第8話 証明:永遠と停滞の違いについて

 正直、ここに勤務し始めて一週間では、やりたいこともやるべきことも見つからない。ただ漫然と、ミシェルの部屋で考えていた。

 亜門は忙しくなると言う宣言通り、各種彼の知り合いか何かに連絡しているのを見かけた。探偵ならではの連絡網だろうか。あとは単純に、警察にも連絡するだろうか。ただ失踪して数時間では、重要案件としては取り扱ってくれないだろう。常識的に考えて。おまけに探偵が警察に捜索依頼なんて。

 それに、亜門のことは信じたいが、私はまだミシェルの失踪について半信半疑だった。

 傾いた陽が音もなく消え、夜が来る。

 亜門が居なければ外に出られないミシェル。果たして彼は、今どうしているのだろう。

 生きて、いるだろうか。

 亜門はミシェルの失踪が、二年前の事件と関連していると考えているような、そんな口ぶりだった。確証は無いだろうが、関係ないとも思えないのは事実だ。一人の人間の人生において殺人と誘拐が起きたとして、それが全く異なる事件だとしたら、それこそ恐ろしい。波乱万丈すぎる……いや、ミシェルならあり得るか?

 どんな不思議なことも、あり得ないことも、ミシェルなら、と考えると途端に可能性の範囲内に収まってきてしまう。これでは思考が発散するばかりで、全く真実に収束しない。消去法すら封じられている試験問題なんてクソゲーが過ぎる。

 楽観的かつ、希望的観測であることを隠しもしないならば、あのミシェルを殺そうとする理由が見つからない、とだけは言えるだろうか。だって、あの美しい人をどうして殺そうとするだろう。どこか神秘的で、憂いのある、朴訥として、超然とした人――。恨みを買うタイプにも見えないし、そもそも亜門無しで外出できないなら、恨みを買いようがないはずだ。

 それとも二年前の両親の自殺を考慮するなら、彼の血筋に、何かあるんだろうか?

 遠目でも普通ではない人だ。普通の環境で育まれる人物には思えない。家族が居るなら見てみたいと思っていたが、まさか亡くなっていたとは。それも普通ではない死に方で。

 ――考えても、らちが明かない。うだうだするばかりだ。


 私は一階へ降りて、亜門を探した。陽は、もう完全に沈んでいる。

 月は、まだ見えない。


 考えようと思えば幾らでも思考が広がる今、亜門は実務的なことに従事していた。

 だが今は、どうやら一息つく段階に入ったようだ。いつものデスクに肘をついて俯く彼は、瞳を閉じているのが、横から見えた。その瞼の裏に何があるのか、あるいはただ一人がいるのだろう。どんな表情でいるのかは分からないが。

 とは言え、薄暗い部屋にパソコン画面の明かりだけなのは、些かどうかと思う。私は壁のスイッチをぱちりと押してみた。部屋がパッと明るくなり、一瞬強烈に目が眩む。残像に苛まれる視界で、亜門もまた眩しそうに目を細めて、私を見ていた。睨んでいるようにも見える。

「お前……」

「元気ですか?」

「なわけあるかよ死ね……」

 とりあえず私への攻撃性はあるらしい。元気と捉えても良いだろう。また胸ぐらを掴まれて怒声を浴びるのは嫌だが。

「とりあえずご飯にでもしません?」

「ご飯? そんな食欲は……」

 亜門は途端に私から目を逸らし、明後日の方を見た。そうだろうとは思っていたので、私は用意していた言葉を暗唱する。

「食べないとよく考えられないですよ。それに、ミシェルさんも望まないと思います」

 ミシェルの名を聞いた亜門が、また傷をえぐられたみたいに、一瞬顔を歪めるのが分かった。可哀想だが、それでも亜門は、それで先に進む気を見せる。

「分かった……」

「私が適当に作っておくので、亜門さんは休んでいてください」

「……そうか」

 少し意外そうな面持ちで、亜門が見つめてくる。どうやら彼は、私の一人暮らし力を舐めていたらしい。あるいは、普段接している人間が、ミシェルだからだろうか。彼はあれで、全く生活能力が無いのだ。一人ではご飯を作らないどころか、食べもしないらしい。

