられない、庇護欲をくすぐるかわいそうな姿を思い出させた。ようやっと金縛りにあったみたいに固まってしまっていた自分の体を突き動かして、私は二人に近づいた。コワレの肩から、里子さんの手を引き剥がす。意外に里子さんは特に抵抗をするような素振りは見せることはなくて、その点に関してだけはほっと胸を撫で下ろす心地にさせられた。掴みどころのない人だとは思っていたけれど、それでも芯のところではきちんと分別をつける能力のある、大人をやっている人なのだと認識していたから、その里子さんがこれ以上の暴挙に出ようというのなら、私は他の大人を呼ぶ必要に迫られるところだった。今まで寮母と寮生とで一年近くもの間、仲良く付き合ってきた彼女を悪者にするようなまねは、極力避けたいことだった。
「ご、ごめんなさい…。でもあたし、本当に心配していたのよ。何の知らせもなく部屋を出て行ってしまって…。連絡がなかったら警察を呼んでいたところだったわ…」
魂が抜けていってしまうみたいに、里子さんはふらふらと体を揺らして、畳の上にへたり込んでしまった。
「本当にご迷惑をおかけしました…」
「それで、あなたの言ってたものは見つかったの?」
里子さんは細く目をすがめて、コワレに尋ねた。なんとも重たそうに頭を持ち上げて、睨むような形ですらあった。私は二人の交わす内容の一片だって理解できない立場にいながらも、里子さんの方に駆け寄って、何も知らないなりに、背中をさすってやるぐらいのことはした。
「言ってたもの…」
「か・ぎ!探してたって言ってたじゃない!」
「ああ…。それでしたら…、一応は無事に見つかりました」
「あらそう」
里子さんはそのコワレのなんとも曖昧な返答に、一応は満足したらしく、すっくと立ちあがってドアの方にすたすたと軽い足取りで向かった。あまりの回復っぷりに、私は驚くというより唖然とするほかなかった。
「夜遅くに、騒がしくしてしまって…、本当にごめんね。とにかく宇治城さんが見つかって、私はほっとしました!」
里子さんはそうやって自分の言いたいことを一息に言い切ってしまうと、訪ねて来た時とは比べ物にならないような晴れやかな表情をして、そそくさと退散していってしまった。鉄扉がばたりと閉められて、私は慌てて鍵を閉めに行く。台風みたいな人、という形容があるけれど、里子さんの来訪、もとい襲来によって未だ心臓の苦しいくらいの拍動が止まらない私には、台風をお届けに来た人、という言い方の方がまだいくらか的を得ているような気がした。
「な、なんだったんだあの人…」
深いため息とともに、押し込められた心の叫びを吐露する。
「あの方…、心の底からここに暮らす人たちのことを思っていらっしゃるんですね」
極めて慇懃な物言いで、私とは真逆の感想を述べるコワレ。名前こそ知ったけれど、私にとってはあんたも十分なんなんだの部類に入るからな…、とかつい口に出てしまいそうになる。
「あの、もしかしてコワレってさ…。うちの寮生になるの?」
さっきの二人の会話から類推するに、私はコワレとは今夜が初の遭遇になるけれど、里子さんはどうやら違うらしいというのだけはかろうじて分かった。そうして言えることは、コワレが新しい入居者になるのでは…、ということだった。確かに近々、空室となっている私の隣、102号室が埋まりそうだという話が、寮生たちの間で話題に上がってはいたのだ。その噂の入居者がコワレなのだろうか?
「ええ、そうなんです。実を言うと、三日前には入寮の手続き自体は終わっていたのですが…」
「ああ、それで里子さんはあんなに」
彼女のあの取り乱しようは、手続きを終えたコワレがなぜだか知らないけれど失踪をしてしまったことに起因しているのだと、ようやく合点がいった。
確かに出会って早々の入居者が姿を消せば、寮生思いの里子さんのことだ、あれくらいで済んでまだよかったと言えるかもしれない。
「ご挨拶が遅れてしまって…」
「いーえ。でも、そうだったんだ。あ!じゃあコワレも○○学園に通うってことだよね。おんなじクラスだったらいいな…。もう決まってたりするの?」
私の質問にコワレは微かに表情を歪ませて、「ええ、○○学園に転入することになってはいるのですが、なにぶん日本での生活の勝手がよくわからなくって。当分の間は、特別クラスで授業を受けることに…」
「ふむ…。特別クラスね」
特別クラス…。聞き慣れない言葉に首を傾げているうち、にわかに思い出してきた。確か日本語習熟のあまり進んでいない外国人留学生のために設置されたクラスで、彼らの授業は普通科の私とは縁もゆかりもない特別棟で行われていたはずだ。そうなるとコワレと校内で接するような機会はそう訪れるものではないということになる。せいぜいが、合同体育の授業くらいだろうか。
「そっか…。それはなんとも寂しいね。せっかくここで友達になれると思ったのに…」
「はい、ほんとうに…」
私の言葉に、コワレは本当に悲壮な顔をしてみせる。故郷を離れて、慣れない土地で生活をするというのは、いろいろと心細い思いをすることもあるだろうし、できるだけ彼女のことは気にかけてあげよう…。肩を落とす彼女を見て、真にそう思った。
「あ!そうだ、この機に色々と質問をしてくださいよ!お互いのことを知った方が、きっともっと仲良くなれます!」
ぱっと花の咲くような笑みを見せたかと思うと、コワレは嬉々としてそう言った。唐突な提案に、ついどきりとしてしまう。そろそろお開きと思っていた私は、さっきの自身の失言を恨んだ。『友達になれると思ったのに…』なんて言うのは、今現在あまり親しくない人に対して使う表現であって、短時間のことではあるけれど十二分に懇意にしてきた彼女にかけるべき言葉でなかったのだ。私の彼女の不安を煽るような失言が、彼女に無理をさせている。私がそんな後悔をしているとは露ほども知らないコワレは、「どうぞ、遠慮なく!」とどっしりと構えてみせる。彼女の方だって一晩のうちで蓄積された疲労は相当のものだろうと思うのに、喜色満面を浮かべる彼女からは、不思議と弾けるような溌溂さすら感じられる。体力お化けが過ぎるな…。
今夜はなんだか色々なことが重なって起きて、正直もう独りになってしまいたいという気持ちですらあったのだけれど、そう期待の眼差しを向けられると…。放っておく訳にもいくまい…。
「…わかった。じゃあ…」
もうこれでおしまいと言わんばかりに、稼働するのを拒む自身の頭をなんとか働かせて、コワレにぶつけるべき疑問を探してみる。未だ謎の多い彼女のことだから、遅々として動こうとしない私の頭でも、質問はすぐに思いついた。
「あんまり聞かれたくないことだったら別に答えてもらわなくて大丈夫なんだけどさ。入寮してからの三日間、コワレはどこ行ってたの?」
封印されし、ディスカディア @kobemi
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