第11話 お前は何も分からない

「あの人は、言うなればサロメなんです」


 そう、花蓮ちゃんは開口一番、確かそう言ったのだ。

「さろめ?」

「ご存じありませんか? オスカー・ワイルド著作の物語であり、登場人物なのですが」

「ごめん、知らない……」

「であれば幸福な王子はどうです?」

「燕が出てくる奴だっけ。最後に王子様と一緒に死んじゃう……」

「そうです。それもオスカー・ワイルドの物語ですね」

 あの牢獄から出た直後、花蓮ちゃんはミシェルの話を第一に始めた。彼に関することこそ、この建物の概要よりも大事な話らしかった。

「サロメは、言うなればファムファタルなんです。ファムファタルは分かりますね?」

「……ごめん」

「ファムファタルとは悪女を指す言葉です。劇中に置いて、サロメは父である王や王仕えの兵士、様々な人物を、その狂気的な美貌で篭絡し、自らに従わせます。サロメを見たものはまるで催眠にでもかかったかのように、彼女の言うことを聞いてしまうのです――尤も、サロメ自体は悪女と言うよりむしろ、純粋無垢な狂喜の塊とでも言うような人物なのですが」

 その話もサロメという登場人物も、私は知らなかった。それがミシェルに繋がるとも、思えなかった。

「サロメには色香がありました。無邪気な色香です。彼女自身、それを振りまこうとも、それを体現しようとも思っていなかったと思います。ただ、彼女自身が生まれ持って美しかった。見るものを狂わせるほど美しかった。そして同時に、彼女は残酷だった……いえ、子供とは元来残酷なものですね。彼女に限らない。本当なら顧みられるべきでない残酷で無垢で愚かな望みを叶えたのは、彼女を見た者の方だった。子どもの与太など聞き入れるべきではないと言うのに。彼女を見つめたものが、結果として彼女を悪にしてしまったのかも」

 花蓮ちゃんはどこか熱を入れて、そのサロメの話をしていた。鬼気迫るとまではいかないかもしれないが、少なくとも他人事ではないように感じた。

「ワタシは……あの人を見ると、どうしてもサロメを思い出してしまうのです。最初こそ、きっと勘違いだと思いました。けれど今は……」

「ええと……あの人って、ミシェルさんのことじゃないよね? だって彼は……」

「信じていただけないかもしれませんが……ワタシが思うに、彼はあなたの思うような善人では、ないかと思います」

 言葉が出てこなかった。花蓮ちゃんと歩き始めてからまだ少しだったのと、後は単純に、信じられなかった。

「尤も、あの人も悪人とは言えないかもしれませんが。サロメと同じく――どちらかというと、狂人の方が正しい気がします」

「きょ、狂人?」

「信じていただけませんよね……無理もありません。ですが証拠に、彼はあるモノをここまで運んできました」

 花蓮ちゃんは、一瞬の間を置いた後、こう言った。

「死体です」

「……え?」

 自分の耳を信じられなかった。この静寂の中でさえ、何か聞き間違えをしたと思った。それを完膚なきまでに覆すように、花蓮ちゃんは繰り返した。

「彼は死体を持ってきたんです。とある女性の死体です。一体どなたなのかは分かりませんが、彼が殺したのは、間違いないかと思います」

「そんな、嘘だ……」

「嘘じゃありません。彼は、あの密室騒ぎの後、どうやら瀬野家に目を付けたようです。瀬野家のおばあ様や執事を言葉巧みに操って、死体の処理を手伝わせました。まるでサロメのように……」

 言葉の余韻がしばし残る。靴音だけが響く中、私はそれを信ずるべきか否か、皮脂に考えていた。いや、信じられるわけがない。ミシェルは確かに不思議さんだが、狂人ではない。ましてや人殺しなど。

「あなたは彼を助けに来たとおっしゃいましたが、それは間違いです。彼は自らの意思で、ここに来たのですから」

 

---


 私の頭は、花蓮ちゃんとのこういう会話を忠実に思い返していた。しかし、それも一瞬のことではあった。くどくどと過去を振り返っていられるほど、現状は安穏とは言えない。

 花蓮ちゃんの言っていたサロメ、そしてミシェル。

 それが今、たった今、重なった。

「子供のすることはさっぱり分からないな。僕は君の遊びに付き合う気はサラサラ無いぞ」

 ミシェルは大仰なため息を吐くと、疲れた様子で花蓮ちゃんを見下ろしていた。その様は、これまでの私が知るミシェルのそれからはかけ離れている。今までのミシェルは善人と言う安い言い方でもしっくり来てしまう純粋さに充ちていた。だが今は、今の彼は、人を見下したうえでそれを当然と憚らないような傲慢さが全身から滲み出ている。

