とある暴力団の顛末と妖怪の噂について

ぴのこ

とある暴力団の顛末と妖怪の噂について

 着信音が響いた。

 築38年の古アパートの一室。債務者の男はその着信音に驚き、食べていたカップ麺を取り落とした。カップ麺の汁は床を埋め尽くす雑誌や衣類に染み込んでいったが、男にはそれらに気を回す余裕は無かった。なにしろ、男には自分に電話をかけてくる相手の心当たりなどひとつしか考えられなかった。男が金を借りている闇金だ。その闇金は“極義組”という暴力団がバックについており、返済が滞ると組員の男たちが苛烈な取り立てを行う。

 電話に出れば、あの恐ろしい罵声がスピーカーから飛んでくるだろう。それを想像するだけで、男は身が縮む思いだった。しかし、電話を無視すれば取り立ての男たちが部屋にやって来る。男は前回の取り立てで、耳たぶをライターで炙られたことを思い返した。今回こそは、暴行を受けるだけでは済まないかもしれない。男には、電話に出て返済の約束と謝罪を述べる以外の選択肢が残されていなかった。

 男は意を決し、通話ボタンを押した。男の予想に反して、聞こえてきたのは若い女の声だった。


「もしもし。私メリーさん。いま極義組の事務所に居るの」




 暴力団が栄華を極めた昭和から時代は移り変わり、令和の世。暴力団は、衰退の一途を辿っていた。その最たる原因は、1991年に施行された「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」の存在だろう。バブル期においての強引な地上げや、バブル崩壊後の債権回収、不良債権処理の妨害など暴力団の悪質な行為が社会問題化したことを背景として施行された法律であった。この暴力団対策法の影響を受け、暴力団は大幅に弱体化。活動を大きく制限されることとなった。

 暴力団対策法の施行以降も、暴力団は勢いを削がれつつも巧妙に活動を続けていった。振り込め詐欺や闇金、違法薬物の密売や売春の斡旋といったシノギが、暴力団の資金源だった。

 しかし、次第にそれらの収入は減少していった。社会全体が暴力団を締め付け、その活動を制限するようになったためだ。2010年に福岡県で施行された「暴力団排除条例」は、翌年2011年には全都道府県で施行され、社会全体で暴力団を排除する動きが広がった。徹底的な排斥を受け、暴力団は悲鳴を上げるようになる。

 2025年の現在においても、暴力団は悲惨な状況だ。メンツを重視していたとある組の組長は、車をベンツから130万円の中古車に乗り換えた。若い組員は収入を得るため、UberEATSの配達員として駆け回る始末。建設現場の作業員として働く組員は、もうすっかりカタギ同然だと自嘲気味に漏らす。事実、現在では彼らが所属する組の名は名刺には表記されていない。暴力団の名が記された名刺を出しただけで脅迫罪に問われ、逮捕されるためだ。

 減少したものは収入だけではない。暴力団の総構成員数もまた減少していた。暴力団対策法が施行された1991年には9万人以上もいた暴力団員は、2024年末には2万人程度にまで減少している。その理由は単純に、経済的な困窮だった。暴力団では食べていけない。離脱した暴力団員に足抜けした理由を問えば、誰もがそう答えるだろう。

 では、暴力団はこのまま衰退するばかりなのだろうか。否。

 その暴力団は、ある者たちと手を組むことで破竹の勢いで成長を遂げていった。


 大阪府大阪市に本拠地を置く指定暴力団“極義組”。全盛期は約1200人の勢力を誇っていたこの暴力団もまた、暴力団対策法の影響を受け構成員数230人にまで減少していた。

 存亡の危機に瀕していた“極義組”の転機となったのは、組長を務める磨家傑まいえ まさるの携帯にかかってきた一本の電話であった。


「もしもし。私メリーさん。今あなたの事務所の前にいるの」


 “極義組”事務所の応接室には、異様な空気が漂っていた。ソファに腰掛ける小学生程度の幼い少女を、磨家を始めとする組員たちが取り囲む。小柄な少女だ。裏の世界で生き抜いてきた組員たちならば、容易に制圧できるはずだった。しかし、その場の誰もが少女に手を出せずにいた。


(…ただモンじゃねえ。ホンマに人間か…?)


