第14話 月が綺麗ですね

 ミシェルの失踪を、亜門が殊更取り乱したのには訳があった。

 何を隠そう、亜門はミシェルの失踪を、ほんの僅かばかり予見していたのだ。

 発端は、朝の二人でのやり取りだった。朝食を終え、早速仕事に取り掛かる亜門とは対照的に、ミシェルは横で何をするでもなく過ごしていた。それ自体はいつものことだ。こんな家の中では閃きも天啓も虚しい。ミシェルのそれは、正しい場所と正しい条件下で初めて正しい効能を発揮する。亜門は自分の存在意義を、そのためのセッティングに費やしたかった。だから二人の労働は、一緒に居てもその実被ることは無い。まるで昼と夜みたいな関係だと思う。ミシェルが輝くために、まずは亜門が、光源を用意する。と言うよりは、亜門が光源となる。

 とは言え、その光源とはなんともまあ、地味なものだ。ミシェルは時折チラッと亜門のデスクを確認しては、「うわぁ……」と汚物でも見たみたいに目を逸らした。退屈なものは苦手なのだ。

 だが、そんなに嫌がるなら最初から見なきゃいいのに。ミシェルは時折そうしては、やはり同じようなリアクションを繰り返した。

「よくそんなこと出来るね……」

「そんなことをしないと生きていけないんだよ」

「僕だったら泣いちゃうなあ……」

「泣き続ければ涙も尽きる。みんなそうなんだ」

 こんなやり取りも慣れたものだ。だが亜門は、少し気になることがあった。

「お前、今日はやけに早起きだな。どうした」

「えぇ? 別に……」

「今日めっちゃ晴れだぞ」

 太陽光でさえ頭痛の種になるミシェルは、昼間の外出は結構つらいのだ。彼には月明かりでちょうどいい。

「僕だってたまには早く起きるよ。君がそうしているんだから……」

「ただ寝られなかっただけじゃないのか」

「あ、うん、そう」

 やっぱりそうなのかと頷きつつ、亜門は散らばった紙の束をデスクの上でまとめる作業に入った。こう隣に入り浸れると、なかなか気持ちが書類に入り込まない。漫然とする仕事に、亜門は信頼を置いていない。

「あれ、やめちゃうの」

「ああ。急ぎでもない」

「急いでないのにやってるの……一周回って怖いなあ」

 ミシェルの昼の、寝ぼけまなこのそれが、引いたようにしているのも、少しの間だった。彼は手の空いた亜門の肩にその繊細な腕を回した。

「じゃあ今暇? 僕と遊ぼうよ」

「お前は小学生か……遊ぶって」

 正直に言って、二人で出来るものが何も思い浮かばない。何しろ趣味も正反対ぎみだ。亜門の趣味をミシェルは男性的と言って、若干小ばかにしている。ミシェルには乗り物や機械の持つ直線や曲線のフォルムの美しさ、機能美が分からないのだ。反対に、亜門にはミシェルの好む芸術がまるで分からない。

 こうしていると、二人の観ている世界はまるで違う。ならばどうして、一緒に居られるんだろう?

 あるいはどうして、それを選んでいるのか。

「じゃあお話しよ」

 ミシェルが口を開くたびに、耳元のピアスが揺れて、亜門の顔に当たる。その冷たさを、亜門は妙に感じ入っていた。まるで感傷のような。

「お話ならずっとしてると思うが。今だって……」

「確かに。口を開けば音が出る。音が連なり言葉となる。言葉が連なり感情になる、か」

「いやそこまでは言ってない……」

 詩人みたいなことを滔々と述べられたところで、残念だが亜門は本当に、音楽も詩学も分からない!

 しかしお話をするのは、撤回するつもりが無いらしい。ミシェルはわざわざ椅子を運んでくると、亜門の隣に置いた。一ミリの隙間もなく椅子はその丸い輪郭の一点だけを接して並ぶ。これ以上近づきようはないが、亜門はその椅子の形状を何となく悔やんだ。

「じゃあ君は――」

 ミシェルは椅子に座る前から既に、その口を開いていた。

 だから、亜門はそれがなんでもない日常概念だと疑っていなかった。ミシェルがそんな常識的なことをするはずもないのに!

