路地裏に差し掛かった瞬間、煙草をポケットから取り出して口に運び、火を点ける。分煙化が進み過ぎて、もはや禁煙社会となった日本では、喫煙所を見つけるのも難しい。以前通った道にあったはずの小さな喫煙所はいつの間にか撤去されており、吸う場所を失った喫煙者は人目が着きにくい路地裏や喫煙には一品以上注文しなければならない個人経営の飲食店に入らなければいけなくなった。ファミリーレストランやカフェなどは、子供連れの声が厳しいせいか禁煙されたところがほとんどである。喫煙者迫害社会の到来は、桜太郎にとってはつらいものだった。


 渋谷の路地裏は、大小様々な建物が密集しているせいで迷路のように入り組んでいる。幅は狭いし、高層建築物が数多く立ち過ぎたこともあって陽光が入りにくくて薄暗い。一昨日降り注いだ雨がまだ地面に水溜まりをとして残り、進行を阻んだ。


 もう、ここでいいか。


 桜太郎じゃ今回の喫煙所を決め、壁に背を預けた。表通りから近すぎてもいけないし、奥に進み過ぎては危険だ。薄闇に潜む者や好む者は厄介だ。絡まれれば、対処するのが億劫である。


 対面の壁の下を、角を生やした小さなネズミが横切っていく。煙の臭いを嗅いだのか、ネズミは一度立ち止まって、赤い三つの目で桜太郎を見上げた。目はどれも複眼で、見つめられると不気味である。深呼吸をするように煙を吸って吐くと、ネズミは臭いを嫌がって逃げて行った。


 異能力者と非能力者の対立関係のすべては、あのネズミ――異世界からやって来た怪物たちが原因である。


 約三百年前。日本は当時、江戸時代であった。世界各地で穴のような空間の歪みが発生し、そこから数多のモンスターたちがこの世界に侵攻を始めた。かつての日本では百鬼孔ひゃっきこう事変と呼ばれていたが、現代ではダンジョンゲート現象と呼ばれている。


 百鬼孔から現れた百鬼夜行により地獄絵図は再現され、食物連鎖は蹂躙された。そして、異変はこの世界の生命にも発生した。科学的には証明できない超常現象を発現させた者たちが次々と出現したのだ。それらは原初の異能力者であり、日本のみならず世界中を脅かす非能力者の天敵である。


 三百年前の異能力者たちは念動力や瞬間移動、炎や水などの異能を駆使して百鬼孔の怪物たちと渡り合った。だが、異能を発現させなかった者たち……非能力者たちは、異能力者を新たなる敵だとして差別し、迫害した。急増した異端に適応できるだけの余裕はなかったし、何より、異能力者たちによる非能力者への危害もすでに始まっていたのだ。善人も悪人も、異能を得た。善が扱うならば善のために。悪が扱うならば悪に。どちらかが先に始めたと指を指し合って非難するには、何もかもが早く起こり過ぎたし、対抗措置も不完全だったのだ。


 百年間、異能力者と非能力者は、怪物と三つ巴の争いを続けてきた。しかし中には、互いに手を組み合い、堅い絆と清廉な愛で繋がり合った異能力者と非能力者だっていた。その二人の絆は【開闢かいびゃくの絆】と呼ばれており、反目し合う二つの人種の最も理想的な関係の例として挙げられている。


 だが、三百年に渡る異能と非能の禍根は深い。四十五年前にダンジョンゲート現象が封印され、一時期は異無間の関係は多少改善された。しかし、本当にわずかな期間だった。怪物による被害が年々減るほどに、分散されていた被害と憎しみが一直線に集中し合い、互いに向き合う矢印は大きさを増していった。一つの脅威が去っても、まだもう一つ消滅させなければならない脅威が残っているのを思い出したのだ。


 第二次異無日本内戦も、今世紀中に起こるかもしれねえなあ。


 桜太郎は煙だらけの溜め息を吐き出した。日々、異無間の殺傷事件の情報を得るたびに薄々感じる予感。生きているうちで二度も大規模な殺し合いなど経験したくはないが、時代と人の意識が変わらなければ繰り返される――負の歴史の循環だ。どこかで断ち切らねばならない。すでに、断裁の刃は研磨され始めているのだから。


 中年男が言った「内戦を知らない世代」という言葉が、内戦を古く遠いもののように思わせる。歴史の遺産と呼ぶには真新しく、近代史にしては少し古い。


 異無日本内戦を知らない世代が増えているというのは、桜太郎も体感していた。当時生まれていた者もそれに含まれている。生まれていても、幼過ぎて内戦の記憶を覚えていない者は数多い。そんな世代たちに当事者たちが何を継承していけばいいのかと言えば、ありきたりだが「平和を願う思い」である。ありきたりであればあるほど、それは大多数が同一に持つ意識だという表明になる。戦後は、人や地域によって次世代に継承するものは大きく異なるものだ。憎悪や怒りを引き継ぐ者たちがいれば、和合や平和を願う思いを受け継ぐ者たちがいる。


