第10話 月の光は人体に有害です

 朧げな意識が一筋の眩い光を感じて、ふっと目を覚ました。それは、赤いベルベットのカーテンの隙間から差し込んだ月光だった。来るときは赤みがかってどこか不気味に輝いていたそれが、今は白く神々しい静謐さをもって佇んでいる。だがその美しさも、現状の危機を取り払ってはくれない。月はいつも、天高くそこにあるだけだ。

 私は倒れていたようだ。冷たく硬い床からのっそりと身を起こし、何が起きているのか目を開けて確かめてみる。

 目に映ったのは、無機質なコンクリートの壁と床だ。

 あと、ついでに鉄格子が見える。

「……は?」

 鉄格子……鉄格子。そう、三畳ほどの狭苦しい空間は、あろうことか鉄格子で、向こう側と区切られているのである。鉄格子越しの景色もまた無機質で、ただコンクリートしか窺えないものの、ここに閉じ込められているよりはマシだと言わざるを得ない。

 ここはどこだ? 一体誰が、私をこんな場所に?

 何らかの意図――それも限りなく悪意に近しい意図が無い限り、こんな場所に人を閉じ込めたりしないはずだ。

 急激に怖気を覚え、思わず両の腕で体を抱きしめる。ここは寒い。人の温かな痕跡も見当たらず、ただ冷徹な悪意の箱の中に、私は居る。

 これから何が起きる? 私はどうすればいい? どうすれば、この悪意から逃れられる?

 ポケットに入っていたはずのスマホは無くなっている。外部への通信手段はこれで断たれた。文字通り身一つで、私は牢屋みたいな場所に監禁されている。事態を理解する瞬間ごとに、刻々と焦りが強まり、背筋を凍らせていく。

 今この瞬間ほど、自らの行動力を呪ったことはないかもしれない。飛んで火にいる夏の虫なんて言葉が脳裏をよぎる。黙ってくれ。

 しかしこれでは、私の方が囚われの姫じゃないかとも思わなくもない、ああいや、私は姫と言う柄でもなければ、そう可憐な人間じゃないのだが。

「――助手のお姉さん」

「えっ?」

 聞こえるはずのない声が、不意に聞こえた。

 いつの間にかに俯いていた顔を上げ、声の主を確かめる。この声には聞き覚えがある。

「探偵助手のお姉さん、ですよね?」

 そこには、ランプを携えた等身大の人形――。

 もとい、存在するはずのない少女、花蓮ちゃんが立っていた。

 鉄格子の向こうに、じっとこちらを見つめて。

「なん、で……」

 喉が詰まって上手く声が出ない。驚きすぎて、体が言うことを聞いていなかった。

 どうしてこの娘が、ここに。今この瞬間、このタイミングで。

 相変わらずのフリフリしたゴシックロリィタは、この世ならざるとでも言うような風体で、私を見降ろしている。何を考えているのだろうか。可愛らしい面持ちに反し、そのまなざしは厳しいものを湛えている。

「お姉さん、ワタシといっしょにきてください」

「え、いや、え、でも……」

「鍵ならワタシが開けますから」

 花蓮ちゃんは、片手にランプを、もう片方の手に大仰で古めいた鍵を携えていた。彼女は淡々と、鉄格子に取り付けられた南京錠に鍵を差し込んだ。ガチャリとドラマチックな音が、月光しか情緒の無い部屋に響く。

 果たして、鉄格子はぎいと音を立てて、向こう側へと開いた。

「どうぞ」

 花蓮ちゃんは、冷静にそれだけ言う。

「あ、ありがとう……ございます」

 小さな女の子に対してこれだけの恩義を感じることは、これからの未来に金輪際存在しないかもしれない。私はあらん限りの感謝を込めて、少女を見つめる。昂った感情のあまり、瞳に涙が溜まり始めてしまう。

 花蓮ちゃんは、それでも私を黙って眺めていた。感情を置き去りにしたか、あるいはそんなものが最初から存在していないみたいだ。風采はあの日とほとんど変わらないのに、その体の中身だけまるで別人のなったかのように、花蓮ちゃんは佇んでいる。

 違和感が膨らみ、強烈なまでに私の胸を支配し始めた。この子は、本当に何なんだろうか。

 急速に引っ込んだ涙の代わりに、私は冷静になって眼前の少女を見つめ返した。この部屋と同じくらい無機質な少女は、小さな唇を重厚に開く。

「ワタシについて来てください」

「あ、うん」

 元よりこの少女に従う以外の選択肢を有していない。私は馬鹿なくるみ割り人形みたく何度も頷き、従順性を示す。しかし、一体どこへ連れていかれるのだろう?

 その疑問を少女が見透かしたのか、あるいは用意していたのかは分からない。

 ただ花蓮ちゃんは、予定調和のように続けた。

「あの探偵さんのところへ、案内して差し上げます」

「あ、え、あの探偵さんって……」

「長身で……まるで月のような方です」

「ミシェルさんがここに居るの⁈」

「いらっしゃいます」

 やはりミシェルは生きていた! ここに至って、唯一の希望とも言える事象かもしれない。何はともかくとしても、まずミシェルに再会できる! それさえできれば、後のことはどうとでもなる!

