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しかし唐突に、不安を思い出したかのように、アリスはくしゃりと顔を歪ませると、突拍子もなく涙をぽろりと落とした。白い花弁に落下して弾けた涙を呆然と見送った桜太郎は、「ど、どうしたんだ?」と問いかけることしかできない。
「お、おじちゃん」
「ん?」
アリスは首元を擦ったあと、躊躇うことなく花がひしめく水溜まりに入り、桜太郎の手を取った。筋肉質な男の腕は思いらしく、両手で持ち上げていた。
「あのね……」
「――アリス様、こちらにおられましたか」
背後から声が降り注いだ。振り返るより先に、その人物はすらりと桜太郎を横切って、花を踏み潰しながらアリスの前に跪いた。アリスと同じ異装の男だった、純白のローブに、同じ紋様と裾の模様。アリスがそれを纏うと民族衣装のよう印象を受けるが、大人だとどうにうも宗教的――カルト集団の一員のような印象を抱く。明らかに、確実にアリスの関係者である。
「突然お姿が見えなくなったものですから心配いたしました」
女児相手にずいぶんと丁寧過ぎる言葉遣いだ。もしかしてアリスは、どこかの御令嬢だったりするのだろうか。
「なあ、アンタら、この子の知り合いか?」
男の口上をよく聞いていたので、確実に知り合いであることはわかっている。だが、この二人の間柄を認識するうえで必要な確認だった。
「知り合い? 我々はこの御方の信徒です」
気色の悪い返答に、不快感が盛大に煽られたのがわかった。重ねて怖気立つ。
(女の子を信仰してんのか?)
と思いながらも、桜太郎は内面をおくびにも出さず、明るい声音を意識して「あっ、そうか」と相槌を打った。あからさまに警戒すると、相手を刺激してしまう可能性が大いにあったからだ。男の足元に人差し指を突き付けた。
「そこをどいてやってくれねえか? この子が咲かせた花なんだ」
「おや、申し訳ありません、アリス様」
と言いながらも、男はそこから移動しようとはしない。男は桜太郎を虚のような不気味な黒い眼差しで見つめるだけだった。
「オレンジ色の瞳。だが、異能の気配はない……もしやあなたは、非能力者ではありませんか?」
男はそう訊ねて来た。突拍子もない。
「あぁ? そうだけど」
わずかに眉間にしわを寄せながら低い声で肯定した途端、アリスの信徒はハッと息を呑んだ。理解不能な反応だ。じっと桜太郎を見つめる目元から光が湧き上がるように見えた。涙だ。
「……なんと、哀れな」
勝手に哀れまれて、そして泣かれて困惑する。悲惨な表情で涙を流しながら、本気で桜太郎を憐れんでいる様子だ。桜太郎は「は?」と単調だが最大限の疑問を意思表示した。
「つらいことを訊いてしまって、申し訳ありません。私はつい最近、異能に恵まれたので、まだ気配というものに疎く、判断が遅れてしまったのです」
「異能に恵まれた? ……後天性異能力者か?」
後天性異能力者。この用語の対象語には先天性異能力者がある。異能力者と非能力者に分別されるまでに、通常では七年の時間を要する。出生から七年以内に異能の発現が確認されれば先天性異能力者。八年以降であれば後天性異能力者として扱われる。
後天的な異能の発現は国内年間五件ほどと少ないとされているが、この累計には信憑性がない。未だに異能力者への差別や迫害精神が旺盛な現代、異能の発現によって自身への危害を恐れた後天性異能力者たちが自殺しているという事例と、家族に勇気を出して打ち明けたものの殺害されてしまったというケース、毎年数万人という規模の行方不明者数の中にも対象者が存在しているという可能性もあるし、まず何より名乗り出ないということがあるからだ。自殺ならば思念感応異能力者により発覚するが、行方不明者となると、まずどこで行方を眩ませたのかもわからないので難しい。この五件という数字は、あくまで生存者の累計である。
「へえ。国に異能力者登録してるのか? 国民の義務だぜ」
日本の防衛省は異能力者の統計や異能分類をシビアに行っている。世界人口の四割と半数以下ではあるが、異能はすべからく脅威だ。戦闘系異能力と非戦闘系異能力の比率を把握し、いずれ起こるだろう第二次異無日本内戦への対抗策を思案している。人種を抑圧する政策だとして人種差別が声高に叫ばれているが、防衛省もこれに尻込みするわけにはいかない。
桜太郎が日本の対異能力者政策の一片を思い返している間にも、アリスの信徒は涙を流しながら、桜太郎を健気に哀れみ続けている。
「神に愛されず、長い間おつらかったでしょう。異能は神に愛されし者にのみ与えられし天授の力。神はあなたを天上の揺り籠の園で見つけ損なってしまわれた。ああ、非能力者だなんて、なんと哀れな……あなたも異能力者であればよかったのに。こんな世界では、無力は命を蝕みます」
桜太郎は大きく目を見開いた。似たようなことを、幼少期に言われたことがある。溢れる懐古の心情の湿度は高く、温度は低い。一瞬、炎のにおいを感じたような気がした。逸れる思考を無理矢理引き戻し、一つの確信に意識を集中させる。
アリスの信徒、つまり、異能力を崇拝しているってことは……こいつ、異能神聖派集団か。
世界中に異能を崇める者で結成された組織があり、そのいずれもが危険思想だと警戒されている。ただの異無和合派――異能によりもたらされる物事への善悪の区別を明確に認識したうえで、双方の和合を願う平和的思想の人々とは一線を画し、異能が起こす万象を神の思し召しとして、事故も事件も肯定し、これに反する意見には過激な言動を厭わない反非能力者精神が強い集団だ。その規模は集団と呼べる少数のものから、組織ほど巨大な物まで様々だ。いずれにしても厄介なのは間違いない。
そういうことなら、さらに警戒心が高まる。桜太郎はこの者たちにとっての――
駆除対象だ。
アリスへの恭しい態度も信仰している理由も、異能神聖派だからという結論で片付けることができるが、妙な感覚を覚える。
異能力者が異能力者を祀り上げる理由はなんだ? アリスは花を咲かせる異能力者、ただそれだけのはずだ。それの何が……。
オレンジ色のドレスのスカート部分が咲いたかのような形状をした数輪の花を見て、桜太郎にはある閃きが過った。花を空かせるのが好き、とアリスは言っていた。だが、まだ花の種類や名前、効能などはわからないだろう。もしもそれを利用して、この信徒たちがアリスに――
違法薬物製造の一端を担がせてたりしねえよな?
