第12話 不健康で非文化的な最低下劣の殺人、それと月夜
私はミシェルの斜め後ろを歩いていた。とはいえ、この距離感ですら意味があるのか判然としない。今となっては誰の言葉を信じて良いのかも分からないが、ミシェルが殺人を犯したことがあるのは多分、事実なんだろう。
それに、彼は驚くほど猫を被っていた。本性を現した途端のあの口の悪さ! 毒舌! 亜門も相当口が悪かったが、今のミシェルと比べればまだ品が良かった。
ミシェルは今、左腕の傷も気にしない様子で、黒のストレートパンツのポケットに手を突っ込んで歩いている。肩で風を切るとはこのことだろうか。それにしても、気まずい。私と言う人間の命、尊厳、存在、全てを手の平で転がされている居心地の悪さが、いつまでたっても消えてくれない。叶うならば、あのカフェに帰りたいところだ。
それにしても、彼の腕が気になる。こうして後ろを歩いていると、彼の血痕が軌跡となって続いている。
「……あの、ミシェルさん」
「え、なに」
ミシェルが軽くだけ振り向いた。歩く足は止まらない。
「その、腕……」
「ああ」
「……痛く、ないんですか?」
「めっちゃ痛い」
「めっちゃ……」
ミシェルは血でぐしゃぐしゃに濡れたジャケットを、少し絞る。びしゃびしゃと地面に零れた音が鳴る。暗闇を苦にしない彼は真っ直ぐ宵闇を歩いて行くが、ランプを持つ私には、それは恐ろしい光景に映った。
「それ……大丈夫なんですか……?」
「大丈夫でしょ。サメ映画だったら死亡フラグだけどさ」
ミシェルはあくまでもラフに答えた。
花蓮ちゃんと別れてから数分しか経っていない。しかし彼は、既にいつもの彼だ。穏やかで、優しい。天上の月のように。だが彼は、彼の本性は……。
「あ、そうだ」
何かを思い出したように、ミシェルは少し高い声を上げた。
「これもそうだけど、ここ、何があるか分かんないから、くれぐれも気をつけてね」
「……何があるか、と、申しますと……」
「クロスボウ飛んできたり、硫酸のシャワーが降ってきたり、とか」
「クロスボウ⁈ 硫酸⁈」
ミシェルが楽し気に声を上げて笑った。私の声がまだ反響する施設内に、掻き消すようにミシェルの笑い声が響く。彼はその左腕の傷も、クロスボウを掠ったせいだと言った。あの時飛んできた謎の高速物体の正体は、クロスボウだったらしい。もしまともに当たっていたらなんて、そんなことを脳裏に過った。
「死の仕掛けがたくさんの元研究施設――まるでホラーゲームみたいだよね。しかも体験型だ。VRよりずっと臨場感があるうえに、画面酔いの心配が無い」
「死の危険があるじゃないですか!」
「まあねえ……」
ミシェルは、私の不安を払拭しようとはしてくれない。むしろ肯定するように、静かに頷く。
果たして彼は、私がそのようなトラップに面した場合、どうする気だろう?
助けてくれる? それとも……?
