第13話 月は眩しすぎた
屋上までの唯一の入り口は、鍵で閉ざされている。ようやっと――と言っても恐らくは最短且つ安全な道を歩んできた私とミシェルは、そのアルミ製の扉の前で立ち止まっていた。そう頑丈には見えないが、かと言って叩いたくらいではどうにも開きそうにない。
「これ……どうするんですか?」
「どうするも何も、壊すしかないよね」
「壊せるんですか?」
「壊すとも。大丈夫。得意だから」
ミシェルが言うと、欠片もシャレになっていない。あるいはシャレじゃないのかもしれない、最初から。
ミシェルは近くの部屋――研究のためのそれだったのだろう――を複数覗き込み始めた。何かを探すように、ドアの小さなのぞき窓から、少し身を屈めて、慎重に見て回っている。
「なんかいいものないかな~」
やはり、壊すための道具を探している。そう容易く見つかるものなんだろうか。私はどうも信頼しきれず、胡乱な目で彼を見ている。
それにしても、月の眩しい夜、か。
ミシェルを常識に当て嵌めて考えてはいけない。
「……ミシェルさん、あなたは、生まれつきそうだったんですか?」
「ああそうだよー」
少し離れたところで、ミシェルは偵察ついでに答える。
「……その、ご両親の、事件は」
「僕がやったよー」
「やった?」
「犯人僕だから」
「……ああ、そうですか」
「思えばあれが、ケチのつき始めだったなあ」
ミシェルが何かめぼしいものを見つけたのか、部屋のドアノブに手をかける。瞬間、かれは何かにびくついたように、手を引っ込めた。それから小声で毒づくのが聞こえる。何かしらの仕掛けに引っかかったんだろうか。ケガをしているようには見えないから、ちょっとしたいたずら程度のものなのかもしれない。それにしても油断ならない。ミシェルは血で汚れたジャケットを脱ぐと、それでドアノブを覆って、捻った。ドアは開く。
私は中に入って行ったミシェルを急いで追いかけた。視界から消えられるのは嫌だ。
入った実験室は、やはり簡素なものだった。広々とした教室ほどの長細いスペースに、ほとんどものは無く、がらんとした奥に、ミシェルが突っ立っている。彼の前には、バケツのようなものと、大きな鉄の棒と、謎の黒々とした物体が転がっていた。彼はそれを見下ろしているが、背中を向けているのでどんな顔をしているのか分からない。私は彼に歩み寄りながら、彼の観ているのが何なのか、考えていた。
「昔……僕の父親は研究所勤めで、たまに職場のことを話してたんだ。なんでも実験用マウスをさ、毎週水曜に火葬にするんだって。生きている鼠か、死んでいる鼠かは聞かなかった。だけどパパが言うには、その日は職場中に焼き肉の匂いがするんだって……」
ミシェルから家族の話を聞くのは、これが初めてだ。パパ呼びなんだ、なんて思う。
「ミシェルさん、これは?」
近くまで来ると、バケツの中には半分ほどの謎の液体が入っている。沈殿物や浮遊物が窺え、色は暗くて判然としないが恐らく水ではない。
そしてその隣にある謎の物体――薄汚いが、毛が生えている。恐らくは何かの動物だろう。死んでいる。
「あの犬の死骸を、覚えてる?」
「……コレクションルームで死んでたって言う、謎の犬ですか? ペットじゃなかったんですよね。それにおじいさんが亡くなる前に死んでいたって言う……」
「そう。これは、それと同じものだね」
ミシェルは脇に転がっている鉄の棒を拾い上げた。先の方に焦げた跡がある。火掻き棒というやつかもしれない。ミシェルは火搔き棒で、その死骸をひっくり返した。大掃除後のモップみたいで、どこが頭で胴体で、足なのかも判然としない。溶かした油を雑に固めたみたいな毛と肉の塊だ。嫌な臭いがする。
「昨今は動物愛護に配慮したホラー映画が多いんだって。僕は犬が死ぬホラー映画、結構好きなんだけど」
「変わった趣味ですね……」
「人間が死ぬ映画を観てるのに、どうして犬はダメなんだよ。ダメだよ、平等に殺さなきゃ」
なるほど、人殺しらしい平等志向だ。彼が本当にそう出来ているかは別として。
「これ多分硫酸とかだと思うんだけど、金属に掛ければ反応してくれるかな」
「えっ、急に化学の話ですか……」
「はぁ、君もダメか」
ミシェルはため息を吐くも、まあ何とかなるか、なんて呟いて、バケツを持った。
「え? それで扉を溶かすとかですか?」
「いやロックをね。腐食すればあとは叩いて壊せるんじゃないかな」
「そう上手く行くでしょうか……」