桜太郎の視線の先のその花は
大麻か。
眼差しが冷徹に大麻を見下ろした。花の華美さに気を取られて気付かなかった。アリスは無邪気にも、その植物たちの恐ろしさを知らぬまま生やしているのである。いや、もしくは、無意識に生やすほど癖付いているという可能性も捨てきれない。
最近、薬物中毒に陥って異能を暴走させる事件が何件か発生してたな。かつて流行した異能作用特化型の違法薬物ではなかったが、どっちにしろ違法だ。おそらく、この信徒が属する異能神聖派集団はアリスを利用して裏社会で一躍を買っている可能性がある――けど、いくら神聖派だからってといっても、芥子の花やら大麻を作り出せるからっつってここまで信仰するもんかね。
取り除かれることなく沈殿する一つの疑問は、アリスが信仰される理由だ。だがダイレクトに問うことはできない。
「この子の父親も、アンタらと一緒にいるのか?」
もしかしたら、アリスの父親がこの集団の長という可能性もある。もしそうであれば、親が子に犯罪の一端を担がせるという胸糞の悪い最悪の展開だ。否定してもらえるよう祈りながら訊ねた。
「いいえ。アリス様の
ひとまず、アリスの親が集団とは無関係であるとのことで安心する。そして気持ちが悪い返答があるとは覚悟していたつもりだったが、覚悟を上回る予想以上にアリスを神格化して解釈したものが返された。だが、また新たに疑問が生じる。
「現れた? どういうことだ?」
「言葉のその通りです。ふふ、しかし、アリス様にとてもよくしていただいたようで。あなたでしたら、我々が行う儀式に招いてもよろしい」
「儀式?」
不穏な言葉だ。カルト集団がよく使うイメージがあったが、本当に耳にするとは思わなかった。
「はい――我ら天授宗の女神、アリスに愛を賜るための」
恍惚とした表情で男が言い放った瞬間、桜太郎は立ち上がって男の胸倉を掴み上げた。
「女の子に愛を賜る? 何気色悪いこと平然と言ってやがる。お前ン頭ン中には虫でも湧いてんのか?」
低く、怒りが漏れ出す声で詰問すると、男も表情に不快感を露わにした。桜太郎の言葉が癪に障ったらしい。
「何?」
「ほとんど自供したようなもんだな。異能力者の女の子を利用し、不審な儀式を行うだとか――
異武――それは、異能犯罪武力対策局の略称である。ダンジョンゲート現象中に発起した対異能機関の集合体であり、防衛省が管轄しており、異能力者による事件や事故を専門的に取り扱っている。対モンスター特化組織であり異能力者揃いのギルドとは対照的に、非能力者が人員の七割ほどを占める。代表的な部署が三つあり、武装捜査部、情報捜査部、捜査補佐派遣部が該当する。桜太郎はその中で、武装捜査部に配属されている武装捜査官だった。
信徒の胸倉を掴んだまま、空いた片腕で懐のポケットに手を突っ込んだ。革のような手触りの物を掴み、それを慣れた様子で掲げて見せる。警察手帳と類似した作りのそれは、自身が異武の武装捜査官という身分を証明するための証明手帳である。上面には写真と階級、氏名があり、下面には記章があった。
証明手帳の掲示は、異能力者への威嚇行為だ。だが、桜太郎のそれは、大抵さほど通用しない。異能力者のほとんどは、証明手帳見て嗤う。そして決まってこういうのだ。
「……三等捜査官など恐れるに足らん」
階級社会である異能犯罪武力対策局において、三等は最下層の身分だ。階級は三等から上に上がるに連れて、二等、一等、特等と変化する。異能力者が警戒心を露わにするのは二等以上だ。三等といえば、新人や落ちこぼれて役に立たない人間が陥る階級だという認識が敵にも味方内でも共通だった。
だが、信徒はそう言えども嘲笑いはしなかった。憎悪と嫌悪と侮蔑――悪意と害意が真っ黒に溶け合った目で桜太郎を睨み付け、そして
「しかしそうか、貴様――異能狩りの者か」
と抑揚のない低い声で言った。途端に、花畑を取り巻く空気は重さを増した。殺気だ。しかし桜太郎は、怯んだ様子もなく飄々とした様子で言い放つ。
「何だその呼び方。異武の三等武装捜査官だっつってんだろ。思春期中二病症候群罹患中か? いい年した大人が、子供巻き込んで何やって……」