私は、私が硫酸を浴びている光景や、クロスボウに貫かれる光景を想像していた。そんなことはもちろん考えたくも無いことだけれど……ミシェルは。
「……私がここに来るのを、ミシェルさんは……分かって、いたんですよね?」
「そうだよ。来てくれなきゃ困るもの」
「私が、ですか」
「ああ。僕はもう、一時間の制約を破っているから。ストーリーが必要なんだ」
「一時間の制約って……」
外出の制限のことだろうか。今のミシェルは、一時間なんてとっくに過ぎている。その一方で、別にパニックを起こしているようには見えない。傷を受けて尚、精神的にはピンピンしているようにに見える。
「嘘を言ったつもりはないよ。僕は確かにそういう時がある」
「硫酸もクロスボウも怖くないなら、一体何が怖いんですか」
「いやそれらだって怖いよ。普通に。でもまあ、僕なら回避できると思うし」
どれだけ歩いただろうか。私たちはエレベーターの前に到着した。エレクトロニックに光る大きな箱を目にして、ミシェルは立ち止まり、ぼんやりとする。薄ら笑いを浮かべる横顔が、光を受けて一層青白く見える。
「それ、乗るんですか……?」
「乗ったら死ぬんだろうなって」
「え、ちょ」
「乗らないよ。人体をプレスされて死ぬのは勘弁願いたい」
つまらなそうに述べるミシェルを余所に、私は花蓮ちゃんに案内された時のことを思い出していた。てっきり、施設の設備を勝手に使うのを危険視したのだと思っていた。
「その……トラップって、あの花蓮ちゃんが……」
「そうだとも言えるし、そうじゃないとも言える。そもそもあんな子供が生まれ育つくらいだ。瀬野の家がまともじゃあないんじゃない? 先祖返りかもね」
ミシェルがエレベーター横の施設内マップをしげしげと眺め始めた。見づらいだろうと思って、軽くランプを掲げる。高い位置の腰を少し折り曲げて、彼は何か考えるように、見ていた。
「屋上へ向かうには……うーん、僕は方向音痴なんだけれども……」
「屋上、なんですか」
「そうだねえ……」
「方向音痴と言う割には、迷ったところを見たことがありませんが」
「マップを見ると逆に迷うんだよ。頭がこんがらがる……よし決めた」
彼は折り曲げていた腰を真っ直ぐにすると、壁にもたれて私に向き直った。一メートルの間隔を空けてはいるが、なるほど、そんなものが功を奏すとは思えない。
「やっぱり勘で行こう」
「それは……いつも通り、ですね」
「好きにしていいんだよ、君は」
「好きにできたら良いのですが」
ミシェルが私を見て、小さく笑う。
「つらいねえ、選択肢が無いってのは……」
少なからず嘲笑の意図があるそれを一心に受けながら、私はそれでも、選択肢が無いのだ。硫酸も、クロスボウも、嫌すぎる。
「……どうせ……最初から、私はミシェルさんの思う通りに、動いているんですよね。あのバイトの時から……」
「どうかなあ」
「……一つ、お尋ねしたいのですが」
「早いところ頼むよ」
ミシェルはまた、腕時計を確認している。
私は、とある人物を思い出していた。
「亜門さんは、今のあなたを知っているんですか?」
ミシェルが、腕時計から顔を上げた。
「え、なにそれ」
「今と……あとさっきみたいな……」
「ああ、知らないんじゃない?」
ミシェルが壁から背を離し、歩き出す。彼の寄り掛かっていた壁には、彼の血の跡が広くべったり残っていた。血の染みは背中の方にまで侵食している。
どこをどう通るのかも分からないまま、私はついて行く。その高い背に、私はまだ言葉を投げかけた。
「なら、亜門さんはずっと騙されているんですか? あなたに?」
「悪い話じゃないと思うけど。彼、結構正義感強いタイプだし」
「いやあなたが彼を騙すことと、彼の正義感に何の繋がりが……」
「え、分かんないかな?」
平たく言えば、さっぱり分からなかった。
「彼にとって理想の人でしょ、僕」
ミシェルは、その足取りと同じくらい淡々と続けた。
「彼は僕のことが大好き、僕も彼と一緒に居られて色々と助かってる。ウィンウィンじゃん」
「……利害が一致している?」
「人生の早い段階で彼に出会えて、僕は確かに幸運だと思ってるよ。神様に感謝したいくらいさ。それでいいだろ」
いいんだろうか? 今のミシェルを亜門が見て、彼はどう思うんだろう?