「お姉さん、分かったでしょう、これで……」

 花蓮ちゃんが私を見つめる。

 それに呼応してか、ミシェルが振り返った。

 今のミシェルと、目がかち合う。彼にじっと見つめられている。見られている。

「何が分かったんだ?」

 彼が尋ねる。私は何も言えず、その黒々とした瞳から目を逸らすことも出来ない。

 ミシェルは何かを探るように、それなりの時間、私を見ていた。彼の瞳の奥で、何かが繰り広げられているのが分かった。何かを考えている。しかし、何を考えているのかさっぱり分からない。沈黙が空間を貫く。耳の奥がキーンと痛む。彼は、一体何を考えている? 私はどうなる?

 しかしふと――彼は微笑んだ。

 麗しいその微笑みは、私のよく知る彼だった。

「ごめんね、心配させて。居るはずのない人間が現れて、ちょっとびっくりしただけなんだ」

 私のよく知る優しい旋律。

 しかしすぐに、また花蓮ちゃんが叫ぶ。

「嘘です! 彼はあなたを殺す気です!」

「そんなわけないだろう……」

「信じないでください!」

「ダメだよ。僕を信じて」

 ミシェルの声色は、若干の甘さを含んでいた。聞いていると頭がぼんやりする。

「あんなぽっと出の子供の出鱈目を信じてしまうの? そもそもこんなところに居ること自体が、おかしいじゃないか。君は少なくとも一週間は僕を観ていた。たった数時間さえ話していないあの娘とは天秤に掛けるまでもないはずだ」

 ダメだ……何が真実か分からない。彼の言葉を聞いてはいけない? 彼を観てはいけない? サロメと同じで、私は彼に篭絡されている? 頭が上手く回らない。真っ白に混乱している。情報が錯綜している。

 ミシェルと花蓮ちゃん、二人の主張は相いれない。私はどちらかを選ばなければいけない。

 そしてふと、私はとある疑問を思い出した。たった今、思い出した。

「ミシェルさん……一つ、聞きたいことがあるのですが」

「なんだい」

 彼の口ぶりは至っていつも通りだ。それがむしろ普通じゃないのに、私はまだ彼を信じたい。

「あなたがどうやってここまで来たのか、まだ聞いていません」

 そう、その疑問は、起きたばかりのミシェルには早かったのだ。あの時の彼は頭がぼんやりしていたから。

 ミシェルはあっけらかんと答える。

「目が覚めたらあそこにいたんだよ。君と同じだ」

「同じ……」

 果たして、本当にそうだろうか?

「……私は、目が覚めた時地下牢みたいな場所に入れられていました。花蓮ちゃんが鍵を開けてくれなかったら、今もそこに居たと思います。ですがあなたは、普通の部屋に……ホテルみたいな部屋で、鍵もかけられずに、眠っていました。それは、どうしてなんですか?」

「どうしてって?」

「普通、逆じゃありませんか? 私のような普通の女を地下牢に入れるなら、体格が良くて、おまけに不思議な力を持っている、探偵のあなたを最初に入れておくべきだって……それに、いつあなたが目を覚ましてしまったとしても、あなたなら簡単に出口まで辿り着いてしまう。現に、私たちはここまで来れた……犯人があなたをよく知っているとしても、知らないにしても、どちらにしても矛盾した行動です……」

「……ふうん」

 またも、気のない返事だった。ミシェルは、少し驚いた風に目を見張って私を見ている。まるで、「意外とちゃんと考えてるじゃん」とでも言うような。侮っていた子ウサギが思いの外足が速くて見失いそうになった鷹みたいな目だ。

「なんとか……なんとか言ってください。ちゃんと説明して……!」

 ミシェルが、あくまでも呑気な風に、顎に手をやる。

「その意味、あるのかな」

「い、意味……?」

「君の心は、すでにそちらに傾いている。僕が何を言ったところで、君は信じてくれないんじゃないの?」

 ミシェルが何かを思い出したようにふっと笑った。自嘲的な笑みだ。

「彼でもあるまいしさ……」

 彼――亜門のことだろうか?