「じゃあ君は、運命を信じてる?」

 亜門はコーヒーを手に取っていた。口に運んでいなくて良かったと、心の底から思った。

「はあ?」

「ま、信じてないか。僕も信じてない」

 じゃあなんでそんな話をするのか、なんてことは言わない。

 ただ亜門は全く別の言葉を選んだ。

「いや、最近はちょっと、傾いて来てる」

「え? 君が?」

「ああ……どこぞの奴が予知夢としか思えないことを体験したり、予言としか思えないことを連発するからな……もしかしたら、もしかしたら……」

「へえ、そんな変な奴が居るんだねえ」

 悪戯っぽく笑う横顔が、デスクに向かって前傾になり、頬杖を突く。横顔の半分の面積が、すらりと伸びた白磁の指に隠される。ステンドグラスみたいなピアスがガチャガチャ揺れる。

「お前……意外とちゃらついてるよな……」

「え? ああ、ピアス? いいじゃん。君もつけようよ」

「嫌だよ。俺そういうのは……」

「ははーん、さては穴をあけるのを怖がってるね!」

「いや違――」

 止める間もなかった。ミシェルは言うが早いが、何故だか手の中にピアッサーを出現させていた。

 目が白黒するのが、自分でも分かる。ピアッサーというのは、ピアスホールを耳たぶに開ける器具だ。まだパッケージングされている。そう都合よく持っているものであるはずがない。

「おっとこんなところに、ちょうど良くピアッサーがありますね」

「ちょうどよくあって堪るか! お前、なんで……」

「これも運命かな~」

 やけに細かく設定されている運命だ。たった一人の意図を如実に感じる。

「お前の言う運命は、個人でどうとでも弄り回せるものなのか?」

 呆れた声が漏れた。それにこの会話の始まり、ピアスを亜門が言及することすら、ミシェルはずっと前に予期していたのかもしれない。あるいはもう一つの考えられる可能性は、ミシェルがわざと、亜門がそう言うように誘導した。

 ミシェルは、亜門の問いには答えない。相変わらず、三日月のような笑みを浮かべている。

「ほら、開けようよ。僕が開けてあげるから」

「要らない」

「そう言わずに」

「……お前、俺が医学部生だったって忘れてないか」

 そう、ピアスとはすなわち、体に穴を穿つ行為。もっと端的に述べるなら、体に傷をつける行為である。別に体を大事にしろなんて説教臭いことを言うわけじゃない。ただ、開けるとなれば、きちんと患部を清潔にしたうえで、予後不良など起きないようにしたい。人や季節によっては、ばい菌が入り込んで大ごとになることもある。

「風呂に入ったあとにしよう。それでいいだろ」

「えー、じゃあ今すぐシャワー浴びてきてよ」

「お前どんだけ俺に穴を開けたいんだよ……」

 ミシェルは、溜息を吐いた。

「はぁ……分かったよ。はいはい、後でね」

 ミシェルは明後日の方を向き、空を仰ぐように天井を見る。妙に晴れ渡った、秋空みたいな表情の作り方だった。ミシェルにはあまり見ないそれに、亜門は一瞬、心ここに在らずになる。

「まったく……僕らしくもない……」

 その言葉の意味すら、亜門は流してしまった。

 ミシェルは左手首を確認し、腕時計を見始めた。亜門が誕生日にプレゼントしたものだ。防水性であることを鼻にかけて、ミシェルは片時もそれを外さない。少なくとも亜門は外したのを見たことが無い。防水性は何も水に沈没させてもいいという意味じゃないと、亜門が以前苦言を呈したが、ミシェルは外すの面倒臭いから、と笑って受け流した。正直に言ってしまえば、亜門だって悪い気はしていなかった。結局ミシェルは、今日も今日とてそれを身につけている。

