第3話
あれから、西條との距離はさらに縮まった。社内のチャットだけでなく、私用携帯の連絡先を交換するまでに至り、たまに二人で昼食を食べている。
会社の神様が何の取柄もない一般社員と一緒にいると、色々な噂も立つらしいが、特に親しい仲の社員もいないので直接耳に入ってくることはなかった。それでも、噂好きの人というのは案外身近にいるもので、自分も例外ではなく。
「ねえねえ、笠間さん。例の神様と何で仲良くなったの?最近、女性社員の中でよく話題になってるわよ。二人で楽しそうに話しながら、食事してるって。話が合わなそうだけど、どんなこと話すの?」
ここのところ、鈴城が隣で何か聞きたそうにそわそわしているのは知っていた。彼女はこの話をようやくできたことが嬉しいのか、矢継ぎ早に自分へ投げられた言葉の槍を正面から受け止めてしまい、反応が遅れる。
「……え、っと、」
「あの人、クールでかっこよくて仕事もできて、完璧よね。彼女とかいるのかしら。聞いたことある?」
クール、という単語を聞いて、不思議に思う。確かに周りへの笑顔は少し冷たい印象を受けるけれど、自分の前では喜楽が激しい方というか、感情が顔に表れていて、くるくる表情が変わっている。かみさまへの形容詞としては失礼かもしれないが、かわいい、と思うことも多い。親しみやすいかみさまなのだと思わせてくれるから、こちらとしてはありがたい限りだ。
「僕も最近知り合ったばかりなので、そこまではわからないですね。」
「あら、そうなの。じゃあそのうち聞いてみてよ、狙ってる子も多いみたいだしね。」
「僕が色恋沙汰に疎いので、そういう話ができるかどうか……。機会があれば聞いてみます。」
「ええ、よろしく!」
目をきらきらと輝かせている鈴城を見ながら、彼女も西條へ恋愛感情を抱いているのだろうか、と考える。自分はかみさま以外に強い想いを向けたことはないが、それと似た気持ちを皆、異性に向けているということなのか。恋愛や性愛というものが人間として当たり前にあるのは理解していても、自分にはまったく当てはまらない。やはり自分は神に仕えるために生まれてきたのだと、頭の中で話が飛躍する。
気がつけば昼休憩の時間になっていて、鈴城は別部署の女性たちとランチに行くと言って気分よく席を立った。自分はといえば、今日は西條との約束もなく、通勤途中にコンビニで昼食を購入していた。
自席で一人、黙々と食事をすることには慣れきっているのに、最近どうも食が進まない。原因はわかっている。西條と昼食を取ることに浮かれすぎているせいだ。西條との食事は、初めの方こそ緊張で身体が固まっていたが、ようやく心地よい緊張感を保てるようになった。
唯一、かみさまを独り占めできる空間が好きなのだ、という幼稚に過ぎる感情には必死に蓋をしている。我儘とわかりつつ、三十六年もの時を経てかみさまに出会えたという免罪符で、赦してほしいと願ってしまう。これまでの人生で、我儘なんてしたことがないのに。西條と会う度、幸福感とは別に、罪を重ねていくような気分が拭えない。自分の中の、隠れていた醜さが露呈されていくようで。かみさまはすべてを見ているから、見放されるのも時間の問題かもしれない、と。
机に置いていた携帯電話が震える音で、遠くに行っていた思考が引き戻される。画面上には西條からのメッセージ通知があった。
『今日、久しぶりに定時で上がれそうなんです。急ですみませんが、よかったら飲みに行きませんか。』
業後の誘いは初めてだ。昼食と違って一時間という制約もなく、もっと長く西條と一緒にいることになる。そんな状況に、自分は耐えきれるだろうか。
長時間、目を細めてしまうくらい眩しく美しい人を視界に入れて、耳が溶けてしまいそうなくらいなめらかな低音を聞いて、心をひどく揺さぶられるくらいのやさしさとあたたかさに触れて。
考えただけで急激に体温が上昇する。こんなふうに身体が熱をはらむ理由も、まだ見つけられていない。最初は体調が悪いのかと不安になったりもしたが、西條を思い浮かべる度に毎回こうなってしまうから、かみさまに対する何らかの反応であることは間違いないのだろう。
短文のメッセージを無駄に何度か読み返し、覚悟を決めて了承の返信をする。するとすぐに既読の文字がついて、お礼の言葉と何かのアニメキャラクターが踊っているスタンプが送信されてきた。これは、楽しみにしてくれているということだろうか。まるでかみさまの戯れのようで、くすりと笑ってしまう。