 私でさえ、たった一週間で存在を刻み込まれた。ならば亜門は。

 彼に背を向け、私は台所へ向かう。食材はあるだろう。無ければ買いに行こう。

 短い道すがら、思考がまた滑り出していた。

 その昔、恋愛小説か何かで、半身を表すギリシャ語を読んだ。アンドロギュノス……とかだっただろうか。古代の人間の傲慢さに耐えかねたギリシャ神話の神ゼウスが、古代人を半分に分けてしまって、それ以来人間は自らの半身を探して生涯を費やすのだと言う。男は女を求め、女は男を求める。そうして元の完全体を目指す。

 だがよく考えたら――考えなくとも――ミシェルも亜門も男だし、アンドロギュノスとは言えないか。

 それに彼らは、恋愛のそれともまた違う感じがする。もっと、切実に、互いを求めあっている。

 もしかしたらそこには、分かりやすい名称がつくのかもしれない。パッと思い浮かんだそれは、あまり良い印象の無い言葉だった。私はそれを表に出さないよう、そっと蓋を閉じる。忘れたほうがいい。


---


 休もうとして休めるなら、それは幸福だ。それが出来ずに終わりの無い思考に延々と磨り潰される、壊れかけの歯車が壊れないままずっとギシギシ回るみたいな、そんな状態になれば、悲惨だ。

 亜門は昔、ミシェルに対してそれを感じたことがある。それは――ある冬の日のことだった。冬の、朝……朝の陽射しが重く垂れ込めた雲を通して、薄い光彩をカーテン越しに届けていた。

 ミシェルは夜型なので、朝早くに起きているのは意外だった。だがそのぼんやりと絶望した面影が、朝を拒絶するように虚ろに凪いでいるのを見て、亜門は気が付いた。あれは起きているのではなく、寝ていないだけなのだ。ミシェルは何もない廊下のただなか、光の届かない場所から、窓の外の光の届くのを見ている、そう言う風に亜門には見えた。

「おはよう」

 亜門は気づかないふりをして、その横顔に声をかけた。声が変ではなかったか、それが気がかりだった。

 ミシェルは驚きもせず、あるいはただ驚くことさえ面倒みたいに、悠然と亜門へ顔を向けた。

「……おはよう……」

 それから、彼は腕を少し上げて、手首を見た。彼の左手首には、シンプルな腕時計が装着されている。一昨年の誕生日に、亜門がプレゼントしたものだ。

「ああ……」

 亜門が目を覚ました時、部屋の時計は五時を指していた。今はそれから五分か十分は立っただろうか。ミシェルの独り言みたいな弛緩した声には、何の感情も含まれていないように聞こえた。

「ご飯にしようか?」

「ご飯……」

 ご飯と言う単語すら、その時のミシェルには分かっていない気がした。言葉を覚えたての幼児みたく、ご飯とその概念が結びついていないみたいだった。

「……大丈夫か?」

 思わず、亜門はそう尋ねてしまっていた。

 それが、大きな間違いだった。

「……だい、じょうぶ……?」

 ご飯の時と同じように、ミシェルは亜門の言葉を繰り返す。しかしすぐに、その表情が命をもって、ぴくりと動いた。まるで氷が割れるように、何かがぴしゃりと彼の中で変わった。

 ミシェルは、唐突に胸を抑えた。右手で胸を抑えて、左手で体を支えるように壁を衝く。

「あ、……あ」

「ちょ――お前、大丈夫か⁈」

「あ、だ……あ、」

 亜門が急いでミシェルに駆け寄った時、ミシェルの呼吸は酷く荒れていた。彼は過呼吸を起こしていた。息の吸い方も吐き方も、ミシェルには分かっていなかった。浅すぎる呼吸が千々に乱れて、形を為さずに困苦と果てる。