 戦場を駆けた当事者としては、あの内戦はあまりにも残虐だった。両者共、怒りと差別に突き動かされるままに殺し合った。終戦して変化したものといえば、異能力者への嫌悪感が増幅だろう。内戦の勝利の結果に求めたものが、異無間の力関係の確固たる位置づけだったこともある。異能力者は強者で、非能力者は弱者と決定的になっただけだった。


 内戦を知らない世代が、当事者の足元で関係改善に向けて動き出していることは知っている。あの部下の青年と友人の念動力の異能力者のように。友好的な関係性を築き、助け合っている人々が年々増えている。根強い差別も憎悪も、今世紀での完全なる改善は無理だろうが、それでも百一年後、百二年後には手を取り支え合っていける世界ならばいいと願っている。


 水溜まりに映る煙草の火を眺めていると、水面に波紋が立ち、爪先に押し寄せてきた。ついに雨でも降って来たのかね、と凪ぎ始めた水面からと細い空を見上げようと顔を上げたその時、路地の奥のさらに濃い薄闇の中に、女の子が立っているのに気付いた――アリスだ。


 え、アリス?


 桜太郎は困惑して、唇から煙草を落としかけた。目を凝らす必要もないほど、アリスの明るい容貌は、確実に彼女本人だと主張している。


「アリス……だったよな? どうしたんだ、こんなところで」


 もしかして、俺を追いかけてきた、なんてことはないよな……。流石に自意識過剰すぎるか。


 風が吹き込み、紫煙が女児の方向へと向かっていく。しゃがみ込み、水溜まりで火を消したあと、そのままの体勢で再度声をかけた。


「路地裏に入ってくるのは危ないぞ」


 自分の体格や無精髭を生やした顔、そして性別が子供を怖がらせてしまうのは三十路から九年生きてきて十分に理解した。せめて声色だけでも子供向けに高めに発生する。


「……」


 アリスは、桜太郎を見上げながら自分の喉元を撫でていた。人の心理の一つに、不安やストレスを感じると首に触れる、というものがある。アリスも何かしらに不安を感じているのかもしれない。例えば、大の大人と一対一のこの状況とか、雨雲と建物の影で薄暗い路地裏というシチュエーションとか、あとはこの寒さとか。


「迷子か?」

「……」


 無言を肯定と捉えてよいのか躊躇っていると、アリスはわずかに首肯した。ビニール袋の持ち手を捩じりながら、所在なさげに視線をきょろ、と彷徨わせた。


 そっか、と頷く。


「結構コンビニから離れちまったなあ、帰り道はわかるのか? そこまで案内しようか?」

「……」

「もうすぐ暗くなるぞ。今以上に寒くなるし」

「……」

「お父さんとかの電話番号を知ってるなら、おじさんがスマホで連絡できるけど……」

「……」

「もしもどこかのコミュニティ……宗教とか、神様や偉い人にお祈りしてる所にいるなら、そこの名前を教えてくれるか?」

「……」

「……日本語、上手だな……」

「……パパが日本語話すから……」


 桜太郎はぐっと溜め息を押し殺した。欲しい情報のみ獲得できない。一問の度に、視線を俯かせるアリスの目にはうるうると涙が混み上がっている。泣くまいと唇を噛む表情が哀れで痛々しい。


 ただ桜太郎を不審がって答えないのか、それとも何もわからないのか……桜太郎としては後者が有力だとも思う。不審だと思うならまず着いてこないはずだ。さっき助けてもらったから、もう一度だけ助けてもらおうとしたのかもしれない。あのままコンビニの女性店員に相談した方が話しやすかったのではないだろうかとも思ったが、アリスが桜太郎を選んで助けを乞いに来たのなら、大人として助けてやらねばなるまい。けれどやはり理由は気になるので訊いてみることにする。


 まるで餌付けされた子猫のようだと思いつつ、ほとんど収穫のない質疑応答を再開させる。


「そっかそっか、迷子かあ。でも、なんでおじちゃんに着いてきちゃったんだ?」


 アリスが上目遣い桜太郎を直視した――見られている、と思った。自分の眼差しを、じっと。何度か喉をつまらせながら、涙を堪えたまま、アリスはやっと言葉を放った。


「おじちゃんの目の色が、火の色だから」

「……?」


 子供特有の不可思議で意味不明な言い回しだった。だがアリスにとっては精一杯の答えだ。言葉の意味を逡巡し、けれども桜太郎の思考ではアリスの思考に到達できない。 


 桜太郎の虹彩は炎のようなオレンジ色をしている。先天的に毛髪や虹彩に物珍しい色彩が及ぶ事例がある異能力者の特徴と合致し、非能力者でありながらも同族による警戒と嫌煙の日々を送って来たという未成年時代の苦い思い出がある。幼少期といえば、現在よりも異無間の嫌敵意識は強い年代で、異能力者とを生んだと誤解した父親は母を詰って離婚を強要し、母は泣きながら否定し抗ったものの、結局は離婚した。一年にも満たないうちに再婚したが、決して良い家庭環境は築かれなかった。