 ともすれば、馬鹿げた考えではあるかもしれない。だが今の状況で、一体どうしてまともでいられる? もしかすれば私は、あの日あの夜あの月下に、ミシェルを観測した時点で正気を失っているかもしれないのに。

「どうぞ、こちらへ。道中、少しお話があります」

 古びたランプをかざし、花蓮ちゃんは先に進み始める。白いコンクリートの建物に、二人分の静かな靴音が、響き始めた。

「お姉さんには、信じていただけないかもしれませんが――」


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 宵闇を切り裂く月光の下、亜門はバイクを飛ばす。その最中、どうしても思考は止まらなかった。在ること無いこと考える頭を疎ましく思う。こんなんじゃ、まるでネガティブモードに入ったミシェルと同じだ。自分はミシェルを支え、引っ張っていく立場にある。ならばミシェルみたいにくよくよしてはいられず、むしろ彼の太陽となるべきなのに。

 推理においては亜門はミシェルを灯台としていた。逆に、人生とか生活においては常に、亜門は自らを光として、ミシェルを照らし上げようと心に誓っていた。どうしようもなく後ろ向きに蹲ってしまうミシェルを、自分以外の誰が手を差し伸べて、あまつさえ共に歩んでいけるだろう? 同情と言うには、この胸のそれは燦爛として熱烈すぎる。亜門はただ、ミシェルと出来るだけ長く一緒に居て、同じ空気を吸っていたいだけだった。あの月が眩しいことを、隣同士で言えない状況は嫌だ。

 どうせ考えることをやめられない。ならば有益なことを考えよう。亜門の頭は、足元のおぼつかない赤子のように、現状を並べ始めた。

 まず、日曜探偵俱楽部の会長である女探偵の失踪について。彼女はエイブラハムの言う通り謎の多い女だったが、探偵として別格の存在であると言うのは、皆の共通認識だった。探偵俱楽部で囁かれる数ある噂によれば、どうやら日本でも有数の資産家一族の出身で、大抵の快楽は子供時代に経験した結果、スリリングな謎解きに興じるようになったのだとか。亜門としては、論じる価値もない子供じみた噂だと思っていた。

 それに一石を投じたのは、何を隠そう女探偵自身だった。人前には滅多に顔を出さない彼女が、先日の探偵俱楽部の招集に颯爽と現れ、亜門に接触を図って来た。人を喰ったような上から目線に、亜門は終始イライラさせられたが、それこそが彼女の名家出身のプライドみたいなものの証拠であるようにも思われた。お貴族様が庶民に説教をするような……亜門は、小さな港町の漁師の息子だった。周囲の同級生はほとんど大学にもいかないような、そんな町だった。持って生まれた頭脳を褒め称えられ高校に進学し、ミシェルという運命に出会ったのは、亜門には時折、奇跡以外の何物でもないように思われる――いや、その話は今考えなくていいことだ。

 今となっては、あの女探偵の出現こそ、全ての元凶のように思えてくる。彼女は何らかの意図をもって、亜門に接触し、あの依頼を投げて来た。

 あの屋敷に自分たち二人を誘導するためだろうか? エイブラハムの言葉が瞬間、蘇る。

 ――そう言えば、お前の相棒、妙な力があるんだよな? 会長も、それをあてにしたのかもしれないぜ。

 誘導されたのは、ミシェルか。女探偵は、ミシェルをあの屋敷に連れて行きたかった。

 だが一体何故? どうして彼女はミシェルを? 面識さえ無いはずなのに。

 もちろんミシェルはその類い稀な洞察力で、探偵俱楽部でもそこそこの知名度を誇っていた。ついでに言うと、その浮世離れした風貌や佇まいが人目を惹いて、カルト的人気を博してもいた。だが俱楽部内の人気を、あの女探偵が気にするだろうか? いや、彼女のことを詳しく知らないから分からない。噂なんてものでも、奇異なものを好むらしい彼女であれば、あるいは気になったのかもしれない。それが、あの屋敷にミシェルを誘導することと繋がるかは別として。

 ミシェルは、あの屋敷で何か言っていなかったろうか。ふと、亜門はそう考え始める。ミシェルは……そうだ。確か、会長が依頼を寄越したことに違和感を感じていそうな風があった。あの奇妙な人形じみたお嬢様が馬鹿げた幽霊話を依頼として持ち込んだ後のこと。ミシェルは、女探偵の意図を気にしていなかっただろうか。

 結局、依頼を完遂した後はその疑問も水に流して、綺麗さっぱり忘れ去っていた。だが他ならぬミシェルが、ほんの僅かでも引っかかっていた。

 あの時にもっと考えていれば! その違和感の根源を、あの屋敷に居るうちに。

 そう考えたところで、後の祭りでしかない。無駄なことは考えるな。

 問題なのは、女探偵のその采配が、果たしてこちらへの悪意か否かだ。彼女は今失踪中だけれども、被害者であるとは限らない。意地の悪い人間だった。もしかしたら今頃、ミシェルを監禁しているのも彼女かもしれない。いや、それはさすがに、彼女を悪者に捉えすぎか? いややはり分からない。たった一度会っただけの人間の善悪を推し量るなどできるわけがない。少なくとも、ミシェルを除いたほとんどの人間は、他人の心を読めたり出来ない。

