第4話

 特に連絡を取る人がいるわけでもないから、携帯電話の電源を切っていてもさほど支障はなかった。そのまま鞄に放り込んでから、はや三週間。フロアが違えば社内でそうそう会うこともなく、西條とはあれ以来顔を合わせていなかった。会社のパソコンにチャットが送られてくることもない。

 日常が戻ってきたような感覚とともに、ようやく出会えたかみさまがいない日々の意味を、ずっと考えている。

 自分は、かみさまに、……西條に出会うために、これまでの人生を歩んできたはずだ。なのに、あの日、自らかみさまを拒んでしまった。後悔はある。しかし、受け入れ難い行為であったのも事実だ。神聖な存在から性のにおいがすることが耐えられない。ましてや、自分なんかを相手に。

 堂々巡りする考えに終止符を打つためには、どうすればよいのか。一度浮かんだ不安感はそう簡単には消えないし、また西條と元通りの関係になれるとも思えなかった。

 なんとなく、久しぶりに携帯電話の電源を入れてみる。予想はしていたが、通知は何もない。気持ちが沈みそうになるのを感じてから、気がついた。

自分がいつも待ちの姿勢であることを。

 こちらからかみさまにお声がけするのは恐れ多いと思っていたのは確かだ。でも、自分が何も行動していなくとも、彼はいつだって、受け入れてくれた。そんな彼に、自分は甘えていた。すべて許されるという蜜を啜っていただけで、かみさまの、彼のことは何一つ見えていなかった。

 小刻みに震える指で、メッセージを打つ。たった一文、文字を打つのにかなりの時間がかかった。定時はとっくに過ぎてしまったけれど、ようやく送信ボタンを押す。反応は返ってこないかもしれないが、ここで勇気を出さなければ、きっとこの先一生悔いを抱えることになる。

 ぎゅう、と携帯電話を握り締めて、席を立った。

『いつもの場所で待っています。』



 会社の最上階、フリースペースの自販機前にあるソファ。ここに座って、西條にジュースをもらったことが、昨日のように思い出せる。あの日のように腰掛けて、先程買ったいつものジュースの口を開けた。微炭酸をゆっくり喉に流し込み、気持ちを落ち着かせるよう努力するが、味はよくわからなかった。

 腕時計を見れば、自分がここに来てちょうど一時間が経過していた。メッセージに既読のマークが付いたかどうかは確認していない。それを見て一喜一憂してしまうのがわかっているからだ。

 かみさまを待ち続けた時間に比べれば、何でも短く感じられる。もし今日西條に会えなかったとしても、待ち続けられる自信はあった。

 彼に会ったら、最初は何を伝えようか。目を閉じて考えていると。

 コツ、と革靴の足音が聞こえた。

 目を開けると、自販機の横に西條が立っていた。

「西條さん。」

「……。」

 立ち上がって呼びかけても、相手は何も応えない。ただじっと、こちらを見つめているだけだ。いつものやわらかな表情はなくて、両の目に宝石を嵌めた美しい石像のようにも見えた。駆け寄ろうと思っていたのに急に足が竦んで、身体が動かない。かろうじて唇だけは動きそうだったが、先に口を開いたのは西條だった。

「先日は、すみませんでした。」

 頭を深々と下げて謝罪される。ぴんと張りつめた糸のように、はっきりとしているのに、もう少しでちぎれてしまいそうな声音だった。

「……西條さん、」

「調子に乗っていたんです。笠間さんも私を受け入れてくれると、当たり前のように思っていました。」

 西條は俯いていて表情が見えない。一歩近づくと、距離を詰めないでくれと言わんばかりに、彼は一歩下がる。

「────初めて、だったんです。」

「え?」

「拒絶されたのは。」

 西條の手は固く握り締められていた。小刻みに震えているようにも見える。彼はため息混じりに続けた。

「私、この見た目でしょう。仕事もそこそこできるし、プライベートも多少は気を遣ってる。だから、性別問わず寄ってくる人って多いんですよね。……私が何をしても、褒めちぎって、陶酔して、終わり。」