 それにどうして、そんな悲しそうに笑うのだろう? またしても、私には何か分からなくなる。

「……ミシェルさん」

「ああ……」

 ミシェルが俯いて、目のところに片手をやった。彼の瞳は隠され、まるで雲上の朧月のように面持ちが陰る。

「あー……めんどくさ、もういいや……はぁ」

 ミシェルは繰り返しため息を吐いた。立っているのも怠い、みたいな。亜門のベッドで力なくだらけている姿を彷彿とさせながら、ミシェルは言葉を続けた。

「そこの子供が何を言ったか分からないけど……まあ、大体合ってるんじゃない?」

 ミシェルは力なくへらりと笑う。私と目を合わせない。そこに微かな希望を見出してしまう私は、途方もなく愚かなのかもしれない。完膚なきまでに叩き潰されないと、どこまでもどこかで信じたい。

「大体じゃなくて、ちゃんと細部まで言ってください……!」

「僕がどんな人間だろうと、君には関わりが無いじゃないか」

「あります! 一週間過ごしましたし、何より私がここに居るのは――」

「僕がそうさせたから……か」

「そ、その通りです」

 ミシェルが顔の手を外し、私を見る。彼はもう、笑っていなかった。かといって、真面目な顔でもなく、恐ろしいほどの無表情をしている。

「自分で自分の首を絞める馬鹿な人はたくさん見て来た。でも君がそうするとは思ってなかった。少し意外……いや、所詮はそんなものか……つまらない……退屈だ……」

「ミシェルさん」

「……ある瞬間……ある瞬間だけ……この頭を覆っている何か……曇りや陰り……恐怖……僕を苦しめる全てが……消えてくれるんだ……ある瞬間だけ……」

「それは、なんですか」

「人を……」

 ミシェルの目が遠くを見る。

 さながら、月明かりを探すように。


「人を……殺してしまった時……」


 もはや、全ては決した。そういうことなのだろう。陳腐な希望は砕かれ、事実が厳然と存在し、私は受け入れねばならない。

 思えば、本名すら知らない相手だ。私は一体、この人の何を信じていたというのだろう? 今となっては分からないが、それこそ、今だから言えることでしかない。

「……ミシェル、さん……」

 意味も無く、その言葉を繰り返してしまう。口が勝手に、そう動いていた。ミシェル……ミシェル。人智を超えた頭脳と、物憂げで儚い容貌を兼ね備えた麗人――その実態は、人殺しだった。

「僕をどう理解しようと、どうだっていい。その全てがきっと正しく、間違ってもいる。月は満ち、欠け、また満ちる。形を変えても、それは変わったように見えるだけ……いくら異なる面を観ようと、元は同じ物体だ」

 何を言っているのか、難しくて分からないのは相変わらずだ。それが悔しい。

「あなたは……!」

「それと、一つ忠告」

 ミシェルが後方に振り返る。そこには、少しの間黙って静観していた花蓮ちゃんが居る。

「あれを信用するのは、やめた方がいい」

 あれ、とは花蓮ちゃんのことだろう。ミシェルは大真面目な様子で続ける。

「僕が間違っていることと、あの子供が正しいことはイコールじゃない」

「……いいえ、お姉さん」

 花蓮ちゃんが、微笑んで口を開いた。私を見つめて、安心させるように言葉を編む。

「彼はワタシを恐れてるんです」

「誰が君なんかを恐れる」

「いくら彼でもワタシは殺せませんから。お姉さんのことはワタシが何とか守ります」

 花蓮ちゃんが、その小さな手をこちらに差し出すのが、暗がりに見えた。

「どうぞ、こちらへ。ワタシを信じて、ついて来てください」

「やめたほうがいい」

「さあ」

 私の足が数歩先に進むのを見てか、ミシェルがその顔を歪めた。性別すらあやふやになりがちな彼の優麗としたそれが、今夜はコロコロ変化する。初めて見る彼の俗物性とでも言うんだろうか。今まで見て来た彼の神秘的な風体は作り物だったのだろう。刻々と理解していく頭が、疎ましい。

 花蓮ちゃんのところに行くまでに、数メートルの距離がある。その間には当然ミシェルが居る。だがミシェルは黙って眺めているだけで微動だにしない。私から視線を外さず、冷徹な視線を送る以外のことをしない。本当に、花蓮ちゃんには手出しが出来ないんだろうか? だとしたら、花蓮ちゃんは本当に、守り神か何かなんだろうか。