「そろそろお散歩に行こうかな」

 ミシェルは、腕時計を見ている。朝の鳥はまだ喧しい。

「暑いぞ。やめとけよ」

「寂しいのかい」

「暑いっつってんだろ」

「そろそろ日傘を検討しないとね。男だ女だ、そんなことは言っていられないみたいだ」

 別に、そんな問題もミシェルなら起こらないだろう。彼は一見して性別の見分けがつかない。それに文句のつけようもないほど美しい。傘の方が逃げ出したくなるはずだ。

「じゃあもうちょっと時間を置いてからにしようかな。眠いし」

「ああ……」

 言うことを聞いてくれたのが嬉しくて、亜門はわざと低い声を心掛けた。はしゃいでいると思われたら困る。恥ずかしいだろ。

「昼ごはん、何がいいとかあるか」

 話題を変えようと、亜門はそう尋ねた。

「なんでもいいって言っても、君は怒らないよね?」

「なんだよ、いつものことじゃないか」

「そうだね」

 なら好きにさせてもらおうと、亜門は考え始めていた。冷蔵庫の中身は……あの女がつまみ食いをしているかもしれない。後で確認、いや、今確認しよう。

 亜門は椅子から立ち上がると、すぐそこのキッチンまでの道のりを歩き始めた。その背中に、ミシェルが声を上げた。

「あ、ちょっと、待って」

「あ? なんだよ」

 亜門は振り返る。

 ミシェルが、亜門のシャツの裾を掴んでいた。そんなことをされずとも、亜門はいつだって、ミシェルを待ってやれるのに。

「ちょっと思いついたから、言っていい?」

 酷く抽象的だ。否定出来ようはずもない。

「言ってみればいいだろ」

「僕は……ああ……そう。僕は、ちょっと前から思ってたんだ。いや……言葉が降って来たんだ……」

「天啓って奴だな」

 それは、神様から貰う言葉。インスピレーションと言えば、俗っぽいけれど。

 ミシェルは目を逸らして、ただ亜門の裾は、頑なに離さない。

「僕は……思ったんだ――もし人生の早い段階で、最愛の人に出会ったとして、その後の人生は全て――きっと余生でしかないんだろう……って」

 恥ずかしがるミシェルを、亜門は目をぱちぱちさせて見つめてしまった。立った一瞬では、理解できない言葉、概念だ。急に人生を語ってくれるな。そういう突っ込みは、一丁前に思い浮かぶ。しかしそれは、つまらないと喉の奥で却下された。

 ミシェルは、言葉を続けた。目を逸らしながら。彼は小さく息を吐く。

「僕は余生を過ごしている」

 その、暴力的なまでに繊細な言葉を、亜門は消化できなかった。

 時間が流れる。鳥のさえずりに、時間が流れている。

「俺たち……まだ若い、ぞ?」

 果たして、亜門はそう絞り出すのがやっとだった。こんなことを言うくらいなら、詩集の一つや二つ、あるいはつまらない失恋ソングでも聞いておけば良かった。

 ミシェルは馬鹿にするでもなく、穏やかに笑う。ちょっと小首をかしげて、彼の長い襟足の髪が、柔らかく前に垂れた。

「そうだね。それでこそ僕の王様だ」

「今度は王様か……」

「そうだよ。僕を使いこなせるのは君ぐらいだ」

「……まあ、確かにな」

 ちょっと傲慢だったかもしれない。しかし、否定するつもりは、露ほども生まれない。

 ミシェルはようやっと裾を離した。だが彼は、今度は亜門の手を掴む。

 そして、自身の口元まで持って行った。

 それで亜門の手の甲に、軽くキスをする。亜門は呆気に取られて、ミシェルを見ている。

「愛してるよ」

 ミシェルはまた、悪戯っぽく小首をかしげ、笑っていた。

 ピアッサーは机の上に置かれたままだ。

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あなたの心に穴を開けてこの月光で満たしたい ささまる/齋藤あたる @sasamar

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