三
浜辺はだれかが独占できるものではない。時節柄、夏の浜辺なら夜でも人は集まる。なるべく静かで、だれもいないところがいい。近い海を地図で確認し、周辺で生まれ育ったという学生から穴場を教えてもらった。そびえる岩場の隙間から降りられる先の浜辺は、むかし人魚がやってきた伝承が伝わっているのだという。立ち入り禁止のプレートがチェーンからぶら下がっているというから、行政に許可を取って足を踏み入れることにした。
人魚を乗せた車から降りると、潮風のにおいよりも先に聴覚が働いた。波のさざめきとは別の、声が聞こえた。
すすり泣く声がした。
「おい。泣くなとはいわないが、人魚をおろす手伝いをしろ」
搬送車のバックドアを開けた上司が、人魚が入っている遺体袋に手をかけながら声をかけてきた。
私はまだ泣いていないし、意外なことに涙もろい上司でもない。周りにはだれもいない。だが声はする。ならば銀河のローレライか? まさか。
「だれかいるんじゃないでしょうか」
「だれかいてもおかしくはないが」
周辺で生まれ育った学生が知っている穴場スポットなのだとしたら、地元住民ならなおさらだろう。人魚とはいえ遺体を水葬にしようというのだ。人目にはつきたくない。見てこいと指示を受け、私は道路よりもやや高い岩場をのぼって向こうの砂浜を視界に入れる。泣き声なんて、当人からすれば意図せず風に乗せてしまったに違いない。知らなかったことにしたいのだが、こちらとしてもこの場所はどうしても譲れない。
見下ろした先の白い砂浜の、波打ち際に。
両手で顔を覆っていてもなお届く泣き声だったのだと、気づいてしまった。声と長い髪から、彼女と呼べる人魚だろう。彼女の前には倒れている人魚がいる。打ち寄せる波を受ける肉体は雄々しく、そちらは彼と呼ぶにふさわしい肉体を持っている。波が岩にぶつかって生まれた泡のような白く長い髪が、波によって浜に展開されていた。
「だれ」
泣いていた人魚の顔があがった。涙に濡れていようとも、視線の鋭さは研ぎ澄まされていた。物音を立てたつもりもないのに、高い危機察知能力には恐れ入る。倒れている人魚に覆いかぶさる格好となり、敵意と歯をむき出しにしてきた。
「なに、売るつもり? 人魚の肉なんか食べたって不老不死にならないよ」
「まさか。そんなことしないわ」
「どうだか。あんたたち、空から降ってきた魚だって食べるくせに」
なにも言い返せなかった。国民性が背負うべき貪欲さを、私ひとりが責められる日が来るとは思ってもみなかった。
「こっちに来ないで。身内が死んで悲しいの。ひとりにして。邪魔しないで。いまだけでいいから」
声をひそめて、人魚は叫ぶ。
「こっちにも死んだ人魚がいるの」立てた人差し指で空を差す。「夜空っていうか、銀河から降ってきたんだけどね。海に帰そうと思って連れてきたの」
手負いの獣のごとくうなっていた人魚の顔つきが変わった。
「知ってる」悲しみがさらに深くなったような、息苦しさが増した表情だった。「わたし、その人魚を知ってる。連れてきて。会わせて。おねがい」
「悪さはしないでくれる?」
「そっちこそ食べていないでしょうね」
「鱗一枚取ってないわ。綺麗だから、ほんとうは欲しいなって思っちゃったけど」
不老不死のために人魚の肉まで食べようとしていた、この国の人間がむかしから持っている性質を深く恨む。私はもう絶対に、空から降ってきた魚は食べないと決めた。絶対だ。
人魚に待つように伝えて、上司のもとへ戻ろうと振り返ったところにその人はいた。腕に人魚の入っている袋を横抱きにしている。
「声がでかい。似た者同士め」
「私はあんなにわからず屋じゃありませんよ」
「わかってくれたから、彼女を知っていると教えてくれたんだろう。ローレライが死んだ理由がなにかわかるかもしれない」
上司とともに、岩場から砂浜へ降りる。凹凸のいちじるしい固い岩の感触を、足の裏で存分に感じたあとに着地した砂浜はやわらかかった。サンダルがつけた足跡は波に飲まれないだろうが、潮風にいずれ消されるだろう。
生きている人魚のそばへ、上司が抱えていた袋をそっと寝かせる。チャックを開けば、銀河のローレライの顔が露わになる。すぐさま、生きている人魚がひゅっと息をのんだ。
「知り合いなのね、なんて聞くまでもないかな」
生きている人魚は、いまいちど顔を両手で覆った。小さなうなずきがなんども繰り返されるうちに、うつむきに変わり、やがてはすすり泣きへ。
「ふたりは恋人なの」
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