 ああ、ここにミシェルが居れば、彼さえ居れば! こんな訳の分からない状況でも方向性は掴めた。夜空を見上げて星座を見つけるみたいに、ミシェルこそがこんな混迷した状況での最適解そのものだ。

 如何に、普段の自分がミシェル頼りで依頼をこなしているかが分かる。いやそれも当然だ。何しろミシェルの力を役立てたかった。ミシェルの力で他人を助けることで、ミシェル自身に、価値を信じて欲しかった。どうかもう、自分を傷つけないように。あと少しでいいから、ミシェル自身がミシェルという人間を愛せるように。

 それが功を奏していたかは分からない。こうして誘拐事件に巻き込まれるに至っては、間違えていたのかもしれないとすら思う。ミシェルのことは、亜門が彼の家の中で後生大事に守っていれば良かったのかもしれない。鳥かごの鳥だってきっと、愛情を欠かさなければ幸福なはずだ。世界を正しく知ることが幸福だと、一体誰が証明した?

 またどうでもいい方向に滑り出した思考を、走行中のバイクの上では頭を振ることも出来なかった。まず自分が安全に現場に到着できなければ、相棒を救うなどできやしない。

 あの屋敷にミシェルを誘導するのが女探偵の狙いだったと、一度仮定して、ならばどうしてそんなことをするのか、それを亜門は考え始めた。

 一つ要因として考えられるのは、二年前のミシェルの両親の自殺だった。自殺と言うより、夫婦そろっての心中と呼んだほうが良いのだろうか?

 もしあの一件に、あの屋敷が関わっているとしたらどうだろう? あの屋敷の人間が、幼少期からミシェルのことを知っていて、ついにその魔手を彼に伸ばしたとか……根拠が無さ過ぎるだろうか。だが、金持ちの考えることなど分からない。絵画に法外な金銭を投じたり、馬鹿でかい家をたかが名誉なんてもののために実用性も無く建てたりする連中だ。ミシェルの不思議な力に魅せられて、手中に収めようとする可能性は、どうしても捨てられない。

 頭の中が嵐のようで、ミシェルの好きなピアノソナタ「テンペスト・第三楽章」が流れ始める。雨でも降りだせばぴったりだろうが、生憎と空自体は酷く晴れ渡って、月を隠す雲すら流れてはこない。それを吉兆と思うには、亜門は現実的な人間が過ぎた。亜門の中で不思議であることが許せるのは、唯一ミシェルだけなのだ。

 その昔、こんな会話をした。

「ねえ、亜門はどうして医者にならなかったの?」

「え?」

 少しも脈絡が無かった。だがミシェルはこうして不意に爆弾を投げ込むことがあった。爆弾を!

「あんなに勉強してたのに」

「それは……」

 お前のためだよ、とは言えなかった。

「君はいい医者になるんだと思ってた」

 それに対してどう答えたのか、亜門は覚えていない。本当に、俺はあの問答をどう乗り切ったのだろう?

 一つ確かなのは、ミシェルは決して、亜門が医者になることを望んでそう尋ねたわけではないことだ。ミシェルは亜門に対して、何かを望んだことが無い。亜門は望まれた記憶が無かった。

 そう考えると、今この瞬間バイクを夜に飛ばしていることすら、自分のお節介の範疇に収まっている。もし――きっと再会した時、彼はなんと言うだろう? どんな顔をするだろう? 喜んでくれる?

 その顔が、思い浮かばない。

 いや……別に、それでいい。彼が望まずとも、きっと自分は成し遂げる。そうでしか見え透いた不幸を回避できない。いくらミシェルが亜門に対して医者になる道をそれとなく示そうとも、亜門は断固として、それを拒否する。

 道が山林に差し掛かって来た。すれ違う対向車もとうの昔にめっきり無くなった。あと数分で、あの屋敷に着く。

 それにしても、亜門はポケットのスマホに意識を集中した。家を出る前に、一応ミミに連絡を入れていた。しかし折り返しの連絡が無い。ミミのいい加減な性格を考えるとおかしい話でもないが、しかし……。

 もしかしたら、彼女はもうとっくに、何か危険に足を突っ込んでいるのかもしれない。だとしたら、彼女の読みも、ひいてはミシェルのそれも、当たっていたことになる。

 今日中で全てに片が付くだろうか? 二年前の事件と含めて、全てに。


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 花蓮ちゃんの話によれば、この建物はもともと、カルデラの水質調査と天文観測を兼ね備えたハイブリット研究施設であるらしかった。尤も、研究が芳しくなかったために資金難となり、今では施設としては使われていない。代わりに麓の屋敷の一族、すなわち瀬野家に買収されたのだと言う。

