第7話 汝、あの月から目を離すべからず

 ミシェルを初めて見た時のことを、亜門ははっきりと覚えている。尤も、それをわざわざ語ることはしない。ただ覚えているという実感と熱を、自らの胸の内で後生大事に抱えているのみだ。

 とは言え、本当に初めの頃は、まさかこの人物とその後の人生で長いこと関わり続けるとは思ってもみなかった。ミシェルと言う人間は、見た目からして視界に入ると自然と目で追ってしまう不可思議な魅力を湛えた人で、それでいて押し付けがましいようなそれではなかった。共に居ると甘くうっとりする空気が漂いながら胃もたれはしない。彼自身が何かを周囲に与えている風ではないのに、何故だかこちらはいつしか何かを享受している。それも自分が心の何処かで望んでいたような、足りていなかったものをそれとなく提示してくれる。無いと苦しい空気みたいに、彼が居ないと物足りない――寂しい。

 一緒に居て落ち着くのはもちろんだが、それでいて楽しいのも事実だ。彼は天然ボケなところがあって、一緒に居るとつい、亜門の方がツッコミ役をさせられた。もちろんミシェルにも亜門にもその気は無く、自然とそうなってしまう。その後の亜門は偶然だが、SNSにおいてとある投稿を見た。その投稿によると、一緒に居る時に自然と漫才みたいになるのが二人の関係性においては最高だと言う。今まで何となく享受していた関係と時間に、客観的な正当性を強く与えられたみたいだった。ただ、もしこの先の将来でミシェルが居なくなったら自分は耐えられないかもしれない、とはその瞬間に何となく想像した。想像してしまった。

 亜門は、そう言う風にミシェルを観ている人間が、きっと自分だけだろうと思っていた。実際、知り合った時から今に至るまで、ミシェルは自分にべったりだ。その有り余るカリスマ性はふらりとそこらの人間を魅了するが、何しろミシェル自身にその気が無さ過ぎた。ミシェルは異性との浮いた話はゼロと断言して良いほど聞かなかったし、そもそも人間自体に興味が無さそうに見えた。いつもふわふわしていて、亜門の後をついて、亜門のすることほとんど全てを肯定してしまう。亜門はミシェルと一緒に居ると、まるで自分自身が何かの王様にでもなったみたいな気持ちにさせられることが多々あった。ミシェルは世辞を言うタイプではないし――多分――彼に褒めてもらえると、誰にそうされるよりずっと胸がいっぱいになるのだ。馬鹿げた言い方を許容するならば、全ての苦労が報われる。

 彼に関すること全てで、神に感謝したことさえある。信じてもいない神様に! だがそれでもいい。それで良かった。ミシェルは、その存在が無いことを想像できないくらいには、亜門に掛け替えが無い。

 いつしか、亜門は考えるようになっていた。もしミシェルに何らかの危機が訪れた時は、たとえ世界中が敵に回ろうと自分が守るのだと。陳腐な煽り文句だが、誰に言うでもなく胸の内で誓うなら、洒落ている必要は無かった。


 必要は無かった。

 今日、現実となるまでは。


 ほとんど全ての行為を肯定的に捉えてしまうのは、何もミシェルから亜門に限った話ではなかった。亜門とて、ミシェルには甘々だ。だから昔からあるミシェルの「ふらっと行く先も言わずにどこかへ出て行く」という悪癖も、小言は言うが本格的に咎めることは出来ずにいた。それが、こうして最悪な結果を引き当てている。

 出て行った飼い猫を探すのは、思いのほか難航する。仮にも探偵事務所の所長である亜門は、そのことを痛いほど知っている。

 さながら新月の夜だ。いつ見ても美しくて飽きさえ出来ない月なのに、どこをどう見渡したとていない。有象無象の星々が今宵こそ自分がと存在を主張するばかりで。

 だが本当の空ならば、数日で帰ってくると言う保証がある。月は満ち、欠け、消え、そしてまた満ちる。古代エジプトにおいては太陽は死と復活の象徴だったが、月だって似たようなものだ。

