第9話 盗んだ車で走りだせ、死体を見つける前に

 一階に降りた時、亜門は既に部屋着に着替えていた。全裸に出くわすのは嫌なので、大変良かった。彼と入れ替わってシャワーを浴びても良いが、その前に、私は話したいことがあった。

「――と言うことで、車を貸してほしいのですが」

「え、嫌だ」

「酷い!」

 ミシェルを救うための手段なのに、亜門はあっさりと、しかし毅然とノーを示した。

 一応、私の論理は説明した。私はあの屋敷との関連を疑っていること、役割分担として、私はあの屋敷を今一度調べ、その間に亜門は二年前の事件を調べること。完璧な布陣である。

 亜門は既にびしょびしょのタオルで、肩のあたりの雫を拭く。そんな片手間に、私に言うのだ。

「お前、運転できるのかよ」

「問題そこですか⁇ できますよ、免許持ってます。無事故無違反です!」

「それペーパーなだけだろ」

「そうですけど」

「おいマジでそうなのかよ」

 尚更無理、とでも言うように、亜門はあきれ顔で明後日の方を向いた。

「あの車お気に入りなんだよ……事故られたらたまんねえ」

「ミシェルさんと車どっちが大事なんですか」

「あいつに決まってるが……」

「決まってるんだ」

「あの屋敷まで結構な距離だろ。それに山道だ。ペーパーが走っていい道程じゃない。それに……」

 亜門は、何故だかその先を言いづらそうにした。尻すぼみに消えた言葉を、私は想像できない。

「それに、なんですか」

「いや……」

「早く言いなさいツンデレ探偵」

「誰がツンデレ探偵だ殺すぞ」

 即座に突っ込みながらも、亜門は言う覚悟を決めたみたいだった。しかも私にとっては、かなり予想外な言葉を。

「……お前の読み通りなら、お前はかなり危険な場所に足を踏み入れることになる……そんな場所に、一人で向かわせられねえだろうが……」

「えっ……」

 思わず馬鹿みたいな声が出てしまった。亜門が気まずそうに私を横目で見降ろしている。

「亜門さん、私を心配してるんですか……え、嘘……」

「いやするだろ。さすがに。誘拐犯相手だぞ」

「え、あの亜門さんが……」

「俺のこと血も涙もない奴だと思ってんのか」

「ついでにデリカシーも……」

「マジで殺そうかなこいつ」

 それにしても、行動は早い方がいい。亜門がなんと言おうと、私は既に車を借りようと心に決めていた。

 この一週間の間に、この事務所のことは大体把握した。亜門は車の他にバイクも所持している。ミシェル曰く、「彼、昔から趣味が男性的なんだよね。車とかバイクとか乗り物が好きなんだ」そうである。ミシェルが同行しない外出では、亜門一人がバイクを乗って出て行くのを見たこともある。私は二輪免許を持っていない。だったら、私が車を借りるしかない。

「亜門さんお願いです。亜門さんが良いって言わなくても、私勝手に乗っていきますからね」

「どこがお願いなんだよ……なら俺は鍵を隠すしかない」

「亜門さん……」

「いくらあいつを助けるためでも、人を犠牲にしていいとは思わない」

 亜門は、少し意外なくらいに淡々と述べた。

 彼を正義感が強い人だと思ったことは無かった。依頼を受けるにしても、報酬第一で、クライアントの希望を叶えるのは金稼ぎの手段でしかないように感じた。その点では、ミシェルの方が目立っていただけかもしれないが。

「亜門さん、あなた……」

「なんだよ。人として当然のことだろ」

「これが、本物の、まごうこと無き、真正の、ツンデレ……!」

「お前マジでふざけんなよお前」

 人のことをお前呼ばわりするモラハラ予備軍のくせに、なかなかどうして、亜門もミシェルに負けず劣らずのそれらしい。あるいは、ミシェルは知っていたのかもしれない。彼のこういうところを。だから、彼は亜門を殊更に評価していたのだろうか。私相手に、ミシェルは亜門をよく褒めちぎるものだった。それこそ、妬ましいほどに。

