封印されし、ディスカディア
@kobemi
第1話 解放の時①
からからと心地の良い音を立てて、私ー鶴弥千昂とは中学生の頃からの長い付き合いになる愛用の自転車、「進太郎」は月明りを受けて鈍い光りを私に差し向けた。
その微弱な照り返しに目を細めながら、私は彼女との邂逅を果たしたあの日のことを思い返す。
そう、あの日も月が出ていた。それはとても大きく、くっきりとよく見えた。
部活終わりに学校を出てすぐ、交差点に突き当たるまでの途中で、大抵のことには無関心・無感動を貫いているあの愛奈が、わざわざ自転車を降りて、写真を撮りだすぐらいには。
後からテレビのニュースで見聞きした情報によれば、なんとかムーンとかいう何年か一度にしか見られない珍しいもの、ということだった。
スーパーだったか、ハイパーだったか、エクストラだったか。いや、はたまたブラッドとかではなかったか。
まあそんなことはどうでもいい。少し脱線してしまったので話を戻そう。
えーと、そう!愛奈と交差点のところで別れたあと。八月の未だに昼間の熱気を引きずって、宵の口とは言えどもまだまだ生ぬるい風に晒されながら、私はいつも通りの帰宅路を急いでいた。
なにゆえ急ぐ必要に迫られたのかといえば、それはついさっき見た月のせいだった。
あそこまでぶくぶくと膨れ上がった月を見るのは、いや、見え方が違っているだけで月本体の大きさは変わっちゃいないのか。
ま、そんなこともどうでもいい。とにかく、いつになく肥大化して見えた月が、あの時の私にはひどく恐ろしいものに思えた。
『お前らなんか俺様が一度落っこちてしまえば、屁でもないな!』、とか文字通り上から目線に嘲笑われているような気がしてならなかったのだ。
幼稚園児にも引けを取らない豊かな想像力を、高校生になっても持ち越してしまったかわいそうな女の子。それが私で、その非凡なまでの妄想力の産物たるお月様の下品な嘲笑を背中に浴びながら、私はせっせとペダルを回し続けた。
足を懸命に動かせば動かすほどに、自転車の勢いに加速がつけばつくほどに、じわじわと迫り来る満月の虚像に、私の背中の冷や汗はとめどなく溢れ出続けた。
高校から私の下宿先までの道中には、大小合わせて都合三つの坂があり、私は今それら三つの坂道のうち、住宅街を抜けてゆく二つ目の長い坂道の途上にいた。
倍加していく肺のきしむような痛みを堪えながら、やっとの思いで坂道の頂上に登りつくと、なんとも言い知れぬ達成感に包まれて、気持ちの昂る様な眩暈すら覚えもした。
残留するそんな軽い浮遊感を振り切るようにして、肩までで切りそろえた髪をぶるぶると振り乱しながら、颯爽と下り道を走り抜ける。
そうして、少しだけ続くなだらかな平坦道を、なるだけ下り道で得た勢いを殺さないように心掛けながら進んで、最後の三つ目の坂道に突き当たった。
この最後の坂道は、それこそとどめとでも言わんばかりに、三つの坂道のどれよりも傾斜がきつく、またどれよりも長い。
凶悪の一言で片づけられればよかったと言えたが、この坂道にはくねくねと二、三、の小さなコーナーのようなものが配されていて、ここまでの道程を走り抜けて来た下宿生達を、長年に渡って大いに苦しめてきたのだろうというのは、ここを通るたびに思うことだった。
弛緩していた全身に再び力を入れ直し、それは重く感じられる一漕ぎに全体重を乗っけることで、苦しいながらもじりじりと亀の歩みで急勾配の山道を登って行く。
坂道に等間隔で設置されたひょろ長い常夜灯を、一本、二本…と数えていくうち、六本目に達したところで、長く険しい坂道の終わりがやって来た。
澄んだ夜空がより近く感じられる坂道の頂上からは、横幅にして五十メートルはあろうかという『新川』のせせらぎと、新川の橋を越えた先にある我らが『惜しみ荘』にぽつぽつと明かりの灯っているのが見えた。
幾度となく見下ろしてきた日常の風景に、飽きと安堵の入り混じった吐息を漏らして、私はペダルに足をかけ、ひとりぼっちのウイニングランのつもりで、それは長い下り道に入った。
吹きつける爽やかな風を楽しみながら、一応の注意は忘れずに、ブレーキハンドルにはしっかりと手をかけて下っていく。
坂道を下っていく間で、ひしめき合うようにして軒を連ねる家々から漂う、カレーか何かのおいしそうな匂いが私の鼻腔をくすぐってきて、酷使され尽くした体には、その香りすらご褒美と言えた。
冷蔵庫の中身を思い出そうと、糖分の足りない頭を働かせているうち、坂道の終わりが近づいてきて。
そうして橋の袂に差し掛かろうという時だったー私の目の前にふらりと黒い影が立ち現れたのは。
あまりに突然のことに、ずきりとすくんだ心臓。
それでも末端の手足の方は、常日頃からバレー部の部活動を通して鍛え上げられた反射神経によって、ありったけの力を込めてブレーキをかけることができた。
そう、とりあえずのブレーキは間に合った。が、そうはいってもやはり、下り道で得た運動エネルギーを完全に抹殺できようはずもなく。
着実に迫り来る衝突の時を前にして、私は今にも私に轢かれようとしているものが女であることを知った。
背中の辺りまで伸ばされた派手なオレンジ髪は、夜の風にさんざん吹き乱されたせいだろう、豪快なまでにあっちこっちを向いて暴れまわっていて、出会う状況が状況なら怪異と間違えて絶叫をするところだったろう。
彼女の頭部の観察を終えた頃には、もう他の部位に移る余裕すらなくて。
そうして、彼女のひどく虚ろで、手当たり次第に全てを取り込んでしまいそうな果てしない闇色をした瞳と視線がかち合った時ー。
ぎいいいい…
今はもうすっかりと日の落ちた住宅街の静けさを、黒板を爪で引っ搔いた時のような耳障りなあの音が、鋭くつんざいて。
どんっ!
