第2話

 おとうさん、おかあさん。

 ぼくは、かみさまにあうことができました。


 ベッドサイドに立ててある、家族三人で写った写真に手を添えながら、微笑みかける。両親の教えを疑ったことは人生で一度もないから、いつかは必ずかみさまに会うことができると信じていた。まさか社内に、こんな身近にいたとは、灯台下暗しとでもいうべきか。

 気分が高揚している。頭の中がふわふわの綿菓子になったみたいだ。今にも羽が生えて飛べそうなくらいの幸福感に包まれている。実際にかみさまと出会えるというのは、こんなにも素晴らしいことなのだと、スキップでもしそうな勢いで自室をうろうろと歩き回っていた。

 これまでの生き方を認めてもらえたからこそ、目の前に現れてくれたのだ。偶然ではなく、きっと、必然。せっかく姿を現してくれたかみさまが、自分の前からいなくなってしまわないよう、これからも、ちゃんといいこでいなければならない。よし、と小さく呟いて、一人決意を固める。

 時計はそろそろ零時を告げようとしていて、寝ようかと思っていたけれど、試験日も近いし、もう少し勉強をしてからにしよう。こめかみにツキン、と痛みが走ったが、今はたいして気にならない。身体が若干重くても、目はしっかりと冴えている。勉強をして、睡眠を取って、明日も早めに出社して。何も変わらない日々のようだけれど、確かに、自分の心に一滴のインクは垂らされたのだ。それはきらきらと輝く虹色で、波紋を描いていく。見る人によって何色にも見えるであろうことは、わかっているけれど。



 その日は、出社すると、めずらしく数名が既に業務を始めていた。どうやら何かトラブルがあったのだと、飛び交う会話と雰囲気で気がついた。隣席の鈴城も例外ではなく、自分が席に来た時に、ちょうど電話を切ったところだった。

「おはようございます。」

 返答はない。声が聞こえないはずはないが、彼女の機嫌が悪い時はよくあることだから、静かに椅子へ腰掛ける。ノートパソコンを開いて電源を入れると、画面の明るさが目に痛かった。ぐわんと一瞬天井が回るようなめまいがして、ぎゅっと目を閉じた。昨日も遅くまで勉強に励んでいたから、眼精疲労だろうか。

 かみさまに会えたからといって、日常が変わるということはない。それは一日一日を大切に過ごしなさいという、両親からの、いや、かみさまからの教えを守ることに繋がっていく。

「笠間さん。」

「はい。」

 少し低いトーンで隣から声をかけられて、パソコンの画面から目を離し、鈴城の顔を見た。表情は曇っている、というより、怒気をはらんでいるように見える。彼女は大きなため息をつきながら、口を開いた。

「この間話したA社の担当のことだけど、今日から変更するから。あと、新しい経理システムの件、社内説明会が今日の十三時からあるから、出ておいて。」

「今日から、ですか。引継ぎはいつ、」

「前からある程度話していたからわかるでしょう。データも見れるだろうし。私、引継ぎしている時間はないから、笠間さんの方で適当にやっておいて。」

「……はい。システムの説明会は、鈴城課長と僕の二人で参加でしょうか。」

「私はそれどころじゃないの。何度も言わせないで。」

「……申し訳ありません。」

 こちらに視線を向けることなく会話を交わす鈴城の機嫌は、自分の返答により急降下したようだ。キーボードを打つ音がいつもより大きく、エンターキーは壊れそうなほど叩かれている。

 人に、特に女性にはやさしく、相手の喜ぶことをすべきだと、事実そうしているつもりなのに、なかなかうまくいかない。鈴城と話す度に、肩がずしりと重くなって、喉に鉛が詰まったような感覚を覚える。これは、身近な人にすら幸せを分けてあげられない、自分自身に対する苛立ちからくるものなのだろうか。