「……はぁ」

 隣を通った時、ミシェルがすぐ近くでため息を吐いた。彼が目を瞑り、疲れを振りはらうように頭を振る。それが誰かを思い出させてしまう。

 先ほどの、ミシェルの悲しそうな顔……彼が人殺しだったとしても、もしかしたら、亜門への愛情だけは――。

「……ミシェルさん、あの……」

 彼は今、武器の類を携帯していない。そのことをよすがに、最後に彼と話がしたかった。

 それを遮ったのは、高速でこちらに迫った、ナニカだった。

 ソレは、寸でで私の横を通り過ぎた。いや、私は突き飛ばされている。気づいた時には視界が回転し、体中を床に打撲し、強烈な痛みを覚えて、何が起きているのか頭が混乱する。

 体の横転が止まり、視界が定まった――その時。

 理解したのは、地獄だった。

「アハハハハハハっ!」

 甲高い笑い声がする。

 女の子の声だ。

「……ってぇ」

 それと、ミシェルが腕を抑えている。お気に入りのジャケットの裾が破け、液体が流れ出ている。

 血だ。

「アハ、アハハ! 引っかかった! 引っかかった!」

 愉悦をふんだんに含んだ楽し気な声。部屋中に響き割ったっているそれは、どう聞いても花蓮ちゃんだ。

 まだぐるぐると気持ち悪い視界と、痛みの走る体を尻目に、私は声のする方へ顔をやった。

 花蓮ちゃんが、幼い体をぴょんぴょんと楽し気に跳ねさせていた。彼女が飛び跳ねる度に、クルクルの髪の毛とフリル満載のスカートがふわふわ宙を舞う。空気抵抗を如実に受けるそれは、優雅さと天真爛漫さばかりを強調して、その上の顔面と狂気をまるで中和しない。

「ぅ……だから言ったのに……」

 ミシェルが傷みに呻きながら、そう零した。月明かりに照らされた赤い液体はダラダラと彼の表面を流れ、床にぼたぼた垂れていく。瞬間ごとに、彼の足元には血だまりが広がっていく。

「ミシェル、さん……!」

「……馬鹿げてるな」

 ミシェルは床を見つめて、鼻で笑った。自身の流れ出る血液を尻目に、彼は乾いた声で尚も笑う。私は見ていられなくて、節々を痛めながらも、もがくように彼に近づいた。

「ミシェルさん、血が……!」

「見れば分かるし見なくても分かる」

「そうじゃなくて、これはっ、なんで……!」

「それも分かるだろ……あのクソガキのせいだよ」

 ミシェルが忌々し気に顔をやった先で、花蓮ちゃんはまだ、笑い転げていた。

 子供は元来残酷、の言葉が脳裏によみがえる。それを言ったのは、花蓮ちゃんだった。

「老衰で死んだクソジジイの隠したかったものがあれだ。この別荘と、匿われていたジジイの隠し子。嗜虐趣味を持て余したクソガキだ」

 痛みと怒りを堪えながらも、ミシェルは多分、これ以上なく分かりやすく言っているつもりなのだろう。尤も、私には訳の分からないことの山積みだ。

「え、ちょっと待って……! あの花蓮ちゃんって、絵画の化身とかじゃ……」

「は? なわけないだろ。その頭は真綿でも詰まってるのか。おめでたすぎる」

「え、えぇ……! だってミシェルさんが」

「あんなのちょっと揶揄っただけだっつーの。頭悪いな」

 ミシェルの涼し気な顔面で悪意の塊みたいな毒舌のオンパレードを聞かされると、かえって頭の混乱が加速する。頭は悪いかもしれないが、それを正面切って言わなくたっていい。ひどい。図らずも、涙腺が緩み始めた。泣いている場合じゃない。泣いている場合じゃないのに。

「おいガキ! てめえいつまで笑ってんだ」

 ミシェルが腹立たし気に、声を張り上げ遠くに呼びかける。少し離れたところから、腹を抱えて笑う種所の甲高い声が帰って来る。

「だってっ……あんなに偉そうにしてたのに、結局ケガしてるじゃないですか……!」

 滑稽の極み、とでも言うかのように、少女は更に笑いを加速させる。

 この二人の間では、きっと私の知らないところで何かやり取りがあったのだろう。ミシェルは花蓮ちゃんのことが一から十まで気に喰わない様子だし、花蓮ちゃんは花蓮ちゃんで、ミシェルの邪魔をしたがっている気配がプンプンする。要するに犬猿の仲と言った感じだ。