いや、ミシェルが言うなら、行けるのか。彼が大丈夫だと言うんなら、上手く行くのかもしれない。どれだけ彼が猫かぶりで嘘吐きだろうと、その不思議パワーだけは本当で、今も健在だ。
「まあピッキングできればそれでもいいけど」
ミシェルが足を止め、私に振り向いている。
「え? 私に決めさせようとしてます?」
「ちまちましたの苦手だから壊す気だったけど、よく考えたら危険かもしれない」
「よく考えなくても危険ですよ……!」
変なところで変なところを気にするのも相変わらずらしい。
とは言え、急に選択権を持たされても困ってしまうものだ。今までずっと何も許されず、いざとなれば全力疾走で逃げようとか、そういうことしか考えられなかった。それも焼け石に水としか言えない。
「……ええと、ピッキング、出来るんですか?」
「得意ではないけど、出来ると思う」
ミシェルが懐をまさぐるような仕草をして、アッと何かに気付く。彼は地面に落ちていたジャケットを拾い上げる。ジャケットの胸ポケットから、何かを取り出す。ピンセットみたいな細長いのが何本も入っている小さな工具入れだ。言うなればピッキングツールだろうか。
扉の前に戻ると、ミシェルは屈みこみ、ピッキングの作業を始めた。玲瓏な風体の彼らしくも無い、地道な作業だ。実際、ミシェルは時折ため息を吐きながら、眼精疲労と戦っている様子で鍵穴を確認している。
「いけそうですか……?」
「いけるよ……ああ、そうだ」
ミシェルは一度ピッキングツールを床に置くと、ポケットに手を突っ込んだ。何かまだ秘密兵器があるのかと期待したのも束の間、顔を覗かせたのは棒付きキャンディだった。嘘だろ、と突っ込む間もなく、彼は包装を破り、口に咥えた。喉に刺さったりしたら危険だろうに、私はそれを言うか逡巡する。答えは案外、すぐに出る。
「ミシェルさん、この状況で棒付きキャンディを咥えているのは危険だと思いますよ」
「糖分補給だよ。どうにも頭がぼーっとする。栄養が足りてないんだ」
「喉に刺さったらどうするんです? 私、テレビで見たことありますよ。患者は子供でしたが」
「うるさいなあ……」
ミシェルの口ぶりは、ぼやくようだった。反抗期の子供みたいな声色に、悪意は感じられない。
悪人ではなく狂人、花蓮ちゃんの言葉が脳裏をよぎる。あの子とて今となっては信用ならないが、噓吐きの発言が全て噓になるわけではない。あれは、もしかしたら的を射ていたのかもしれない。
「ああ、邪魔くさいなあ……」
ふと、ミシェルが左手首を気にし始めた。血塗れの腕時計だ。銀製なのか、シンプルながらも細かい意匠を施されている。なかなか趣味が良い。尤も、微細な刻印や羅針盤の隙間に赤黒い血が入り込んでいる今は、汚れているという他無いが。
ミシェルが右の手で器用に、それを外し始める。黙って見ている私に、彼はそれを手に持ったまま、上体で振り返った。私に、銀時計を差し出している。
「これ、持っててくれない? 邪魔なんだよ」
「ああ、はぁ……」
ミシェルがずっとつけていた代物だ。危険物でもないだろう。ただの腕時計を預かるくらい、わけも無い。
私は血痕の隙間から、時間を確認する。どうやら深夜二時みたいだ。なんだそんなものかと思う。もっと夜も更け、そろそろ明ける頃かと思っていた。まだまだ夜は明けない。急速に疲れが滲み、大雨のマンホールみたく、タガが外れそうな気持ちになってくる。どうして、私はこんな場所、状況で、信じていた美しい人のピッキングの後ろ姿を眺めているんだろうか。意味不明すぎる。
腕時計と言えど、つける気にはなれない。私はそれをポケットに仕舞いこみ、ただミシェルの作業をぼうと見ていることにした。
「僕が君を勧誘した経緯はさっきの通りなんだけどさ」
ミシェルが作業をしながら、そう口を開いた。
「ああ、女性の探偵さんを……」
「うん。それで次の日に依頼あったわけじゃない? 僕ね、実は彼女の依頼だって知らなかったんだよ。亜門から聞くまで、二人に面識があったことすら知らなかった。彼女はそんなこと、言ってなかった……変だと思わない?」
「……変?」
何がかさっぱり分からないのは。そもそも情報を理解する頭が回っていないからだ。私はほとんど、投げやりに尋ね返していた。
「彼女はさ、亜門を通して僕に依頼を投げておきながら、その日に重なるように会いたいって言ってきたんだよ」
「……ああ、なるほど」
移動と宿泊も込みの依頼だった。分身の術の使い手かチェシャ猫でもなければ、矛盾する行為である。必然的に、ミシェルはどちらかを選ばなければいけなかった。彼女が生きてさえいれば!