「と言うのは、表向きの話です」

「えっ」

「研究施設として建設が始まる当初から、ここと瀬野家は繋がっていました。この屋敷の設計を受け持っていたのは当時、瀬野家においてデザインや建築方面に名を上げた者でしたので。この施設自体が、瀬野家が作った代物ということです」

「はえ~、なるほど……」

 声を潜めて歩く回廊は薄暗く乾いていて、相槌を打とうにも馬鹿みたいな声しか出ない。

 花蓮ちゃんがふっと顔を上げ、私を見やった。ランプの明かりで一部分だけがハイコントラストに照らされた表情は、ホラーさながらだ。思わずヒュッと息を吸ってしまう。

「お姉さんは、あの地下の階段、入り口を見ましたね?」

「え、あ、はいっ」

 花蓮ちゃんが言っているのは、ミシェルが発見した秘密の入り口に違いなかった。花蓮ちゃんは前方に視線を戻すと、カツカツと硬いローファーの音を静かに進める。

「実を言うとあの地下室は、この施設に続いているのです。もう数十年前の話ですが、どうやら設計者である一族のものが、秘密裏にそうしたようなのです。単なる遊び心か、あるいは別の意図があったのか……とうの昔に死んだ人間ですから、尋ねようもありませんが」

「なるほど」

「しかし一族の代々当主を務める者にだけ、その事実は受け継がれていきました。先代を除けば」

「先代って」

「先日亡くなった方です。彼は次代の人間に伝える前に亡くなってしまいました」

「ああ、そっかぁ……あっ、でもそれはミシェルさんが」

「ええ、あの方が部屋の秘密を解いてくださった。あの部屋、そしてこの場所はもう、秘密の場所ではありません。少なくともあの屋敷の人間には知れ渡ってしまいました」

 まるで、良くないことみたいな言い回しだと思った。待つまでもなく、花蓮ちゃんは歴史家みたく言葉を紡いだ。

「先代はあの地下室を通して、ここまで足しげく通っていましたが、その事実は限られたものにのみ明かしていました」

「それは――」

 なんで、と聞こうとして、咄嗟に口を噤んだ。どこまで聞いて良くて、あるいはダメなのか、私には判然としない。

「何故なのか、そう思いますよね。簡単に言えば、先代には家族にさえ隠したい秘密があったからです。この場所ごと」

 花蓮ちゃんが、何かに気付いたように前方を照らした。そこにはマンションさながらのエレベーターがあった。地下一階から四階までフロアがあって、スイッチが煌々と青色に光っている。ここに来て初めての、人工的な光だった。生物学的安堵と、未知への恐怖が同時に胸中を渦巻く。使われていないことにされていた研究施設なのに、電気が通っているのだ。知らない誰かの気配を如実に感じ取ってしまう。

「非常階段を使いましょう」

「あ、うん」

 花蓮ちゃんが通路を右に進んでいく。突き当たりは外部に開かれていて、雨ざらしの非常階段は古く寂れていた。月明かりで赤さびのようなものが浮き彫りになっている。

「安全点検はされておりますので」

「はぁ……」

 どうにも、花蓮ちゃんはここに詳しいようだった。ここと言うか、瀬野家に精通している。

 だが私は、未だこの子の正体を知らない。聞いて良い雰囲気ではないのだ。かつて私の下を訪れた可愛らしい女の子と同じ風体でありながら、今日のこの子はあまりにも大人びている。双子の姉と告白されたほうが、まだ信憑性が高い。それに……そもそも人間なのかどうかすら。

 錆びた鉄の非常階段は二人並んでもまだ余るほど広いが、一歩踏み出すたびに甲高い悲鳴をぎいと上げる。本当に安全なのか、心の隅っこ辺りで不安を覚える。頭上の月は、角度を変えて私たちを見下ろしている。花蓮ちゃんの髪の毛が月光を照らし返して肩の辺りで揺れているのは、確かに実体を信じたくもなるけれど。

 花蓮ちゃんの話によれば、ミシェルは三階にいるらしかった。四階は屋上で天井が無いので、実質は三階が部屋としては最上階である。三階は研究員の居住フロアとして使われていたが、現在は話の通り、研究員など存在していない。

「一つ確認しておきたいのですが、お姉さん」

 階段を三階まで登り切った時、花蓮ちゃんが口を開いた。私と違って、少し息乱れていない。花蓮ちゃんは屋内に戻る前に立ち止まると、私を見上げた。

「なに、かな」

「あの探偵さんを見つけて、その後どうするおつもりですか?」

「それは……」

 心に決めていた言葉を、そっくりそのまま、私はなぞる。

「帰るよ」

「そうですか」

 花蓮ちゃんの口調はさもありなんと言う風に手慣れていた。

「その望み、叶うと良いですね」

 また歩き出して、花蓮ちゃんは言う。

「ですがお気を付けください。先程も申し上げましたが」

「……うん」

「世の中には、常識の通用しないものが存在するのです――あるいは、常識そのものが、結局は馬鹿げた概念だとでも言うような」

「うん」

「それでもお進みになる?」

「もちろん」

「……よろしい」

 花蓮ちゃんが、ランプを差し出してきた。急なことだったので目が眩み、また驚きで仰け反ってしまう。

「ワタシは、この先には行けません。お姉さん一人で進んでください」

「えっ、でもっ……」

「一番奥の部屋です。扉を開ければ、中に彼が居ます」

 有無を言わさぬ、とはこのことだ。花蓮ちゃんは年端に見合わない気迫で、私を言挙げている。凛としたまなこは、何物にも形容しがたい据わった光を宿していた。油絵具のモデルでも目の前にしているみたいだ。