彼を待たせないように、今日は必ず定時で業務を終わらせよう。少し弾んだ気分でそう決めた。
十八時。終業のチャイムが鳴り、静かだった執務室がほんの少しだけ騒がしくなる。チャイムが鳴り終わると同時にパソコンをシャットダウンした自分に、隣席から声がかかった。
「あら、もう帰るの?」
「はい。今日は用事がありまして。」
「はあ、仕事頼もうと思ったのに。メール入れておくから、明日中によろしく。」
大きなため息とともにじとりと睨まれて、申し訳ありません、と頭を下げる。鞄を持ち鈴城に背を向けると、再び声をかけられた。
「なんだか急いでるみたいだけど、彼女?」
「……違いますよ。お先失礼します。」
仕事を頼まれるのも、探りを入れられるのも、いつもどおりの会話。なのに、今日はなんだか土足で部屋を踏み荒らされたような感覚に陥ってしまう。女性は神聖な生き物であるから、悪い感情を抱いてはならない。誰にも聞こえない程の小さな声で、昔の教えを口にする。
その場から早足で離れ、執務室を出ると、エレベーターホールのあたりから数名の女性が甲高く笑う声が聞こえてきた。近づくにつれ、さざめきのような黄色い声は大きくなる。中心にいるのはどうやら西條であることが、会話の内容からわかる。
六階にご用事ですか。素敵なネクタイですね。企画された新商品さっそく買いました。今度私とお昼いかがですか。
鳥たちが木々に集まって鳴き続けるように、西條へ降りそそぐ言葉の雨はなかなかやまない。なんとなく顔を出しづらくて、死角で立ち止まっていると。
「もしかして、笠間さんとお約束ですか?」
急に自分の名前が挙がったことに驚いて、びく、と肩を震わせる。普段は業務上でしかやり取りをしない女性陣の口から、まさか自分の名前が出るなんて。最近噂になっているらしいことは、嘘ではなかったようだ。
「ええ、そうですよ。」
やだ、意外。あの地味男くんとかあ。やめなよ西條さんの前で。私たちもついて行っちゃだめですか。私いいお店知ってますよ。大人数の方が楽しくないですか。
終わらない会話にも、内容にも、ぐ、と胸が締めつけられる。やはり自分はまだまだ未熟で、かみさまと一緒にいられるだけの存在ではないのだ。今すぐ震える足を動かして、声をかけて、そこにいる女性たちと出かけてもらおう。
自分を律して、いいこに、ならなければ。
ひとつ深呼吸をしてから、一歩踏み出そうとした時。
「私の大事な友人に対して、地味男だとか失礼なことを言う方々と、同席するつもりはありません。それに、笠間さんはとても素敵な方ですよ。」
冷たく透き通る声が、響いた。
それまで騒がしかったエレベーターホールは、水を打ったように静かになる。
「────笠間さん、お待たせしました。行きましょう。」
「……え、」
いつの間にか西條が隣に立っていた。少しだけ背の高い彼に視線を合わせると、にこりと微笑まれた。
自分は彼の死角にいたはずなのに、どうして。
西條の行動で自分の存在に気がついた女性陣は、蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまった。
「……西條さん、なんで、」
「最初から気がついてましたよ。足音が途中で止まったから、きっと笠間さんだろうなって。」
「それだけじゃ、なくて、……さっきの人たち、」
「ああ。あまりにも失礼だったので、はっきり言っちゃいました。彼女たちは笠間さんのどこを見てるんでしょうね。」
西條はめずらしく、眉根を寄せて不機嫌そうにしているけれど、何が彼の癇に障ったのかがよくわからない。自分なんかと一緒にいるよりも、華やかな女性たちに囲まれて笑っているのが似合っているのに。
「僕のことは、気にせず……、あの人たちと、一緒に行ってください。」
「笠間さん?」
「確かに僕は地味ですし、取柄もないし、西條さんはあの人たちと一緒にいる方が、きっと、」
「笠間さん。」
聞いたことのない強い語気で名前を呼ばれて、身体が強張る。さあっと血の気が引き、唇が震えて声が出ない。きっと今の自分は顔が青ざめているだろう。しかし、視線は西條から外すことができない。それは、彼がこちらを射抜くように見つめているからだった。
「それ以上言ったら、怒るよ。」
「……、」
「俺は、あなたのことを全部知っているわけじゃない。でも、短い時間だとしても一緒にいて、あなたがいつも一生懸命頑張っていることも、とても素敵な人だってことも、ちゃんとわかってる。」