「聞きたいこと、他にもたくさんあるんじゃない? 道すがら答えてあげるよ」
ミシェルは余裕気に言うと、ちらとだけ私に振り返った。その一瞥に、どんな意味があるのかをミシェルは悟らせない。
聞きたいことなら、それこそ両の手じゃ収まらないほどある! 亜門のことだってまだ納得できていない。殺人の話も! 死体の話も! どれもこれも、私の頭が抱えているには暴れ馬が過ぎる。
「ここに来たのは……」
「死体処理」
「その死体とは……」
「僕に付きまとっていたとある探偵と答えておこうかな。女性なんだけど」
「……それって、もしかして」
「ああ、なんとかクラブの会長だよ。彼女は賢く、僕を疑っていた。僕らはある日、教会で出会ったんだ。僕が通っていた教会が、どうやら彼女の情報源の一つだったらしくて」
色々と突っ込みどころがあって、どれから手を付けて良いか分からない。いや、一つずつ言うしかないか。
「教会に通ってたんですね」
「一日一時間の散歩コースだから。ステンドグラスの綺麗な礼拝堂だよ。懺悔室があって、僕が使うことは無かったけど……」
彼が懺悔をするとしたら、きっとシャレにならないからだろうな、とは言わない。
「その女性の探偵さんは、どうしてあなたを……」
「殺人の罪だってさ。まあ最初は、『平日の昼間から毎日のように教会に来るなんて只者じゃないわね』なんて感じだったんだけど……何度か顔を見合わせているうちに、ただ事ではなくなってしまった」
ミシェルの口ぶりには、なんとも言えない哀愁があった。どこか物寂しそうで、まるで「殺したかったわけじゃない」と言外で物語っているようだ。
「疑われていたから、殺したんですか? ですが、余計に大ごとになるんじゃ……」
「はは、心配してくれてるのかな。僕のこれからを」
ミシェルは軽く笑い飛ばす。
「残念だけど、君の思っているのとは少し違う。ただ事ではなくなったというのは、僕たちはその後、普通に仲良くなったんだ。彼女の抱えている難事件を一緒に解決したりね……」
「えぇ……そんなことって、あるんですか……?」
まるで刑事コロンボと被疑者が仲良くなったみたいな話だ。
「あったんだなあ、これが。加えて彼女は最終的に、僕は人殺しをするような卑劣な人間ではないという結論を下した」
「だったら、殺す必要は――!」
「必要か必要でないかで言ったら、間違いなくその必要は無かった」
不意に、ミシェルがスッとその歩みを止めた。何かに気付いたように、彼は床や壁、天井などを見渡した。何かトラップかもしれない。私は体中を走る怖気に耐えられず、自らの体をギュッと抱きしめた。どこをケガするとしても、顔やお腹辺りは絶対に嫌だ。守らないと。
「み、ミシェルさん、どうしたんですか……?」
「しっ、静かにして」
繊細な人差し指が彼の口元に止まる。
すると、どこからかノイズが走る音が聞こえた。何かの放送みたいな。
『ピーンポーンパーンポーン♪』
花蓮ちゃんの声だ。ミシェルが大きく溜息をつく。ふざけるな、と小声で毒づくのも聞こえた。
『なんだか穏やかな感じがするので、忠告です』
「ひっ、なんなんでしょう……!」
硫酸とクロスボウの単語が脳内をリフレインし、体中を恐怖で埋め尽くした。ガタガタと骨が軋む全身で、思わずミシェルにくっついてしまう。
「そう怯えなくていい」
ミシェルは一言、私の頭のすぐ近くで囁いた。不思議と心落ち着いてしまう魔法の声は、彼が先ほどまで語っていたはずの残酷な真実すら、軽く打ち消してしまう。かの女性の探偵が最終的に彼を善良と勘違いしたのも、私は何となく理解できた。彼女の人となりも知らずに。
『暇だったので、駐車場の入り口付近に爆弾を設置しました。もし誰か助けに来る人が居れば木端微塵のぐちゃぐちゃと言うわけです』
声は楽し気に続ける。ミシェルは溜息をつく。
『あ、解除方法もありますので、ご安心ください――』
声は確かに、何かの説明を続けた。しかし私には、ほとんど聴き取れもしなかった。
もし爆弾を解除できなければ、亜門が――。
「……ふ、ふふっ」