 しかし、ミシェルは人間だ。それも、亜門にとっては他に替えの利かない人間だ。

 得てして、凡人は一般論を語るがごとく「この人しかいないなんてことは無い。そう思い込んでいるに過ぎない」なんてことを平気で言う。だが亜門は知っている。そんなのは嘘だ。ミシェルはミシェルだし、あいつ以外にあんな人間が居てたまるか。

 亜門と言う人間を心の底から幸福にしてくれるのは、この世でただ一人しかいない。

 そして出来るならば、ミシェルを幸福にするのもただ自分であって欲しい……これは、本当に、ちょっとしたおまけの願望みたいなものだが。

 だが何はともあれ、何をどう考えても、事実として、今ここにミシェルは居ない。いないようにに見えて実のところ照らされていないだけの新月と違って、ミシェルは本当に、影も形も無く亜門の前から消失してしまった。


 あの依頼からちょうど一週間目のことだった。半月ほどだった月は満月に向かってどんどんとその腹を肥えさせていた。ミシェルは自分の体をないがしろにすることがあって、食事を疎かにすることがあった。そのせいでちょっと痩せ過ぎな時期さえあるから、彼はあの月を見習うべきだった……今は居ないのに、小言ばかりが頭に浮かぶ。口を出ていかないから、そのうちきっと溢れもせずに爆発するかもしれない。

 そうであってくれたらどれだけよいか。ミシェルの傍にない頭など、存在価値もない。邪魔なばかりだ。嫌なことばかりで。

 ミシェルが居なくなったことに、亜門が気づいたのは午前の十時くらいだった。昼間に出かけるなんて珍しいと、その時はそれだけを思ったくらいだった。尤も、夜に出歩くのは危険だから大概にしろと普段から口を酸っぱくしているのも亜門自身だったから、むしろようやっと言うことを聞いてくれたかと、胸を撫で下ろした気持ちの方が、その時は強かった。その時は。

 おかしいと思ったのは、昼になった頃だった。

 ミシェルの行動範囲なんて、猫のそれと同じくらいたかが知れていた。更に言うなら、亜門にはミシェルの行動を逐一把握出来る方法があった。もちろんそれは、ミシェルの安全のためであって、何もやましい感情からじゃない……そのはずだ。

 だが行動範囲の狭いミシェルだから、当然どこかへ出かけたところで、どうせ散歩程度のものだし、何より三〇分もあれば家から出て戻って来るのに事足りる。本当に、彼の行動範囲は亜門の傍を離れないのだ。ミシェルは何をするにも亜門の後ろをついて回る人間だったが、それは彼自身の好奇心とか興味とかが薄く、むしろ亜門が何を望むのかを彼が最も期待しているからだった。ミシェルが望むのは亜門の幸福であり。ミシェルの幸福はただ亜門が幸福であることだった。ミシェル自身は恥ずかしがりだし言葉にはしなかったが、行動としてずっとそれなので、亜門から見てバレバレだったのだ。

 何はともあれ、ミシェルが昼になっても帰っていないのは奇妙なことだった。

 この時点で動けていれば、まだ見つけられる可能性は高かったのかもしれない。それと希望も。

 亜門は真面目且つスマートな人間だ。冷静さが取り柄でもある。ミシェルは普段から亜門の性格と長所をそう評していた。

 そんな亜門だから、とりあえず「そんな日もあるか」と流して、昼食の準備をしていた。昼食は、ミシェルの好みを考えて、ちょっとしたハンバーガーを亜門自らパティを焼いて作っていた。なかなか焦げ目がいい具合に出来たのを、しげしげと眺める時間さえあった。ミシェルは見た目には頓着しないが、亜門が上手くできたと言うと、途端に誉めそやし始めるところがあった。今日の昼食も、そうしてやろうと考えていたところだった。