 今となっては妬ましいとも思わない。どいつもこいつも正義感なんてぶら下げて、まったく。

「……分かりました。車は諦めます」

「そうか」

 安堵と共に去る背中を見つめる。


 その夜、私は早速、車のキーを盗んだ。


 前回の道筋では、私は途中からほとんど寝ていて記憶になかったから、カーナビに履歴が残っているのは行幸だった。尤も、この車自体が亜門の趣味なのかややオールドタイプっぽく、付属のカーナビも古臭い。GPS機能に問題が無ければよいが、生憎と若干のバグがあるようだ。二重記憶の痕跡がある。

 とは言え、山道と言うのはそう何本も存在するわけじゃない。あの屋敷までは一本道だったはずだし、崖際での対向車や獣に気を付けていれば、問題は無いだろう。仮免も本免も一発合格した私だから、たとえ数年のブランクがあろうとも平気だ。多分、さすがに壊したりはしないと思う。

 芳香剤なしでも、充分清潔な空気だが、私はわざと、前座席の窓を二つとも開け放った。シャワーは浴びたが髪は乾かさずに来た。時速六〇キロの風を浴びれば、髪は乾くし、気分も入れ替わるだろう。心に決めていたとはいえ、罪悪感が無いわけじゃない。亜門はいつ気が付くだろうか。車が無いことに。

 彼のマメな性格上、なんとなく私のいないことを察してすぐに気が付くかもしれないし、ミシェルの安否が気がかりになって夜明けまで私には気を回さないかもしれない。どちらだとしてもあり得る気がする。

 こういう時、ミシェルなら完璧に、亜門の行動を当ててみせるのだろう。彼ならばこうするに違いないと、一分の隙も無く。

 それはミシェルという人間の特殊性もさることながら、彼の亜門への信頼や愛情の賜物でもある。彼は本当に、亜門のいない時、私に対して亜門の話をしたものである。

「……ミシェルさん……」

 突き抜けるような夜風が、頬を滑り、髪を攫う。頭上には、赤みがかった月が爛々と輝いている。満月より少し前くらいだろうか。十五夜は来月なのに、とても明るい。月明かりに照らされて、空の助手席は一層寂しさを助長している。

 亜門と二人で話していて、唯一一致したのは、「ミシェルはまだ生きているだろう」という意見だった。もちろんその意見の裏には、二人そろって希望的観測の文字が浮かんでいたのは違いない。それでも、生きているのではないか、という気がしてならないのだ。

 亜門の言い分はこうだった。

「もし犯人が、命をとる目的を有しているなら、それは二年前でも充分だったはずだ。だが犯人は、二年前の時点では両親だけを殺し、あいつは見逃した。俺はそれを、あいつを孤立させるのが目的だったからだと踏んでる。そして今になって、時が来たのかもしれない」

「時?」

「ああ……殺人犯の考えることなんて俺にはさっぱりだが、だがあいつの特別さは、子供の頃から際立っていたみたいだから……もしかしたら……」

 二年前の事件から継続的に調査してはいたようだが、亜門には犯人の目的も正体も掴めてはいないらしかった。ミシェルの先祖はもちろん、住んでいる土地など過去にわたって調べても、恨みを買いそうな事情は見つからなかったそうである。ならば一番考えられる理由は、やはりミシェル本人に他ならない。あんな特別な人間は、そうそう居ない。


---


 亜門は、自室のベッドの脇に立っていた。入ったばかりの時は真っ暗な部屋だったはずが、夜目が利いて部屋の隅々まで把握できるまで、ずっと立ったままでいた。部屋は静かで、こんな夜なのに、たった一人だ。こんなことは、この二年で一度も無かった。

 カーテンの隙間から、目が眩むほどの月光が漏れ出ていた。少し黄金がかった白く静謐な光彩。思い出すのは、あの屋敷でのミシェルの言葉だった。図書室に二人で忍び込んだ時の彼の言葉――月光の音。

 あの時も思ったが、月光に音は無い。ベートーヴェン作曲の月光というピアノソナタはこの上もなく有名だが、ミシェルがそれと出会ったのは、なんだか必然な気がしてしまう。月光を纏った人間、あるいは月そのもの。

 往々にして、ミシェルは人ならざると言う点で全ての人間の見解は一致する。だが亜門は、彼がそれでも人であることを知っている。彼が夜中に一人で泣き出すことも、それをひた隠しにして、翌朝なんでもなさそうに部屋から出てくるのも知っている。