その後に来たのは、思わず耳を塞ぎたくなるほどの、瞬間的な破裂音。そして目が乾きそうになるくらいの強烈なまでの風が、顔面に吹きつけられた。
あの速度だ…、過失であったとはいえ人殺しを成し遂げてしまった。それを確信していた私は、残酷過ぎる現実を直視することを嫌って、頑なに目をつむっていた。
そして、そのせいで実際に展開されていた奇妙奇天烈な事実を、当事者の身にありながら、その一切を知ることができないままでいたのだった。
いつまでも目を開かずにいることで、いつまでも厳しい現状に向き合わずに済むと思っていた。ちょうどいつまでも覚めない夢を見続けようと、幸せなことばかりの起こる非現実の世界に閉じこもろうとするみたいに。
でも、そんな幻想の世界に醜くもしがみつこうとする私のもとに、現実世界の私の抱いた一つの可能性が、容赦なく漏れ出してきて。
「もし、あの人にまだ息が合ったなら」「今ならまだ間に合うかもしれない」
ふって湧いた考えに、私はおそるおそる目を見開いた。
薄く水の張った、震える瞳が捉えたのは、血に塗れた女の、見るも無残な姿などではなかった。
そこにはおよそ血の通っている気配の感じられない、抜けるような真っ白な肌をしたオレンジ髪のさっきの彼女が毅然として立っていた。
彼女は大きな瞳を殊更に大きく見開いて、自分の身に降りかかろうとしていたことの重大さに、唖然とするばかりといった具合だった。
「あ…、」
彼女の桜色をした薄い唇から、いたずらを見つかった子供の無意識のうちに漏らす時の見本のような「あ…、」が漏れ出した。
その時、またまたかっちりと、今度はより間近ではっきりと彼女と目が合って。私は思わず目線をさっと足元に逃がした。いかにも外国人然とした彼女の蒼の瞳に、押し負ける形だった。
「あれ?どうして‥」
彼女はぷるぷると口元をわななかせながら、うわ言を口走るみたいに焦点の合わない目をしてそう言った。
かと思うと、両手で挟み込むようにしていた私の自転車の前輪からぱっと手を離して、ふらふらと酩酊している人みたいな足取りで、そろそろと後ずさりをする。
「どうして、フィア様がこちらに…。それともやはり気が変わって?」
髪が汚れてしまうことを惜しむ素振りなど一瞬だって見せることなく、彼女は両手で豊かなオレンジ髪をぐしゃりと押さえつけて、またまた訳の分からないことを次から次にぼそぼそと口元で言い続けた。
「あの、ごめんなさい!け、怪我はありませんか?とりあえず落ち着いてください」
一種の錯乱状態にあるのかもしれない。なんといっても着衣の状態でこの薄い月明りの下だ。何か資格を持っている訳でもない素人の私に、適切な判断など望むべくもない。
「あの、どうか座って安静にしていてください。興奮してるだけで、動けてるだけなのかも‥。今、救急車呼びますから」
ふらふらと覚束ない足取りで地団駄を踏む彼女を前にして、私は心細くて仕方がなかった。自分の不注意で起こした事故のことが露見してしまうことの恐れよりも、誰かそばにいてくれる専門の人が来て、彼女に対してしっかりとした診断をしてくれる。今の私は、そうして得られる安心の方をはるかに必要としていた。
「や、やめて!」
スマホを取り出して救急に電話をかけようとする私の手を、オレンジ髪の彼女の手が鋭く遮ってきた。彼女の鬼気迫る声音に、気圧されてしまう。
「そ、そんなことはしていただかなくてかまいません‥。私はすり傷の一つもしていないんです。驚かせてしまってごめんなさい‥」
俯きがちに、彼女は消え入りそうな声でそう言葉を紡いだ。垂れてきた前髪のせいで、彼女の表情は窺い知ることはできない。それでも、彼女の瘦せこけた薄い頬は、まるでついさっき私の行動を制止するので持ち合わせていたなけなしの活力を全部使い切ってしまったみたいに、小刻みにおかしな震えを見せていて、彼女の疲労の深刻さは痛いほどわかった。
「でも‥。体に傷はなくても、あなたひどく憔悴しきっているようにみえるわ。誰か呼んだ方が‥」
「いえ、お構いなく。飛び出したりして、すいませんでした‥」
彼女は言下に私の提案を切り捨てて、緩慢な動きで腰を折った。それすらも億劫といった具合に頭を持ち上げると、くるりと踵を返してよろよろと歩き出す。
夜の闇に溶け込んでしまいそうに思える彼女の、なんとも頼りない背中を見ていると、私はたまらず、「まっ、まって!」と、声を張り上げていた。
訝し気に、彼女は私の方をゆるりと振り向いた。実際に出くわしたことはないけれど、幽霊とはこんな顔をしているのだろうと自信を持って断言できる。それくらいに振り返った彼女の顔は、驚くほど蒼白だった。
「私の家に来ない?」
彼女が喫緊で必要としているのは温かいご飯をくれる誰かで、そしてその誰かは心根から善良でなければならない。なぜかといえばそれは、彼女が思わず溜息が漏れ出そうになるくらいに美しい、異邦人だからだ。右も左もわからないだろう彼女のために、私はその選ばれし誰かに、ぜひとも立候補することに決めた。
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