人魚姫がひとめぼれした王子が乗っていた船は、嵐で転覆する。王子を助けたはいいものの、彼は人間で自分は人魚。結ばれないことを悟った人魚姫は海の魔女と、自らの声を引き換えに人の脚を手に入れる契約を結ぶ。歩くたびに激痛の走る脚を持ちながらも、人魚姫は王子のそばにいられるようになった。ことばを話せないから、あのとき王子を助けたのは自分だと言い出すこともできない。

 それどころか、王子は隣国の姫と結婚することになった。人魚姫が助けた王子を、浜辺で見つけた姫と結婚するのだ。

 悲しみに暮れた人魚姫は、姉の人魚たちから王子を殺すナイフを渡される。それで王子を殺せば、あなたは人魚に戻れるのだと。

 王子の寝室に忍び込んだ人魚姫は、王子を殺せなかった。いちどは心から愛した相手だ。彼の寝顔に別れを告げて、海に身を投げた人魚姫の体は泡となって消えてしまったが、やさしい心は天に召されていった。


「そんな悲しい話があってたまるか」


 上司は目元に手を当てているし、声も震えている。まさか泣いてはいないだろう。


「あるんですよ。人魚姫はそうなんです。王子様とは結ばれないんですよ」

「おまえはそれでいいのか。受け入れたのか、その結末を」

「子どもなりに不本ではありましたよ。でも仕方ないじゃないですか、そういうお話なんですから」

「仕方ないなんてことばで不条理を受け入れるな」


 上司の悪態が止まらない。相当受け入れたくないようだ。そんなことをしたって人魚姫のラストが世界的に書き換えられるわけでもないし、目の前の人魚が息を吹き返すわけでもない。こういった童話や民話は、話が伝わる国々の文化なり戒めなりを含めている。現代人の価値観でストーリーを書き換える行いは、過去の人々が積み上げてきた歴史そのものを否定する行為ですらある。だが人の価値観は流れる歴史とともに変わっていく、臨機応変になるべきだとの声もある。多くの人々が議論をかわしていることも、この人は知らないのだろう。


「いや、違うな」

「なにがですか」


 ふいに自らを否定した上司が、細い目で私を流し見る。それから人魚に視線を下ろす。


「幼いころから、おまえたちはそうやって不条理を飲み込む教育をほどこされているんだ」

「それこそ違うと思いますけど」

「俺はそんな結末は嫌だ。全員しあわせになってしかるべきだ」


 以前に勤めていた研究室の男連中と比べれば、破格の付き合いやすさではある。しかし頑固な一面に限っていえば、他の追随を許さない人でもあった。こういうところを見て、仕方ないと飲み込む癖が、不条理を飲み込むという、女の子に向けた教育のたまものなのだろうか。

 彼女はどうだったのだろう。泡を吹いて死んでいる人魚。飲み込めなかったのか。それとも飲み込んだのか。その結果が泡で、死なのだとしたら、どちらにしろ報われない。


「空気に溺れた、っていう言い方が合っているかどうかもわかりませんけど」

「そう表現せざるを得ないな」


 水中ではなく、空気中で溺れる。

 銀河に棲んでいる人魚の死因を探るなんて、海に棲んでいる人魚の死因を探るよりも難しい。あちらの人魚だって、数えるほどしか見つかっていないのだ。もし万が一見つけようものなら、各国の著名な大学が大金を払ってでも手に入れたがるというのに、ここではまさかの銀河から落ちてきた人魚だ。喉から手どころか、全身を出して懇願するほど欲しがる研究者もいるだろう。


 ならばなおのこと、放っておくわけにはいかなかった。研究のためというお題目で、好奇の目にさらしたくはない。自分のやっていることが、連中と同じ穴の狢だという自覚はある。血液を採取し、場合によっては肉体を切り開く。そんなことをしながらも、やすらかに眠ってもらいたいという願いを抱く。ふざけた二律背反だ。それでも、自分のかかわった相手に、二度も三度も苦しい思いをさせたくはないと思ってしまう。思って行動して、痛い目を見るのが自分だけならかまいはしない。


 研究室に彼女を連れ帰って、血液検査を行った。血中の酸素濃度が九〇パーセントを切っていた。人間ならば九十六パーセント以上が正常値で、それを下回ると中等症といって、はやくも不調を感じるようになる。九〇パーセントを切ると、いつ死んでもおかしくはない。もっともこの数値が、銀河に棲む人魚に当てはまるかどうかは別だったが、それ以外に死因につながりそうなものはなかった。


「銀河から顔を出してしまったばっかりに、空気に溺れたのか」


 いくら空気中に酸素があろうとも、水中以外の空間で酸素を取り込む術を持たなければ呼吸のしようがない。


「私たちだって水中で呼吸をすれば溺れるなんてこと、だれでもわかるでしょう。彼女だってそれくらいのこと、わかっていたと思いたいんですけど」

「どうなんだろうな。わかっていてやったのか、わからずにやったのか」


 前者ならば理由はあれど、自殺に近い行動を感じる。後者ならば不幸な事故だ。人魚にそれらの認識があるかもわからないが。

 これも検査で判明したことだが、血中における塩分濃度は地上の人間の成分と変わらなかった。どうやら銀河に水があるとすれば、その名のとおり川で、どうやら淡水らしい。検査技師の後ろで、上司と顔を見合わせて笑ってしまった。


「川に棲む人魚だと、ローレライが有名ですね」

「さしずめ銀河のローレライか」


 銀河のローレライの死因は窒息死。水中から空気中に出てしまい、呼吸が行えずに死んでしまったというもの。魚ならよくある死に方かもしれないが、これが人魚となるとどう表現すればいいのかわからない。


 空気に溺れて死んだ、としか。


「なぜ銀河から空気中に出たのかはわからないままだが、俺たちにやれるのはこれが限界だ」


 銀河には人魚のほかに、住人がいるのだろうか。織姫と彦星くらいなら川辺にいそうだが、尋ねたくともどこにどう手紙を出せばいいのかもわからない。落ちてきた魚はもちろん銀河の住人だろうが、魚と会話をする技術は確立されていない。それどころか、ほとんどの魚はすでに人々の胃の中に住まいを変えてしまっている。

 人魚を切り開いてもわかることは死因だけで、死んだ理由までは突き止められない。死んでしまったら、たとえ人でも魚でも会話は不可能だった。死んでもなお美しさに歯止めがかからない鱗を一枚欲しいなと思っても、本人の許可なく懐には納められない。遺体袋や解剖台に落ちたものであっても、だ。彼女の体に乗せておくにとどめる。


 解剖も終わり、死因の追及も終わった。やるべきことは残り少ない。


「彼女、海に帰してあげたいっていったら笑いますか」

「川の行きつく先は海だもんな」


 上司は、笑いはしたものの、それは決して嘲笑ではなかった。


「銀河の人魚ですけどね」

「銀河も水平線の向こうまでつづいているだろう。銀河の果てもきっと海だ」


 海に帰してあげよう。ふたりでそう話して、銀河のローレライを海に連れて行った。彼女が銀河から落ちてきて、二度目の夜を迎えた日のことだった。


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