こちらを気遣ってか、いつものやわらかな声音に戻っていたけれど、口調はこれまで聞いたことがない崩れたものだった。諭すように、言い聞かせるように。やさしく強く、心に訴えかけるような言葉。
「あなたはもっと、あなた自身を大事にしてあげて。」
頬に手を添えられて、その心地よさに目を閉じる。西條の言葉が身体に染み渡って、全身を満たしていく。
「……強く言い過ぎていたら、すみません。」
「いえ、……ありがとうございます。」
かみさまからの、自分にはもったいないくらいのお言葉を噛み締める。きっと、このお言葉は否定してはいけないものだ。気がつけば、先程までのぐらぐらと足元が揺れるような不安感はなくなっていた。
「顔色、戻りましたね。大丈夫そうなら、夜の街に繰り出しましょうか。」
「はい。よろしくお願いします。」
会社を出て、電車で五分。そこから歩いて五分。西條に案内されたのは、裏路地に佇む小さなバーだった。
西條が扉を開けると、チリン、小さくベルが鳴る。西條に続いて中に入れば、いらっしゃいませ、と渋い男性の声が耳に届いた。薄暗い照明の下、カウンターが六席と、ソファの四人掛けが二席。そんなに遅い時間ではないせいか、客は他にいなかった。外観のとおり広さはないが、店内全体になんだか芳しい香りが漂っていて、店内は素人目に見ても良いものだとわかる調度品ばかりだ。西條は常連なのか、マスターらしき男性に小さく手で合図し、一番奥のカウンター席に自分を案内した。彼も隣に腰掛ける。
「こういうところ、初めて来ました……。」
慣れない場所にきょろきょろと視線を動かしていると、西條は目を細めて悪戯っぽく笑った。
「いい雰囲気でしょう。他の人には内緒ですよ。」
ドリンクのメニューを渡されて、ぺらぺらとめくっていくが、見たことがないカタカナがたくさん並んでいてよくわからなかった。ちらりと隣に目を向ければ、形のよい唇が聞いたことのない酒の名前をマスターに告げていた。自分も早く決めなければ、と焦ってしまう。
「笠間さん、決まりました?」
「ええと、……、」
「ああ、すみません。バーに来るのは初めてなんですよね。そういえば聞いたことなかったですけど、お酒は飲めますか?」
彼はこちらの戸惑いを察して、一緒にメニューを覗き込んでくれる。
「苦手ではないですが、そんなに強くもないですね。」
「なるほど。じゃあ、甘めが好きとか、さっぱりしている方がいいとか、あります?」
「さっぱりしつつ甘い飲み物……ですかね。」
「ああ、あのジュース好きなら、そうですよね。それだったら……、」
西條はメニューのページをめくりながら、いくつか案を出す。カクテルにまったく触れてこなかった自分には、こんなところまで知識がある彼に、かみさまの片鱗を感じた。
「気になるもの、ありました?」
「そうですね、……じゃあこの、キール、というお酒を。」
メニューにはカクテルの名前の横に、カクテル言葉なるものが書いてあった。おそらく花言葉のようなものだろうが、西條に選んでもらったカクテルの中で、キールが最も今の気分に合ったカクテル言葉だった。
「……マスター、すみません。さっきのはやめて、俺も同じものを。」
カウンター内の男性は小さく返事をして、二人分のカクテルを作り始める。不思議に思っていると、西條はメニューに書かれたカクテル言葉を指差した。
「素敵なカクテル言葉ですよね。笠間さんが、これを見て選んでくれていたら嬉しいなって、思って。」
キールのカクテル言葉は『最高の出会い』。
聡い彼には、自分がこの飲み物を選んだ理由もきちんとわかっていたようだ。薄暗い中でもやさしい視線がこちらを向いているのがわかって、気恥ずかしさに少し俯く。
しばし待って、互いの前に静かに置かれた赤いカクテル。
「最高の出会いに、乾杯。」
からかうでもなく目を細めてグラスを傾ける西條に、こちらも同じ動作をした。カツン、と触れるグラスの音が小さく響く。一口飲めば、カシスの甘さが口に広がり、ワインの香りが鼻に抜けた。自分好みの味を把握したかのような彼の選択に感心する。
「西條さんは、よくこちらへ?」
「ええ。いつもは一人で来るんですが。……笠間さんは、いつか連れて来たいと思っていました。」
「え、」
「自分のテリトリーに他人が入るのは、あまり好きではないんです。でも、笠間さんは、……一緒にいて落ち着くので。」
「そう、なんですか。」