「はっ、は……うぁっ――」

 長細い体が重力に逆らえず、崩れていく。自身にのしかかる重みが、ただの体重なのか他の何かも存在するのか、亜門には区別がつかない。

 苦し気に喘ぐミシェルは、その後一時間はそうしていた。殺風景な廊下で、時の流れはミシェルの腕時計だけがよすがだった。

 ミシェルが正常に戻った時には、六時を軽く過ぎてしまっていた。尤も、正常と言って良いのかは分からない。呼吸を出来ることを、正常とするならの話でしかない。

「……ごめん」

 掠れた声が、意味のある言葉を紡ぐ。亜門はすぐさま、それを理解する。

「謝る必要なんてない」

「……ごめん」

 さながら、調子の外れたバイオリンの悲愴だ。ミシェルは、それだけでは終わらなかった。

「ごめん、ごめん……」

 謝らないで欲しかった。ただ、その願望が更に苦しめるのは分かっていた。亜門は言葉の全てを、喉の奥に押し込めて、二度と声にはしないことに決めた。

 ただ、ほかに出来ることも、亜門には分からなかった。

 分からないまま、震える体と一緒に、床の冷たさに体温を奪われ続けた。

 いつしか、更に時は流れた。

 亜門の腕や心臓の前で、呼吸と拍動がゆったりと規則的に刻み始めていた。ミシェルは眠っていた。少しだけ、ようやっと幸福そうな横顔を見ていた。目の下の乾いた落涙の跡が、星の残骸みたいに思えた。冷たい壁と床に体を預けて、少し温かなもう一つの体を抱いて、亜門は目を瞑った。瞼の裏でいくつもの光景が流れては、また流れていく。気づけば意識が融け落ちていた。


 そして目が覚めた時、世界は暗かった。


 いや、遠くに月明かりが差していた。

「……綺麗だ」

 思わず呟く。思ったのは、月明かりには永遠の一端が含まれていると言うことだった。太陽からは、それは感じ得ない。永遠は月にしかないのかもしれない。

「……んんっ……」

 ミシェルが身じろぎして、寝ぼけた声を出す。月明かりは遠く、二人の居る場所は暗い。それでも亜門には、ミシェルが目を覚ましたのだと分かった。その目が、月明かりを映しているのだとも。

「月……」

 ああ、とミシェルが呟いた。

「綺麗だな……」

 それが単なる独り言だから、亜門はおかしくなってしまった。笑った亜門を、ミシェルが暗がりで体を動かした。恐らくはこちらを見上げているのだろうと、亜門は考えた。

「君……まだ居たんだ……」

「まだって」

「だって……もう暗いから……」

「そうだな」

 すっかり一日を台無しにしたことが、亜門は少しも後悔できずにいた。むしろどこか、せいせいした心地さえ。

「ああ……」

 また月明かりを眺め始めたミシェルが、ぼんやりした声を出す。

「永遠と……停滞って…………似てるよね……」

 寝起きで言うことじゃないだろう、なんて言うのはやめにして、亜門はまた笑った。

「そうかもしれないな」

「時間は永遠の動く影だって……そう言ったのは誰だっけ……」

「知らないな……初めて聞いたよ俺は」

「そっか……」

 まだ眠そうな声は、今の月明かりのように朧気だ。

「僕は……どちらだとしても――」


 その先を聞けなかったのは、トントンと肩を叩かれて、まどろみから叩きこ起こされたからだった。

 その瞬間、今まで見ていた情景が追憶の名を騙った夢なのだと気が付いた。

 幸福とは、過ぎ去ればただ物悲しくなり果てるものでもある。過去の栄光など、言葉にするだけで聞き苦しい。

 だがそれでも、亜門は聞いたことがあった。昔日の情景も幸福も、過ぎ去っただけだ。なくなったわけじゃない。確かに思い出としてここにあるのなら、嘘じゃない。

 彼は過去、こう言ったのだ。

「君となら、悪くないね」

 それを忘れられず、夢にまで見ている自分を、笑うことは出来ない。

「――亜門さん?」

 名前を呼ばれて、夢の指先から振り払われる。もはや残夢すら消えた。先ほどまで見ていた光景すら、急速に朧気になった。

「……なんだ」

「なんだじゃないですよ。ご飯、出来ました」

 スンとした面持ちで、ミミが見下ろしてきている。腰に手を当て、かなり偉そうな態度だ。食事を用意した程度で調子に乗っている。

 とは言え、今の状況では対応する軽口を言う気にもなれない。詳細は残らないくせに、妙に感傷的な気分に囚われ続けていては。


---


 私が夕食を作っていたのは一時間も無かった。その短い間に机に突っ伏して意識を落としていた亜門は、さぞかし疲労の頂点に達しているに違いない。起こすのは忍びなかったが、起こさないで後悔するのは彼の方だ。

