救いの手

加子

第1話

 ぼくは、かみさまにあいたいです。


 ハッ、と急激に意識が浮上する。

 照明の消えた部屋は真っ暗で、目を開けても何も見えない。携帯電話を見れば夜中の三時だった。まるで海の底から這い上がるような目覚め。呼吸が浅く、じっとりと汗をかいており、湿った服が気持ち悪い。

 繰り返し見るこの夢は、小学一年生の時、書いた作文を教室で読み上げているシーンだ。心から楽しそうな表情と語り口で、かみさまへの想いを先生や児童に伝えている。


 いいこにしていれば、かみさまにあえるよ。おとうさんとおかあさんが、そういっていました。


 作文の続きが頭の中にこだまする。まだ夢を見ている感覚に、いったん起き上がって首を左右に振った。べつに悪夢を見ているわけではない、むしろ今の自分自身を形成した頃の大切な思い出であるから、晴れやかな気持ちだ。しかしなぜか、金槌でゆるく頭を叩かれているように、ぐわんぐわんと脳が揺れている。

 深呼吸をして、とりあえず着替えようと立ち上がる。少しふらついているような気もするが、寝起きで身体がだるいのはいつものことだから、特に気にしなかった。

 部屋の電気をつけ、その眩しさに一瞬眉を寄せながら、ぺたぺたと裸足でクローゼットへ向かう。中に置いてあるボックスの引き出しの中身を探り、洋服屋に陳列されているかのように綺麗にたたまれたパジャマを手に取ると、ふわりとさわやかな洗剤の香りが漂った。顔を近づけてその香りを吸い込むと、ざわざわしていた心を落ち着かせてくれた。着替えると身体もすっきりして、ふう、と一息つく。

 脱いだパジャマを洗濯機へ放り込んだあと、のろのろと冷蔵庫の扉を開ける。きんと冷えた水のペットボトルを取り出して、ごくごくと勢いよく喉の渇きを癒せば、一気に半分ほど減ってしまった。胃に流れ込んできた水が全身を冷やしていく。冷静になった頭で時計を見ると、意外に時間は過ぎていて、三時三十分になっていた。起床時刻までまだ三時間はあるが、なんとなく、先程と同じ夢を見て途中覚醒しそうな気がして、再び眠りにつくことを諦めた。

「……何しようかな、」

 ふと目に留まったのは、机の上に積まれた本たち。資格を取得するために勉強をしていて、試験日が二ヶ月後に迫っている。虚ろな目をしながら、開きっぱなしのノートのページを指でなぞった。色とりどりのマーカーで几帳面に線が引かれたそれは、これまでの努力を物語っているようで、ふ、と口角が笑みをかたどる。

 何かを学ぶのは昔から日課のように行っていて、特にここ最近は仕事を終えて帰宅すると、食事や風呂以外は勉学に励んでいた。集中している時は余計なことを考えなくて済むから、好きだ。

 眠ることができないのなら、机に向かおう。そして早く出社し、仕事を片付けよう。午前中、特に朝は物事に集中しやすいから、メールチェックも捗るはずだ。

 椅子に座り眼鏡をかけて、参考書を開く。もう眠くはないのに、小さな文字がぼや、と滲んで見えて、目を擦った。普段はあまり筆圧が強い方ではないが、ペンを持つ指にぎゅっと力を入れる。ペン先がガリガリと紙を滑る音に、なぜか無性にほっとして、徐々に集中力が高まってくる。

 ひたすら参考書とノートを交互に見比べながらペンを走らせていると、ジリリリ、とアラームが鳴り、びくりと身体を震わせた。もうそんな時間なのか、と凝り固まった身体を少し動かして、出社の支度を始める。


 今日も一日、かみさまに愛されるために。





 いつもより一時間半ほど早い電車に乗り、会社へ向かう。普段の時間なら通勤ラッシュのひどい電車だが、めずらしく座ることができた。ガタンゴトン、と一定の揺れで走る電車内で、睡眠不足からか数回眠気に負けそうになったけれど、参考書を片手になんとか意識を手繰り寄せた。

