彼女は、死んでいる男の人魚の妹なのだといった。人魚の兄妹関係についてはよくわからないが、本人がそうだというのならそうなのだろう。顔から手を離した彼女の目からは涙がこぼれ、頬を伝ったそれがあごから水滴となり、砂浜に落ちる。


「ふたりとも、いつもあそこで会っていたの」


 銀河の河口と海のはじまりが交わる、水平線を彼女が指し示す。星の光を受けてきらめき、ゆらめく波が途切れず空につづけば、それはまた星のまたたきの源になるのだろう。


 空も海も、かがやきつづけるためには互いが必要だった。

 空と海のまじわる水平線でふたりは会える。話せる。愛し合える。


 それでも。それでも、と。


「彼女は、兄のいる海に、降りようとしたの」


 おなじ人魚なのだから、きっと生きられる。わたしが恋をした王子様は人じゃない、人魚だから。

 きっと一緒に、笑っていられるわ。


「海から銀河に上がるほうが難しいから、わたしが行くわって」

「ローレライがいったのね」

「ローレライ? ああ、彼女のことね」


 目尻の涙を指先で払いながら、生きている人魚は笑んで空を見上げた。


「銀河から落ちてきたから、銀河のローレライかなって」

「たしかに。すてきね。そう、ローレライ彼女がいったの」


 待っていて。近いうち、うお座の流星群が星に降り注ぐ日が来る。

 わたしも流星群に乗って、魚たちと一緒に、地上に降り注ぐからって。


「かならず受け止めてねって、兄にいっていた」


 ローレライの頬を、生きている人魚の手がなでた。


「海に降りるつもりだったのね。それがどうして、あんな平原に落ちてしまったの」

「わからない。でも、銀河の外は息苦しいっていっていた」


 わかっていたのだ。空気中では呼吸ができないことを。それでも海に入ればなんとかなるだろうという恋に満ち満ちた考えを、浅はかだったと切り捨てたくはない。


「ローレライが、遠くに落ちるところを兄と一緒に見ていた」


 流星群のなかでも、ひときわきらびやかな光をまとっていたという。

 彼女はいちばん綺麗で美しい、流れ星になった。

 もう会えないのだと、ふたりは瞬時に悟ってしまった。


「兄は姿を消して、わたし、やっと見つけたところだったの。連れて帰るつもりだった。でもやっとふたり、また会えたのね」


 こんどこそ、空と海ではないこの場所で。

 ふたりとも、生きてはいないけれど。


「怒ってごめんね。ローレライを連れてきてくれて、ありがとう」


 生きている人魚は、冷えた体で私に抱擁をくれた。魚にとって人の体温は火傷を負うほど熱いと聞いたことがある。念頭にその話があったせいで、彼女の背中に手を伸ばせなかった。それでも、彼女はしばらくのあいだ離してくれなかった。


「人魚はどうしたって、好きな相手とは結ばれないんだわ」


 私から体を離して、生きている人魚はそうつぶやいた。

 棲む世界が違い過ぎる、なんていうのは人の恋路で耳にする障害のひとつだ。でもここまで、身体に影響を与えるほどの世界の差はどうあがいても埋められない。命をかけるなんてことばを、私たちは容易に使いすぎている。

 命をかけて恋人に会おうと決めた結果が、こうなろうとも。ふたりは後悔していないだろう、なんて思うことすら、生きている人間が勝手に美化して想像しただけだ。なんて愚かなんだろう。生きて、息をして、他人の思いを、自分の脳内で推し量るというのは。


「ローレライのこと、まかせていい?」

「兄と海草でぐるぐる巻きにして、永遠に離れないようにしておくわ」


 そうすればこんどこそ、ふたりは一緒にいられるだろう。


 上司が袋からローレライの半身を海に浸した。海水を浴びた下半身の鱗は水気を取り戻し、夜空のきらめきを照り返している。かたわらの彼の目に、彼女が連れてきたこの銀河が映ってくれたらどんなによかったことか。あまりの美しさに照れてしまい、その目を伏せたかもしれない。すでに閉じられているまぶたはもう重すぎて、彼さえ持ち上げられないのだ。


 ローレライの下半身に寄せて群がる波が、彼女の鱗を落としていく。波がちらちらと光る理由には、はがれ落ちた人魚の鱗が一役買っているのだろう。

 ローレライの下半身から落ちた銀河の鱗と、彼の海の鱗を一枚ずつ。人魚が水中からつまみあげた。


「人魚は好きな相手の鱗を自分の鱗のあいだに挟めておくのよ」

「すてきね」

「人魚の肉はあげられないから、代わりにこれをあげるわ」


 生きている人魚が、はがれ落ちた鱗をくれた。手のひらに、銀河と海を凝縮したような鱗が乗せられる。重ねた鱗を月明かりに照らせば、銀河と海が交わる世界が眼前に広がる。

 ふたりがともに生きられる世界が、そこにあった。


 私の上司にもおなじように鱗を差し出した人魚が、横たわって動かないふたりの体を海に向かって引きずっていく。


「ふたりをまた会わせてくれて、ありがとう」


 じゃあね。


 生きている人魚は笑顔でそれだけをいうと、ふたりの腕を自分の首にまわした。逢瀬を重ねていたところまで、兄とローレライを連れて行ってくれるのだろう。

 そこで、ふたりを永遠に、離れないようにしてくれるのだ。


 遠ざかる人魚の姿は、やがて波にまぎれて、まばゆさのひとつとなって消えていった。


「綺麗だな」


 上司の手には三枚の鱗がある代わりに、左手の親指から血が流れていた。鱗を持たない人間が人魚に差し出せるものは、それくらいしかなかったのかもしれない。

 遠くを見ていた上司のことばは、鱗に向けられたのだろうと思うことにする。


「綺麗ですね」


 そういうことにしておかないと、私は隣国の姫になってしまう。

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銀河のローレライ 篝 麦秋 @ANITYA_

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