 亜門はもちろん、ミシェルの本名も知っている。高校からの付き合いだ。ミシェルの両親は別に普通の日本人だったから、ミシェルの名前も本当のところ取り留めのないものである。だから亜門としては、あの時のミシェルという名乗りで意表を突かれなくも無かった。本名すら言えないなら、他人を自分らのテリトリーに連れてくるなよ。

 今頃、どうしているだろう? そればかり考える。高校の時から亜門にべったりくっついて行動していたミシェルだが、この二年はべったりどころの話ではなかった。「君なしじゃ生きてけない」という言葉を、何百回聞いたことだろう? それが誇張じゃないから、亜門は彼から離れなかった。離れようとも思わなかった。

 実のところ、亜門は大学時代にだけミシェルと遠く離れていた。進学先が違ったからだ。医学部に進学した亜門は、日夜勉学に明け暮れていた。ミシェルとは毎日のようにメッセージでやり取りしていたし、数時間単位で通話することもあった。長期休みには二人で出かけた。思えばあの頃が一番、ミシェルの幸せそうな時だったかもしれない。

 結局、ミシェルの事件を機に、亜門もまた医者になるのは諦めた。医者になるよりミシェルにつきっきりになる方を選んだ。事件後のミシェルはお世辞にも真面とは言えなかった。事件直後の彼は錯乱状態にあり、精神病院に強制入院を余儀なくされていた。退院後も、目を離すとその隙に死んでしまいそうで恐ろしかった。彼が二階の窓から外を眺めている時、何を考えているのか傍目には判断がつかなかった。

 腕から血を流した姿を見たこともあった。生気のない無表情で、左腕からツーっと血を垂らしているミシェルは、痛みなど感じていないように見えた。その姿は、とっくに彼岸に足を踏み入れた亡者のようだった。驚愕で固まってしまった亜門に、ミシェルはつまらなそうな目をしていた。それが心底悲しくて受け入れ難くて、初めてミシェルの前で亜門が泣きだした時、ようやくミシェルも、感情を取り戻したみたいにハッと我に返っていた。それから二度と、ミシェルのそういう場面には遭遇していない。ただ亜門は、ミシェルが本当にそういう行為をやめたのか、疑念を抱き続けている。ただ自分に見えないところでやるようになっただけではないだろうか。一人コッソリ泣いているのと同じで。

 本当に、今頃どうしているだろうか。

 泣いているだけならまだマシだ。だがひとたびパニックを起こせば、何をしでかすか分かったものではない。亜門の頭の中のミシェルが、硬いコンクリートの壁に頭を勢いよく打ち付けている様子が浮かんだ。何度も何度も何度も、彼の人体が不可逆的に壊れきってしまうまで――。

 亜門は、勢いよく自身の頭を振って、その考えを打ち消そうとした。考えるな。そんなことにはなっていない。きっと。だから、早く見つけ出さないと。

 無駄な心配に思考を割いている余裕はない。考えるなら、先のことにしなければ。

 それに、このところのミシェルは、思い出したようにネガティブになることさえ除けば、平均的には調子が良かった。無事に取り戻しさえすれば、きっとまた平穏に暮らせる。いつか二人で旅行に行ってもいいかもしれない。少しずつでいい、それでいいから、また幸せそうな顔が見たい。太陽の下で朗らかに笑う顔が見たい。

 現状、亜門に出来ることは全てし終えていた。要するに手詰まりだ。だが亜門は、まだ希望を捨ててはいない。

 ミミの存在だ。ミシェルは消える前に、彼女を亜門に残した。彼女が突破口となるはずだ。

 ミミは、あの屋敷でのことがまだ気になっているようだった。亜門としては、あれはもう終わった依頼だ。だが彼女が気にするなら――ミシェルが見初めた彼女が引っかかると言うなら……?

 どうせ、今の自分に思いつく解決方法はない。ならば一か八か、彼女に従うべきだったのかもしれない。どうにも性格的に、ミミを信頼しきれなかったが、彼女ではなくミシェルを信じると考えれば、あの屋敷に今一度戻ってみるのも悪くない手、なのかもしれない。

 天秤がそちらに傾いてしまえば、もはや亜門は迷わなかった。行動が早いのが長所だとも、ミシェルに言われたことがある。渦巻く静寂に足を取られぬよう、部屋から出て階段を駆け下りていく。ミミの居住スペースは一階だから、すぐに会える。静かだから恐らくは寝ているだろうが、あれでいて意外と寝起きはいい。ショートヘアだからか、準備に時間をかけないのも、亜門の中ではやや高評価だった。彼女さえ良ければ、今すぐにでも出発する。