「飲み物を、買ってきま、」

「そこにコーヒーあるじゃない。笠間さん、そう言ってこの間なかなか帰ってこなかったでしょう。そんな暇があるなら、ちゃっちゃと仕事片づけちゃって。」

 新人じゃないんだから、しっかりしてよね。ちらりと視線を投げただけで、顔を向けることはない彼女はそう締めくくった。

 確かに通勤途中のコンビニで缶コーヒーを買っていて、中身は三分の一程度しか減っていない。それでも、何かを求めて、無意識に最上階へ足を運ぼうとした自分を叱咤する。いくらなんでも浮かれすぎではないか。鈴城の言うとおりだと、コーヒーを一口飲んで再びパソコンに向かう。コーヒーの鼻に抜ける香りと口に広がる苦みは一切せず、ただ茶色い水を喉に流し込んでいるように感じた。

 膨大な量のデータを、時折目薬を差しながら目で追っていく。最近は眼鏡をかけていても画面がよくぼやける。眼鏡の度があっていないのかもしれない。そろそろ眼科に行くべきか、などと考えて、仕事以外のことを考えている自分にまた嫌気がさす。もうすぐ昼になるというのに、まだデータの半分も確認できておらず、十三時からの会議資料にも目を通せていない。

 ズキズキとひどい頭痛がする。机の脇にあるキャビネットから頭痛薬を取り出し、常備しているペットボトルの水で飲み込んだ。そういえば今朝は空腹を感じなくて何も食べなかったから、胃にはよくないかもしれない。昼食が終わってから飲めばよかったと後悔しつつ、マウスをぎゅっと握った手で画面をスクロールしていく。

 A社のデータチェックは中途半端だけれど、そろそろ会議資料を読んでおこうか。そう考えてファイルを開いたところで、十二時のチャイムが鳴ってしまった。

昼食は十五分もあれば買いに行って食べ終わることができるだろう、と算段して、カチカチとマウスをクリックしていると、鈴城が席を立つ気配がした。

「笠間さん、今日お昼持ってきてる?」

「いえ、コンビニで買います。」

「そう。じゃあ、一緒に外行きましょうよ。」

 言葉の意味と午後からの予定を、一瞬で脳内に巡らせてから、眉を下げて鈴城を見上げる。

「……申し訳ありません、もう少し仕事を、」

「あら、昼も仕事なんてよくないわよ。一緒に行って気分転換しましょ。」

 昼休みだからか、彼女は楽しそうに財布や携帯電話を小さなバッグに詰めている。先程のように相手の気分を害したくなくて、イエスを口からこぼそうとした瞬間。

 ざわり。執務室の空気が、変わった。

「……?」

 鈴城は手を止めて、執務室の入口あたりを見つめている。不思議に思って同じように目線を向ければ、そこには。

 西條が立っていた。

 あれ、企画部の人だよね。なんでここに。やっぱりかっこいいね。オーラあるっていうか。

 一気に色めきだった執務室内で、西條は真っ直ぐこちらへ向かってくる。そして、自分の目の前で、足を止めた。周りの視線がざっ、と自分と西條に集まる。

「お疲れ様です、笠間さん。」

 目を細めて挨拶をする彼が蛍光灯越しでも眩しく、こちらも違う意味で目を細める。しばし見つめ合ったあと、隣からの強い視線を感じてはっとなり、慌てて頭を下げる。

「お、お疲れ様です。……どうしてこちらに?」

「昼飯のお誘いです。チャットに既読が付かなかったので、直接来ちゃいました。」

 そう言われてパソコンの画面を見れば、確かに新着通知が光っている。よっぽど集中していたのか、まったく気がつかなかった。

 西條の姿を見たこと、そしてまさかの昼食に誘われたことで気分は急上昇する。それから、先の約束を思い出して、膨らんだ気持ちは急速にしぼんだ。期待と落胆、まるでジェットコースターのような感情の起伏は、時として心を疲弊させる。鈴城に誘われたのも、嬉しいはずなのに。かみさまは特別だけれど、それが他の人間をないがしろにしていい理由にはならない。誰かのためのやさしさは、きっとかみさまもわかってくれる。