隣でこもった笑い声がした。すぐ隣を見上げると、ミシェルが、比較的綺麗な方の手で口元を抑えて、笑っていた。笑いを堪えようとして、堪えられていない。
深い夜に、彼の目は爛々と輝いていた。それは狂乱としか、私には言えない。
「ふふ、はは……はははっ……」
彼の笑い声は、一層激しくなった。
「あは、あははは……!」
ミシェルは目に涙を浮かべていた。笑いすぎて、瞳の雫が頬を伝う。
私は茫然と、ただ茫然としていた。
しばらく経って、ミシェルは涙を拭い、頭を左右に振った。
「……失礼。どうもおかしくて」
「何が……」
「いや、おかしくはないね。おかしくはなかった……癖なんだよ。全然面白くない場面で笑っちゃうの。笑っちゃダメなとこだなって思うと、余計に笑えて来るんだよね」
そう言いながら、彼はまた笑いだそうとした。深呼吸をして、必死に笑いをこらえて、恐ろしいほどにスンと真顔に戻る。彼は本当に、何も面白くないのかもしれないし、面白くて堪らないのかもしれない。どちらか、私には理解のしようがない。
「じゃあ行こうか」
ミシェルは疲れた顔をし始めた。美しい顔が、げっそりとこけたように一瞬見えた。
足元で、ずるりと何かが滑った。ランプの光で分かったのは、相変わらず流れている血の雫だ。立ち止まっていたから、同じ場所に溜まっていたのだ。私の靴の裏がミシェルの血で汚れた。
ミシェルは歩き出した。彼は勘が良いから、ほとんどトラップを避けて進んでいるようだ。そりゃあ、トラップを仕掛けた側からしたら、つまらないだろう。だがかと言って、ミシェルを相手に罠にかけるのは、至難の業だ。
ミシェルの足取りが速くなった気がする。これまでは一応でも仕掛けを恐れて慎重にしていたのだが、なんだか気にしてないように思える。
「ミシェルさん」
「大丈夫大丈夫、僕に任せておいてよ」
「それは……」
「僕の大事な亜門が木端微塵にされるのは困るからさ」
ミシェルは面白い冗談を言った後みたいにまた笑う。彼において行かれないよう、私はもう、距離を取ってはいられなかった。すぐ斜め後ろを、彼につかず離れずついて行く。
外付けの非常階段とは別の、全く知らない館内の階段を上る。形状は学校や病院のそれのようで、リネンの床は白く、ややクッション性もある。そのくせ私は、一歩歩むごとに恐怖が高まるのを感じた。普通に歩くだけでも、足がもつれそうで怖い。その上、何かの罠があるかもと思うと無限に空恐ろしい。
「さっきの話の続きなんだけどさ」
ミシェルは脈絡もなく、そう言った。彼の口ぶりは、まるで朝食のメニューの語るがごとく、穏やかなものだ。
「先週……ああ、もう先々週になるか。彼女とはね、ほとんど教会でだけ会っていたんだけど……何しろ僕には自由時間はほとんど無いから……先々週の彼女が唐突に、家に来てほしいって、そんなことを言ったんだよね。近くにあるって押し切られてさ。彼女、すごく押しが強かったから……僕はほとんど、彼女の言うことは聞かなくちゃいけないことばかりだった」
ミシェルは、懐かしむように、滔々と語る。憎しみも無く、むしろ愛着さえ感じられる。
「彼女の住んでいるのは、庭のある一軒家だった。すごいよね。だけどペットも居なくて、庭はあるけど花は咲いてない。窓際の鳥かごは空だった。ただのインテリアなんだって。意味分かんない。だけど僕は、ペットとかそう言うの嫌いだし、むしろ好感を覚えたかな。彼女は僕をリビングのソファに座らせて、コーヒーを入れ始めた。コーヒーの匂いがして、僕は外を見てたんだ。夕暮れも過ぎて、月が昇り始めている頃だった。虫が鳴いてた。星はよく見えなかった。僕は昼間は明るくて苦手だから、夕方から夜しか出歩かないようにしているんだけど……空を見て、思ってたんだ。『早く帰らないとなあ』って」
一時間程度しか出歩けないなら、のんびり他人の家でコーヒーを飲むのも、難しい話ではあるのだろう。その上ミシェルは、心配性なところがある。時間ばかり気になって、きっとその彼女の家でも、気を伸ばしたりは出来なかったに違いない。内心でソワソワしているミシェルの姿が、私の頭に思い浮かんでいる。彼は月を観ている。