 磨家もまた、少女の不穏なオーラを感じ取っていた。人間離れした異質な威圧感。それを生んでいるのは、少女の純白のドレス姿や不敵な笑みだけではないだろう。少女が放つ超然とした雰囲気は、少女自身の異質さから生まれていた。磨家の50年の人生の中でも、少女のような怪物じみた者と相対したことは無かった。

 下手に手を出せば死ぬ。組員たちは全員が本能的にそう感じ取り、誰一人として少女に触れられずにいた。


「…嬢ちゃん。オマエが俺の電話番号をなぜ知っていたかは、この際どうでもええ。一番聞きたいことから聞く。オマエはなんや?オマエの目的はなんや?」


 沈黙を破ったのは、磨家が絞り出した言葉だった。単刀直入に、少女の正体と目的を聞く。それが最善であると磨家は判断した。

 少女はくすくすと笑いを漏らすと、スマートフォンを取り出した。スマートフォンの画面に映っていたものは、ビデオ通話のようだった。妙に高い位置から撮影されている画面には、一人の女が映っていた。女は赤いロングコートで身を包み、長い黒髪が腰まで伸びている。顔は白いマスクでよく判別できないが、マスクの両端に赤い切れ目が走っているように見えた。最も磨家の目を引いたものは、女が右手に持つ巨大なハサミだ。それは刃の部分が異様に長く、武器の類であることが容易に察せられた。


「いぇ~い八尺ちゃん撮れてる~?わたしキレイ~?」


「キレイぽよ~!」


 軽快な声がふたつ響いた。ビデオ通話先の女たちの声だ。磨家は困惑を隠しきれずにいたが、すぐにあることに気づいた。


「オイここ…友情會の本部前やないか…?」


 兵庫県尼崎市に本拠地を置く指定暴力団“友情會”。“極義組”の対立組織のひとつであり、“極義組”と“友情會”の抗争は幾度も発生している。つい先日も抗争が行われたばかりだ。死者は出なかったものの、“極義組”と“友情會”ともに重傷者を出した。“友情會”が消えてくれればと、磨家は何度考えたかわからない。


「口裂け女ちゃん。いいよ」


 少女が短く告げると、口裂け女は嵐のように駆け出した。“友情會”の本部は一階がガレージとなっており、二階に事務所を構える構造だ。口裂け女は入口の階段を猛烈な勢いで駆け上っていった。映像は階段から移動し、二階の窓から見える事務所の風景を映し始めた。直後、口裂け女が事務所の入り口のドアを斬り裂いた。

 人間がどう撮影すればこうも滑らかに二階の風景へと画面を移行できるのか。なぜ鉄でできたドアが紙のように切り裂けるのか。そのどちらも、磨家には見当もつかなかった。

 口裂け女は事務所に侵入すると、ぽつりと一言呟いた。


「わたしキレイ?」


「なんじゃあてめえゴラァ!!」


 怒鳴り散らした組員が咄嗟に銃を取り出すよりも早く、口裂け女は組員の首をハサミで斬り落とした。その動きはおそろしく速く、磨家にはかろうじて目で追える程度だった。だが、それ以降の口裂け女の動きは、残像程度しか捉えることができなかった。

 瞬く間に、“友情會”の組員たちが死体と化していく。磨家がひとつ瞬きするたびに、いくつもの首が飛んでいく。組員たちが銃を構えるより早く、口裂け女は首を刎ねていく。口裂け女が事務所に侵入してから数秒後には、全てが終わっていた。事務所には血の海が広がっていた。

 口裂け女は、ピースサインとともに何かをカメラに向けて掲げた。それは“友情會”のトップの首だった。そこでビデオ通話は途絶えた。


「今お見せしたものは、私たちの力のほんの一部です」


 絶句する磨家に、メリーさんが口を開いた。動画を見ていた組員たちも、一様に言葉を失っていた。その表情は恐怖の色で覆われていた。


「私は何かと。なんの目的で来たのかと貴方はお聞きしましたね。端的にお答えすれば、私たちは妖怪であり、あなた方と手を組むことが目的です」


 ようかい、と磨家の口から声が漏れた。現実的ではない言葉だ。しかし、メリーさんが放つ異様な空気と、今の動画の一部始終を考えれば腑に落ちる返答であった。


「私たち都市伝説妖怪の力の源は、人間からの恐怖です。さきほどの口裂け女の動きを思い返してください。一人を殺した途端に、動きの速度が跳ね上がったでしょう。あれはあの場の人間たちからの恐怖を一身に受けたためです」