 会社は都心にあり、十五階建ての自社ビルだ。フロントにいる警備員と朝の挨拶を交わしてから、一人でエレベーターに乗り込む。自分が所属している経理部のフロアは六階で、一分とかからず目的地へ到着した。カードキーでロックを解除し、ガチャリと執務室の扉を開ける。まだ誰もいない室内は、まだ空調が効いておらず、少し肌寒く感じた。

 自席近くの電気をつけ、エアコンのスイッチを入れ、給湯室のポットを満タンにする。窓際の観葉植物に水をやって、ようやく席に着いた。

 通勤途中で購入したホットの缶コーヒーを鞄から取り出すと、すでにぬるくなっていた。つい数日前まではそんなことなかったのに、と考えて、急に気温が下がったせいだと思い当たる。クローゼットの奥にしまい込んであるコートの出番も近いかもしれない。少し上の空で届いたメールをチェックしていると、遠くで扉が開く音がして、はっとした。集中しなければ、と両手で軽く自分の頬を叩いて、音がした方に目を向ける。

 コツコツと踵を鳴らしながらこちらに歩いてきたのは、隣席の経理部課長、鈴城美子(すずしろよしこ)だ。

「おはよう、笠間さん。早いじゃない。」

「おはようございます。今日は早く目が覚めちゃって。鈴城課長も、いつもより早いですね。」

「ちょっとやることが溜まっていてね。朝のうちに片づけちゃおうと思って。」

「僕も、捗る時間帯にいろいろやっておこうと思ったんですよ。」

 笠間美咲(かさまみさき)。それが、自分の名前である。どちらかといえば女性らしい名前で、昔はよくからかわれたものだ。しかし三十六歳になった今は、身長が百七十五センチメートルはあるし、体格は中肉中背なので、名前の愛くるしさとは程遠いかもしれない。でも、両親にもらった大切な名前だ。美しく咲き誇る花のような強さ、もうひとつは……。

 鈴城と他愛もない話をしながら、お互いにカタカタとパソコンのキーボードを叩く。そのうちに一人、また一人と、社員が出社してくる。自分の勤めている会社は、昨今の情勢を踏まえて在宅勤務も推奨されているが、今日はなんだかいつもより出社率が高いような。そこまで考えて、全体朝礼で年に一回の社員表彰式が行われるため、できるだけ出社するようにと通達が出ていたことを思い出した。

「私はそろそろ大会議室行くけど、笠間さんも行く?」

「はい。行きます。」

 鈴城とともに、オフィス最上階の大会議室へ移動するため、執務室を出る。混雑したエレベーターホールでは、表彰の事前連絡を受けているであろう部署の人々が、皆そわそわしているのが感じとれた。

 そこそこ名の知れた大きな会社であるから、営業成績などで表彰されれば給与に直結してくるし、千を超える社員の前で部署の代表者が登壇するというのは、各々の自尊心も高まるものらしい。経理部は売り上げに貢献する部署ではないので、よっぽどの業務改善でも行わない限り、自分の部署から対象者が出ることはないのが少し残念だ。皆頑張って働いているのは他の部署と変わらないのに。もし自分の部署で誰かが表彰されたとしたら、まるで自分のことのように喜べる自信があるのだが。自分には光が当たらなくてもいい、周りの士気が上がったり、喜んだりするのであれば、それで。

「……さん、笠間さん。始まるわよ。」

「あっ、はい。」

 鈴城に小さく声をかけられて、我に返る。今日は考え事に耽るのが多い。集中力と注意力が散漫な証拠だ、気をつけなければ。

 朝礼はいつもどおり、司会進行担当者の挨拶から始まる。社長のお言葉や各部からの連絡事項がひととおり終わったところで、表彰式が開始された。人が密集した会議室内で、急激に空気が変わったのがわかる。それまでしんと静まり返っていたのに、それぞれのひそひそとした話し声は波紋のように広がって、一気に会場が騒がしくなった。

 司会が順に今回表彰される各部署を読み上げ、代表者が前に出ていく中、最後に一人、個人名を呼ばれた人物がいた。その人物が歩く時だけ、さあっと自然に人が避け、道を開ける。まるで花道のようだった。その雰囲気に自分だけ気づくのが遅れ、急いで下がろうとした瞬間。