「……あの、すみません。今日は、先約が、あって。」

「先約?」

「はい、鈴城課長とお昼に。」

 西條と視線を合わせられなくて、少し伏し目がちに答える。それが彼の目にはどう映ったのか、張りのある声で言葉を続けた。

「鈴城さん。申し訳ないですけど、今日は譲っていただけませんか。私、笠間さんと初めてお昼ご一緒するんですよ。お願いします。」

 鈴城の方を向きながら、言葉に薄く張った氷のような冷たさを含んで、西條はぺこりと頭を下げる。初めて姿を目にした時から、どこか一線を引いた、近づくなという明確な意志が、表情や声から伝わってくる。しかし、周りは皆、彼に柔和な印象しか持っていないことが、雰囲気や漏れ聞こえるざわめきからも受け取れた。

 もしかして、自分以外は誰一人、気がついていないのだろうか。

「……ええ、まあ、西條さんがそこまで言うなら。」

 鈴城もざわめきに飲まれるように、気丈に振舞っているようで少し頬が赤らんでいるし、目線がうろうろとさまよっている。普段は見せない態度に、自分としては驚きを隠せない。

「ありがとうございます。じゃあ笠間さん、行きましょう。」

「はい。鈴城課長、すみません。また今度、よろしくお願いします。」

 鈴城へ一礼すると、彼女はひらひらと手を振って見送ってくれた。西條は歩くのが早く、小走りで後ろをついていく。単に足の長さが違うせいかもしれないが。

「ああ、歩くの早かったですかね。すみません。」

「いえ、大丈夫です。どこに、行きますか。」

「僕が好きなフレンチのお店があるんですけど、いかがでしょう。何か食べられないものとかあります?」

「好き嫌いもアレルギーも、特にないです。」

「そうですか、よかった。」

 白い歯を見せて笑う西條に、先程までの冷たさはかけらも見当たらない。自惚れでなければこれは、自分だから、だろうか。かみさまを心から崇拝する者として、認められている証拠だろうか。そうだとしたら、これ以上うれしいことはない。自然と笑みが浮かぶ。

 他愛もない話をしながら、十分ほど歩いて到着したのは、路地裏にある小さなレストランだった。西條の口からフレンチと聞いていたから、格式高い店に連れていかれるのかと、少々緊張していたのだけれど。カラン、と小さなベルの音を鳴らして西條が店に入っていくのに続くと、いらっしゃいませ、とやわらかな男女の声が重なって聞こえた。カウンターから見える男性と、そこから出てきた小柄な女性。二人とも穏やかそうな人柄が姿から見てとれる。このお店は仲良し夫婦でやってるんですよ、と席に案内される際に西條から耳打ちされて、なるほど、と納得した。四人掛けテーブルが四つあるだけの小さな空間は、どこかあたたかな雰囲気をまとっている。

 ランチのコースをそれぞれ注文して、お互い一息つく。なんだか無性に喉が渇いて、水を一気に飲み干す。その間も、いや、席についてからずっと彼からの視線を感じていて、むずがゆい。

「あの。僕の顔に、何かついてますか?」

 勇気を出して尋ねてみると、予想外の答えが返ってきた。

「え、……ああ、いや。失礼。……きれいな顔だから、つい見ちゃうんですよね。」

「────え、っと、」

 最上級に美しい顔を持つ人が、自分の顔を、きれいだと称している。頭が混乱して、逆に西條の顔を凝視してしまう。あらためて見る造形はやはり、作り物のようでいて、肌を透ける血の赤みが、現実に存在するのだと思わせた。宝石のような瞳は、相変わらずこちらを見つめている。

「僕なんて、そんな。ただのおじさんです。西條さんの方こそ、きれいなお顔立ちで、スタイルも良くて、やさしくて、……本当に、」

 僕のかみさまなんです。喉まで出かかった言葉は咄嗟に飲み込んだ。彼はかみさまなのだから、それを伝えたところで何の問題もないのだけれど。なぜか、言ってはいけない、気がした。