 だがミシェルは居なくなった。何度でも突き付けられる事実だ。

 昼食が出来たのにミシェルが居ない。いよいよその意味を亜門が真剣に考慮し始めた頃、同じようにあの探偵助手もいなかった。ミミとか名乗った女はどうやらミシェルとは対照的に行動力と個我の塊らしく、目を離すと外出している。その上、浪費癖もあるようだ。計画性の欠片も無い人間のことが、亜門は昔から苦手だった。

 「どうしてこんな奴を?」という疑問は、ミシェルに尋ねた後も拭い切れていない。ただ彼は、彼の中での論理を教えてくれた。

「だって、僕らお互いの欠点を見つけられないんだよ」

「それの何が悪いんだ?」

 亜門は本気でそう思っていた。悪いところなんか見つからないのは、互いにカバーしあえている証拠じゃないんだろうか?

「悪くない。心配なだけ。いつか僕らの力じゃどうにでも出来ないことが現れた時、僕らには解決方法が思い浮かばないかもしれない。狭まった視野は危険だから」

「俺たちの視野が狭いなんて言えるか?」

 方向性は違うが、二人ともそれなりに賢く、思慮深いという点では共通している。どちらかにブレインが偏っているわけではないのだから、視野が狭いとは思えなかった。

「うーん、駒に例えるとしたなら、君がナイトで彼女はルークみたいな。それぞれ進める方向も数も違うでしょ?」

 曖昧でふわっとした話だとは、正直思った。亜門は実際的な人間だから、ミシェルのそういう、未来をぼんやりと見通した、地に足のついていないビジョンにはついて行けないのである。ただついて行けないからと言って、ただの嘘っぱちだと思ったことは無い。ミシェルは半ば予言者めいている。彼がそう言うのであれば、少なくとも可能性の一つとして充分存在しているのだ。もしかすれば、あの女が役立つことも、あるのかもしれない。それこそ複数存在する未来分岐の一つで、蝶の羽ばたきのように。

 だが今回はミミは何らの役にも立たなかったし、蝶の羽ばたきはただ羽ばたきでしかなかった。ミシェルの喪失でさえ防いでくれないなら、一体何の意味がある?

 ミシェルの言うことを疑いたくはなかったが、彼とて人間だ。亜門は彼の弱いところだって十全に知っていたから、彼が如何に人間離れした何かを備えていようと、結局人の器のそれだと分かっている。ミシェルだって、観測を間違うことがあるのかもしれない。そしてそれが、計り知れない結果を引き寄せることも、あるのかもしれない……。

 ミシェルの失踪を確信した亜門は、以上のようなことを頭に思い浮かべ、そして絶望していた。普通だったら「たかが数時間遊びに行っただけかもしれない」と思う場面だろうが、何を隠そう、亜門にはミシェルが事件に巻き込まれた可能性に思い当たる節があった。それも、過去の経験からして、それが人命にかかわる凶悪なものだと。

 不安と焦燥から、亜門の手の平には汗が滲んでいた。それとは逆に、口の中はカラカラと乾いている。高所に命綱も無く立たされた時のような、全身のゾクゾク感がやまない。

 自分の良いところは冷静である点だと、亜門は思い出そうとした。頭の中で何度も念じる。いつもの自分に戻らねばならない――だがそう思うたびに、全く正反対の言葉がひょっこりと顔を出して邪魔をする――ミシェルも居ないのに、どうやっていつもの自分で居られる……無理に決まってるだろ?

 不安も焦燥も、そして恐怖も……それが変化したのは、ようやっと夕方ごろになって、ミミが姿を現した時だった。

 その瞬間、亜門の感情は全て、怒りに変貌していた。


---


 最初に違和感を覚えたのは、窓際に立ち尽くしている亜門を見つけた時だった。事務所西側にある唯一の窓は、夕方になると刺すような夕焼けで、建築ミスを疑うほど強烈に部屋を真っ赤に染める。その窓べに立っているのだから、亜門は足元を除いて全身が赤く染まっていた。きっと目も開けていられないほど眩しいと思うのだが、彼は頑なに外を見たままだ。何かの守護神を模った石造のように突っ立っている。

「亜門さん?」

 声を掛けた、その時だった。

「てめえ……」

 それは、鬼の形相と言って、差し支えない。色合いも相まって、まるで血にまみれた怪物だ。

 思わず強張った顔と体が、困惑で動いてくれない。この一週間で、それなりに打ち解けたつもりだった。何か悪いことをしてしまったか? 冷蔵庫を勝手に開けたのが良くなかったとか? そんなんでこんなにも怒るか?