「失礼。」

 耳触りの良いテノールが、鼓膜を震わせ、全身に電流が走った。次に認識したのは、花の蜜にも似た甘い香り。

 よろめくように後ずさりし、声の主の背中を見送る。 ひときわ背の高い男性が、前に向かって長い足でゆったりと歩を進めるのを、酔ったようにぼうっと見ていた。

 男性が登壇し、振り向いた姿を見て、目が釘付けになる。ワックスでゆるく整えられた黒髪から視線を下へずらしていけば、強調しすぎない太めの眉、くっきりとした二重で切れ長の目、すっと通った鼻筋、ほどよく厚い唇。輪郭はシャープで、スーツに包まれた身体は、細めだけれどそれなりに鍛えられて筋肉質であることが、服の上からでもわかる。あまりにも整った容姿に、ぐらり、世界が揺れた。

 自分でもよくわからないほど、鼓動がうるさい。激しい運動をしたあとのように脈が速くて、呼吸まで荒くなりそうだった。表彰式が粛々と進行していく中、ただ一人、自分だけが異様に高揚している。周りに気づかれることはないと思うけれど、羞恥心で今すぐにでも会場を抜け出したいくらいだった。

「それでは、最後の表彰になります。社長特別賞の受賞です。シェア拡大のための新プロジェクトを大成功させ、当社の売上に大きく貢献した、企画部課長の西條神(さいじょうじん)さんです。」

 割れんばかりの拍手に包まれながら、西條が一礼する。社長からオリジナルの小さな盾を受け取り、固い握手を交わしている。うっすらと浮かべた笑みはどこか冷たさを併せ持っているような気がして、目が離せなかった。

 西條神。社内報や経費精算で、名前を見たことはある、と思う。しかし、社員数が多いため、全員の顔は知らないし、会ったことすらない人も多い。だとしても、こんなに華のある存在を認識していなかったなんて。

 式のすべてが終わり、また騒がしくなった大会議室内。それぞれの話す声はさほど大きくないはずなのに、まるで全員が自分の耳元で声を発しているようだ。ヘッドフォンで音量を最大にして、音の濁流を聞かされているような感覚。頭痛がしそうな気配に、手でこめかみを押さえる。

 西條さん、相変わらずかっこいいよね。こんなに仕事ができて、モデルみたいな人なんて見たことない。一回でいいからお話ししてみたいなあ。話したことあるけど、すごく気さくな人だったよ。性格まで良いなんて、そんな神様みたいな人いるの。実際、名前をもじって、陰でかみさまって呼んでる人いなかったっけ。

 遠巻きに西條を見ている人々の黄色いさえずりは、なかなか静まることがない。気がつけば鈴城は隣からいなくなっていて、自分も早く執務室へ戻ろうと、人々の間を早足ですり抜けて大会議室を出る。廊下に出れば人はまばらで、先程よりは幾分静かなことに少しほっとして、歩みを若干遅くした。

 エレベーターホールへ向かう途中、ふと、このフロアの自動販売機には自分の好きな飲み物が置いてあったことを思い出す。コンビニなどでは販売していない、自動販売機限定のジュースだ。わざわざ最上階まで買いに来るほどではないけれど、こうしてたまに用がある時には、必ず購入しているのだった。

 各々エレベーターで執務室へ戻っていく様子を横目に見ながら、その場を通り過ぎて、突き当たりを右に曲がる。すると、一面ガラス張りで外が見渡せる、小さなフリースペースに辿り着いた。薄いグレーの二人掛けソファが二組と、自動販売機が二台設置されている。久しぶりに来たせいか飲み物の並びは変わっていたけれど、お目当てのジュースを即座に見つけ、気分が浮上する。金額ぴったりの小銭を投入して、いそいそとボタンを押し、落ちてきた缶を拾う。目線を上げれば、今買ったばかりのジュースのボタン上には、売切という文字が赤く光っている。人気なのか単に補充されていないのかはわからないが、最後の一本を購入できたのは運がよかった。早くから起きて頑張っているから、ちゃんと報われている証拠だ。些細なことだけれど、今日もきっと、かみさまは自分を見てくれている。

 鼻歌でも歌い出しそうな気分で、プシュ、と缶を開けた瞬間。

「あっ、売り切れてる。」

 急に後ろから声がして、飛び上がるほどびくん、と身体が揺れた。自分の世界に入っていて、人の気配にまったく気がつかなかった。心がざわりと蠢く声に、勢いよく後ろを振り向くと、そこには。