「おじさん、って。同い年くらいじゃないですか?それを言ったら私もおじさんですよ。」

「いえいえ、僕なんて今年、三十六で……。」

「やっぱり、同い年じゃないですか。」

「おな、……えっ。」

 西條は童顔ではないが、自分と同じ歳だということに驚いてしまう。現世に存在するかみさまは、当たり前だけれど、やはり自分のようなちっぽけな人間とは異なるのだと、あらためて思い知る。

「あ、料理、来ましたよ。」

 運ばれてきた料理からはかすかに湯気が立ち、ふわりと食欲をそそる匂いがする。ぐう、と腹が鳴って、西條にもそれが聞こえたのか、くすりと笑われた。馬鹿にされているわけではないことは、表情からわかった。

「お腹、空いてましたか。」

「そう、みたいです。今日は、朝ごはんを食べていなくて。」

「朝飯は活力の源ですよ。ちゃんと食べないと。」

 話しながら、口元に食べ物を運ぶのも、様になっている。綺麗な所作で食べ進める彼を見て、自分はフォークとナイフを使うのが少し苦手だから、かちゃかちゃと音が鳴ってしまうのが恥ずかしい。マナーがなっていないと思われてしまうのではないかと、不安が頭をよぎる。

 しばらくして、西條は手を上げて女性を呼んだ。

「お箸をいただけますか。」

「かしこまりました。」

 流れるような彼と女性とのやり取り。やはり不快にさせてしまったか、と女性から箸を受け取ると、西條も箸を受け取りそれを使って食べ始めた。え、と目を見開く。

「このお店では、どんな食べ方をしても大丈夫ですよ。」

「ありがとう、ございます。」

「いえいえ。噂では完璧な方とお聞きしていましたが、かわいいところもあるんだなって、安心しました。」

「……噂?」

 訝しげに視線を投げると、西條はしまった、とばつが悪そうな表情でこちらを見た。すみません、とひとこと謝ってから、続ける。

「うちの部署内で、笠間さんのこと知ってるかって、聞いてみたことがあるんですよ。そうしたら、何でも笑顔で引き受けてくれて、どんな難題にも迅速に対応してくれて、ミスしたところなんて見たことない、って。何人かに聞いたんですけど、みんな口を揃えて同じことを言うから、すごい人なんだなって思ってたんです。」

 でも、だからこそ、一生懸命フォークとナイフを使おうとしているところが、すごくかわいく見えました。お世辞でなく本心から言っているであろうことが伝わってきて、どう反応すればいいのかわからなくなってしまう。これは、褒められている、のか。すごいとか、かわいいとか。これまでの人生で、そんな言葉は一度としてかけられたことはないし、相手を称える言葉であることは理解できるけれども、自分に対して使われるべきでは、ない。

「僕、は、……、」

 かみさまに認められることは、本望だ。自分の存在を認識してもらい、こうして会話することができるだけで、多幸感にあふれる。しかし、これは、違う。かみさまは自分を見てくれているが、手の届く距離で、まるで自分より上位であるような言葉をかけるなんて。

 あなたは、かみさまなのに。なぜ、そんな台詞を吐くのですか。自分はあくまで、全知全能のあなたに従う身です。あなたは、そんなことを言ってはいけない。

「……すみ、ません。先に、戻ります。」

「笠間さん……?」

 食べ終えた皿の横に一万円札を置き、逃げるように店を後にした。すぐに西條が追ってくる気配はなかったが、足早に会社への帰路を辿る。

 暗い底へゆるやかに落ちていくような、漠然とした不安感だけが、自分を支配していた。

 会社に戻ってからは、忙しなく時間が過ぎていき、気がつけば時計の針は終業時刻の三時間後を指していた。会議が終わったらデータ内容の不明点を鈴城へ確認しようと思っていたが、会議が長引いたうえに雑務に追われて、結局何も聞けないまま彼女は退社してしまった。

 ばたばたしていたせいで、今日はメールもチャットもなかなか目を通せなかった。急ぎの案件が来ていたら申し訳ないと思いつつ、一件ずつ丁寧にチェックしていく。この作業だけであと三十分はかかりそうだ、家に帰る頃には二十二時を回っているだろう。そう考えただけで肩が石を乗せたようにずしりと重くなり、両肩をぐるぐると回した。