 私は何も言えず、古びたランプを受け取った。近くで見ると、アンティーク風に加工されているだけで、中身は電池式だ。火ではないことに、若干の安堵を覚える。本当に頼りない安堵感ではあるが。

「いってらっしゃいませ」

「うん……」

 花蓮ちゃんに見送られるように、私は廊下を歩き出した。光に灯された僅かな場所だけが、ホテルじみたレッドカーペットの朱色を映し出す。布地に吸収されて、靴音は響かない。静かな一本道は明かり一つなく、私だけが唯一存在している気さえする。

 ふと、怖くなって後ろを振り返った。


 そこにはもう、花蓮ちゃんはどこにも居なかった。


 階段を下って行ったのかもしれない。そう思うことにして、私はいよいよ前を向くしか無かった。今はもう、ミシェルの下へ向かい、彼に再会するだけだ。

 胸に湧き上がる恐怖、頼りない勇気、あるいは蛮勇、動物じみた猪突猛進、そして疑念。

 ミシェル……ミシェル、今は、彼に会うことしか、考えられない。

 彼にしか、分からないことがある。

 彼にしか聞けないことも。

 何歩歩いたかも数えられず、心臓は歩み以上にけたたましい。あるいはこの静寂に、この心音は連続した雷鳴くらいのものかもしれなかった。

 突き当たりの部屋の前まで来た。ドアの向こうは窺い知れない。ただとても静かだ。人の気配に近しいものは感じ得ない。

 ドアノブに手をかける。下方へ少し力をかける。ぎこちないが、鍵が掛かっているそれではない。稼働する最後まで、ノブは動く。鍵は掛かっていない。

 押戸のようだ。私はドアを押し開く。


 中は月光で満たされている。だがランプの光が覆うように、自ずと部屋を照らした。

 窓のある壁、そこに人が見えた。寄り掛かかるように、蹲っている。


 ミシェルだ。

 他人とは見間違いようがない。どうして間違えられるだろうか。彼ほど、普通じゃない人間もいないのに。


「ミシェルさんっ……!」

 上手く声さえ出なかった。掠れた声と共に、ミシェルに足が駆け寄る。よろめきつつも、部屋は狭く小さい。簡素な六畳間の半分をベッドが占め、もう半分もクローゼットや小さなテーブルセットがが所狭しと並んでいる。ミシェルは身動き一つしない。彼とて家具の一つだとでも言うみたいに。

「ミシェルさん、ミシェルさん……」

 傍まで来た。彼の体は漆喰の壁に力なくもたれ掛かり、両腕で抱え込んだ膝に頭を埋めている。

 だが生きている。それが分かるのは、指で触れた時の首の体温だった。確かに表面上は冷たかった。ハッとするほど。だがその奥から、命の鼓動を確かに感じる。彼は眠っているだけだ。

「ミシェルさんっ」

 何度目かも分からなかった。気が狂いそうだ。

 だが――不意に、ミシェルが身じろいだ。

「う、ん……」

「ミシェルさんっ」

 床に置いたランプが、彼の瞼の動くのを照らす。睫毛の一本一本すら繊細な影を伴って、彼は今意識を取り戻していた。顔が少し持ち上がり、すぐ目の前に、私を見る。神々しいまでの容貌が、私を理解し捉えている。