 そこまで考えたところで、私は不自然なほどに静かな部屋に気が付く。なんと言うか……人の気配が、一つ足りない。

 そして、謎と結論が一点で交わる。

「あの、ミシェルさんは――」

 その先は言えなかった。

 気づけば亜門が、目の前まで迫っていたからだ。自分を優に超える身長の大男によって、私は生まれて初めて胸ぐらを掴まれていた。

「てめえ、一体何を知ってる……!」

「え、いや、は、」

「お前が来て一週間であいつが消えた! 偶然なわけないだろ! 何か知ってるんだろ! 言えよ‼」

 何が怖いって、亜門は完全に冷静さを失っている。服の襟が限界まで伸びても、私のかかとは宙に浮き、なんとかつま先だけで全身を支えようとしていた。それだって、時々拠所を失う。目前に迫った二つの双眸は血走り、私を心底憎悪するように凝視した。鷹にさらわれた兎の子だ、今の私は。

「わた、しはっ、なにも……っ!」

 僅かな酸素が言葉にならない。とても苦しい。足は相変わらず地面を探してバタバタしている。

「知ってるんだろ!」

 亜門はそれだけを繰り返していた。

 それで、はたと、分からされる。彼は私が知っていると思っているのではない。私以外に縋るものがないのだ。

 実を言うと、私は迷っていた。最後の理性が、それはどうかと渋っていた。だが自分以上に狂気に駆られたものによって害を加えられている時、理性も配慮もなんの意味も為さない。

 結論から述べると、私は力の限りがむしゃらに、亜門を蹴り上げた。浮いた足は意外と可動性が良いもので、脛の硬いところが何度もヒットした感覚があった。どさりと床に落下した私は、猫が如く足から着地できたから良いものの、亜門の方は尻もちをついて、ついでに壁にもドスンとぶつかったようだった。痛いという言葉すら聞こえず、彼はひたすら蹲って悶絶している。

「いっ…………‼」

「……そちらが悪いんですからね……」

 誰に対してでもないが、罪悪感からそう吐露せざるを得なかった。泣きっ面に蜂とでも言うべきか、亜門が可哀想なことに変わりはない。

 私の考えでは、亜門の想定の外でミシェルが居なくなり、そのことで亜門が取り乱しているのだろう。だが、それだけにしては、亜門は動揺しすぎている。まるでミシェルが、その命すら脅かされているとでも確信しているみたいだ。

 痛みは嫌なものだが、人を現実に立ち返すものでもある。亜門はようやっと収まりだしたそれに、息を整えていた。それで少しでも彼が冷静に戻っていて欲しいと、私は祈る。

 ややあって、亜門は立ち上がりもせず、その場でこじんまりと体育座りをした。壁に背中を預け、膝を抱え込む様は酷く頼りなく、いつもの彼とはまるで別物だ。さながら、元気がない時のミシェルにも似ている。彼はこうして、部屋の隅で置物みたいになっていることが多々あった。

「……ミシェルさんが居なくなったんですね。亜門さん」

「……ああ……」

 犬が唸るような言い方だった。それだけ絞り出すのがやっと、とでも言うような。

「ちょっと出かけただけではないのですか?」

「それはない……」

「なぜ?」

「あいつは俺無しでこうも長く外を歩いたりしない……それは不可能なんだ」

「不可能?」

 不可解な言い方だ。どうして、外を歩くだけのことが不可能なのだろう?