「本当に、僕を困らせてくれるお嬢さんだった……」
後ろから覗くミシェルの横顔は微笑んでいた。私には、その彼女の行動原理の察しがついていた。だからミシェルは微笑むし、それでいて中身が空っぽの腐ったリンゴみたく、虚しい。
「……ミシェルさん、最低ですよ」
「あっはは、今更過ぎる」
ミシェルは軽やかに笑い飛ばした。久々に、元気な表情を見た。
呼応するように、鍵が開いた。勢い余って数ミリ勝手に開いた扉から、眩い銀色の光が差し込んだ。
「おお、我ながらすごいな。将来は鍵開け師になれそう」
つまらない冗談だ。
ミシェルは月光から身を反らし、立ち上がると、私に振り向いた。ついで、キャンディの棒をポイ捨てする。
「運命は僕らを、その身に相応しい舞台に誘うんだってさ」
「嘘くさい」
私は吠えるように返した。ここが私に相応しい舞台だとはとても思えない。
ミシェルは私を見降ろして、なんとも言えない表情をする。
「シェイクスピアの有名な言葉なのに……」
「知りませんよ」
「じゃあこう言っておこう。生きるか死ぬか、それが問題だ」
「今に始まったことじゃないですね」
それこそ、今更過ぎる。
ミシェルは朗らかに声を上げて笑った。酷く愉快そうな彼は、もしかしたら久々に月光を拝んだのが効いたのかもしれない。月明かりを見ると元気が出るのは狂人とて変わらない人間心理なのかもしれなかった。ここまで来るまで、暗いし埃っぽいし、かび臭いしで最悪だった。アレルギーを発症しても驚かない。
「君を選んで良かった。僕は間違ってなかったんだ」
ミシェルは俯いている。目を閉じて、じっと想いを馳せるように。
「……ミシェルさん?」
「じゃあ、行こうか。時間も無い」
それもそうだ。早くしなければ、亜門がとばっちりを食らう。何も悪くないのに、彼はやはり苦労人だ。
扉を勢いよく開け放った。
瞬間、眩さに目が眩む。空より高い場所で、月が光り輝いている。
「ようこそ」
そして、花蓮ちゃんが、待っていた。
野ざらしになっているグランドピアノのピアノ椅子に腰かけて。月明かりを受けた長い黒髪が、キューティクルを強調するように反射している。
花蓮ちゃんを確認した瞬間の、ミシェルの行動は早かった。ほとんど人格が入れ替わったとでも言うような表情の変化に、私はまた彼の本質を見失ってしまう。月は陰る。あるいはこれこそ、最たる輝きだとでも言うのか。ミシェルは傲岸不遜を体現したような態度で、花蓮ちゃんに話しかけた。
「ほら、お望み通りここまで来てやったぞ。鍵をさっさと寄越して、爆弾もどうにかしろ」
そう、爆弾! 私はきちんと話を聞けてさえいなかったが、ミシェルはそうではなかったらしい。爆弾を解除するには、まず屋上へたどり着くこと。こちらの当初の予定と変わりなかったから、恐らくはミシェルの行動を読んで、花蓮ちゃんは待っていたのだろう。
「嫌ですね」
花蓮ちゃんは非常に端的に、そう答えてみせた。彼女はそれだけ言うと、なんとピアノを弾き始める。調律の狂ったポロンポロンという音が、静寂の月下に虚しく響く。
「音楽への冒涜みたいな音出しやがって……」
「であれば、もっと激しい音を生み出せば良いと思いませんか。ばーんと爽快な奴」
「僕は暗くて静かな場所が好きなんだ」
「陰気な人……」
「断末魔を好んで聞く奴よりマシだと思わないか」
それはさすがにミシェルの方が正論だ。誰の断末魔も嫌だし、自分のを聞かせるのも嫌だ。私は思わずミシェルの後方へ隠れる。なかなか高身長の人相手だと隠れ甲斐があってよい。とはいえ、ミシェルを盾にしたいわけでもない。これ以上、彼にケガをして欲しいとは思わない。私は、私にできることを考えるべきだ。
「……ワタシは、あなたのその麗しい顔が、悲しみに歪むのを見たいのです」
花蓮ちゃんは可愛らしい顔立ちに見合わず、そんなことを言った。あまりにも淡々としているので、私は一瞬、聞き間違いかと思った。それからすぐに、彼女の性格を思い出し、実験室での動物の死骸をも思い出した。彼女は本気だ。また、私には理解し難いものが増えていく。