「都市伝説妖怪は人間の恐怖を糧に生きています。裏を返せば、恐怖が途絶えれば存在を保てなくなるということでもある。現代では、都市伝説と聞いても恐怖を抱く人間は稀です。数々の創作に面白おかしく取り上げられた結果、もはや私たちは恐怖の対象ではなくなってしまいました。数少ない臆病な人間や子供たちの恐怖で生きながらえているのが現状です」


「1980年代や1990年代では、私たちの存在は今の比にならないほど強かった。それが今では見る影もありません。そう、あなた方と同じように」


「…極道と妖怪はおんなじとでも言いたいんか」


「かつて恐怖の象徴として隆盛を極め、今のままでは滅びゆく運命という意味では。いかがでしょう。私たちと手を組み、巻き返しを狙うというのは」


「オマエらの力はよおわかった。つまり…オマエらは俺らにとって邪魔な連中を殺してくれる言うんか?」


「命を奪われる恐怖は、人間の中で最上級のものです。それを得られるならば協力は惜しみません。私たちのことは、便利な殺し屋とでも思っていただければ」


「…わざわざ俺らに協力を願い出る理由はなんや。さっきの…口裂け女か。アイツほど強ければ、適当に人間を襲えばええやろ」


磨家の疑問に、メリーさんは首を横に振って返した。


「それでは局所的な恐怖にしかなりません。もはやそれでは足りないのです。まずは私たちが存分に力を振るうことができ、存分に恐怖を振りまける環境を作りたい。あなた方が私たちの力を用いて悪名を轟かせたならば、その恐怖は私たちの糧になるのです。いかがです?双方にとって魅力的な取引でしょう。それに…何より」


 メリーさんは両の手のひらを合わせ、くすりと微笑んだ。


「親近感が湧いたのですよ」


 磨家は思案した。口裂け女の力を見た限り、確かにあれは一騎当千の戦力と言える。組が弱体化した今、強大な戦力が得られるなど願っても無い話だろう。しかし、それは化け物を抱え込むリスクと釣り合っているか。こいつらは本当に信頼できるのか。いつか、致命的な問題が起こりはしないか。

 だが、磨家は同時にその思考が無駄であるとも悟っていた。磨家は心の中で毒づく。この妖怪は、提案をしているのではない。これは強制なのだ。こちらの命を握った上で、拒否する選択肢を潰しているのだ。磨家には、妖怪の手を握る以外の選択肢は残されていなかった。


「…こっちも生きるか死ぬかの瀬戸際や。手段は選んどれん」


「…よろしゅう頼む」


 磨家が差し出した手を、メリーさんは満足気な笑みを浮かべて握った。

 この日、人間と妖怪が最悪の形で手を取り合った。




 “友情會”が壊滅した事件の報道は、即座に日本中を駆け巡った。本部が何者かによる襲撃を受け、その場に居合わせた組員の全員が死亡。本部に不在だった組員も本部が襲撃された当日に全員が殺害された。暴力団同士の抗争と思われるが、被疑者は不明。

 この事件は日本中を震撼させたが、最も恐怖を抱いたのは裏社会の住人たちだった。自分たちの元にも、この襲撃者がやってくるのではないかという恐怖だ。あらゆる暴力団が独自に犯人を探り、本部の警備を厳重にしていった。



「もしもし。私メリーさん。いま極義組の事務所にいるの」


 メリーさんは一言だけ告げ、通話を切った。


「磨家さん。次の電話で私は移動しますね」


 メリーさんは、ニュース番組での先の事件の報道を見る磨家に涼しい顔で告げた。その横では八尺様がその巨体をソファに沈めながら、リストに沿って次々に電話をかけていた。八尺様の腕には10歳を迎えたばかりの磨家の孫の優人まさとが抱かれており、時折頭を撫でられるたび優人は恐怖で顔を歪めていた。磨家は優人に一抹の罪悪感を抱きながらも目を背けた。これは交換条件だった。八尺様が仕事の条件として優人を抱かせることを要求したのだ。磨家が小遣いを渡すと約束することで、優人は渋々ながらもその役目を引き受けた。