「……君、は……」

「迎えに来ましたよ。ミシェルさん」

「……ああ、そっ、か……」

 世界に舞い戻ったばかりの寝ぼけまなこは、現状をまだ受け入れ切ってはいないようだ。ぼんやりと宙を舞う彼の心を、私こそがこの牢獄から連れ出さなくてはいけない。

「さ、行きますよ」

「えぇ……ちょっと待って、これは、一体どういう状況……」

「それは私にも分かりません。とにもかくにも脱出優先です」

「だけど亜門は……」

「彼は居ません。そのうち来るかもしれないですけど」

 無理やり立ち上がらせた体がもつれて、少し私に寄り掛かった。長身の男のそれで、私もまた倒れそうになるも、なんとか支える。

「ごめん……」

 顔を片手で抑え、ミシェルは細々とそう言った。寝起きで立ち上がったせいか、低血圧を起こしているようだ。ふらふらしている。

「私なら大丈夫です」

 だが問題は、こんな状態で果たして、ここから逃げ出せるのかどうか、だ。

 私はまだ、敵の正体すら知らない。見ていない。

「ミシェルさん。ミシェルさんは、どうやってここに連れてこられたのですか? 誰にされたのか、分かります?」

「うっ、ちょっと待って……僕はまだ、亜門は……彼無しで君はどうやって……」

「車で来たんです。あっ……いや、まあ車で来たんです」

 あの状況を思えば、恐らく車は無事じゃない。だが、それは今ミシェルに言うべきじゃないだろう。下手な情報を与えて、不安にさせない方がいい。

 亜門の話によれば、ミシェルは不安障害だとかなんだとからしい。もし彼が今パニックを起こしたら、恐らく全てが水泡に帰す。

 であれば、今の頭がぼうーっとしている彼は、むしろ都合がいいのかもしれない。下手に現状を理解すれば、きっと恐怖してしまう。

「ミシェルさん、とにかくまず、この建物を出ましょう。話はそれからです」

 覚束ない面持ちで、ミシェルは私に頷いた。とりあえず、彼は私の言うことを聞くだろう。私は彼を、生きてここから出られるように導かなくてはいけない。

 とは言え、私もこの建物のことは全く知らないのだが。

「花蓮ちゃんが居れば……」

「……あの女の子がいるの?」

 怪訝そうなミシェルに、私は先ほどの邂逅を手短に伝えた。

「目が覚めたらなんだか閉じ込められていて、それを助けてもらったんです」

 結局、彼女が何者なのかは分からないが、きっと悪い存在ではないのだろう。強いてそれっぽい解釈をするならば、瀬野家の守り神とかなのかもしれない。

 しかしあの子とは別れてしまった。ここには来れなさそうな雰囲気をしていたから、境界線か何かがあったのかもしれない。人とそれ以外を隔てるような。

「……あ、そうだ」

 一つ妙案を思いついた。

「ミシェルさん、ミシェルさんは、人の気配とか分かりますよね?」

「え、うん……」

 ミシェルは不安そうに周りをきょろきょろ見渡し、私に顔を戻した。

「今は特に感じないけど……ここには多分、誰もいないと思う」

「ここって言うのは、どのぐらいの範囲をおっしゃってます?」

「えっと、多分、この建物……」

「おお」

 なんて僥倖だ。レーダーとしてならこの上なく役に立つと思っていたが、まさかここまでとは。さすがはミシェル、亜門探偵事務所のスター、ああいや月だ。

「なら見つからないうちにさっさと脱出です」

「脱出……分かった」

 意外と順応性の高いのは相変わらずのようだ。目も、先ほどより覚めてきたように見える。夜型らしいし、そのせいもあるのかもしれない。

「あ、でもちょっと待って」

 不意に、ミシェルは私の袖を掴んだ。彼は明後日の方を見ながら、やや聞き取りづらい声で続けた。

「手……繋いでもいいかな」

「えっ」

「ダメ、か……」

 まさか見上げるほどの身長の男性に、そんなものを求められる日が来るなんて、思ってもみなかった。いや、だが、私自身が気にしているのは、きっとそのことではない――。

 迷っている暇は無かった。私は、私の物とも思えなくなった手を、彼の前に差し出した。

「え、あ、はい。私の手で良ければ……」

「ごめんね……怖くて……」

 ミシェルが申し訳なさそうに私の手を取る。夜の空気に当てられてかひんやりと冷たいその手は、私より一回りも大きい。細くて、関節が控えめな指が女性的だが、さすがにドキドキしてしまう。今はそんな場合じゃないのに。分かっているのに。

「じゃあ、行きましょう」

「うん」

 表面の冷たいそれは、さながら荒涼とした月の海をなぞるような。そんな感覚だった。私たちは月光の満たす部屋を離れ、謎めいた研究施設の廊下に出る。花蓮ちゃんはやはり、いないままだ。もう片方の手でランプをかざすも、人の気配どころか、生き物の気配がない。闇がほんの少し、そそくさと逃げ回るばかりで。

「本当に、一人でここまで来たんだね……すごい」

「亜門さんも連れて来られれば良かったんですが。あの人は、ミシェルさんがここに居るとは思わなくて」

「そっか……」

 ミシェルの声色は、目には見えずとも寂しそうだ。本当の適役は、そして今手を握るべきは、本当は私ではなかったのだろう。

「……それでも、亜門さんはあなたをそれはそれは心配していましたよ。前後不覚って感じで。私、胸倉掴まれましたからね」

「えぇ……なんでそんなことを……」

「私が来て一週間であなたが居なくなったのはおかしい、だそうです。素敵な論理で涙が出ますよ」

 実際、あの剣幕で怒鳴られると怖いどころの騒ぎじゃないのだ。ミシェルはどこか安堵したように再度「そっか」と呟く。心配してくれる人が居るのは、まあ嬉しいことだろう。こっちはとばっちりだとしても。

 何はともあれ、とりあえず来た道を引き返してみることにした。私たちは廊下を端から端まで歩き、非常階段に出る。相変わらず月光に照らされた、赤さびまみれの汚い階段だ。恐怖を我慢して下方を覗き見るも、花蓮ちゃんは居ない。来るときは居たのに、出現条件は一体何なのだろう?