 文字の羅列を延々と読み続け、ようやく最後のチャットに辿り着く。差出人は、……西條だった。

『お疲れ様です。今日はありがとうございました。とても楽しくお話しできたので、またお昼をご一緒できたら嬉しいです。その時に、今日のお釣りをお渡ししますね。一万円はさすがに多かったですよ。』

 文の最後には笑顔の絵文字が付いていた。自分は急に退席しその後のフォローもできなかったのに、文句ひとつ言わず、また会いたいと。どこまでもやさしいかみさま。自分はかみさまになんと失礼なことをしてしまったのだろうと、青ざめる。血の巡りが悪くなった指で返信を打ちながら、普段の半分のスピードでしかキーボードを叩けないことがもどかしい。

『お疲れ様です。こちらこそありがとうございました。そして、先に帰社してしまい申し訳ございません。料理は大変美味しく、お話しするのも楽しかったです。』

 また、ご一緒させてください。その一文を書くか否かで、しばし逡巡した。今の自分は、かみさまと一緒にいられるだけの、矜持を保てているだろうか。もっともっと頑張って、足りない部分を補って、神に仕える者としてふさわしい生き方を────。

 結局、悩んだ文章が画面上に表示されることはなく、そのまま送信ボタンを押した。自分はまだ、かみさまに会うには早すぎたのかもしれない。これも試練として、以降ずっと返信が来なければいいと思うのに、どこかで期待を捨てきれない自分がいる。それが、気持ち悪い。

 そろそろ片づけて、今日の仕事は終わりにしよう。時間的に家では勉強できないだろうから、帰りの電車内で参考書を読もう。そう考えて、机に積まれたファイルを棚にしまってから、パソコンの電源を切ろうとしたところで、チャットの新着通知が来た。どきり、と跳ねる心臓は、きっと間違いではない。

『残業中ですか?急ですが、自販機の前で待っていますので、来てくれたら嬉しいです。』

 きちんと謝罪の返信をして、今すぐ帰ればいい。まだ自分はあなたとお話しできる立場ではないのだ、と。かみさまは物分かりがよくて、ましてや自分の感情なんて透けて見えているだろうから、きっと許してくれる。

 頭の中ではそう、思うのに。

 衝動的に、エレベーターホールへ駆け出していた。

 乗り込んだエレベーターで、最上階のボタンを連打してしまう。そんなことをしたって意味がないとわかっているのに、はやる気持ちを抑えられない。どくどくと早鐘を打つ鼓動がうるさくて、ぎゅ、とシャツの胸元を握った。

 最上階へ到着し、ドアが開くと同時に走り出す。はやく、はやく。焦りでもつれそうになる足を叱咤して、目的地へと急いだ。角を曲がり、見慣れた空間へ足を踏み入れると、グレーのジャケットに包まれた広い背中が視界に映る。

「……西條さん!」

 上がる息を整えてからそっと名前を呼ぶつもりが、思ったより大きな音となって口から飛び出した。驚いたのか、バッ、とこちらを振り返った西條だったが、表情はすぐににこやかな笑みへと変わる。

「よかった、来てくれて。」

 ぼそり、と彼が呟いた言葉は、小さく空気を震わせてこちらの耳に届く。心底安堵した声色のように聞こえた。

 彼の視線を痛いほど感じているのに、自分は相手の目を見ることができないまま、無言の時が続く。

 先に沈黙に耐えきれなくなったのは、自分の方だった。

「あ、の。お昼は、本当に申し訳ありませんでした。」

 頭を下げ、非礼を詫びる。こちらに歩を進めてきた西條は、気にしないでください、とやわらかな口調で応えてくれた。胸の奥底を突くような声音が、なぜか涙腺を刺激する。こんな状況で泣くなんて、迷惑にも程があるだろう。ゆるく舌を噛むことで、なんとか涙が流れることを阻止した。