ミシェルは子供の戯言だといなすように、軽く溜息を吐いた。そして、何故だか私に振り返った。月明かりをバックにした彼は、天使のように神々しく、それでいていつもある憂いが、一層濃いような気がした。こんなに近くで拝むべきでもない顔立ちに、私は眩暈を覚える。
「君は、ここに居て」
「ここって、ここですか……?」
私たちは屋上の入り口に立っている。広い空へと開かれ、すぐ横には湖畔を湛えた元研究施設の、屋上の唯一の出入り口だ。まるで番人か何かのような役割である。
「そう、ここで見ていて」
「見る……何を……」
普通に考えれば、花蓮ちゃんとのやり取りを、私には立ち入らせないようにしていると考えられるだろう。
だが今の私は、まるでもっと、明確な概念を感じ取らずにはいられなかった。ミシェルの顔はいつもと同じく優雅で美しいが、何か真に迫るものを奥に秘め隠している。
あれだけペラペラと、聞いてもいないのに自ら話しておきながら、彼はまだ、何かを隠しているのだ。
「……ミシェルさん」
「見ていて」
ミシェルはもう一度繰り返すと、じっと目を合わせて来た。彼の瞳の虹彩が見える。それに、彼のそのオニキスのような深い夜の色をした瞳の、その中に私が居る。
きっと、彼の瞳の中には今、私が居るのだ。合わせ鏡をするみたいに、数秒ミシェルは私を見ていた。
それが、きっとよくなかったのだろう。
「頼んだよ」
私は、ミシェルが颯爽と踵を返すのを見ていた。ジャケットを脱いだ中の黒シャツは、汗か血か、あるいは両方でじっとりと濡れていたように思う。お洒落に気を遣っているミシェルだが、今夜はお世辞にも、清潔感があるとは言えない。
それでも彼は美しい。彼はまるで月のように、美しい。
善人では、確かになかったかもしれない。だが悪人は違う。ならば狂人かもしれないと思ったが、それも少し違う。
今はっきりと理解した。
彼はどこまでもサロメだ。人を魅了する魔性。翻って、人の身にあるべきではない。
ミシェルは月下を歩いていた。さながらこれを月光浴と言うのかもしれない。彼はピアノを弾いている花蓮ちゃんの横に立った。彼は花蓮ちゃんを見下ろしている。
「ワタシは、ズルいと思うんです」
先に口を開いたのは、花蓮ちゃんだった。何かねだるような甘さと含んだ声色に、何故だか背筋がゾッとした。彼女の望むものの残酷さを、知ったからかもしれない。彼女は人並みのお人形遊びでは満足できない。
「ワタシはここにほとんど閉じ込められて育ちました。静かに本を読んだり、絵画を見たり。どうにもワタシは、外に知られてはいけない身の上のようですね。それを知ったのは、つい最近のことですが」
「そうかい」
「ここの住みづらさはもう理解したことでしょう。ワタシはここから出たかったのですが、その望みすら、自覚したのは最近のことです。どうせ叶わないからと、心の中で望むことすら諦めていた。忘れていた……」
「よくあることさ」
「そうでしょうか……本当にそうでしょうか?」
花蓮ちゃんが手を止め、ミシェルを見上げる。小さな少女が長身の大人の男を見上げているのは、二人の神秘的な風体も相まって、親子に見えなくもない。
「ワタシは一目見た瞬間から、あなたが羨ましかったのかもしれません。しかし今は憎たらしいと思います。あなたはワタシと似ているのに、違う道に居るのですね」
「僕と君は全然似ていないと思うよ。君には残念だけど」
ミシェルは、私や亜門に対するそれとは全然違う風に、花蓮ちゃんにはつれない。それが尚更、花蓮ちゃんを苛立たせたように、私には見える。
「ワタシは除け者にされたのに、あなたは簡単に本館の方たちに取り入った」
「他人の苦労は簡単に見えるものさ」
「ワタシの苦労があなたより劣っていると?」
「知らないし、どうだっていいよ」
ミシェルは淡々と続けた。
「僕は目の前に広がる盤面を理解し、完璧に制御してみせるだけ。人にはそれぞれ適材適所、役割がある。そこに導いてあげれば、人は僕の言うことを聞いてくれるものなんだ。人生は舞台、人は皆役者。ただ僕だけは、舞台監督に回ってみせる。君らは黙って僕の言うことを聞いていればいい」
「あなたは……」
花蓮ちゃんが何かに驚くように、目を見張るのが分かった。
「あなたは……まるで、支配欲の塊なんですね」