 八尺様は電話の発信前にぽぽぽ…と声を出し、指を喉に当てながら咳ばらいをすると、全く別人の声を出すことができた。


「あー、もしもし?そう、オレだよ。実は交通事故を起こしちゃってさ、示談金が必要なんだよね。そう、口座番号を今から言うから、すぐに銀行に行ってほしい」


 若い男の声だった。声帯を自由に変化できる八尺様の技能を使ったオレオレ詐欺は、驚異的な精度でターゲットたちを騙すことができた。なにしろ、声が本人そのものなのだ。なぜ本人の声がわかるのかと磨家は疑問に思ったが、心の内に押しとどめた。妖怪であることを抜きにしても、八尺様の規格外の体躯には恐ろしさを抱かずにはいられなかった。

 それにしても巨大な妖怪が異様に上手い声真似でオレオレ詐欺をやっている姿は、なんとも奇妙な感覚だと磨家は思った。


「さて、私は例の債務者の自宅に行ってきます。片付いた頃に電話をかけますので」


 メリーさんは事務的に告げると、2分前に電話をかけた債務者の電話番号を通話履歴からタップし、発信ボタンを押した。

 メリーさんの能力は、対象に電話をかけることを条件とする瞬間移動能力。対象への加害を目的としない場合であれば目的地へと一度で瞬間移動することが可能だが、加害を目的とする場合は複数回の通話を経て段階的に移動する必要があった。


「もしもし。私メリーさん。いまあなたの家の近くのコンビニにいるの」


 メリーさんの姿が事務所から消えた。


 債務者の男は狼狽していた。電話口から聞こえた声は、メリーさんを名乗る若い女のものだった。たった今かかってきた二度目の電話でも、女はメリーさんと名乗っていた。何かのイタズラかもしれないと男は考えたが、一度目の電話で女は確かに“極義組”と言っていた。組が雇った女なのだろうか、女ならば殴り勝てるかと思案していた男の元に、三度目の電話がかかってきた。


「もしもし。私メリーさん。いまあなたの家の前にいるの」


 二度の電話と同様に、三度目の電話もその一言を告げただけで切れた。男はおそるおそるアパートの短い廊下を抜き足差し足で歩き、玄関ドアの様子を伺った。インターホンが鳴る音も、ドアを叩く音も無い。本当にドアの前に誰かがいるのか、男には判然としなかった。

 男が呼吸音さえ押し殺し、そっとドアスコープを覗いた瞬間。着信音が鳴り響いた。男が手に持つスマートフォンからだ。

 男は慌てふためき、通話ボタンを押した。心臓が跳ねる思いだった。通話を切るという選択肢は、なぜか男の頭には無かった。男がスマートフォンを耳に当てたとき。


「もしもし。私メリーさん」


 その声は、二重に響いた。スマートフォンと、男の背後から。

 男が恐怖に満ちた荒い息を発しながら振り向いた瞬間。


「いま、あなたの後ろにいるの」


 男の意識は手放された。



 メリーさんが事務所から消えてから数分後。磨家のもとにメリーさんからの電話がかかってきた。磨家が通話に応じた途端、事務所にメリーさんの姿が現れた。債務者の男の遺体とともに。


「コイツは…死んでるんか?」


「はい。死んでいますよ。自宅から直接ここへと移動したので、彼の姿はどこの防犯カメラにも映っていないでしょう。後はお好きなように」


 “極義組”のビジネスのひとつに闇金があるが、借金を返さない人間は後を絶たない。その場合、債務者を脅迫して強引に取り立てを行うが、それでも返済能力が無い場合は拉致して臓器売買ビジネスの商材として扱う。問題となるのは、債務者の拉致の過程で足が付くリスクだ。

 そのリスクを、メリーさんの力ならば踏み倒せる。債務者の自室で殺害し、遺体を事務所に直接瞬間移動させる。債務者の体を回収するために理想的な力だった。以降も、メリーさんは債務者たちや、“極義組”の暗殺対象の人間たちを手にかけていった。


 磨家は身震いした。当初は不安だったが、妖怪たちの力は凄まじく有用ではないかと。このまま妖怪たちとともに歩んでいけば、“極義組”はかつての隆盛を取り戻せる。裏社会の頂点に立てる。磨家は未来の栄光を空想し、密かにほくそ笑んだ。

 事実、妖怪たちの力により、“極義組”の収益は飛躍的に増加した。特に違法薬物の収入が顕著だった。違法薬物に手を出す人間は、猛烈な不安感に苛まれる者が大半だ。彼らは不安のため現実逃避を求め、一時的にでも快楽を得るために違法薬物を摂取する。ならば、強制的に不安感を与えられる手段があれば、容易に“客”を増やせる。