 いつも自信に満ちている太陽のような人が、自らを嘲笑っている。ゆっくりと顔を上げた彼に、やはり表情はなかった。かける言葉が見つからなくて、ひたすら視線を彼に向けることしかできないのが、もどかしかった。

「出会った時から、あなただけは何か違うって、思ってた。……私に対して、無条件にやさしくて、決して寄りかかろうとしない。一線を引いているけど、入り込んでも許されそうな隙もあって。」

 これまで、西條が自分をどのように見ているのか、ここまではっきりと口にしたことはなかった。驚きとくすぐったさと、……ずっと言えないでいることの罪悪感が、自分を蝕む。

 それは、あなたが、かみさまだから。

「違う、とわかっていて。どうして受け入れてもらえると思ったんでしょうね。……本当に、すみません。」

 西條は再び頭を下げる。

 気を抜けばすべて吐き出してしまいそうな感情の奔流を必死に抑えながら、言葉を探した。何と言えば彼にこの想いが伝わるだろう。彼は自分に対して、今まで隠していたであろうものを吐露してくれた。その誠意に、どうやったら応えられるだろう。

「今まで、楽しかったです。ありがとうございました。」

 そう言って、踵を返そうとする西條のジャケットの裾をとっさに掴んだのは、無意識だった。

「ま、待ってください。」

 西條は一瞬目を見開いて、すぐにまた無表情に戻る。

 とにかく何か言わなければ。このままで終わらせてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴っている。

「……僕、……西條さんと一緒にいられて、嬉しいです。」

「…………。」

「綺麗で、何でもできて、誠実で、素晴らしい人だと。そう、思っていて、」

 自分でも理解できないような、頭に浮かんだだけの言葉の羅列が、そのまま口から飛び出す。西條は微動だにせずこちらが発する次の音を待っている。手のひらにじわりと汗が滲んだ。

「西條さんは僕にとって、────特別、なんです。」

 言葉を尽くしてくれた彼にさえも、濁してしまった。

 一瞬の躊躇は、仇となる。

「────なんだ。あなたも、皆と一緒だったんですね。」

 聞き慣れたトーン。しかしこれは、いつも自分と話す時の声ではない。『その他大勢』と話している、氷をまとった、触れれば皮膚が裂けてしまいそうな、温度のない声だ。彼の口元は弧を描いているが、ただ、それだけ。

「私は、勘違いしていたみたいです。あなたは、私のことを特別視しない人だと思っていたけど。ちょっと変わっているだけで、根幹は周りと一緒なんですね。」

 向けられたことのない冷たさに、恐怖を覚える。

 明確に境界線を引かれたことだけはわかった。

「……さい、じょう、さ、」

 途切れ途切れに名前を呼ぶも、続く言葉はない。頭の中が真っ白になる。呼吸が浅くなり、目の前が暗くなっていく。立っているのがやっとだった。

 ジャケットの裾を掴んでいた手を静かに外される。いつも自分のことをあたたかく包んでくれていたその手は、恐ろしく冷えていた。

「……俺は、神様じゃないよ。」

 小さく呟かれた言葉に、頬を強く叩かれた、気がした。



 翌日は、会社を休んだ。

 突発で会社を休むのは初めてで、連絡を入れた際にかなり心配された。それなのに、申し訳ないという気持ちも、気遣いをしてくれる相手への感謝も、何も浮かんでこなかった。虚無、というのが近いだろうか。

 風邪と言って休んだが、熱があるわけではないし、具合が悪いわけでもない。ただ、何もかも手につかないだけだ。食事どころか、立ち上がることすら億劫で、ずっとベッドに横になっている。昨日からまったく眠気はないが、動く気は起きない。することといえば、まばたきくらいだった。

 それなのに、頭はよく働く。西條に言われた台詞を思い返しては吐き気を感じるが、えずいても出るものがない。


 俺は、神様じゃないよ。


 あの時。西條は吐き捨てるように言って、静かにその場を後にした。

 言葉の意味が理解できなくて、呆然と立ち尽くしたまま、ずっと考えていた。警備員がビルの消灯を知らせても、自席に戻って帰り支度をしていても、電車に乗っていても、家に着いても、ずっと。