 特に名称もつかないあまりもの料理を、二人用のカフェテーブルに並べる。亜門は相変わらず虚ろな目でそれを見ているが、単に寝起きだからだと思いたい。私は一先ず、確認しておきたいことが山積みだった。

 彼と向かい合って座るのは、多分初めてだ。にわかに走った緊張を見ない振りして、私は椅子を引く。座ると、亜門のたるんだ肌や毛穴さえ、いつもより高い解像度で見える気がした。ミシェルなら見えても美しかったろうが……なんて、さすがに失礼が過ぎる考えが邪にも過った。

「いただきます」

「……いただきます」

 箸すら重たそうにしている亜門は別にして、私はお腹の虫さんを鎮めようと、とりあえず肉野菜炒めから手を付けた。茶色いたれと白ご飯がよく合う。

「お前……意外と家庭的だな……」

「意外じゃないです。一人暮らし歴長いですからね。ご飯くらい」

「人によっては、たとえ長かろうがスキルは上達しないぞ」

「亜門さんは上手いじゃないですか」

「俺はそうだが……」

 別に何でもなさそうにしている亜門のそれに、全く別の人間が隠れているのは、分かっていた。ミシェルは料理が出来ないらしい。

「しかし、これまでいろいろな人間と関わってきたが、依頼とかで……ダメな奴は点でダメだ。多分、適性とか意外と必要なんだろうな。あとは価値観も強く出る」

「ふーん……」

「雑な相槌だな……」

「仕方ないじゃないですか。私たち二人では、会話も盛り上がりませんよ」

「……そうかもな」

 せいぜい盛り上がる時と言えば、互いに罵倒し合う時くらいなものか。それは会話ではなく、喧嘩と呼ぶのだが。

 亜門は金で出来たみたいに重そうに箸を使う。ぶっきらぼうで、持ち方が少し変だ。フォークの方が良かったのかもしれない。今日に至るまで亜門もミシェルも片手間に食べられるものか、スプーンやフォークで食べる洋食ばかりだった。

 亜門は子供みたいにガサツな仕草で、白米を口に運ぶ。一口が大きいが、飲み込むのには時間がかかった。

「亜門さん、食事がてら、話を進めてもいいですか?」

「構わん」

 亜門は口に物を入れたまま、モゴモゴ答えた。

「俺もそのつもりだった」

「そうでしたか……」

 愚直なまでの前向きな行動だ。ミシェルを取り戻すのに、必死で。

 何が、彼をそこまで駆り立てるのか。私だってミシェルのことは好きだが、彼の有様を見ていると、むしろ冷静にさせられるというか──人の振り見て我が振り直せみたいな──ミシェルの何が、亜門を?