「おい…川の向かい側、なんか居ねえ?なんか…白い…踊ってる奴」


 大阪府大阪市中央区道頓堀。大阪の観光地として名を馳せるこの一角は、若者の溜まり場としても有名だ。道頓堀橋の下。グリコの看板の真下に屯することからグリ下界隈と呼ばれる若者たちは、その晩、不可思議なものを見た。

 一人が指さすと、若者たちは連鎖するように“それ”に目を向けた。道頓堀川の向かい岸に立つ“それ”は、顔こそ判別できないものの白い服を着た人間のように見えた。しかし、人間ではない。“それ”のくねくねとした踊りは、人間の関節可動域には決して不可能な動きであった。“それ”は数秒ほど奇妙な踊りを見せた後に陽炎のように消えていった。だが“それを”、くねくねを見てしまった者たちの精神不安は消えることはなかった。


「おイ!なんナんだヨ!?アレ!?!?」


「わカらナい怖い吐きタい……」


「死にたイ死にタい死ニたイ」


 くねくねは、その踊りを目にした人間の精神に異常をきたす。全盛期のくねくねであれば認識した者を死に至らしめるダメージを人間に与えることができたが、弱体化した現在では人の命を奪うことは不可能であった。それでも、重度の精神不安を与えることはできた。くねくねを目撃してしまったグリ下界隈の若者たちは、猛烈な不安感に苛まれていた。


「おい!みんな!しっかりしろ!こいつをキメろ!!」


 くねくねの踊りを目にしてしまい錯乱するグリ下界隈の若者たちに、一人の男が違法薬物を配布していった。彼は“極義組”の組員であった。くねくねの術中に陥った若者たちに、違法薬物を配布することが彼の役割だ。ここで配布する違法薬物は無料で良い。これは撒き餌だ。一度でも摂取してその絶大な多幸感を知ってしまえば、二度目からは多少高額でも金を払うようになるというのが“極義組”のやり口だった。


 違法薬物の密売で“極義組”と競合していたのは半グレ団体“スカッド”だったが、これも妖怪の協力があり壊滅に追いやれた。半グレとは暴力団に属さず、独自に薬物売買や特殊詐欺、売春斡旋などの活動を行う犯罪グループだ。構成員は主に地域の不良グループや暴走族である。“スカッド”もその例に漏れず、暴走族が違法薬物の密売や売春の斡旋にも手を染めているというのが実態だった。

 ある晩のこと。大阪府道29号大阪臨海線。大阪府を南北に走るこの府道に、いくつもの爆音が轟いた。“スカッド”の改造バイクの音だ。彼らの暴走行為は始まったばかりのためパトカーの姿は未だ無く、サイレンの音が混じらない純粋な“スカッド”の音だけが深夜の臨海線にけたたましく響いていた。

 風も倫理も置き去りにし、全てから解き放たれる。彼らにとっての暴走行為とは、何者にも邪魔されない至福の時間だった。

 その暴走を、弾丸のような何かが追い抜いた。


「…ババア?」


 先頭を走っていた“スカッド”のリーダーの男は、目の錯覚を疑った。たった今、老婆のようなものが猛ダッシュでバイクを追い抜いていかなかったか。そう考えて、彼はやはりありえないと一笑に付した。バイクの速度は時速100kmを超えているのだ。人間の足で追い越せるわけがない。

 だが、3秒後、彼は再びその姿を目にすることになる。バイクの群れを神速の疾走で追い抜いた老婆が、ターボババアが道の先に立っていた。

 瞬間、ターボババアの姿が消えた。否、目に追えぬ速度で駆け出した。ターボババアは一瞬で“スカッド”リーダーのバイクに接近すると、雷光のごとき飛び蹴りをリーダーの男の首に放った。男の首から鳴ってはいけない音が鳴るとともに、その衝撃で男の体は後方へと跳ね飛ばされた。ターボババアは他のバイクの運転手たちにも同様に致命の一撃を放っていった。運転手を失ったバイクはやがて横転し、他のバイクが激突した衝撃により引火。幾度もの爆発炎上を起こし、“スカッド”の車列はやがて廃車と死体の山と化していった。