 永遠にも思えた時間待ち焦がれて、ようやく出会えたかみさまは、かみさまではないという。

 次元を超越したような麗しさで、秀でた才を持ち、驕ることなく人にあたたかく接する。これをかみさまと呼ばずして、何と呼ぶのか。

 抜け出せない思考の中で、ふ、と思い出した言葉。


 あなたも、皆と一緒だったんですね。


 ────違う。自分は、周りとは違う。

 いや、何が違うというのか。西條の言うとおり、特別視していたことは否めない。皆と同様に、彼の見目を美しいと思うことも、頭の回転が速く仕事ができる人だと思うことも、やさしさと強さを兼ね備えた人だと思うことも、もちろんある。けれど。

 自分だけに向けてくれる、ころころと変わるかわいらしい表情。激しく揺れ動く情緒に耐えきれなくなった自分へかけられた、心をあまく包み込む言葉たち。倒れそうになった時には、いつでも背に添えられていたあたたかい手のひら。そして。……燃えるように熱い唇。


 すべてを自分だけのものにしてしまいたかった。


 鍵を何重にもかけて奥底にしまい込んでいた感情の箱が、開いた。そのまま、砂の城のように脆く壊れていく。まるでパンドラの箱にも似たそれは、今まで自分が封じ込めていた黒い感情をどろりと吐き出す。

 今は亡き両親の言うことにはすべて従ってきた。ここにいる自分は両親に作り上げられたものだ。一挙一動、一言一句、かみさまに認められるためだけに『いいこ』であり続けた。彼らは見たことも聞いたこともないかみさまに毎日祈りを捧げ、心から信仰していた。子は神に仕える者であると信じ、意に背けば手を上げることも厭わなかった。勉学に励みなさい。人にはやさしく。命を生む女性には特に敬意を。周囲から浮くような言動は慎むように。彼らの教えは絶対だった。背筋を伸ばし、顔に笑みを張りつけ、丁寧な口調で話せば、彼らは喜んだ。それでこそ神に仕える者としてふさわしいと。本当の自分という存在を無理矢理心の底に抑え込んで、かみさまが、両親が、認めてくれる自分を必死に演じてきた。


 かみさまなんてどこにもいないのに。


 記憶という泥濘に沈む身体。そのまま肺まで泥が溜まって呼吸が止まってしまえばいいのにと思う。物心ついた頃から大事に閉じ込めていた、吐き出せないままの苦い想いが、血液とともに身体中を巡っていく。泥なのか膿なのかわからないものを出し切ったら、自分という箱はすべて空っぽになって、何も残らないのだろう。

 ひとつの光も視界に入れたくなくて、目を閉じ両手で顔を覆うと、瞳の奥できらり、と何かが光った。

 夜、電気もついていない部屋で、それはきらきらと眩しく瞬いている。不思議とうるさくなかった。記憶の中にとても似た光があったような気がするが、すぐには思い当たらない。何だろう、としばし考えを巡らせて。

 答えは、すぐそばにあった。

「……西條さん。」

 彼の、黒曜石のような瞳だ。

 自分にとっての、たったひとつの光。かみさまとしてだけではなく感じていた、得も言われぬ感情。あれはきっと、純粋なときめき。やっと、それを認めることができた。

 西條は、パンドラの箱の、最後の希望なのだ。

 先程まで鉛を飲み込んだように重かった身体は、背中に羽が生えたのかと思うくらい軽くなる。勢いよく飛び起きて、まず携帯電話を手に取った。時刻は二十一時。汗ばむ指で西條のメッセージを選択し、五秒ほどためらってから、電話をかける。

 自分は、彼を傷つけてしまった。もう二度と声を聞きたくないと思われているかもしれない。それでも、着信拒否の音声ではなくコール音が鳴っているから、一縷の望みに賭ける。一、二、とコール音を数えていく。手は流れるほどの汗をかいていて、携帯電話を滑り落してしまいそうだ。