 二人でゆっくりと階段を下りながら、考える。この階段自体は外に晒されているけれども、ほとんど崖とも言える斜面にせり出している。ここから外へ出るのは物理的に危険だ。紐無しバンジーは勘弁願いたい。

「君は、勇気のある人だね」

「褒めるのは帰ってからで充分ですよ」

 いくら人の気配が無いにしても、お喋りをしていいわけではない。私が窘めるように言うも、ミシェルは尚も賛辞を続けた。

「でも本当にすごいよ。ヒーローみたい」

「ミシェルさんの見込み通りということですね。ご自身の見る目も誇ると良いですよ」

 ミシェルがくすりと笑う。この様子だと、パニックを起こす心配も杞憂になりそうだ。私は自分の胸の中でだけ安堵を覚える。

「もう聞いているだろうけど、僕は……本当は、外に出るのも、怖くて堪らないんだ」

「ああ、それは……でも仕方ないですよ」

「いや、違うんだ……生まれつき、なんだ」

「え?」

 亜門の話によれば、ミシェルの病気は二年前の事件のせいのはずだが。

 ミシェルの顔はよく見えない。爛々とした月明かりも、結局は月明かりだ。本を読むのだって億劫な。

「本当は子供の頃から怖かったんだ……それが一層、酷くなってしまっただけ」

「そう、だったんですね」

「君みたいな人は、本当に尊敬する。君はすごいよ。本当にすごいよ……」

 褒められているのに、全然嬉しくない。言葉も見つからない。

 代わりに、私は彼の手を少し強く握りしめた。先程より温かくなったそれは、きっと私の体温が伝播したのだ。代役に過ぎなかったかもしれないが、それでもここに居るのは、私だ。

「月、綺麗だな……」

 ミシェルが空を見上げて、そう呟いた。

「……そうですね」

 日本においては死ぬほど有名なフレーズとそれが示唆する意味も、きっと今のミシェルは思っていないのだろう。言葉は言葉のまま。その音のままを意味している。

 階段を一階まで下り終えて、私たちは一度建物内に戻る。初めて来る場所だ。恐らくはここが一階のはずだが、一階のどの部分かはよく分からない。暗くて先がよく見えないし、何より研究施設の無機質な白い漆喰の壁は、どこまで行っても没個性的だ。延々と同じ道や部屋であるような錯覚を覚える。

 困ったなあと思いつつ、こういう時こそ、ミシェルの出番だと気が付く。

「ミシェルさん、どっちに進めば良いと思いますか?」

「え、僕?」

 彼は突然の振りに困惑を滲ませるも、すぐに何かを決心したような素振りを見せた。

「多分、こっちだと思う」

 その後も、彼の言う通りに通路を何度か曲がったりした。

 その結果、私たちはとうとう、玄関と思しき場所に辿り着いた。センサー式の至って普通の自動扉だ。ガラス製なので向こう側の森が透けて見えている。手前の駐車場と思しきコンクリートの地面は月明かりに煌々と照らされ、白く目が眩むほどだ。そして何より、私は見覚えのある大きな物体を見つけた。

「あっ、あれ、私が乗って来た車です! やったぁ、無事だったんだ……!」

「確かに亜門の車だね。あれに乗って来たのか……一人で……」

 ここまで来れば、もはや事件解決は目の前だ。私は心躍るまま、ガラス扉に駆け寄った。センサーが切れているのか扉はうんともすんとも言わない。しかしこんなのは、椅子とか何か大きなものをぶつければ壊せるだろう。ミシェルあたりなら何とか体当たりで行けるかもしれない。命の危険があるのだから、多少のけがや骨折は大目に見ないといけない。

「ミシェルさん、とりあえずこの扉、ぶっ壊しましょう!」

「えぇ……大きな音が出ると思うけど」

「バレても、その前に車に乗っちゃえば大丈夫ですよ」

「鍵は持ってるの?」

「あ……」

 そう言えば、あの時の私はどうしていただろうか?

「車にさしっぱだったかも……」

「じゃあ取られている可能性があるね」

 ごもっともな指摘に思わず、「うっ」と声が出る。何か打開策は無いだろうか。

「スマホは? 亜門に連絡を取れない?」

「実は、それも取られちゃってて……」

「へえ……移動手段、外部への連絡手段、共に絶たれている、か」

「すみません……」

 情けなさのあまり謝罪が口を走るも、ミシェルは気にしない様子だ。それどころか、彼はクスクスと可笑しそうに笑い始めた。

 眠気はすっかり覚めたようだ。しかし恐怖に怯える様子は無い。

「それで、君はこれからどうするつもり?」

「……それは……」

「特に計画は無さそうかな」

「まあ……」

「亜門も、すぐには来そうにない?」

「それはさすがに亜門さんの立場に立ってみないと……」

 しかしまあ、亜門のことだからすぐに気が付きそうだとは思っている。恐らくはミシェルも、そう考えているのだろう。ミシェルは私と繋いでいない方の手、すなわち右手で顎に手をやると、難しい面持ちで思案し始めた。