「そうかなあ」
「なるほど、であれば……なるほど」
花蓮ちゃんは、ピアノに向き直り、小さな手を鍵盤に据えた。まだ未発達なそれでは、なかなか弾くのは難しいんだろう。いつかミシェルが家でピアノの話をしていた時、手は大きければ大きいほどいいんだと言っていた。彼の口にしたピアニストの名前は、思い出せないが。
ミシェルもかつて、ピアノをやっていたことがあったらしい。だが才能が無いからと、打ち切ったのだとか。それに、弾いているのを隣でじっと見張られるのが、苦手だったのだとも語った。私は、彼がピアノを弾いているのを、見てみたかった。
「爆弾なんて、仕掛けてませんよ」
花蓮ちゃんはピアノを弾きながら、なんでもなく言った。
「そうだと思ってた」
果たしてミシェルも、なんでもなく相槌を打った。
「分かっていたんですね」
「僕は鍵が欲しくて来たんだ」
「お迎えがもう一人いらすのでしたら、その方でも構わないのでは?」
そう言われれば、そうかもしれない。爆弾がブラフである確証が無かったからと言ってしまえばそうだが、ミシェルなら――?
「僕はさ、散々バイクは危険だって言ってたんだ。もし事故でも起こしたら、車と比べて身を守るものもないし、致死率が高いだろ。ぶっちゃけ格好良くもない。僕は嫌いなんだよ」
花蓮ちゃんは、それには何も返さなかった。つまらなそうに、音の外れたメロディを鳴らしている。ミシェルが手のひらを差し出す。
「鍵」
「……ここで……」
花蓮ちゃんは、年端に見合わない、空虚な顔をしている。
「ここで帰したら……あなたはもう、一生ここには、関わらないんでしょうね……」
「もちろん。君らの役割は終わったんだよ。もう興味も無い」
「だったら――」
その言葉の先は、恐らく最初から、無かった。
花蓮ちゃんは小さな体を身軽に動かすと、ピアノ椅子から立ち、ミシェルのすぐ脇に立った。
そして、隠し持っていたナイフで、ミシェルを刺した。
抜いた刃に月光がギラリと反射し、目が眩んだ。決定的な瞬間だけ、私は見ていることが出来なかった。私の目は、その光景に耐えられなかった。だが恐らく、ミシェルが刺されたのは一度ではなかった。おびただしい量の血液は、左腕の時の比ではなく、私は死の言葉を直観的に思い浮かべた。
魔法の解けた瞬間だった。魔法をかけた人、それが、死にかけているのだから、きっとそうなのだ。
私はようやく、世界と意思を取り戻した。
私はミシェルに駆け寄り、彼が崩れ落ちるのを咄嗟に支えた。体中が彼の血で濡れ、足元が滑った。鉄の臭いがする。彼は青白い顔を更に青白くして、ぼんやりと遠くを見ていた。まだ生きているのを理解しても、私は欠片も、安心できなかった。その先を、理解しているからだ。ミシェルは時折つまらないとか退屈だとか言うけれど、もし彼が今の私のように、分かりきった未来を観測しながら止められもせずやはり観ているだけなのだとしたら、それは退屈だろうと言えた。
彼のシャツは切り裂かれている。瞬間ごとに新しい血が噴き出し、抑えたところで何の意味も為さない。
「……ミシェル、さん」
どうしてこうなったんだろうか。
花蓮ちゃんはもうここには居ない。どこかへ、まるで蝶が花から花へ飛ぶように、鍵を放り投げて行ってしまった。こうなれば、もうこちらに興味はないのかもしれない。それで構わなかった。
ミシェルは私を見ない。彼は遠く――空を見ている。
月を見ている。
「……月……綺麗だな……」
そんなことを、呟いて。口元からは、血交じりの泡をごぼごぼ吐き出している。
「ミシェルさん」
「彼は……僕が居なくて、悲しんでたよね……」
「当たり前じゃないですか」
たった数時間であの取り乱しようだ。そのことは伝えたし、ミシェルだって予期していたはずだろう。
「誰かが、僕たちは永遠の中に居るって、言ってたんだ……それから僕は、ずっと永遠の中に居る……」
「ミシェルさん」
「でも僕は……永遠には耐えられないみたい…………」
ミシェルはまだ月を見ている。
月が眩しい。
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