「僕はそれとなく帰らなきゃってのを伝えるんだ。彼女は察しのいい人だったから、それで充分だと思ってた。でもその日の彼女は、何故だか無性に察しが悪い……と言うよりは察しの悪いフリをしていた。僕には分かったんだ。彼女が何かを隠していて、僕をここに留まらせようとしている。僕をできる限り自分の家に居させようとしている……でも、それってなんだろう? どうしてそんなことを? 疲れていたからか、焦っていたせいか、その時の僕はいつもみたいに頭が働かなくて。疑問だけがグルグルしていた」
コツコツと靴音が響いているが、それ以外はミシェルの淡々とした語りだけが聞こえる。深い夜に、私はミシェルの想い出だけを聞いている。彼の声を聞き、覚えのない思い出に心を馳せている時、心の底から夢想できている刹那だけ、私は現を忘れている。緊張も危機も全て飛ばして、知らない情景に心奪われている。
「でもね、コーヒーをさっさと飲み終えて、僕は本当にこれ以上は居られないって、ソファから立った。僕の症状のことは伝えてあったし、僕の素性を……近くの探偵事務所で暮らしているってことは彼女は知っていたから。もちろん亜門のことも、僕を通じて知っていた。だから彼女が僕を引き留めるのに、大義名分は無かった。そんなのは僕を困らせるだけだから。最初こそ僕を疑っていたけど、あの時の彼女はもう僕を疑ってはいなかった。だから事件関係ではないはずだった。それでも彼女は、僕を引き留めた――」
ミシェルが一度、言葉を切る。舞台演出のようだが、舞台に取り込まれているのはミシェル自身のように見える。彼はここが危険な場所であることも忘れて、回顧的な瞳をしている。少しひそめた柳眉が、前髪の奥にひっそりと見える。
「彼女は僕に愛していると言った」
「え……」
ずっと黙って聞いていたのに、思わず声を漏らしてしまった。ミシェルが苦笑し、それから本当におかしそうに笑った。
「困るよねえ……そんなこと言って、僕にどうしろって言うんだよ」
その発想が、おかしいと思った。その女性は、どうにかして欲しくて愛していると言ったのではないはずだ。愛しているから、愛していると言ったんじゃないんだろうか。
「彼女はそれから、隣町で花火大会もあるからって、そう付け足した。僕と行きたいってさ。一緒なら発作も起こらないだろうからって。それは確かに、僕もちょっと思ってたんだよね。彼女となら、発作は起こらない気がしてた……でも僕が気にしているのは、発作が起こるかどうかじゃない。発作が起ころうが起こるまいが僕は帰らなきゃいけない」
ミシェルは強く言う。だが、本当にそうだろうか?
「僕は断ったよ。彼女は悲しそうだったけど……これまで見たことも無いほど悲しそうだったけど……僕は断った。僕も悲しかった気がする……それで問題なのは、彼女は賢い人だった。当たり前だ。僕のやっていることに気が付きかけた人だから」
「……それでも、気が付かなかったんですよね?」
話の着地点が見えないまま二人が別れようとしているのを、私は解せなかった。口論も無ければ、憎しみも無く、二人は悲しみに身を浸している。
ミシェルは、ああ、と唸るように言った。彼は回顧的な瞳を捨て、もはやつまらなそうにしていた。階段はこれ以上先に進めないところまで来ていた。だが階数的に、恐らく屋上ではない。三階か。別の道、廊下の方へ、ミシェルは進んだ。私も彼の横を歩いている。廊下は人が数人歩けるほどの広さで、床と天井と壁以外に何かがあるようには見えない。窓が無いので、空気は淀んでいる。埃っぽく、かび臭い。圧迫感を覚える。
「彼女は、じゃあって、後日また会いましょうって、僕に翌日の日付を教えた……僕はまた断らざるを得なかった。その日は依頼があるって亜門から言われてる日だった……彼女はさ、探偵なんだよ。僕と同業者だ。だから僕が断りを入れても分かってくれるはずなんだ。僕はちゃんと説明した……彼女はらしくもなく食い下がった」
「それは……当然な気がしますが……」
何しろその問答の前に、彼女は愛していると伝えているのだから。それがどれだけの意味を持つのか、ほとんどその身を投げ出すようなものなのに!