 そのつもりだった。

 ようやっと、亜門は気が付いた。彼女さえ、この家からとっくに消えていたことに。


---


 あの屋敷の全貌が伺い知れた時、私を悩ませたのは車をどこに留めようかという問題だった。

 言わずと知れて、今の私は招かれざる客人に他ならない。そもそも向こうが悪者の可能性が高いのだから、私は見つかってはいけないのである。ヘッドライトもつけずに走る山道は、そんじょそこらのホラー映画よりもスリリングだったし、何度も死を予感した。そのせいで手の平と、ついでにハンドルが冷や汗でびしょびしょだ。あと、何回か車体の側面を木の枝で擦った気がする。ごめん亜門。

「てか門閉まってる……当たり前か……」

 先週は開いていたからスルーしていたけれども、天高く突き刺さるような洋風の鉄柵で出来た門があり、何人もの侵入を拒んでいる。やせ型の人間か大道芸人か液状の猫なら身をくねらせて入れそうだが、車は無理だし、私も少しきつそうだ。

 だが不思議なのは、屋敷に行くのとは別の方向――恐らくは山の頂上の方向へも、道が続いている点だ。これも先週は気づいていなかった。寝ていたせいだ。

 良いことを思いついた。私は拳をポンと叩くと、もう一度ハンドルを握る。屋敷には一度おさらばし、もう少し道の先へ行ってみよう。手入れもされていない山林の木々は太くて丈夫な枝を重く垂れこめさえ、車の天井部分をまた引っ掛けそうな予感がプンプンするけれども、それは仕方ない。

 真っ暗な坂道を木々から漏れ出た月明かりだけで昇って行く。いわゆる徐行運転という奴で、自動車学校の苦い思い出が何個か蘇った――あの頃の私は、まさか探偵事務所で働くとは思ってもみなかった。

 就職活動が上手く行かず、周りの知り合いが内定をもらうのを口を噤んで眺めていた。内心は焦りでいっぱいだったが、それを言葉にすると、いよいよ焦燥が背中に追いついてくる気がして、大丈夫なんてくだらない言葉を何度も吐いて誤魔化した。結局フリーターとして就職浪人を決め込み、バイト先を転々とした。情けない自分自身を知られたくなくて、連絡先をリセットした。

 そこまで思い詰めているわけではないし、そんなことをした覚えも無いが、私はずっと、生まれ変わりたかったのかもしれない。猫の命が九つあって人生を何度もやり直せるように、心の何処かで人生をやり直したかった。

 もしかしたら、ミシェルはそれを見抜いていたんだろうか。

 だから、他の誰でもなく私を選んでくれた。私が新しい人生を、歩み始められるように。

 バイト先に未練はないし、これまでの人生を捨てたいわけではないが、特別愛着があるわけではない。人を救えるなら、それに越したことはない。ミシェルは中性的に美しい人だし、プリンセスみたいに見えなくもない。囚われのお姫様を救うなんて、最高じゃあないですか、神様。

 私の計画はこうだ。ほんの少し先に進んで、車を停め、私が単身で屋敷に侵入すれば良い。そしてミシェルを発見したのち、二人で一緒に帰る。家に着いたら亜門伊起こられるだろうが、それより先にミシェルの帰還の喜ばしさの方が勝る。車の修理費用は諸々免除になる。

 開けた場所に出た。暗くてよく見えていなかった私に、その空間の全貌は、最初よく掴めていなかった。

 だが、不自然に伐採された木々の遠さと、風に揺れる音の静けさ、そして何より、月の照らし上げたそれの存在が、私の目に留まった。

 それは、大きなコンクリート製の建物だった。三階建てだろうか。縦に長く、屋上に何か大きな立体物があるように見える。角度的に細部は分からない。

 これは、なんだろう? 麓からだと木々に遮られて見えなかったに違いない。恐らくは標高的に、ほとんど山の頂上だろう。小さなビルのような建物は、こんな山にあるには場違いすぎる。

 一体、何の建物だろうか。民家では無いだろうし、よく分からない。私は車を止めると、キーをポケットに突っ込み、扉に手をかけた。どれだけしげしげと観察したところで、車中から月明かりをよすがに見上げるのでは限界がある。

 扉の明けた瞬間、肌がピリッとするほどの冷気で飛び上がりそうになった。山の頂上近くなら、そりゃあ寒いか。山に入ってからは窓を閉めていたので、気づかなかった。虫の声もしない。異界のような寒さと静けさは、あの屋敷を思い出させる。もしや、この謎の建物も、あの屋敷と関係がある?