 亜門は蹲ったまま、顔も隠したままで答えた。

「あいつは……長時間、外を出歩けないんだ。不安障害で……昼はせいぜい一時間が限度、夜はもう少し行けるが、それでも夜通しは無理だ。それ以上となるとパニックを起こすか、体が拒絶反応を起こして具合を悪くするか、あるいはその両方だな。過去に何度か事故があったが、どれも俺が見つけた時点で酷いものだった……」

「え……それは、ミシェルさんは、そんなご病気に……」

 確かにまだ一週間かもしれないが、一週間過ごしてその事実を露ほども知らないままだった。インドアな人だとは思っていたが、まさか家から出られないなんて。

「病気……か。確かにそうかもしれないが……だが発端は、二年前の事件のせいだ」

 事件、という不穏なワードを口にして、亜門はしばし黙り込んだ。彼自身、何かを思い出して怯えるように。

 ややあって話を再開した声は隠しようもなく震えていた。

「二年前……あいつは家族を亡くしている……両親が揃って自殺したんだ。自殺するわけも無い人たちが、突然……見つけたのがあいつだった……」

 亜門は続ける。

「自殺なわけない……殺されたんだ、あの人たちは……」

 紛れもない殺人についてだ。

 だが亜門はまだ、もっと恐ろしい事実を続けた。

「犯人はきっと、あいつも……」


---


 亜門はそれきり、めっきりと黙り込んだ。スラックスの膝に埋もれた顔がどんなかなんて見ようとするほど、私はデリカシーを兼ね備えていないわけじゃない。

 向かったのは二階だ。これまで亜門の部屋は何回か入ったが、ミシェルの部屋はまだだ。


 果たして、彼の部屋は――なんと言うか、幻想的だ。


 基本的に仕事スペースに似て、無彩色で構成されている。情報量を極限まで減らしましたと言う感じだ。白い壁に床のラグはグレーをしている。カーテンは意外にも黒――いや、完全遮光を目的とするならむしろ黒しか選ばないか――そしてベッドも寝具全部が黒で統一されている。私の知る限り、ミシェルは結構、神経質的に拘りが強くて、服装然り気を遣っている印象がある。見た目に関してなら、亜門よりずっとかもしれない。人からの見えを気にしているのかと思っていたが、この部屋を見ると、むしろ自らの世界観を構築すること、それを目的としているように思える。

 だが幻想的なのは、何も白黒グレーで統一されているからではない。

 あの亡くなったおじいさんに負けず劣らず、あるいはミシェルの方がコレクション癖は強いのかもしれない。壁に数枚かかった額縁の中にあるのは、絵画をモチーフとしたジグソーパズルのようだ。中には見たことのあるような有名な風景画や花の絵もある。名前は思い出せないが……多分、モネとかゴッホとかダリとか、そんなところだろう。確かにミシェルは、絵もパズルも好きそうだ。彼が念入りにそれを完成させ、じっと一人きり感慨に浸りながらそれを専用の額縁に仕舞いこむ――そんな光景が、脳裏にありありと思い浮かぶ。

 飾られているのは何も絵画風パズルだけでなく、それ以外にもいろいろある。壁際の私の腰の高さほどある本棚には本がぎっしりと詰まっている。亜門の部屋で読書をしているのを何度か見かけたが、本自体はここに仕舞われていたとは知らなかった。あとは、三段重ねの木製ラックには、何故だか大きめのドールハウスが最上段に、アクセサリーを飾った置物が中段に、一番下には靴下など下着類を一緒くたに突っ込んだ底の深い麻素材の容器がある。雑なところもあって少し安心だ。全体的に生活感が薄く、まるでここに存在すると言うよりは、眺めるために作ったみたいな部屋だなと思う。とはいえ、それがミシェルらしい。彼には世俗に擦れていない世捨て人の持つ特有の高貴さみたいなのがある。例えば箱庭で育てられた貴族の隠し子、とか。