「もしかして、俺が異能力者だと思ったのか?」


 苦笑しながら訊くと、けれどもアリスは否定するように首を振った。ますます困惑する。


「おじちゃんから異能は感じない」


 異能力者は同族と相対したとき、異能の気配を感じることができるという。異能の種類や異能度の高さを特定し、戦闘になった場合敵うか敵わないかを悟り自衛する。異能度が高い者の中にはプレッシャーを放ち、相手を戦意喪失にまで陥れるほど萎縮させることができる者までいるらしい。


 異能を感じない、つまり、アリスは桜太郎から異能の有無を判断できる異能力者であるということだ。異相からそうだろうとは思っていたので、桜太郎自身驚きも警戒もない。


「そっかー。どこから来たんだ?」


 これも答えてくれないんだろうな、と思いつつも、アリスの不安を払拭するには極力会話を続けた方が得策かもしれなかった。しかしアリスは、桜太郎の予想を破りすんなりと答えた。


「イ、イギリスだよ! でも、パパたちと色んな国に行ってたの!」

「へえ! いいな。どこに行ったんだ?」

「えっとね、産まれたのはイギリスでね、それからロシアに行って、ちょっと前までアメリカにいたの!」


 イギリス、ロシア、アメリカ。桜太郎の脳裏に、この三国が他国に対して抱える世界情勢を激しく揺るがす大きな問題についての記憶が呼び覚まされていく。


 女神の遺骸獲得国か。


 【女神の遺骸】。ダンジョンゲート現象最盛期、世界に三柱の破滅の権化が訪れた。三柱の女神の資料を、養成学校在籍時に一度閲覧したことがある。


 資料上に貼付されていたその女神たちの容貌は、神々しいというより、女の姿をした禍々しい異形だった。この怪物が女神と恐れられた理由は、多くの国土を壊滅にまで追い込んだ強大な力だ。女神一体の討伐に千人もの異能力者があたり、過半数が死亡した。二か月を有して死力を尽くし討伐されたあと、女神の遺骸は討伐国に回収され、その後の情報は秘匿。


 遺骸を所有していない他国は、それらの悪用を危惧し破棄を強く主張。中には遺骸の一部をネコババしようと目論む国もあっての提案だった。


 しかし三国はことごとく主張を棄却。「今後のダンジョン現象による情勢に大いに役立つため、破棄はしかねる」と頑なだった。女神の遺骸を所有している三国同士も牽制しあっており、現在も一触即発の雰囲気が世界中で蔓延している。


「そこでアリスたちは何をしてたんだ? 遺跡には観光に行ったのか?」


 女神によって破壊された町の一部は、新生遺跡として観光名所になっている。戦闘の傷痕や、土地に降り注いだ女神の血によって発展した奇木の森、そこに集まるダンジョン産の新生物との触れ合いが人気だった。


 アリスは答えあぐねいて、少し時間をかけて答えた。


「パパは、アリスのお友達を探すためって言ってた」

「へえ、インターナショナルなパパさんだな」

「……それとね、練習してたの」

「練習?」

「うん。……異能の」

「異能の……? うわっ!!」


 ――足元から何かが這い上がって来る感触に、桜太郎は蛇や百足かと警戒し、背筋を粟立たせて立ち上がる。足に絡みつくそれは蛇や百足ではなく蔦だった。水溜まりの中からアスファルトに根を張る花々。冷たい壁から染み出すようにふっくらとした緑色の苔が広がり、白い小ぶりの花が咲く。気が付けば、桜太郎を囲むよう、色とりどりで旬も異なる花々が咲き誇っている。突如出現した小さな花畑と、濃く香る植物の青臭さに、桜太郎は当然驚愕した。


「しょ、植物の生育に干渉できる異能なのか」

「……アリスはね、お花を咲かせるのが好き」


 アリスは花々の開花を眺めている。盆栽のように小さな桜の枝木の立ち姿が、未だ遠き春を待ち遠しくさせた。驚きはしたものの、美しい和やかな異能だ。


「綺麗な異能だな」


 お世辞やおべっかなどではない、心からの賛辞。人を傷付ける異能ばかりを目前にし、時にはその身に受けてきた桜太郎にとって、和やかで美しいだけの異能は物珍しく思える。


 アリスはコンビニでやったようにむにゅむにゅと唇を動かして、微笑んだ。

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