「笠間さんは、私といて、どうです?」
ふいに投げかけられた質問に、どきりとする。彼の目は思ったより真剣にこちらを見つめていた。
緊張とやすらぎが綯交ぜになったようなこの感情を、どう答えたものか、と悩んでいると。
「すみません。困らせちゃいましたね。」
「いえ、あの、」
「無理に言わなくても大丈夫ですよ。笠間さんが、少しでも私といる時間を楽しんでくれているなら、それで充分です。」
「……はい。……楽しい、です。」
厳密にいえば、楽しいよりも高ぶる気持ちの方が大きいのだが、うまく伝えられる自信がないので、当たり障りのない返しをしてしまう。それでも彼は満足したのか、よかった、と笑った。
「このお店、食べ物も美味しいですよ。お腹空いてます?」
「あ、何か食べたいです。」
「じゃあ、最初なので私のおすすめからでもいいですか?」
「はい、ぜひ。」
人のいない空間で、西條とゆったり酒と食事を楽しむ。彼との会話は自分にとって新鮮で興味深い話題ばかりで、飽きるどころかずっと聞いていたくなる。耳をくすぐる落ち着きのある低音も、要因の一つかもしれない。
アルコールを摂取したせいか、頭が若干ふわふわとしている。まるで夢のような時間の中で、これがずっと続けばいいのにと、ありもしないことを思いながら、相槌を打っていた。
自分は生まれた時から恵まれた環境にいて、それは今も変わらないけれど、こんなにも幸福感に満たされたことはない。ゆるやかに過ぎていく時間が、このまま止まってほしいと感じるのも、初めてだった。
「……さん、笠間さん。」
呼びかけられて、自分がぼうっとしていたことに気づく。
「あ、す、すみません。」
「お酒が回ってきたんですかね。そろそろ出ましょうか。」
話に集中していなかったのを咎めることもせず、西條はマスターへお会計を頼んだ。とても失礼なことをしてしまったと、指先から急速に身体が冷えていく。しかし頭の中は軽く靄がかかったようで、アルコールのせいでいつもどおり動かない脳を叱咤する。
のろのろと鞄から財布を出したが、その頃には既に支払いは終わっていた。
「西條さん、お金……。」
「次回でいいですよ。笠間さん、結構酔ってますね?今日はタクシーで帰った方がいいんじゃないですか。」
「いえ、大丈夫、です。」
まともに思考が働かない。具合が悪いわけではないが、返事をするのがやっとだ。テーブルに手をついて身体を支えながら立ち上がると、ふらりと頭が揺れた。服越しでもわかるくらいあたたかく大きな手のひらが、背中を支えてくれる。
「大丈夫じゃないでしょう。話に夢中で……酔っているのに気づかなくて、すみません。」
西條に腰を支えられながら、ゆっくり店を出る。外はほとんど人通りがなく、しとしとと小雨が降っていた。時折冷たい風が頬を撫でる。深呼吸すれば、肺から冷えていく感覚が心地よかった。
「タクシー呼びますね。」
「あの、帰れますから……、」
「この状態で別れるのはさすがに心配ですよ。今だけ、言うこと聞いてください。」
西條の瞳にはこちらを気遣う色が浮かんでいる。逆らえるはずもなく、はい、と小さく返答した。
アプリでタクシーを呼んだらしい彼は、十五分程度でタクシーが到着すると教えてくれる。雨が降り始めたせいかタクシー会社も忙しいようだ。
「……笠間さん、寒くないですか。」
二人で無言のまま待っていると、ふいに西條が口を開いた。
「少しだけ。」
「私も、少し。」
次の瞬間、濃厚な花の香りに包まれた。
西條の手はゆるく背中と腰に回されている。
抱きしめられていた。
「……西條、さん?」
「こうすれば、多少はあったかいかなと思って。……なんて、苦しい言い訳ですね。」
ふふ、と笑う声が耳元で聞こえる。完全に思考は停止していて、何か応えることもできない。
気がつけば、呼吸の音が聞こえそうなほど、間近に彼の顔がある。自分を映す黒曜石にも似た瞳が綺麗で、じっと見つめていると、視界がぼやけるほど彼の顔が近くなって。
唇が、重なった。
冷えた空気の中で、重なった唇だけが熱を持っている。何が起こっているのかわからなかった。目の前にある彼の長い睫毛だけが現実のようだった。
「────い、……やだっ!」
ドン、と西條の肩を強く突き飛ばす。酔いのせいでいつもより力はないものの、大の男がよろめくくらいではあった。
無意識に後ずさりし、西條と距離を取る。
「……どうして、」
震える唇で問うが、答えはない。いや、答えなどいらなかった。