「最後の一本、買われちゃったか。残念。」

 薄く笑いながら肩をすくめる、西條が、いた。

「……!」

 その美しさはもはや暴力的で、至近距離で視界に入れることがつらい。一歩踏み出せばぶつかってしまいそうなくらいの近さに、彼がいる。さわやかにも感じるはずの、ふわりとひろがる花の蜜の香りが、自分の身体にどろりとまとわりつくようだ。手に持っていた缶をぎゅうっと握りしめたまま、身体が硬直してしまう。

「このジュース買ってる方、俺以外に初めて見ました。好きなんですか?」

 話しかけてくる唇の動きがやけにスローモーションに見えた。音楽にも似たなめらかな低音が、一言一句耳をくすぐる。何か反応を返さなければいけないと思うのに、自分の唇が震えていて、うまく言葉を発することができない。

「……あ、えっと、」

 視線をさまよわせながら、続ける台詞を探る。人と話す時は、目を合わせるのが正しいのです。昔教えられたことが頭の中を巡るが、脳が身体に命令を送ってくれないから、意志と反する行動を取ってしまう。

「ああ、いきなり馴れ馴れしく話しかけてしまってすみません。企画部の西條です。」

「……経理部の、笠間、です。」

 向こうが名乗ってくれたおかげで、少しだけ落ち着きを取り戻した。しかしまだ身体は言うことを聞いてくれなくて、絞り出すように自己紹介をする。

「俺、このジュースすごく好きなんですよ。でも周りに商品名すら知らない人が多くて。」

 にこにこと話しかけながらも、さりげなくこちらの様子を窺っているのがわかる。おかしな態度を取ってしまったせいだと瞬時に理解し、その罪悪感に苛まれそうになるが、挽回せねばと口角を無理矢理引き上げた。

 こんなことをしていては、かみさまが僕を見放してしまう。それはいけない。

「そうですね。僕も、すごく好きで。……あ、よかったらこれ、差し上げましょうか?」

 自分が急に流暢に話し始めたことに面食らったのか、一瞬の間。そのあと、ふ、と小さく笑う相手を見て、きょとんとしてしまう。今の台詞に、笑うような場所はなかったように思うのだが。

「失礼。社内とはいえ初めて話す相手に、飲み物をご馳走してくれる人なんているんだなあ、と思って。」

 くすくすと笑っている顔も、まるで彫刻。目尻の笑い皺が、かろうじて人間なのだと思わせるくらいで。

「……いいこにしていたら、しあわせになれますから。」

 伏し目がちにぼそ、と呟いた言葉は、西條には届かなかったようだ。うっかり口をすべらせてしまったことに危機感を覚えて、背筋が凍った。こんな状況で、自分の内側を吐露するなんて、どうかしている。

 返答を待つように、真っ直ぐな瞳がこちらを見つめていた。けれど、雲間から光が差し込み、窓に背を向ける彼の表情が、逆光で影になる。日の光が艶やかな黒髪をより美しく見せて、入り込む光がなくなった瞳はブラックホールにも感じられるほど深くなり、ひどく神秘的だ。そして、後光が差しているようにも思える。

「────僕、戻りますね。これ、受け取ってください。」

 ジュースの缶を西條の胸元に押しつけて、無理矢理握らせる。え、と目を見開く様子が伝わってきたが、このままこの場所にいたら、何かがおかしくなってしまう気がした。

「あの、ちょっと、笠間さん……!」

 逃げるように走り去る背中に声をかけられても、反応することなく、ちょうど来たエレベーターに乗り込む。六階のボタンを押す指はまたしても震えていた。走ったせいだけではない鼓動の速さに、深呼吸することで平静を保とうとするが、なかなかうまくいかない。恐怖と興奮に自らの肩を抱く。

「……かみ、さま?」

 ぽつり、誰にも届かない呟きが、空気に溶けて消えた。



 執務室に戻ってくると、鈴城が自席で分厚いファイルの山に囲まれていた。ぱらぱらとページをめくっては戻り、を繰り返している。

「あっ、笠間さん。何してたの、遅いよ。」

「すみません。ちょっと、」

「言い訳はいいから。手伝って。」

「……はい。」

 鈴城は仕事に熱心で、自分のこともよく気にかけてくれている。今のように叱られることは多々あるが、それもすべて自分が至らないせいであるから、言われているうちが華だと、思わず吐き出しそうになった大きな息をぐっと堪えた。鈴城からの言葉に若干の頭痛を覚えるのも、反射的にため息をつきそうになるのも、きっと、自分の努力がまだまだ足りないということなのだろう。

 席につき、鈴城から業務の説明をひととおり受け、パソコンに向かうと、画面上にチャットの新着通知が入ってきた。総務部に問い合わせをしていた件かと思い、アプリを開いて、送信者の名前に身体が固まる。

未読チャットの欄には、西條神、の文字が光っていた。

 どく、と一瞬で跳ね上がった心臓を落ち着かせることもできないまま、カチリとその名前をクリックする。

『お疲れ様です。先程はありがとうございました。お急ぎのところ、引き止めてしまい申し訳ありません。今日のお礼に、今度はぜひご馳走させてください。同じジュースが好きな者同士、貴重な出会いですから。』

 頭が真っ白になった。

 手元にあったコーヒーの缶を無意識に強く握りしめる。飲みかけのそれは、完全に冷たくなっていた。



 衝撃の出会いから、三週間。日々は平々凡々と過ぎ去っていた。月末が近くなり、経理部は大量の請求処理に追われてばたばたとしている。隣席の鈴城は毎度のことながら忙しさに苛立ちを隠せないようで、自分へ愚痴をこぼすのがお決まりになっていた。静かに相槌を打ちながら、本日何度目かのチャット確認をして、新着通知がないことになんとなく落胆する。

 あれから、西條とは連絡を取っていない。

『お疲れ様です。ご丁寧にありがとうございます。』

 あの時は何と言葉を返せばいいのかわからず、夕方になってようやくそれだけ返信した。すぐに既読のマークは付いたけれども、以降のやり取りは、ない。

企画部のフロアは四階であるし、自分はそうそう最上階の自動販売機まで足を運ぶこともないから、顔を合わせることもなかった。唯一認識したとすれば、表彰式の写真を社内報で一方的に見たくらいだ。プロが撮っているわけでもないのに、彼は写りも素晴らしく、あたたかみのある、それでいてどこか冷たさも感じさせるような、不思議な笑顔が眩しかった。

「……笠間さん、聞いてる?」

「もちろん、聞いていますよ。A社の請求金額に今月も差異が出ているんですよね。困りますね。」

 鈴城にじろりと横目で睨まれて、少し眉を寄せながら返事をする。人と会話をする時は、感情をある程度表に出すのが大事だからと、ずっと実践してきたことだ。困った時は眉を寄せて、口角を下げたり、腕を組んだり。そう反応することが模範的であると、教わった。

「そう、それでね。A社の担当、私から笠間さんに変えようと思っているんだけど。」

「僕、ですか?」

「ええ。ほら、私見ての通り立て込んでいるし。笠間さんなら、なんだかんだ上手くやってくれると思うのよね。」

「……僕でよければ、頑張ります。」

「うんうん、そう言ってくれると思った。」

 途端に機嫌よく笑う鈴城に、自分もにこりと笑顔を返す。人の役に立てば立つほど、かみさまはきっと気にかけてくれる。自分を幸せに導いてくれる。

「ちょっと飲み物買ってきますね。」

 席を立つと、ふわりと身体が浮くようなめまいをおぼえる。ここのところ頻繁にめまいがするようになった。早寝早起きを心がけているが、資格の勉強で少し睡眠時間を削っているせいかもしれない。少しふらつきを感じながらゆっくりと歩いて、廊下の自動販売機に辿り着く。

 頭をしゃっきりさせるために、カフェインを摂取したいような、喉ごしのよい炭酸飲料を飲みたいような。ボタンを押そうとする指がふらふらとさまよって、止まる。

 ……最上階まで、あのジュースを買いに行こうか。

 件の飲み物は自分の大好きなものであるし、微炭酸で、今の気分にちょうどよい。だから。決して何かを期待しているわけではないのだ。心の中でよくわからない言い訳をしながら、足は勝手にエレベーターへと向かっていく。

 六階へ到着した箱へ即座に乗り込み、最上階のボタンを押して、体感十秒ほどで目的地に到達する。今日は大きな会議が何も開催されていないから、廊下には一切人気がない。小走りでフリースペースへ向かって、……誰もいない空間を、見つめる。

「そう、……だよね。」

 太陽に明るく照らされた場所とは対照的に、気持ちは深く沈んでいく。自分の感情がよくわからない、本当は何を求めていたのだろうか、ただ飲み物を買いにきただけのはずなのに。どうして。当たり前に静かな空間を目の前にして、涙が出そうになるなんて。

 ぐっと唇を噛んで、当初の目的を果たそうと、自動販売機の前に立つ。そう、自分はこれに用があっただけなのだ。ぴったりの小銭を投入し、該当のボタンを押そうとしたところで、ぴたりと手が止まる。売切の文字が光っていた。

「あれ、」

 せっかくここまで来たのに、売り切れとは残念だ。肩を落として踵を返そうとした、瞬間。

「笠間さん。」

 するりと鼓膜からすべり込んできた甘い声に、勢いよく後ろを振り向く。すぐそばに、にこやかな笑みを浮かべる西條が立っていた。

「あはは、初めてお会いした時と一緒だ。また驚かせちゃいましたかね。すみません。」

「さ、いじょう、さ……、」

 感情が色とりどりのマーブル模様を描いて、うまく言葉を紡げない。相手の名を呼ぶのが精一杯だ。ただひたすら、胸が、苦しかった。

「……なにか、ありました?」

 吸い込まれそうなほど暗く澄んだ瞳が、自分を映す。初めてまともに視線を合わせた気がして、とくとくと脈が速くなっていく。

 急に力が抜けて、へたり、としゃがみこんでしまった。

 その様子を見ても焦ることなく、西條は床に膝をついて、こちらと目線の高さを合わせようとする。

「ソファに移動しましょう。歩けますか?」

「……はい、」

 手を貸してもらい、立ち上がってのろのろとソファまで歩く。二人でゆっくり腰を掛ければ、体重で若干沈み込む柔らかさが心地よかった。俯いたまま顔を上げられないでいると、急に、頬にひやりとした硬い感触。驚いて西條の方を見れば、冷たい缶を手にした彼が微笑んでいた。お互いが好きな、あのジュースだった。

「また会えるかな、と思って、実はあれから定期的に買いに来てたんですよ。今日は最後の一本を、俺が買っちゃいましたけど。」

 西條がトイレに行っている間に自分が来たらしい。なんとなくあなたがいる気がして、戻ってきました。そう告げる彼の表情には、時折感じる冷たさなど微塵もなく、ふわりと花がほころぶようなあたたかさだけがある。

「俺、何言ってんだろうな。……笠間さん、これ、もらってください。」

 西條は気恥ずかしそうに視線を逸らしつつ、こちらに缶を握らせる。缶が少し汗をかいていて、手のひらが濡れた。

「え、そんな、」

「なにか、あったんでしょう。」

「……なにも、な、」

 吐き出そうとした否定の台詞は、途中で遮られる。

「俺は、こんなことしかできないけど。たぶん、先日のあなたのお人好し加減に、あてられちゃいました。」

 そう言って西條は立ち上がる。一人分の体重を失ったソファが、ギシリと寂しそうに鳴いた。

「俺、行きますね。笠間さんは、しばらく休んでいてもいいんじゃないですか。」

 歩き出す背中に向かって、ちゃんとお礼を言いたいのに、喉が詰まったかのように声が出ない。ひゅ、と呼吸が浅くなる。待って。行かないで。手を伸ばすこともできなくて、缶を握り締める手がどんどん冷えていく。

 彼が曲がり角を過ぎて、姿が見えなくなってからようやく、大きく息を吐き出すことができた。

 これは、繰り返し見る夢で目が覚めた時の感覚に似ている。くるしい。うれしい。かなしい。たのしい。なぜ、西條を見ると、こんなにも感情がかき乱されるのか。いつでも冷静で、周りの空気を読むことも忘れず、人の感情の機微に合わせて行動する。それが、自分だったはずなのに。

 そして、ふ、と気がつく。そうか、あの人は。


 やっとみつけた。


 ぼくの、


「────……かみさま。」


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