 そう思い始めると、またしても天啓のように、一つのアイデアが思い浮かんだ。

 だが、それも長くは続かなかった。

 ビリっと頭の中に、雷が弾けた気がした。訳も分からないまま、今度は体が前に倒れ込む。自分の意思から外れた全身と、目の前に迫った冷たい地面。遅れて、途轍もない痛みと熱を後頭部に覚えた。

 ああ、分かった。

 何かに殴られた。薄れゆく意識で、それだけが頭の中に居座り続けていた。


---


 車が無いのを認知した瞬間、亜門は自身の体中の毛が、猫のように逆立つのを感じた。それは怒りとも驚きとも、あるいは単に現状を受け入れるのを心が拒否したからかもしれない。要するに、彼自身にとっても、それが何の感情か分からなかった。敢えて一つに絞るなら、激情が一番近いとは言えるかもしれないが。

 とは言え、亜門は元来冷静な男だった。ミシェルの天才的なそれに適応できる程度には、地頭も良かった。学生時代ならミシェルどころか、学年でトップの成績を誇っていた。当然、そういう自分に対してプライドを持っていた。医学部に進学したのも人を救いたいとかそんな殊勝な心意気ではなく、自らの力を示したかったからに他ならない。

 この程度で慌ててはいけない。そう、大事なのは現状の受け入れ難さではなく、受け入れたのちどうするか、だ。

 一呼吸入れたのち、自らの心音をじっと数える。そして、空っぽのガレージをひとしきり睨みつけ、熟考する。いや、考えるまでもない。あの女、止めたのに結局出て行きやがった!

 とは言え、亜門はミミを責め立てるより、自らの不手際を恥じる気持ちの方を強く感じた。あの女の考えなしに行動するイノシシみたいな突貫力を考えれば、むしろ当然ではないか。キーを隠すと言っておきながら、それを忘れた、あるいは高を括っていた自分が悪い。ああ、ちゃんと有言実行しておけば!

 それにしても、あの女、たった一人であの広大な屋敷へ突撃して、どうする気だろう? まさか現場に着きさえすれば、後のことはどうとでもなると思っているんだろうか? むしろ問題は、現場に着いてからどうするかだろう。忍び込むのだって、俺やミシェルみたいな大きな体躯でなければ難儀するはずだ。普通体型の女の身で、一体何をどうする気だ?

 いや、あの女のことだから、きっと本当に何も考えずに行ったに違いない。

「クソっ……」

 これでは助ける人間が二人に増えただけだ。ふざけるなよ。

 激情が落ち着いたと思いきや、今度はじわじわとした怒りがこみ上げてきた。拳を強く握り、自らに対しても平静を装ってみる。大丈夫だ。バイクで追いかければきっとすぐに追いつく。ミミが家を出て五分後に亜門が彼女を追いかけ始めましたミミは時速六〇キロ亜門は時速何キロを出せば追い付くでしょう……こんなの算数のふざけた問題みたいなものじゃないか。いつごろに出て行ったのか知らないが、きっと、あの話をしてすぐに、こちらの様子を窺ってそっと出て行ったのだろう。とりあえず制限速度なんか無視してかっ飛ばせばいい。

 亜門はガレージの隅っこに狭苦しく鎮座している少し斜めった愛用のバイクに歩みを寄せた。

 その時、ポケットのスマホが震えた。

「こんな時に誰が何の用だ……」

 舌打ちを飛ばしつつ、スマホを手に取る。

 それは、同業者のエイブラハムだった。エイブラハムというあだ名を気に入った彼は、探偵俱楽部のコードネームもそれにしているのだ。

 彼にはミシェルの失踪を伝え、情報収集を頼んでいた。同業者というだけで友人ではないので、本気にしてくれるとは思っていなかった。彼が、一体どうしたというのだろう?