「ミシェルさんは、何か計画とかあります?」

 ミシェルは答えない。よほど深く考えているんだろうか? 私は周囲を見渡しつつも、どうにもここがガラス扉なのが気になってしまう。今のミシェルは、ちゃんとセンサーを働かせているだろうか。物思いに耽り過ぎて、周囲への警戒を怠れば本末転倒だ。

「ミシェルさん、ここは安全ですよね?」

「……うん? ああ……どうなんだろうね」

「え、ちょっと、ちゃんとしてくれないと困りますよ」

「ああ、うん」

 生返事なのを隠そうともしない。本当に、危機感がまるで抜け落ちてしまったかのような。

「ミシェルさん、何を考えていらっしゃるんです?」

「僕はどうするべきなんだろうって」

「どうするって、何か出来そうなんですか?」

「目は覚めたし、頭も冴えて来た。月は美しい……いくらでもやりようはあるだろう」

 どこか詩的に、ミシェルは滔々と言った。

「だけど時間が無いな……」

「時間?」

 何の時間だろうか? 亜門の到着を待つなら、むしろ時間は余っている。

 それとも、何かしらの危険を察知したんだろうか?

 思いついたことをミシェルに尋ねようとした。


 だが、それは出来なかった。

 

 ミシェルが、顎に添えていた手を、私に伸ばした。すっと伸びた白い指先が、私の首筋に冷たく触れる。優雅にため息を吐くミシェルは、私としっかり向き直った上で、静かに私を見降ろしていた。さながら、天上の月が下界を睥睨するように。

「ミシェル、さん……」

 石造のように無造作に固まった体と、上手く動かない声帯、それらの動きが全て、触れた首筋を通してミシェルに伝わっている。彼は今、つないだ手と、首に添えた手の両方の手で、私に触れている。首に添えられた右手が、私の首の表面を柔らかくなぞる。スーッと上へと移動した指が、顎のあたりで止まる。彼に触れられた部分だけが、微かに鳥肌を凪いで、熱と何かを灯し始める。

「あ、ああ、あの、ミシェルさん、どうして……」

 早い話が、心臓が爆発しそうだ。出来の悪い機関車みたく、私の全てが壊れてしまいそうになっている。

 ミシェルは反対に、静寂そのものだった。何も言わず、その目もただ私をじっと見つめるばかりで、まるで置物にでもなったような。

「ミシェルさん……?」

「僕の目に狂いはなく君はここまで来てくれた……ならば僕のすべきことは……」

 ミシェルの口ぶりは、明らかに私に当てたものではない。内省や思索がうっかり口に漏れてしまっている。そんな独り言だ。だが彼が何を考えているのか、核心的なことがまるで窺えない。

「僕の、為すべきは――」

 琥珀色の月に照らされ、ミシェルは狂気的な美貌とさえ言えた。黄金を反射して輝く髪、光を湛えた瞳、夜の砂漠のように真っ白な肌。私は彼の眼差しを一心に受けて、何も考えられない。何も考えられない。何も考えられない――。

「お姉さん!」

 突如として、幼くも慇懃な声が響いた。

 ハッと我に返る。私は今、何をしていたのだろう?

 いや違う。問題は――。

「……ふん」

 ミシェルの方だ。そうミシェル。

 彼は今、何をしている?

「お姉さん、今すぐその人から離れてください!」

 声のする方へ振り向く。この声は花蓮ちゃんだ。花蓮ちゃんが、私を見ている。フロアの奥の方で、暗がりから私たちを見ている。見たことも無いほどに、緊迫した面持ちで、まるで何かを恐れるように。

「お姉さん!」

「……うるさいな」

 今度は、ミシェルの方へ私は振り向いた。

 うるさいと、そう言ったのが何を隠そう彼だった。

「三文芝居なんかしやがって」

 続けて、チッと舌打ちをする。

 私は、ただじっと彼を見ていた。月光に照らされた彼は、酷く不愉快そうに眉根を寄せている。さながら、どこか亜門的な雰囲気とでも言うような、露悪的だ。

「お姉さん、頼みますからその人から離れてください! 言ったでしょう! その人は危険なんです! 怪物なんです!」

「誰が怪物だクソガキ。てめえの方が怪物だろうが。クソっ、邪魔しやがって……」

 気づけば、私からミシェルの両手が離れていた。彼は、フラフラと数歩歩き、私から離れた。その体の向く先は、花蓮ちゃんの方だった。

「邪魔をするなって言ったよな。君は一体何がしたいんだ」

「お姉さん、言ったでしょう。だから言ったでしょう」

「おい、今話しているのは僕だぞ」

「お姉さん――」

 二人の会話、そして花蓮ちゃんの必死な訴えを聞いて、私はミシェルに再会する直前、花蓮ちゃんに案内されていた時のことを思い出していた。走馬灯のように駆け巡るそれで、花蓮ちゃんは私に言った。そう、言っていた。


 ミシェルは危険人物であると。

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