 向かって右側の壁には、PCの置かれたデスクもある。これまた黒い塗装がシックで重厚なそれは、一階の亜門のものとは雰囲気が全然違う。亜門のは作業をするためと言った感じだったが、ミシェルのはやはり、彼の好みに合わせて作られたセットの小道具の一つと言った感じだ。機能性を捨てたわけではないだろうが、どちらかと言うと色やデザイン、部屋との調和で選んだんじゃないかと言う気がする。

 亜門のそれと同じく、かなり高い位置で固定された椅子に、頑張って尻を乗っけて座ってみる。彼が普段、何を見て過ごしていたのか、そうしてゆっくりと思考をスライドさせていく。


 ここは、とても静かで、少し……。

 世界から綺麗に切り取られ、隔離されているような――孤独。


 これが彼の意図なのかは分からないし、私が勝手にそう感じてしまっているだけの気もする。黒いカーテンの閉じ切られた薄暗い部屋だから、余計に重くとらえているだけの気もしてくる。だがこの部屋が、ミシェルの意向をふんだんに凝らしたものなのは間違いない。私はこういうセンスが皆無なので、いつもちぐはぐ且つ生活感だけのものになってしまう。ちょっとうらやましい。

 机=物を置くスペースな私とは異なって、ミシェルの机の上には愛用のPCしかない。ミリ単位で配置を拘っている部屋作りを見ると、机上でさえ散らかしたくないのだろう。

 つまらないので、少し気になっていたドールハウスを見てみることにした。両腕で抱えるほどの大きさを誇るそれは、ままごとのそれとは一線を画す本格的趣向が施されている。だがドールハウスにしては一般的な現代家屋だ。窓から見える家の中も、しっかり作り込まれているようで、一階のリビングダイニングにはティーセットが並んでいる。

 ――それにしても、自殺、殺された、か。彼の両親――。

「おいおい……どこ行ったのかと思ったら、お前……」

 後ろから、聞き慣れた声がする。呆れていて、疲れていて。少し気力を取り戻したらしい。

「俺も入ったこと無かったのに……」

 振り返った先で、亜門が入り口のところに立っている。どうやら少し入るのに躊躇しているのか、彼は開いた扉のノブに手をかけたまま、私を鼻白んだ面持ちで見ていた。

 それにしても、入ったことが無いなんて驚きだ。どれだけの期間はかは知らないが、立派な同居人だろうに。

 ややあって、亜門は渋々と言った感じに境界線を越え、足を内側に踏み入れる。

「亜門さん、変なところでナイーブですよね」

「お前がずけずけし過ぎなだけだろ……普通、他人の部屋に無断で入らなくないか」

「無断で入るしかないでしょう、今の状況では……」

 亜門の言うことが正しいなら、紛れもなく緊急事態なのだ。

 それには亜門も分かっているのだろう。彼は忘れかけた古傷が傷んだみたいに、ぐしゃりと顔を歪める。

「確かに、今の状況じゃ入るしかないかもな……」

 亜門はそう言いながら、私の横に並ぶと、物珍しそうに周囲を見渡した。その様は私以上に、どこか慣れないものだった。

「見たことも無かったんですか?」

「ここは……言うなれば聖域みたいなものだったから……」

 不思議な物言いだが、直感的に理解できるものがあった。聖域、確かに、ここには足を踏み入れ難い雰囲気がある。それも、あのミシェルの部屋と言うなら尚更だ。

 その聖域というのが、もしミシェル自身にとってもそうだったならば、亜門の部屋に入り浸っていたのも、今となっては納得である。この部屋はミシェルのそれでありながら、ミシェル自身でさえ、寛ぐそれではない。