 どくんどくんと強く脈打ち始めた鼓動を余所に、亜門は電話に出た。早速、バーでギムレットでも嗜んでいそうなハードボイルドな声が向こうから聴こえ始める。

『よぉ、首尾はどうだ。見つかったか?』

「……いや」

 自分でも情けない声だと分かる。電話相手にも、それは伝わってしまっている。

『おいおいおいおい、元気ねえなぁ……。相棒は見つかってないのかよ。ていうか本当に失踪なのか……』

「それは散々言っただろう……」

『てっきりアンタが過保護すぎるだけかと思ってなぁ……しかし……そうか、なら、これも関係あるかもしれないな』

 意味深な言葉に、亜門は身構える。これとは、一体なんだ?

 エイブラハムは、あくまでも淡々と続けた。

『俺たちの会長が消えたのは知ってるな? 彼女ほど職務熱心な探偵もそういなかったろうが、如何せん個人主義というか、たった一人で動きたがるのが裏目に出た。この数週間、彼女の行動を知っていた知人は居ない。彼女は以前行方不明のまま――』

「そんなことは知ってる。本題に入ってくれないか」

『おおっと、そちらさんは大分焦ってらっしゃるみたいだな。これは悪いことをした……ああ、怒るなって。そうだな。実を言うと、個人的な興味で俺は会長の足どりを追っていた。あ、彼女が消えた後でな。彼女がこの数週間、一体何を調べていたのか』

「何を調べてたんだ」

 返答の代わりに、乾いた笑いがくっくと聞こえて来た。瞬間、亜門はへたり込みそうな落胆を禁じえなかった。皮肉ぶった声色が、亜門の求める答えを有してくれているとは、とても思えない。

 とは言え、エイブラハムは今更勿体ぶったりしなかった。

『謎多き女だったからな。それに何事も独りで済ませるなら、他人に説明するような情報媒体を有している必要も無いだろ? 強いて言うなら、誰かを揺する材料だったりはあるだろうが……そんなものは彼女の用心深さを考えれば、用意周到に隠すに決まってる』

「お前は何を見つけた?」

『ああ、悪い悪い。前提から話そうとすると、つい話が長くなるな。それでつまりだ、俺が見つけたのは――そう、彼女がこの数週間、とあるヤマを継続的に追いかけていたという事実だ』

「なんのヤマだ」

『連続殺人……とでも言っておこうか。尤も、殺人だと思っていたのは彼女だけだが』

「どういうことだ」

『世間的にはただの自殺だった。この世界におけるありふれた悲劇だな。まったく、死ぬくらいならうちの従業員として働いて欲しいぜ』

「……人にはそれぞれ事情がある」

『おお、意外と殊勝なことを言うな。あるいは相棒が消えて傷心ぎみだからか……まあいい』

 なにも良くはないのだが、突っ込む気力も時間も無かった。亜門はただ押し黙って待った。

『彼女の詳しい行動遍歴は掴めなかった。ただ前回の突然の俱楽部参加といい、お前への依頼譲渡といい、行動が妙だったのは確かだ。彼女が自らの失踪もとい何らかの事件に巻き込まれるのを予期していた可能性を俺は睨んでる。要するに、何かしらの準備だったわけだ』

「準備……」

 まるで誰かさんの行動と似ている。

 これはただの偶然か?

『それに加えて、今度は依頼を譲渡されたお前のとこの相棒が消えたと来た。関係があるとは言い切れないが、何か匂うと思わずにはいられない……そう言えば、お前の相棒、妙な力があるんだよな? 会長も、それをあてにしたのかもしれないぜ』

 だとしたら、迷惑も甚だしい話だ。こちとら出来るだけ平穏に二人過ごしたかっただけなのだから。探偵と言う仕事でさえ、ミシェルの能力を最大限に生かしつつ、時間に縛られないことを考慮して辿り着いたに過ぎない。事件も謎も、二人は欲していなかった。

 自殺に見せかけた殺人、消えた二人の探偵、先週訪れた館と密室。

 もしこれらが、二年前のミシェルの両親の自殺と繋がるならば――。

「連絡ありがとう。恩に着る」

 亜門は短く礼を述べると、いよいよバイクに手をかけた。すぐ横に隠してある鍵を手探りで探り当てる。

『気をつけろよ。事と次第によっちゃあ、失踪者が三人に増える』

「俺まで消えたら、もはや確定事項だろ」

『死体の発見しか任されないぜ』

「そうはならない」

 もはや会話を続ける理由はない。亜門は通話を切ると、エンジンを吹かした。

 死体など、見つからない。

 そんなもの、見つけてたまるか。

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