「亜門さんは、ミシェルさんのことが本当に好きですね」

 そう言った瞬間のことだ。

 亜門が、口に含んでいたものを全部吐き出した。

「ぶふぉっ!」

「うわ汚なっ! 何やってんですか!」

「いや、……あ、お前が変なこと言うからだろ!」

「逆ギレですか?! 思ったことを言っただけなのに!」

 亜門が仕事用デスクにティッシュを取りに行くのを少し眺めてから、私は自分のご飯が無事か慎重に目を走らせた。多分大丈夫だ。多分。

 とは言え机上の惨状は変わりない。いそいそと自らの痴態を証拠隠滅する亜門は、私が見てきた中で最も頼りなく、ちょっぴりチャーミングだ。

「亜門さんって、苦労人属性ありますよね」

「黙れ……」

「まあお似合いですし、いいんじゃないですか?」

「黙れ……!」

 ついでに言うとツンデレ属性もある。お可愛らしいことじゃないか。大の大人が素直に愛情表現もままならないなんて。

「それで、話ってなんだよ」

 ようやく片付け終えた机は、食べ終えた私の食器も重なっており、酷く簡素になっていた。時間にして既に九時を回っているので、夜食の段階に入りつつある。

「だから言ったじゃないですか。亜門さんはミシェルさんのことが大好きですよね。どうしてか、少し気になって」

「は、お前、どこ気にして……」

「大事なことですよ」

「何が……」

「少し気になっていることがあって」

 亜門がハッとして、箸を一瞬留める。私の口ぶりに思うところがあったのか。

 彼はゆっくりと、白米を味気無さそうに食みながら答える。

「別に、理由なんて、特にないけど……見つからない」

「見つからない?」

 恥ずかしがっているようには聞こえない。それに、なんだか妙な言い回しだと思った。まるで亜門自身でさえ、探したことがあるみたいに。

「本当に理由なんて無いんだ。もしかしたら過ごした時間が長かったからとは言えるかもしれないが……だが、別に腐れ縁とも思ってないからなぁ……」

「そんなに長く、ミシェルさんと一緒に居るんですか?」

「幼馴染なんだ。高校からの」

「高校か……」

 思ったよりは短い。幼稚園児レベルを想像していた。

「初めて会ったときから、あいつはどこか、他の奴らとは違ってた。だからか……妙に心惹かれていた、のかもしれない。あの頃の俺、周りの奴らがガキに見えてて、だけどあいつだけは違った」

「典型的な大人ぶったクソガキだったんですねぇ……」

 それがありありと想像できるから、亜門は昔から変わっていないのかもしれない。うるさい、と即座に突っ込んでくるところまで。

「……まあそんなところだ。生憎と、これといったエピソードは語れねえよ。本当に無いからな」

「なるほど……」

 そうして聞いていると、まるで本当に魂が共鳴し合った関係みたいだ。お互いに気が合って、何もなくとも惹かれ合ったみたいな。

「色々と手を回していたように見えましたが、何か進展はありましたか?」

 電話をしていた様子が気になって、尋ねてみる。生憎と、亜門の顔色が悪くなったので、結果の良し悪しは判別できるが。

「……いや、正直、芳しくない」

「と言うと?」

「あいつを見かけたという目撃談はもちろん、カメラの類にも痕跡が見つからなかった。完全に見失った。どこへ消えたのか、これじゃ方角も掴めない」

 要するに絶望的と言うことか。ミシェルは本当に、影も形も無く露と消えてしまった。

「カメラに映ってないのであれば、逆にカメラの無いルートを通ったと言うことで、絞れませんかね?」

「俺もそれは考えたが、現実的な方法じゃない。道なんて、無ければなくても人は通る。もしあいつが誘拐なりされたなら、むしろ犯人はそういう場所を選ぶだろう」

 確かに、この辺りは藪や空き地も多い。人通りの少ない時間に連れ込んでしまえば、その後はどうにでもなるかもしれない。

 それにしても、監視カメラの確認なんて警察でもなかなか地道な作業かと思うが、亜門はミシェルが居なくなってすぐに着手していたようだ。彼の実務的な部分は、なかなか尊敬に値する。

 尤も、そんなことは亜門に何の慰めももたらさないに違いない。現に、彼はショボショボ食事を進めながら、愚痴をこぼし始めた。

「こんな時こそ、あいつの出番なんだけどな。こういうどうすれば良いか分からない状況でこそ、あいつの先を見通す目は光る。俺にとっては灯台か、あるいは太平洋で見上げる北極星みたいなものだった。あいつが居れば……」