 警察が到着した頃には、大阪臨海線は凄惨な事故現場となっていた。“スカッド”の壊滅は先頭のバイクが横転したことによる玉突き事故と報道され、ワイドショーでは暴走族への注意喚起がなされた。街の声は暴走族への侮蔑の一色に染まった。大阪臨海線を凄まじい速度で走る老婆の噂が流れたが、それが警察への正式な情報提供として扱われることはなかった。


 口裂け女による被害の2件目。“極義組”と敵対する大阪市の暴力団“南組”が壊滅した頃、裏社会は当然の帰結として気づき始めた。“友情會”と“南組”という、“極義組”の障害となる二つの暴力団の壊滅。“極義組”と薬物売買で競合していた半グレ団体“スカッド”の壊滅。それらにより最も利を得た組織は、当然“極義組”だ。裏社会に恐怖を振り撒く「赤いコートの襲撃者」の噂話。その正体は“極義組”の手先であると誰もが考えるのは道理であった。

 当然、そう勘付かれることは磨家も承知の上だった。


(じきに、ウチにカチコミが来るやろな)


 事務所へと向かう途中、磨家は思案していた。“極義組”を警戒する他の暴力団が“極義組”を潰しに来る可能性が高いこと。最も狙われる危険性の高い自身は単独行動を避け、護衛を付けるべきであること。他の暴力団を吸収し、勢力を拡大する必要があること。

 それら全ての思考が、事務所のドアを開けた瞬間に磨家の頭から消え去った。


「…は?」


 血の海が広がっていた。磨家の目に飛び込んできた風景は、いくつもの部下の死体が転がる変わり果てた事務所だった。


「あっ、磨家ちゃんおつかれぽよ~!優人くん美味しかったぽ」


 磨家の頭上に影が射した。八尺様が磨家の横に立ち、腰を曲げて磨家を見下ろしていた。

 磨家の目線は、八尺様が両腕で抱いているものに注がれた。八尺様の白いワンピースを赤く染める、生気の欠片も無いもの。それは磨家の孫の首だった。


「ま…っ?優人…?は…?えっ…?」


 困惑の声が磨家の口から漏れた。磨家の思考は、それらを現実の光景として処理できなかった。


「人が…最も恐怖を感じることとはなんでしょう」


 凛とした声が響いた。磨家が声の方向に目を向けると、そこにはメリーさんの姿があった。メリーさんは血に塗れたソファに腰かけ、口裂け女と並んで紅茶を飲んでいた。


「それは“わからないこと”です。人は自分の理解の範疇に無いものを最も恐れる」


「磨家さん。あなたも考えていたでしょう。友情會の壊滅に端を発した数々の騒動。その恩恵をどこよりも受けたのはあなた方です。飛ぶ鳥を落とす勢いでしたね。その順風満帆ぶりを見れば、誰でも悟る。すべては極義組の仕業だと」


「そんな中で、極義組が友情會や南組と同じやり口で潰されたらどうでしょう。人々はどう思うでしょうか」


「答えはこうです。“なら誰の仕業なんだ。次はどこが狙われるんだ。わからない”」


 磨家はメリーさんの言葉の意味を次第に理解していった。叫び出したくなった。恐怖で声が出なかった。


「暴力団を壊滅させた犯人は赤いコートの女らしい。若者たちが踊る白い影を見て錯乱したらしい。老人のもとに本人そのものの声で電話がかかってきたらしい。暴走族よりも速く走る老婆がいたらしい。失踪者のスマホには失踪直前に謎の電話がかかってきていたらしい」


「そんな妖怪たちの雇い主は全員殺されて、妖怪たちが今どうしているかわからないらしい」


 全員、という言葉に磨家は微かに反応した。それは磨家が230人の構成員の中の230番目であることを意味していた。


「それらの噂は静かに、けれど確かにこの社会全体へと流れていく。そして私たちの力を強めてくれる」


「ねえ磨家さん。あなたも言っていましたね。生きるか死ぬかの時に、手段は選んでいられないと。私たち都市伝説妖怪とて、生きるか死ぬかの瀬戸際なのですよ」


 メリーさんが目配せをすると、口裂け女が静かに立ち上がった。

 磨家は口裂け女が歩み寄るたび、恐怖と後悔を募らせていった。もはや、全てが遅かった。


「最期はぜひ、死を恐れてくださいね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とある暴力団の顛末と妖怪の噂について ぴのこ @sinsekai0219

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