第2話 解放の時②

「はい、どうぞ。お口に合うといいんだけどね」

目の前に差し出された丼を前にして、彼女はまず小鼻をぴくりと動かした。丼からもくもくと沸き立つ煙が、彼女の嗅覚を確かに刺激する。私にはその様がはっきりと見えるようだった。私が瞬きをする数瞬間のうちに、彼女の瞳に子どもの大喜びする時に見せる純粋無垢なあの輝きが、いつの間にやらひっそりと灯っていた。次には彼女は卓上に置かれたフォークにこわごわと手を伸ばして、麺本体をすする、かと思いきや、手始めに盛り付けられたハムの方ににかぶりと噛みついた。

「ごめんね、こんなものしかなくて」

自ら招待しておきながら、生活能力のない私に出せるのは、非常時のため(非常事態というが、なぜだかこれは頻繁に訪れる)と買い貯めしておいた即席麺ぐらいが関の山だった。せめてこれくらいはと思って、冷蔵庫からかき集めてきた野菜やら、ハムやらを刻んで乗っけるだけのことはしてみたものの、こんなもので果たして外国人の彼女の舌は満足してくれるだろうか‥。もちろん、インスタントの味の安定感はよく知るところではあるが、それが異国の人にも通じるかどうかはなんとも確証の持てないところがある。

「な、なにをおっしゃいます‥」

勢いそのまま、がぶがぶと二切れあったハムをやっつけてしまうと、彼女は口の中のものが完全になくなるまで待ってから、抗議の声を上げた。

相当にお腹が空いていたのだろうに、それでもなお喋る時に口元を隠す上品さを忘れないところに、私は彼女がどんなに高貴な生まれの人なんだろうかとそんなことを考えていた。

「とってもおいしいです!このお料理は何と言うんでしたっけ?」

「ラーメンだね、インスタントだけど」

「ラーメン!」

黄金色の光沢を放つラーメンのスープにそれは熱い視線を注いで、彼女は左手でフォークを高々と構える。

「‥なんて甘美な響き!」

言うが早いか、彼女はフォークを巧みに使って、私達の普段するようにずるずると麺をすすることはしないで、パスタでも食べるみたいに麺をくるくるとからめとって、ぱくぱくとラーメンを食べ進めていく。

確か外国では麺類をすするのはマナー違反なのだっけ。テレビか何かで聞きかじった情報を思い返す。

では私も‥、と思って目の前に置いた自分のラーメンの方に一度は箸を伸ばそうとしたのだけれど、目の前で展開される、華奢な女の子の体にするすると面白いくらいにラーメンの消えていく光景に、私の興味は完全に彼女の方に移ってしまった。

頬杖をついて、思わず彼女の食事する様に魅入ってしまう。他人様のお食事を見物するなんていうのは、あまり褒められたことではないだろうと思うけれど、彼女の人を惹きつけるカリスマ性のさせるところだと、責任転嫁をしてみる。それと同時に、ちっちゃな我が子のご飯の世話をするお母さんの、好いとこ取りをしているような気もした。これはとてもかわいい。

「おいしい?」

たまらず、お母さんが口にするみたいに確認してしまう。

「はい!とっても!」

きれいにスープまで飲み干して空になった丼を大事そうに抱えて、彼女はこれ以上ないくらいのほがらかな満面の笑みをくれた。


「自己紹介まだだったよね‥」

机を挟んで相対する彼女に向かって、そろりと切り出す。

彼女がラーメンを完食して一息ついている間に、私もせっせっと伸びきってしまった自分の分を平らげるのに徹した。

別にいいよと断りはしたのだけれど、意外に頑固な彼女は手伝うと言って聞かず、しばらく押し問答を続けた後に私の方が根負けをして、手狭なキッチンに二人並んで、大した量もない洗い物をした。

ラックにかけた食器の一つから落ちた水滴が、ぴちょんと背後で音を立てる。

「私は鶴弥千昂。漢字は‥、いや説明しない方がわかりやすいか。それともチアキ・ツルヤとかってかっこいい言い方した方がいいのかな?」

冗談半分でそんなことを言ってみる。

洗い物を終えて、壁に掛けられた学校指定の私のセーラー服を物珍しそうに眺めているだけだった彼女は、私の問いかけに一瞬面食らったような顔こそしたけれど、すぐさま居住まいを正して、「いえ‥、ふふっ。千昂さんですね」と上品に口角を持ち上げてみせた。