 ことりと音がした。箸の先が、皿に着地した音だった。

 皮肉な話だ。ミシェルを見つけるのに必要なのが、ミシェ本人だなんて。猫が自分の尻尾を追いかけるみたい。

「いや、今は俺しか居ない……俺が……」

 ゴドン、という音が今度はする。椅子が後ろに動いた音が。私の椅子が。

「私も居るんですけど」

「……ああ、そうだったな」

 思い出したように私を見上げる目は頼りなかった。

 だが一番頼りないのは、私かもしれなかった。


 自分自身の価値を、証明する。

 それが今の私のすべきことだ。ミシェルが何を私に見たのか分からないけれど。何かあるはずだ。何かが、私にある。


 そして、私には一つ、気になっていることがある。


 食事の後、後片付けを二人でしている時、亜門はふと、思い出したように言った。彼にとっては、あまり重大事ではないようだったが。

「そう言えば、あの女も今、行方不明らしい。関係ないと思うが」

「あの女?」

「俺にあの屋敷での仕事を振って来た女探偵だ」

「ああ、会長とか呼ばれていた人ですね」

 今となっては、あの屋敷での密室事件もなつかしささえ感じられる。

 だがその仕事を振って来た人間が、図らずも行方不明なんて、少し奇妙な話に聞こえる。

「関係ないんですか? 一応同じ探偵でしょう?」

「同じって……俺とあの女じゃ、むしろ同じなのは探偵と言う肩書、単語だけだ」

「そんなに違うものなんですか? 探偵でしょ?」

「あの女は言うなれば……フィクションの探偵だ」

 亜門は大真面目にそう言うと、食洗器に皿を一枚一枚綺麗に配置していく。

「なんでも、刑事事件のアドバイザーを務めることもあるらしい。仕事を振られて、証拠集めとか、あるいは犯人に自ら接近し、揺さぶりをかけたりとか……風の噂ではあるが、前回会った感じ、確かに腹持ちならない感じはしたな。俺に振って来た仕事内容からしても、不可解な事件事故の真相究明を得手としているのかもしれない……とにかく、俺たちとはやっていることが全然違う」

「亜門さんたちもなかなか面白いことしてましたけどね」

 言いながら、やはり私は引っ掛かりを拭えなかった。

「尚更関係ないとは言い切れない気がしますけどね……だって、もしかしたら私たちに仕事を振ったのだって、その行方不明と関係あるかもしれませんよ。その上、もしかしたらミシェルさんも……」

「あの女との縁なんて、たった一回きりなんだぞ?」

「その一回が、何かをもたらしたのかもしれません」

「バタフライエフェクトみたいな話だな……しかし……」

 亜門はそれきり何も語らず、、物思いに耽りながら浴室へ歩いて行った。私の方が先にお風呂入りたかった。


 代わりに、私はもう一度ミシェルの部屋にやってきていた。聖域だろうが何だろうが、どうせ今ミシェルはいないのだ。ならば私が使わせてもらおう。自室が無いのが、最近少しつらく感じていたところだった。ここは暗く、静かで、じっと深く考え込むにはちょうど良い。

 失踪したミシェル、それに女探偵、先週訪れた館と密室、そう言えば、あの女の子の幽霊は……まさか呪いとかなわけは無いだろうし……いや、多分……。

 呪いがバカバカしいのは変わりないが、私は本当に、あの家と今回の二つの失踪の関連性を疑っている。あの密室騒動は解決したが――いや、解決したか? していたか?

 女の子はさておき、おじいさんの死は結局ただの老衰のままだし、何より犬は何だったのだろう? 犬は密室の奥、出現した地下室からやってきたのかもしれない。地下室――そう、地下室。

 あの謎を解いたのは、何を隠そうミシェルだった。そのことで、彼が何かしらの陰謀に巻き込まれたとしたら?

「……いや、それも違うか」

 亜門は、ミシェルの失踪が二年前の彼の両親の自殺と関係していると踏んでいた。彼の両親の自殺を本当は自殺ではないと踏んだうえで、犯人がミシェルをも狙っているのだと。

 さすがにあの屋敷と二年前のそれは、繋がらないか? 亜門の言う通りに、ミシェルの失踪は二年前の事件の延長線上にあるとすると、あの屋敷のそれはもちろん、女探偵の失踪も関連があるとは言えない。時期が重なっただけで無関係だ。

「……考えても埒が明かないな。証拠もないし」

 静かな部屋で独り言ち、寝転んだベッドで仰向けになる。見上げた天井は暗くて、よく見えない。それにしても、マットレスが固めな気がする。私はフカフカ低反発派だから、これはちょっと背中によろしくない。ミシェルは時々、不眠が悩みだお口にしていた。単純にマットレスが固いせいではないだろうか。寝具は大事だ。

「帰ってきたら、ちゃんと言わないと」

 そう、寝具は拘ったほうが良いと、きちんとアドバイスして、一緒に不眠を直そう。三食食べて、動いて寝る。これこそが人間の幸福の基礎だ。ミシェルは時々、思い出したように憂い顔を覗かせた。荒涼とした月のクレーターを、独り孤独に歩いているような寂しい顔を。

「……動いてみるしか、ないかな」

 元より、二人のような頭脳派ではない。もし私にあるとするなら、きっと行動力のはずだ。

 ベッドからガバリと起きる。カーテンの隙間から、一筋の月光が差し込んでいる。一階から人の動く気配がする。亜門が風呂から上がったのだろう。ミシェル関連を除けばデリカシーの無い彼は、きっとバスタオルを一枚首に掛けただけの半裸だ。この間ばったり出くわしてしまったから間違いない。

 あと五分したら動き出そう。人が二人いるなら、役割分担が大事だ。

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