 二十を数え、唇を噛んで画面を見た時。

 コール音が鳴り止み、通話時間が表示された。

 電話の向こうは無音だが、確実に繋がったのはわかる。

「夜分遅くにすみません。笠間です。」

 静かに声をかけても返答はない。緊張でかたかたと震える手に力を込め、言葉を続ける。

「これから、会えませんか。……一度で、いいんです。」

 せめて、すべてをさらけ出したあとで、見放されたい。元通りになるなんて思っていないから、たとえ受け取ってもらえずとも、ひた隠しにしていた気持ちを胸から取り出して渡したい。これは、生まれて初めての、我儘。

『────……笠間さんの家、H駅の近くでしたっけ。』

 感情の読めない声音で、問いなのか確認なのかわからない台詞が返ってくる。ひとまずきちんと会話が通じていたことに安堵しながら肯定の返事をすると、今から行きます、とだけ言い残してプツリと通話が切れた。これは、駅に行けばいいということだろうか。

 簡単に身支度を整えて、家を出た。

 住宅街に囲まれた駅は、平日のこの時間ともなると人気がない。到着してきょろきょろと辺りを見回すが、西條はまだ来ていないようだ。もし西條が自宅にいたのだとしたら、最低でも三十分はかかるだろうから当たり前だけれど。

 はやる気持ちのまま小走りで来てしまって、冷たい風に汗が乾いていく。薄い上着を羽織っただけの格好だから、肌寒さに腕をさすった。

 柱に寄りかかりじっとしていると、もうすぐ二十二時になろうかという頃、携帯電話が震えた。西條から、着きましたという短いメッセージが届いていた。改札の方に目をやると、ゆったりと歩いてくる西條が見えた。

 顔を上げた彼とばちり、目が合う。社内で見る整えられた髪とは違い、額にさらりと前髪が下りて、少しだけ幼い印象を受けた。それでも、美しさには何ら変わりない。

 目の前まで来た彼は、声を発するでもなく、ただそこに立っている。こんな時間に男二人、しかも片方は見目麗しい人物。人目につくのが怖くて、近くの公園に行きましょう、と誘った。彼はこくりと小さく頷いて、先導する自分の後ろについてくる。

 互いに無言のまま三分ほど歩いて到着した公園には、誰もいなかった。遊具がいくつかと、一つの自販機、そしてベンチがあるだけの小さな公園。昼間は子供たちで賑わっていることが嘘のように、夜に溶け込んでいた。

 特に示し合わせることなく、二人でベンチに座る。

「西條さん。」

 声をかけると、冷たく光る瞳がこちらを向く。まるで星空を閉じ込めたようなそれに一瞬見惚れかけたけれど、本題に入れるよう深く呼吸をした。

「こんな時間に、来てくださってありがとうございます。」

 今までの自分だったら、きっとここで視線を外していた。でも、今回ばかりは、きちんと相手の目を見て、真摯に向き合いたいと思った。それは、過去の教えからではなく、自分自身の気持ちとして。

「僕、は。西條さんに、どうしても、伝えたいことがあるんです。」

 両手を組んで、強く握る。何も言わずとも、言葉を待ってくれている彼の存在が、背中を押してくれた。

「…………西條さんを、特別視していたことは、認めます。僕にとって、西條さんは特別で、……特別というか、何にも代えがたい存在で、」

 ぽつりぽつりと言葉を選びながら、時に風に消えそうな声で必死に伝えていく。彼はじっとこちらを見つめたまま、真剣に耳を傾けてくれている。

「────僕の、かみさま、だと。」

 ぴくり、西條の肩が動いた気がした。彼にとっては聞きたくない言葉であろうことは想像に難くないが、どうにか最後まで言わせてほしくて、西條の右手にそっと自身の手を重ねた。その行動が予想外だったのか、彼はハッと目を見開く。

「……思って、いたんです。……あなたの言葉を、聞くまでは。」

「……俺、の。」

 西條が初めて口を開いた。無意識にこぼれ出た音、という感じではあったが、風に乗ってしっかりとこちらの耳に届いた。

 ここからが本番。すう、と大きく息を吸う。

「おまえは周りと一緒だって。自分は神様じゃないよって。……僕は確かに、あなたをかみさまだと思っていて、それが周りと同じに映っていたのだとしたら、否定はできない。でも、……、」