 ミシェルが負傷している腕の方の袖をまくり上げた。その左腕には、血にまみれた銀の腕時計がある。彼は億劫そうに血を拭うと、時間を確認していた。彼の目が、スッと細くなるのを私は見た。彼は顔を上げると、再度花蓮ちゃんに声を張り上げる。

「おい! 鍵持ってるんだろ」

「え~? 何のお話ですか?」

「すっとぼけるな。車の鍵だよ」

 ミシェルが玄関の外の、亜門の車を指し示した。私が乗ってきた奴だ。

「興が乗ってきたところ悪いが、僕は疲れたし用事も済んだから帰る」

「……帰る?」

 花蓮ちゃんが人形じみた顔をスッと上げた。そこには、もはや邪悪以外の何物でもない笑みが張り付いていた。爬虫類がハエをじっと見つめて、いつ舌を伸ばそうかと思案しているような。

「ただで帰れると思ってるんですかぁ?」

「違う」

 ミシェルは即答すると、淡々と続けた。

「通行料は支払うと言ってる。僕には君やスプラッター映画を好んで観るような気持ち悪い悪趣味なゴミ野郎みたいな残虐趣味は無いが、郷に入っては郷に従うくらいの心の広さは持ち合わせてるつもりだ」

「あら……」

 花蓮ちゃんが意外そうにミシェルを見つめる。だがその小さな驚きも、すぐさま嬉々とした笑顔に取って代わられ、最後には猟奇的に破顔した。

「鍵の在り処を教えてくれ」

「……ふむ、よろしい」

 花蓮ちゃんの顔が、良家のお嬢様みたく落ち着く。

 尤も、それも一瞬のことではあった。

「なーんちゃって。場所なんて教えるわけないじゃないですかぁ。自分で探してくださいよ。探知探索はお得意でしょう? 犬みたいにあちこち嗅ぎまわって、この広い施設内をくまなく捜索したら良いじゃありませんか。ちっちゃなちっちゃな車の鍵を、この暗闇から見つけ出すのです」

 シンと、静寂が広がる。

 てっきりまた怒りを駆られると思っていた私は、ミシェルの横顔を見つめていた。しかし彼は、案外つまらなそうに花蓮ちゃんをぼうと観ている。

「……あ、そう」

 ミシェルはそれだけ言うと、既に歩き出していた。

 呆気にとられたのは私だけではない。

「え、ちょっと、本当にここから探す気なんですの?」

「ああ」

「無理に決まってるじゃない」

「普通ならね」

 ミシェルはあくまでも涼し気でいた。花蓮ちゃんとは目も合わさず、どこか遠くを見定めている。

「探知探索がお得意……その通りだ。むしろ助かるよ。僕の得意分野に合わせてくれたのかい」

 ミシェルが一度立ち止まり、嘲るように花蓮ちゃんに横目を投げた。むすっとする花蓮ちゃんを観ているその姿を大人げないとは言えない。ここに居るのはどちらも狂人だ。

「言っておきますけど、安全な道などありませんよ……その腕など軽傷にすぎないと、身をもって味わうことになる」

「デスゲームみたいなものだろ。承知の上だ」

「へえ……」

 意味深に視線を投げる花蓮ちゃんの目の先には、未だに血が止まっていないミシェルの左腕があった――ふと、あの瞬間を思い返してしまう。ミシェルは、どうしてそんなケガを? 彼なら避けられそうなものだ。当たるならむしろ、私の方で――。

「あ! ちょっと待ってください!」

 居ても立っても居られず、私は叫んだ。もちろんミシェルに対して。

 ミシェルは気怠そうに、私に振り返った。その間も、ぽたぽた血の雫が落ちている。失血死の言葉が、私の頭を占めては消えない。

「なんだい」

「いや、その……ついて行ったら、ダメですか……」

 一人になるのは無論、花蓮ちゃんと残されるのが死ぬほど嫌だ。となると、ミシェルしか居ない。彼について行くしかない。

「さっきは信じなかったくせに……別にいいけど」

 ホッと胸をなでおろす。とりあえず一人で取り残される危険は避けられた。ミシェルといるのが安全とは言えないだろうが、まだ確率が高い……と信じたい。

「お姉さん、ワタシと居てくれてもいいんですよ?」

 花蓮ちゃんが、再び優しく微笑んでいる。守り神よろしい笑みも、この騒動の後では自らの観る目の無さを呪う他無い。裏のある人間ばかりじゃないか。

「……遠慮、しておきます」

「あらそう」

 丁重に断って、私はミシェルの後を追いかけた。

 尤も、一メートルほどの間隔を置くのは、忘れなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る