言葉は呼吸と共に途切れた。腹部に重く与えられた衝撃により、桜太郎は後方に勢いよく吹っ飛ばされた。灰色の空が早送りのように流れていく。次いで、背中が地面を滑る感覚と共に、何度か後頭部を打ち付ける。
「イッテェな……!」
脳を震動する痛み。頭が熱い。多少視界がくらんだが、すぐに明瞭に戻る。信徒が自分に対して手をかざしている――この信徒が桜太郎を攻撃したのは瞭然だった。
「おじちゃんっ!」
半泣きのアリスが駆け寄ろうとしたが、信徒に腕を拘束される。
「なりません、アリス様。あの者は異能狩りです」
「やめてよお! おじちゃんをいじめないで!」
「これは駆除です。この者たちのせいで、神命のままに異能を行使する異能力者たちが罪人として……」
諫め宥める声色は優しいものだ。だが、アリスが「やめてよぉ!」と精一杯声を張り上げたことで掻き消された。アリスの目は、棒で突かれて身悶えしている芋虫のような桜太郎の姿が写っている。恐怖が湧き上がった。
不可視の衝撃が身体中に襲い掛かる。殴られているというより、身体の表面で分厚いゴム風船が破裂しているような感覚の痛みだ。だが、成人男性に殴られているよりかは痛い。
「ぐっ、がっ……!」
一撃の度に呻き声が上がる。
「だめ! だめ!」
「聞き分けてください、アリスよ」
暴れるアリスを穏やかに窘めた。一瞬緩んだ攻撃の合間に桜太郎はすかさず立ち上がろうとしたものの、信徒は目もくれず異能を放った。強烈な足払いを仕掛けられたように、桜太郎は勢いよく転倒し強かに頭を打ち付け、視界が揺れる。強烈な眩暈だ。
「っ!」
全身が膜のようなものに覆われたような感触に包まれ、身動きが取りづらくなる。地面に押し付けられ、肉と骨が圧迫された。力んで抵抗する。
苦しみながらも、桜太郎はこの状況に幸運を見出していた。
いてえ、けど……こいつ、低級異能力者として覚醒したのか!
体感ではD級――異能力者としては最低ランクだ。確かに衝撃は強いが、肉を弾けさせ骨を砕くほどの強大さではない。加えて、力技でも身動きが取れる。とはいえ侮れない。食らい続ければ当然、大怪我に繋がる。最悪は死だ。桜太郎が感じる幸運とは、瞬殺されず、生きていられる時間を稼げるということだった。
くそ、アリスに酷い光景を見せちまってる。
傍から見れば拷問だ。桜太郎も自分が拷問にかけられているような心地だった。
「がっ」
横っ面に強烈な衝撃が入った。一層酷い視界の揺れを感じる。アリスの、恐怖満面の顔が見えた。小さな唇が「おじちゃん」と言う形に動く。
ああ、くそ。Ⅾ級とはいえ、結局は異能力者。非能力者が真っ向から敵うわけがねえんだ。
――わかりきっていることじゃねえか。
初動が遅れたからと言って自分ならばどうにか打開できる、なんて慢心はなくとも、力を持って生まれた者と、そうでない者の歴然とした差の前では敵わないことの方が多い。内戦で痛感しただろう。二十二年間、異武の武装捜査官を務めてきて実感してきたことじゃないか。
――可哀想な桜太郎。お前が異能力者ならよかったのに。
炎のにおいが仄かに香る、あの男の言葉を思い出した。その男は、痩せて浮き上がった骨と皮の硬い感触の身体で子供の桜太郎を抱きしめてそう言ったのだ。
思い出すと、ずいぶんとうぜえこと言われてたんだな。生まれを否定され、勝手に哀れまれて。
憧れたことが無かったかといえば、嘘になる。その男が桜太郎に披露してくれる異能は、明るく、美しく、愉快で、そして優しいものだった。子供心に羨ましいと思った。三十九年間生きてきて、異能が使えたらと悔しさで項垂れることも多々あった。
今だってそうだ。瞬間移動の異能があれば、アリスを連れてすぐに逃げられる。念動力の異能があれば、この信徒を一気にねじ伏せ拘束することができただろう。
――俺にも、異能があれば。
自分自身を否定する、自分自身への失礼な願望。だが、願わずにはいられなかった。
女神の幼体 【零零ーゼロレイー 異能犯罪武力対策局】 綾川八須 @love873804
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