私は段々と、不安定なものを覚えていた。言いようのない不安感が、じりじりと肌を舐めている。それを表すように、ミシェルもまた不機嫌そうに廊下の先を睨んでいた。
「当然か……そうかもしれない。だけどあの時の僕は……なんだか急に、面倒くさくなってきてしまって。心の中で何度も思った。『あー、めんどくせー』って。何度も何度も何度も……」
ミシェルは自身の掌を見つめ始めていた。彼の右手は、乾いた血がまるで使い古しのパレットの絵の具のように、少しこびり付いていた。ピアノでも弾いていそうな手をじっと見つめて、ミシェルの横顔は苛立たしそうにピクリともしない。
「思い始めると、早かったかもしれない。何となく、何もかもがどうでもいい気がした。めんどくさいし、どうだっていいし……いっそのこと壊してしまおうかって……」
「え、ちょっと待ってください。まさか、それで……」
「電気ケトルのコードが見えた。ああ、ちょうどいいじゃんって思ったんだ」
「いや、ちょっと――」
「それで殺しちゃった。あーあ、またやっちゃった……」
ミシェルは何度目かも分からず、溜息をつく。そして乾いた声で笑う。
「そのくせ僕は……正直、心がすっきりするのを感じた……少なからず彼女と話すのは好きだったし、彼女と楽しく過ごすために何を話そうかあれこれ思案した夜だってあったのに……それら全てがもはや過去であることに、安心した……」
人を殺すと恐怖が晴れる、確か彼は、私が最初に問い詰めた時、そう言っていた。
彼が自分で言う分には、彼は常に、何かを恐れている。生まれつき、何かを恐れ続けている。そのせいで、外出もままならない。
だが実際の彼を観ていると、こうして普通に歩いているし、なんなら人並み以上の危険を眼前にしても嬉々として相対している節がある。腕をクロスボウでえぐられても、あまり気にしている様子は無い。さすがに血は止まったか。だがジャケットに染みついた赤はもはや洗濯でどうにかなる範疇に無いだろう。捨てるしかない。
私はしげしげと彼の綺麗な顔を見つめ、思う。
ミシェルは――矛盾の塊だ。
「彼女が死んでしまった後、僕は時間が気になって、腕時計を見たんだ。そしたら驚いた。彼女の家に来てから二〇分くらいしか経っていなかった。家を出てからを換算すると、多分三〇分くらい……時間はむしろ余ってた。彼女の家の涼しい場所に死体を移動させても、まだ時間はある……仕方ないから、周辺を歩くことにした。すぐに帰っても良かったんだけど、何しろ……気分的に、さ……」
家に帰ると、もちろん亜門が居るのだ。
「知らない街並みってさ、僕好きじゃないんだよね……落ち着かないけど、別に見ていても面白くはないし……だって人のすることなんて、世界中どこだって変わらないだろ。人が居て家を作って、街が生まれて、暮らして、死んで、生まれて死んで……同じことばかり繰り返していて……同じ景色が繰り返してる。そのくせ本当は違う……つまらない……退屈だ」
だけど、とミシェルは前置きをする。その目がちらと私を一瞥して、何か含みを持たせる。
なんだ? 私は察しが良くも無いが、彼が何かを意図しているのは、分かる。
「僕は家の近くの、だけど全然知らなかった通りを歩き始めた。隣町の花火大会のせいで、人はほとんど歩いてなかった。店は閉じていた。でも一軒だけ……カフェが開いてた」
「――え?」
「僕は、運命的なものを感じた。微かに漏れ出たカフェミュージックと、薄暗い店内と――店員が一人、確認できた」
瞬きを忘れていた眼が、涙で潤み、その水の向こうの人間をじっと見つめている。
私は、ようやく、話の着地点を知った。
「月が眩しかった」
ミシェルは一言、呟くように言うと、目を閉じて、情景に思いを馳せているようだった。
私を見つけた日の、月夜を思い出しているに違いなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます