観念・概念や言葉の鋭化? 唯物化?

鮎川 雅

観念・概念や言葉の鋭化? 唯物化?




 タイトルの表現が適切なものかどうか、ほとんど自信がないが、とりあえず進める。



 平成のある頃から、SNSが発達して、それまでマスコミや新聞その他のメディアが独占していた言論空間に、一般大衆がなだれ込むようになった。


 流行語(とかネットスラング)に、鋭いものが出てきたのも、これと関係があるのではないだろうか、と個人的には思っている。単純に発信主体が増えただけと言われるかもしれないが。


 それにしても、流行語(とかネットスラング)は面白い。


 ただし例えばバズるとかチルいとかは、単なる英訳なので除くとしても、ああ、これ鋭いなあと感心させられるものが幾つもある。


 数え挙げるとキリがないが、二つ挙げたいものがある。


 一つは「親ガチャ」である。


 説明するまでもないが、「ガチャ」とはいわゆる「何が出てくるかわからない」機構であるが、「親ガチャ」は、それを人の親族関係に適用して「親は選びようがなく、運の良し悪しなり偶然の産物で決定されるもの」と定義づけたものである。


 これ、なるほどなあと思った。確かに、子は親を選べない。そこには自分の意思が介在する余地もなく、ただ両親の交尾がなされたせいで、後から望むにしろ望まないにしろ、産まれて来ざるを得なかったというのが、我々人間ではないか。


 悲観的に見れば、それこそ酔っ払って救急車を蹴ったという元歌手ではないが、「この腐敗した世界に堕ろされた」のである。


 この見方を、私は否定はしない。「何を罰当たりなことを言うか、産んでくれた両親に申し訳ないと思わないのか!」とか、「違うよ。人は両親を選んで生まれてきたんだよ」とか的外れなことを言うつもりはない。


 もう一つ挙げるとすれば、「上位互換」である。


 これも元々はメカニカル用語だが、誰かがこの「上位互換」という言葉を、本来とは違う用途で使い出した。


「お前の上位互換なんて、掃いて捨てるほどいるぜ」とか。


 なるほど、確かにそうである。


 例えば三島由紀夫とか大谷翔平とか平沢進とか、よほど結果を残した人間でない限り、人は名も残らずに朽ちていく。某アニメのヒロインではないが、「私は死んでも、代わりはいるもの」である。


 かくいう私だってそうである。小説らしいものを書きはするが、自分などのより評価される小説を書ける人は無数に存在する。上位互換だらけなのだ。書いてて悲しくなってくる。


 うだつの上がらない、稼ぎが日本人の平均年収にすら届いていない私ではあるが、「自分の代わりなんて幾らでもいる」という話を、ポルシェが余裕で買えるくらいの稼ぎがある旧友にしたところ「俺らだって一緒だ」と言われてしまった。嗚呼。


 以上のように、例を二つしか挙げてはいないが、流行語(ネットスラング)について述べてみた。


 繰り返すが、私は、これらの言葉を否定するわけではない。


 ただ、昭和生まれの小生は、思ったことがある。「なんか、取り付く島がなくなってきた気がする」と。


「親ガチャ」という観念だか概念だか言葉だかは、正確ではある(と私は思う)。だが、こうも思うのである。「こうした概念が、果たして現実の親子関係に好影響をもたらすのだろうか」と。


 それはないだろう。むしろ興醒めとした、白々しい後味しか残さないのが、この「親ガチャ」という言葉ではないだろうか。


 おまけに「親ガチャ」という言葉は、ある主義と親和性が高い。それは「反出生主義」である。これは要するに「産まれてこない方が幸せであり、産まれてくることは苦しみであり、加害行為ですらある」と言う考え方である。


 ここまでくると、「親ガチャ」という観念だか概念だか言葉だかの登場は、あまり誰も得しないような気すらしてくる。


「上位互換」にしても、その文脈は間違っていない(と私は思う)。だが、こうも思うのである。「こうした概念が、果たして今を生きる人々の活力となり得るのだろうか」と。


 私見では、SNS以前は、金子みすゞではないが、「みんな違ってみんないい」というのが、何となく日本社会の共通認識として持たれていたのではないかと思う。


 それが、「上位互換」という観念だか概念だか言葉だかによって、「みんな違うけど、(市場価値には)優劣がつくよ」という考え方が生じてしまった。


 これは不幸な考え方である。正しいとしても、だ。


 要するに私が言いたいのは、観念だか概念だか言葉だか、それらが鋭化(唯物化?)するほど、言い換えれば精密になればなるほど


 私自身は、観念だか概念だか言葉だかというものは、ある程度ふわりとした存在でもいいのではないかと思う。


 少なくとも、平成のある時期までは、それが許されていた(ように思う)。そうは問屋が卸さなくなってきたのは、私が見る限り、SNSが発達してからではないかと思っている(「炎上」という言葉も、ほぼ時を同じくして、まるでお揃いのように出てきたではないか)。


 観念だか概念だか言葉だかが、「より的を射るようになった」ことで「痒いところに手が届くようになった」気がするのは間違いない。


 ひょっとしたら三島由紀夫の「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」という言葉の一角は、こうした状況を予見していたのかもしれない、とすら思う今日この頃である。


 我々は人間である。決して、当たり外れのある玩具や、工業製品ではないのだ。


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