 背中にじわりといやな汗が滲む。これまでの人生で自分の感情を吐露してこなかった分、大事なところで詰まってしまう。本当に伝えてもいいのだろうか。今更になってそんな感情が浮かんできて、悔しさに目頭が熱くなる。

 ついに俯いてしまった自分の背中に、ふわりとあたたかな体温。西條の手のひらだった。促すように、やさしく背中をさすってくれる。言葉はなくとも、言っていいよ、と赦されているようだった。最後に感じたのは氷のように冷たい西條の手だったから、再び戻ってきたあたたかさに、堰を切ったように涙があふれ出す。

「あなたが、……僕に向けてくれる、視線を。言葉を。やさしさを。何もかもを、……僕だけのものにしたいって、思った。それは、かみさまだからじゃ、なくて。……きたない、独占欲、なんです。」

 呼吸が浅くて、苦しい。こんなに美しい人の前で、涙も鼻水も垂れ流して、醜い感情を吐き出している自分。情けないとわかりつつ、今はそれよりも大事なことがあると、必死に言葉を紡いでいく。

「あなたと、いると。……心臓がうるさくて、あなたのすべてが欲しくなって、自分が自分でなくなる、」

 重ね合わせた手を、ぎゅうっと握り込んだ。

「……この気持ちは、何なんでしょうか……。」

 ひゅう、と冷たい風が身体を冷やしていくが、背中だけがあたたかかった。西條の言葉を待っているたった数秒が、数時間のようにも思えた。

「笠間さん。顔、上げて。」

 言われるがままぐちゃぐちゃの顔を上げると、ハンカチで顔を拭われた。潤んだ瞳で改めて視線を合わせれば、西條は微笑んでいた。自分がよく知っている、木漏れ日のようなやわらかい笑みだった。

「あのね、笠間さん。」

「……はい。」

「昔から俺は、神童だとか呼ばれて、特別視されてた。学生時代も、社会人になっても、周りからの目線と期待は変わらなかった。……ずっと、つらくて、苦しくて。でも、素のままでもいいんだって教えてくれたのは、あなた。」

 冷えた頬を両手で包まれる。視線を外さないように、呼吸の音も聞こえてしまいそうな距離で、ふたつの黒曜石が自分を映す。

「あなたの、不器用なやさしさも、心の脆さも、自分を律する強さも。全部俺だけのものにしたい。────俺は、それを『恋』って呼んでる。」

 声が、あまく、溶ける。口の中で角砂糖をころがすように、彼の言葉がじわりと身体中に浸透していく。

「……今度は、逃げないでね。」

「さい、」

 名前を呼ぼうとした声は、彼の唇に消えていく。

 小鳥がついばむようなキスだった。

 自分の身体は強張っていたけれど、嫌悪感は微塵もなかった。そのままゆるく抱きしめられて、西條の香りと体温に包まれる。いつもの濃厚な花の香りではなく、さわやかな洗剤と彼自身の香りだった。

「……僕、は。────。」

 とくとくと脈打つ互いの鼓動を感じながら、小さく呟いた言葉。もしかしたら風に消えてしまったかもしれないけれど。抱きしめる腕がほんの少しだけ強くなったから、今はそれでいいと思った。


「さて、と。明日も仕事ですし、帰りましょうか。」

 西條が立ち上がると、薄着だったこともあってか、急に身体がひやりとする。それにほっとしたような、さみしさを感じるような、相反する感情が生まれた。

 同じく立ち上がろうとすると、足元がふらついてうまく立ち上がれなかった。今日は食事も取っていないし、ひどく泣いたせいもあるかもしれない。大丈夫ですか、と心配そうな声とともに差し出された、大きな手のひら。

「すみません、大丈夫です。」

 月の光を背にして立つ西條の手を、ゆるく握る。

 まるで光の中から手を差し伸べられたようで、まばゆさに目を細めた。

 繋いだ手のあたたかさを享受しながら、思う。


 救いの手は、こんなにも近くにあったのだと。


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救いの手 加子 @kakotosayounara

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