彼女の笑顔に心の内でほっと安堵の息を吐く。私の拙いジャパニーズジョークがきちんと伝わってくれたようでなにより。

「名乗るのが遅れてしまいました。コワレと言います‥、コワレ・マクスフォード…」

胸に手を当てて、彼女ーコワレというらしいは、伏し目がちに、それでもはっきりと私の目を見据えて、おずおずと名前を明かしてくれた。

「コワレ…、おいしそうな名前だね。確かお菓子にそんな種類のやつなかったっけ?」

「ああ…、それを言うならスフレではないかしら?」

「あ。それだ」

頭の中で浮かんだことをそのまま口にしたような(というより実際そうだったのだけれど)私のちゃらんぽらんな質問にも、彼女は嫌な顔一つせず律儀に答えてくれる。

「いい名前。なにより響きがかわいい。私、自分の名前あんまり気に入ってないから、特にそう思うのかな」

「えー、千昂さんだっていい名前じゃないですか」

「いや、日本人の感性でいくとね。千昂ってのはけっこう中性的な名前になるの。小学生の頃とかは、この名前のせいで嫌な思いもたくさんして。今でこそ普通くらいだけど、昔は髪も短かったし」

男みたいだとからかわれるのが嫌で仕方なくて、それだけの理由で伸ばした髪を摘む。大した手入れもしていない髪は、ざらりとした感触でお世辞にもきれいとは言えない。

「そんなことより、別に敬語じゃなくていいんだよ。それにもいらない。たぶん同い年でしょ?」

コワレが何か言ってくれようとしているのを遮って、話題を変えようと試みる。強引さが過ぎたのが、彼女はすぐの返答には窮した様子だったけれど、「いえ、命の恩人に砕けた言葉遣いはできませんよ」とにこりと薄く微笑んだ。

「それに、私、こっちの方がしっくりくるんです」

あくまでも毅然として言い放つ。私は彼女がどんなに頑固な性格をしているのかをさっきのことで身を以って知ってしまっている以上、何も言い返すことができなかった。命の恩人というのはいくら何でも言い過ぎだとは思うけれど。

「あ、そう」

長いものには巻かれろの精神で、あっけなく受け入れる。

「でも確かに、年齢は変わらないかもしれませんが」

「え?いくつ?ちなみに私は十七だけど」

「やっぱり!私も十七歳ですよ。同い年ですね!」

白い歯を覗かせて、いかにも快活な印象を与える笑顔を作ったコワレは、ちゃぶ台の上に身を乗り出して、私の左手をぎゅっと包んだ。

「お、おう。それはよかった」

図らずも彼女の豊かな胸元が、彼女自身の腕によって固く寄せられて、私が同じことをしても決してこうはならないだろう幾本もの深いしわが刻まれる。

彼女の着るt-シャツが軽く悲鳴を上げそうになっているその様を、思わず果てしない虚無の瞳をして穴が空くほどに見つめてしまう。というより、ほんとに空かないかなとかついつい過激な思考に陥りそうになる。あぶない、あぶない。

「あ、ああ…。失礼…、しました…」

私の底意地の悪い視線をどう勘違いしたのか、コワレはなぜだか少し照れた様子で、そっと私の左手の拘束を解いた。どうやら了承も得ずに私の手を握ったことを出過ぎたまねをしたとでも思ったらしい。そういうことじゃないんだ、そういうことじゃ。

「いや、別に大丈夫。ん?じゃあさ、コワレは…」

ふと気になったことを尋ねようとしたその時だった。

ピンポーンと間の抜けた電子音が鳴らされた。

「ちょっとごめんね」

立ち上がって、ドアの方に向かう。この狭い四畳半で、私が玄関口に向かうまではそう時間がかかることでもない。それだというのに、来訪者は相当にせっかちな人物らしく、ドガドガと扉を叩いて催促をしてくる。まだ二十時台のこととはいえ、近所迷惑になることも考えてほしい。そして、私はそういった細々とした物事に頓着しないダメな大人に、一人心当たりがある。

「や。夜分遅くにごめんね」

扉を開いてみれば、案の定そこにいたのは寮母の里子さんだった。

特段先刻の無礼に対して悪びれた風もなく、片手を挙げて、目元を柔らかに、里子さんはいつもの調子でいた。下ろせば胸元の辺りまで優に届きそうな長い黒髪を夜風になびかせて、前髪は左側にゆるく流している。一つ、普段と違うところを挙げるとするならば、本質的には悠然として何事にも動じない頼りがいのある彼女が、ついさっきまで辺りを走り回っていたみたいに、今日はうっすらと額に汗を浮かべているところだった。

「どうしたんです?額に汗して。なにかあったんですか」

「んー、なにかあったっていうか、なんていうか…。ちょっとね。茶色がかった髪色の、外国人の女の子。知らない?」

右手の人差し指を顎に押し当てるようにして、里子さんは気まずそうな顔をしてそう言った。

「知ってるも何も、今ここにいますけど…」

ドアを最大限に押し開いて、里子さんに部屋にいるコワレのことが見えるようにする。

「あ!宇治城さん!こんなところにいたの!」

コワレのことを見つけた瞬間、里子さんは頓狂な声を上げた。

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