 一体ミシェルは、何を思ってこの風変わりな部屋を構築したのだろう。

「しかしまあ、こうして見るとあいつらしいな」

 困った子供を見るような渋った顔で、亜門は呟いた。

 それから我に返ったように、私に顔を向ける。酷く真剣な眼差しを。

「俺が来たのはほかでもない。お前が居る意味を考えるためだ」

「私のいる意味?」

「ああ」

 亜門らしからぬふわっとした物言いに、彼の心情が漏れ出ていなくもない。ここにミシェルはいないのだ。

「まだ考え過ぎの可能性はゼロじゃないが……俺はあいつが既に、何らかの事件に巻き込まれたものだと思ってる。理屈じゃなく、分かるんだ。そして、言うなればお前は……あいつの残していった俺への手がかりであり、忘れ形見みたいなものかもしれない」

「えぇ……」

 亜門は彼なりに、私の価値を吟味しているようだ。それにしても急に重要に考えられ過ぎていて、私としては気が引けてしまう。

「別に俺は、お前なんか欠片も信用してないし、お前自身が価値ある人間だとも思ってない。俺が信じてるのはあいつの目だ」

「……まあ、そうなんでしょうね」

「お前が何なのか俺にはまだ分からないから、俺はお前が何の役に立つのかを考える必要がある。あるいは、俺はお前をどう役立てるべきか。道具は正しい使い方で真価を発揮する」

「人を道具扱いですか……」

「誰がなんと言おうと、お前は既に俺に雇用されてる身だからな。あいつの推薦となれば、猶更だ」

 要するに、縋るものが私以外に無いのだ。先程はそれが怒りとして、今は冷静にこれからを考える材料として変化した。彼が見ているのは、さっきも今も変わらず、ずっとここには居ない人を。

 私は少し俯いて、床のラグの繊維をじっと見つめる。ミシェルによって埃一つなく保たれていたであろうそれは、柔らかい毛並みを美しく波打たせている。

 ミシェル……ミシェル。その名自体も、私に当てて咄嗟に名乗った偽名らしい。それを聞いたのはつい一昨日のことだ。本当にミシェルなのか尋ねた私に、彼はあっけらかんと、朗らかに答えてみせたのだ。

「え? まさか」

「はぁ? まさかじゃないですよ。噓吐いたってことですか? 偽名?」

「だって恥ずかしいし……」

「恥ずかしいからって偽名名乗りますかね……ミシェルってなんなんですか」

「うーん、月のクレーターの一つかな。発見者にちなんで名づけられるんだよ」

「じゃあその元のミシェルさんに何か思うことが?」

「いや別に。ただ、ミシェルなら似合うかも、って思って」

「響きでつけたんですか……」

 関われば関わるほど、不可思議で掴みどころが無くて、そのくせずっと美しいままの人だった。

 ミシェルの観た、この私の価値――。

 私自身にさえ、私と言う人間が、どう役に立つかは分かったものではない。

 しかし、少なくとも今の亜門を見て思うことが一つある――彼が一人にされてい

なくて、良かった。

 あの取り乱しようを、もしミシェルが予期していたら、どうだろう? 私のような第三者を事前に準備しておこうと、彼が思うことも、あるのかもしれない――ひとえに、亜門のために。

 だがそうだとすると、ミシェルは自らの失踪を、それなりに以前から知っていたことになる。彼のあの不思議な予知能力を考慮するならば、知っていたというより、なんとなく危険察知していたと言う方が正しいだろうが……。

 入る時は渋面だった亜門も、慣れたのか黒いベッドに腰掛ける。それはまるで、普段の意趣返しに思えなくもない。ミシェルもこうして、亜門のベッドに腰を埋めていたものだった。

 亜門は床を見てため息を吐き、肩を落としている。そりゃあそうだろう。ミシェルとは、亜門にとって何かしら重大な意味を持つのは、目に見えて分かることだった。彼のためなら、亜門はなんだってしそうな危うさがある。少し怖いくらい。

「俺がここに来たのは、一応お前に伝えるためだ。これから俺は忙しくなる。お前は……お前のことはまだ分からないから、好きにしてくれ」

「好きにしていいんですか?」

「何をやらかす気だよ……ま、いいけど」

 いいのか、とは言わなかった。亜門のその、半ば自暴自棄な顔を見てしまっては。

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