「……私には、吐き出せないでしょうか。」

 西條が突然口に出した言葉の意味がわからなかった。こちらを見つめている彼の瞳は、窓の外の深い夜と同じ色をしていて、感情を読むことはできない。そもそも、かみさまの感情を汲み取るなんて、おこがましいことをするつもりはないのだけれど。

「吐き出す、とは。」

 純粋な気持ちで尋ねてみる。彼の整えられた前髪がひと房垂れて、それをかき上げる仕草も美しかった。彼はしばし迷うようなそぶりを見せてから、再び口を開く。

「あなたが抱えているものを、共有してほしい。そうすることで、少しでもあなたの心が軽くなるなら。」

 これは私のエゴですけどね、と付け加えた西條の顔に、先程までの笑みはなかった。唇を引き結んだ表情からは、真剣さが窺える。言葉の意味と西條の眼差しに、なんとも言い表せない恐怖を覚えて、こぶしを握り締めた。

 この恐怖が一体何なのか、今の自分にはよくわからない。

「抱えているもの、なんて、……ないですよ。」

「じゃあ、どうして。そんな泣きそうな顔をしているんですか。」

 言葉とともに、そっ、と頬にあたたかな体温。西條の手のひらが自分の頬を包んでいた。じわりと伝わる温度に凍ったはずの涙腺が溶かされて、目尻からほろりと一滴、雫が流れる。

「……本当に、何も、ないですから。」

 あなたに言えることは、何も。

「そう、ですか。」

 静かな声のあと、彼の体温が離れて、頬がひやりとした。それがあまりにも寂しくて、伝えるつもりのなかった言葉が、口からこぼれ出る。

「────……抱えるどころか、僕の中身は空っぽなんです。」

 言葉は無意識に吐き出されたはずなのに、泥を吐くような苦しさを伴った。西條は驚いたそぶりも見せず、微動だにしないまま、続く言葉を待っている。

「僕の空白を埋められるのは、ひとつしかない……。」

 かみさまという存在が、自分を生かしている。

 そこまでは言えなくて、口を噤んだ。

「ありがとうございます。」

「え、」

 西條からの礼に面食らう。礼を言われることは何もしていないし、むしろ言われたところで反応に困る内容だったのではないだろうか。思わず吐露してしまった自分の内部、羞恥と後悔が頭の中をぐるぐると巡る。

「吐き出すことにも、勇気が必要だったでしょう。」

 続いた言葉は、どこまでもやさしかった。西條の表情には笑みが戻っている。あふれそうになる涙と、先程彼がしてくれたように伸ばしたくなる手を、ぐっと堪えた。

冷たかった身体はいつの間にか熱をはらんで、今は暑いくらいだ。時折吹く空調の風が自分の髪を揺らして、額が少し汗ばんでいることに気がつく。

「ねえ、笠間さん。」

「はい。」

「また、ご飯でも行きましょう。今度は、夜にでも。」

「……、はい。」

 このまま、かみさまから差し伸べられた手を振り払えるほど、自分は強くない。ありがたくやさしさを享受したら、その分はこれからの自分で返していけばいい。

 簡単な挨拶をして、お互いにそれぞれの執務室へ戻った。

帰り支度をしながら、ぼんやりと脳裏をよぎった考え。


 自分が西條に対して抱く感情は、絶対的なかみさまへの信仰心と変わりない。だけど。


 胸に刺さった小さな棘が抜けない。


 これは、崇拝か。それとも────。


 自分で浮かべた考えのくせに、それとも、の続きはまったくわからなかった。崇拝以外に一体何があるというのか。自分はそのほかの感情を知らないけれど、西條へ向けている思いは、純粋な崇拝だけではない気がして。

 首を横に振って、邪な考えを打ち消す。これはきっと、畏怖の念だ。崇め奉るだけでなく、偉大な存在への見えざる恐怖心なのだと、自分に言い聞かせた。

 今日は身体に疲労がたまっている気がする。早く帰ろう。

 フロア全体の施錠をして、ようやく帰路についた。


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