彼はこちらを真っ直ぐ見つめていた。その瞳に先程までの光はなく、ただ暗い色を宿している。何かを言おうと彼は口を開きかけるが、唇から言葉がこぼれることはなかった。
自分も何も言えないまま、駅に向かって全力で走り出す。雨に濡れることも、足がもつれそうになることも、全部どうでもよかった。西條の元から逃げ出すことができれば、何でも。
西條が追いかけてくる気配はなかった。
玄関の扉をバタン、と勢いよく閉めたところで、張りつめていた糸が切れた。扉に背をもたれさせて、ずるずるとしゃがみ込む。
「……どう、して……。」
西條に投げかけた問いを、再び口にする。視界が滲んだと思った矢先、ぼろぼろと涙があふれた。涙は堪えるものだと教えられてきたけれど、拭っても拭っても、止まることはない。
かみさまが、自分に、キスをした。
唇を重ねるという行為は生まれて初めてだったけれど、あれが慈愛などではないということは、肌で感じた。間違いなく、性の意味を含んだキスだった。
あの人はかみさまなのに。人間のような欲など持っていないはずなのに。同性の、しかも神に仕える存在である自分に、あんなことを。
濁流のように襲い来る感情の波についていけない。ただひたすらに、かなしくて、くるしくて、やるせなかった。
それなのに、どくどくと速さを増す鼓動は何だ。先程のキスが脳裏によみがえる度に、心臓が跳ねる。沈んだ感情しか浮かんでこないのに、身体は熱く火照っている。
「西條さん、」
無意識に名前を呼んで、その声がやたらと甘えるような声音であることに、背筋が凍りついた。
気持ち悪い。性が。欲が。自分が。
急激な吐き気に手で口を塞ぐ。靴を脱いでそのままトイレに駆け込み、胃が空になるまで吐き続けた。
どんなに悩んでいようと落ち込んでいようと、平等に朝日は昇る。日頃の習慣は身体がきっちり覚えているもので、アラームの鳴る一分前に目が覚めた。いつものように身支度をして、電車に乗って、会社へ向かう。
西條、つまりかみさまからの行為への答えは、まだ見つかっていなかった。
会社に着けば、自分のぐちゃぐちゃになった感情など関係なく、仕事がどんどん増えていく。しかし集中すればするほど余計なことを考えなくて済むから、ある意味普段より業務が捗っているかもしれない。
それでも、ちらちらと携帯電話を見てしまうのは、もう癖だろうか。昨日からずっと震えることのないそれを見て、ため息をつく。話したとて、何を言えばいいかもわからないくせに。
「あら、笠間さんがため息なんて、めずらしいわね。」
「えっ。」
鈴城から指摘されて初めて、ため息をついていたことに気がついた。自分がため息をつくなんて、鈴城が言うようにこれまでなかったことだ。
「なんか、西條さんと仲良くなってから、雰囲気も柔和になった気がするし。」
「そう、……でしょうか。」
「ええ。前より話しかけやすくなったわよ。」
鈴城は嬉しそうに笑っているが、自分の中で不安が増幅した。自分を律しているはずなのに、それが崩れてきている証拠だ。西條と仲良くなってから、という鈴城の言葉が本当だとすれば、かみさまに出会えて浮かれすぎていたのかもしれない。これまで築いてきた自分自身というものが徐々に壊れていくような恐怖に、寒気がして肩を抱いた。
もしかして、かみさまに近づくのは、それだけ代償を払うということなのだろうか。かみさまとお話をする対価として、今までの自分自身を差し出すということなのだろうか。確かに、かみさまと出会い、存在を認められるために生まれてきたのだから、当たり前なのかもしれないが。しかし、ずっとかみさまに見ていてもらい仕えていくためには、結局変わらない生活を送っていかなければならないのだ。感情を抑え込むように、日々を生きて。
そこまで考えて、昨日のキスが頭をよぎる。かみさまがするはずのない行為。あんな風に、嫌悪感をあらわにするのも生まれて初めてだった。忘れたいはずの出来事をなぜかなぞるように、そっ、と唇に指を当てると、急激に体温が上がる。心臓が飛び出しそうなくらい早鐘を打つ。
少しでも落ち着こうと深呼吸をして、少し汗ばんだ額をハンカチで拭う。昨日から感情が忙しすぎて、このままでは心臓がもたない。
相変わらず静かなままの携帯電話を再び見つめて、いっそのこと、と電源を切った。
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